国語力

 以前のブログで、「情けは人のためならず」という言葉の意味を、多くの人は「情けをかけることは、その人のためにならない」と思っているようですが、そうではなく、「情けをかけるということは、その人のためではなく、結局は自分に帰ってくる話である」という意味であることが次第に変わってきてしまうことを書きました。同じように、時代と共に次第に言葉の意味が変わってきているものの例が9月20日に公表された、2011年度における「国語に関する世論調査」に書かれています。

 例えば、「うがった見方をする」という意味は、本来の「物事の本質を捉えた見方をする」と答えたのは26.4%で、48.2%の人は、「疑って掛かるような見方をする」と答えています。また、「にやける」という言葉の本来の意味は、「なよなよとしている」ですが、そう答えた人はわずかに14.7%で、76.5%もの多くの人は、「薄笑いを浮かべている」と答えています。「失笑する」という言葉の本来の意味は、「こらえ切れず吹き出して笑う」ですが、そう答えた人は27.7%で、「笑いも出ないくらいあきれる」と答えた人は60.4%いました。また、「「割愛する」を「不要なものを切り捨てる」と答えた人は65.1%いましたが、本来の意味は、「惜しいと思うものを手放す」ですが、17.6%でした。

 このような言葉を政治家などが使うことが多いのですが、随分と間違って使っている場合があります。また、若い人は新しい言葉を作るのは上手ですが、昔からの言葉はあまり使いません。ですから、次第に意味が変わってきてしまうか、使わなくなっていくでしょうね。また、新しい言葉が生まれ、新しい使い方をしています。私の年齢にはよくわからない若者言葉は別としても、普段使われている言葉も新しい用法が定着しつつあるようです。例えば、「1歳上だ」というときに、「1コ上だ」を使う人が56.9%、「腹が立つ」ことを「むかつく」という人は51.7%、「すごく速い」を「すごい速い」という人が48.8%、「ゆっくり、のんびりする」を「まったりする」という人は29.0%、「なにげなくそうした」を「なにげにそうした」が28.9%、「とてもきれいだ」を「チョーきれいだ」が26.2%、「正反対」を「真逆」が22.1%、「しっかり、たくさん食べよう」を「がっつり食べよう」が21.8%等々だったそうです。これらの言葉を聞くと、もうそれが普通に使われていて、こう言われれば、本来はそう言うのだと思いだすくらいです。このような変化は、時代の流れの中で仕方がないことかもしれませんし、昔からこうして言葉が生まれてきたということもあるかもしれません。

 ライフネット生命保険(株)代表取締役社長の出口治明氏は、こんな話を例に出しています。「フランス人の半数以上が、フランスワインを飲まなくなった。パリ郊外には、英語の大学院INSEADができ、ディズニーランドもできてしまった。このように、現在は、ともすれば、アメリカの文化にフランスの文化が飲み込まれようとしている。我々は、必死の努力を重ねて、フランスの文化を守るべきなのか、それともこのまま世界の潮流(アメリカ文化)に身を委ねるのか、1980年代から1990年代にかけて、徹底的に議論した。その結果、市民の結論は、“断固としてフランス文化を守り抜こう”というものになった。あとは、一瀉千里であった。フランス文化を守るということは、取りも直さず、日常会話でフランス語を話す人口を(肌の色に関係なく)増やし続けるということに他ならない。逆に、フランス語を話す人口が減少していくということは、フランス文化が衰退していくということとほぼ同義だ。言葉が失われれば、文化も消えるのだ。そこで、フランスでは、シラク3原則を始めとする人口を増やす施策を必死で推進しようということになったのだ」

 今月末には、今年もドイツに行きます。ドイツでは、多国籍の子どもが増え、次第に純粋のドイツ人が少なくなってきています。そこで、幼児期から、きちんとしたドイツ語教育をしています。外国語を学ぶ前に、きちんとした国語を身に着けようとしているのです。英語教育の議論も大切ですが、国語力の低下も議論すべきでしょう。

国語力” への8件のコメント

  1. 「読み書きそろばん」とはよく言ったもので、国語力は自己表現やコミュニケーション力の基礎であり、数学力は論理的思考力に通じると思います。江戸期以来の日本の教育は、「読み書きそろばん」中心といっても過言ではありません。数学者の小平邦彦さんは、自身の子ども時代を振りかえってこのように述べています。

    ≪今からおよそ60年前の小学校では国語が1年の時に週10時間、2年から4年までは週12時間もありました。そして修身、唱歌、体操を除くと、2年までは国語と算数以外は何もなく、図画が3年から、理科が4年から、現在の社会に相当する歴史と地理は5年からでした。まず基礎教科の国語と算数を十分に徹底的に教えることを第一目標とし、理科、歴史、地理は適齢に達してからゆっくり教えようというのが戦前の教育の方針でした。≫

    小平先生は、戦前の教育が決して良かったというのではなく、子どもの適齢にあわせて、低学年は国語・算数の基礎教科中心にして、知識教科の理科・社会は後でというように、柔軟な教科の時間配分をと提言しています。最近の日本人の国語力の低下は、案外このあたりに原因があるのかもしれません。同じ数学者で辛口で有名な藤原正彦先生は、小学生の英語教育に警鐘を鳴らしています。

    ≪公立小学校で英語を教え始めたら、日本から国際人がいなくなります。英語というのは話すための手段にすぎません。国際的な人材になるには、まず国語を徹底的に固めなければダメです。表現する手段よりも表現する内容を豊富にする方が重要です。内容を豊富にするには、きちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠なのです。≫

    明治時代には優れた国際人が日本にはいました。藤森先生とも御縁のある新渡戸稲造は流麗な英語で『Bushido: The Soul of Japan』(武士道)を著しました。岡倉天心も『The Book of Tea』(茶の本)を、内村鑑三は『Representative Men of Japan』(代表的日本人)で、日本人の魂を世界に問うたのです。こんな日本的な教養人は、もう現れないのかもしれません。

  2. 言葉の変化について、今回のブログを読んで正直びっくりしてしまいました。言葉の意味は私も本来の意味を知らずに使っていましたし、違和感をおぼえながらも新しい言葉が飛び交っていることも理解しているつもりです。でもあらためて数字で示されるのを見ると、変化に驚いてしまいます。こうやって長い年月をかけ、変化を繰り返しながら言葉が発展してきたんでしょうが、その変化のまっただ中にいることを感じている状態は、少し不思議な感じがします。私はできるだけ言葉は変化させずにその言葉の意味を大事にしたいと思っているので、例えば「がっつり食べよう」なんて言われることには抵抗があったりするのが正直なところです。日本語はもちろん大事にしていきたいですし、細やかな表現なんかもできる限り残っていけばいいなあと思っています。

  3. コンビニで、「一万円からお預かりします。」と言われ『いや私からでしょう?』レストランで「ハンバーグでお待ちのお客様」と言われ『この席で待っているのですが?』続いて「こちらハンバーグになります」と言われ、『まだなってないんですか?いつなるのですか?』・・・以上、出雲屋の心の叫びでした。

  4.  今回のブログも読んでいて、反省しました。実際に私も使っている言葉が多くあり、それが間違った日本語や意味として理解していました。そうは言っても今すぐに直して正しい日本語を使うというのも、難しいです。国語力と言われたときに、漢字を覚えたり、長文問題を解いたり、教科書を読んだりする事も大切なことです。そして前回のブログでも言われた相手の話しを聞く力、話す力もとても大切な国語力です。しかし私なりの原点に返ると、国語と言うのは漢字で意味を表すように「国の語」と書きます。やはり自分の国の言葉を正しく使う事が大切のように思います。フランスの、フランス語を話す人が減少するのはフランス文化の衰退と言っているように、いかに自分の国の言葉が、重要かが分かります。間違った言葉も一応は日本語ですが、それは日本語のようで日本語ではないと思います。国語と言うのはどういう物か?しっかりと議論はする必要があるのですね。

  5. ピンバック: ドイツ研修2日目 聴曜日 | かんながらの道

  6.  確か清少納言が、「最近、(若者の?)言葉使いが乱れていていやだ」と随筆に書いていたのを読んだか、聞いた気がします。私は若者の言葉に違和感を覚えたら、それは老人力がついた証かなと思います。言葉の「変化」と「間違い」の違いはどこにあるのでしょうか?また現在「間違い」と見なされている表現が、実はどこかの「方言」であったり、「古語」であったりする場合もあります。実際、これらの区別は難しく、「古語」が一部の地域で「方言」として残っている場合もあります。
     そもそも現生人類の祖先は、東アフリカあたりが起源で、そこから世界中へ拡散して行ったというのが現在の定説なので、その当時、言語は1種類だったのではないでしょうか?そして異なる土地に分かれて暮らしているうちに、それぞれの土地に定着した集団ごとに言葉が分化していき、現在の様な多様な言語が生まれたのでしょう。それは言い換えれば、互いの交流ができなかった結果だともいえます。
     ところが、いまは世界中の人々と交流ができるようになりました。そして感じるのが言葉の壁によるストレスです。人々はこぞって影響力の強い言葉、あるいは影響力の強い国の言葉を使おうとします。言語なら英語、日本の中なら標準語です。反対に強い国、あるいは強く有りたいと願う国は、自国の言葉を広めようとします。すると少数派の言語や方言は、徐々に消えていくのもしかたのないことだといえます。
     その一方で、新しい表現も出てきます。ことばの短縮、省略、結合、あるいは音便の変化などが新しい表現を生み出します。そして通信手段の発達で、新しい表現は瞬時に広がります。たとえ文法上間違っていても、有名人が使ったり、新しいものに対する抵抗が少ない若者達がよいと感じたりすれば、その表現は受け入れられます。最近の核家族化、あるいは世代間の断絶で、年長者が若者に、「その表現はおかしい」という機会が減っているのかもしれません。そして年長者が気付いたころには、すでに若者言葉として定着し、市民権を得ているのかもしれません。これもやはり、どちらの世代が強いかという力関係が影響していると思います。最近、この分野に関しては、パソコン、携帯、インターネットなどに不慣れな年長者が、どうも弱者のような気がします。昔は、年長者の方が強者だったと思います。また気のせいかもしれませんが、最近の日本の若者は、慣用句やことわざを、あまり使わなくなっているような気がします。
     現在は、テレビやインターネットの影響、並びに核家族化で、方言が減りつつ、その一方で若者言葉が生まれては、通信技術の普及ですぐに広がります。テレビにしろ、インターネットにしろ、読書にしろ、各自が選んで見る、読む、発信する行為なので、実は世代によって選んでいる情報や、発信している相手がまるで違うのだと思います。いくら情報が多くなり、通信技術が発達しても、自分に近い年代の人や、好みのあう人としか、交流していないのがいまの社会のような気がします。自由な選択肢が増えると、多くの人は衝突をしない様な似た者同士との交流に流れがちなものだと思います。当然、コミュニケーション能力や問題解決能力は発達しにくい環境だといえます。母国語はその国の文化そのもので、大切なものではあるけれども、言葉はやはりコミュニケーション手段、すなわち道具なので、道具である言葉の間違い探しをするよりも、コミュニケーション能力や問題解決能力をいかに高めるか、そのためには、どうすればよいのかを考える方が大切な気がします。
     私の提案は、子どもには、寮生活や下宿生活の機会を与える。また都会の子どもには田舎暮らしを、田舎の子どもには都会暮らしの機会を与えると面白いのではないかと考えています。遠くへ行くのが大変なら、同じ町内や、保育園・幼稚園、小学校、中学校で、クラスメイトの家に、交換ホームスティをするのもよいと思います。核家族の家の子は祖父母のいる家に、祖父母のいる家の子は、核家族の家に。母子家庭の子は、両親が揃っている家にという具合に、我が家と違う家を一定期間体験するのがよいと思います。これは子どものコミュニケーション能力を高める機会や、様々な家庭の違いを知る機会になると同時に、自分の家や親を客観的に捉えるよい機会にもなると思います。また親が子離れするための予行演習にもなると思います。私は今、育児のまっただ中にいるけれども、なぜか頭の片隅には、子離れ、親離れというキーワードが常に共存しています。

  7. 言葉使いが変わってきたというのを改めて感じますね。ともすれば、日常会話で何気なく使っている言葉が実は意味合いが違っていたりすることはよくありますね。ブログを読み進んでいるうちに複雑な気持ちになりました。また、パソコンで文章を打ち込んでいるときも「○○抜き言葉」で打ち込んでしまい、間違っている文字の下に緑線がはいることが多く、その都度、反省します。確かに時代によって言葉は変わってきますし、いいことなのか、悪いことなのかとは一概にいえませんが、フランスの事例を見ているととても考えさせられます。いつも英才教育の話を英語のことが出てきますが、自分を含め、日本語すらまだできていないのに英語をするのかと感じるときがあります。確かに英語をすることは一つかもしれませんが、それ以上にもっと母国語を勉強することも必要なことだと思います。それが文化を大切にすることの第一歩なのかもしれませんね。

  8. 私はいわゆる若者の範疇から逸脱しているのですが、一緒にいる人々が若い人が多いとその人たちが使っている言葉に気づかずに染まってしまいます。そして、時々使ってしまって赤面することもあります。今回紹介されている言葉の中で、「1コ上だ」、「むかつく」、「チョーきれいだ」、「がっつり食べよう」などは使うことがありますね。息子との会話の中にも「えっ、それどういう意味?」という表現に出くわすことも少なくありません。良し悪しはともかくとして、死語となってしまった表現がわれわれの会話の中から姿を消してしまう一方で、新しい表現がどんどん現れ、言葉好きな私としてはうれしい限りです。それこそ「いまどきの若者たち」は新語の宝庫です。若い人たちと話をしていると楽しいですね。脳の神経系が大変な刺激を受けます。マスメディアの影響力が大きいですね、新語の造出にとって。そして同時に私たちが英語ができないのもメディアのせいですね。日本語への吹き替えがなく、英語で情報を取れないと生きていけない、という状況にならない限り、我が国の英語力?は高まらないでしょう。同時に、変な形ではあれ、日本語が守られていくことになりますね。

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