年齢差別

ドイツでは、乳幼児施設や小学校など初等教育などでは、いわゆる年齢別保育、年齢別クラス構成は法律で禁止されています。しかし、日本では、小学校は別として、乳幼児施設においてなかなか異年齢保育にはなりません。どうしてでしょうか?それは、学校だけでなく、社会に出ても、日本では、昇進にしても定年にしても年齢によって判断します。乳幼児施設において、子どもたちの発達を保障することが主な目的であるはずで、そこには個人差があり、必ずしも年齢によって均一的な発達を遂げているわけではないのに、同じ年齢でクラスを構成し、そのクラスの子どもたちに同じ狙いを持って保育することが多くなります。同じように、企業においても、その人の能力や業績によって個人差があるのに、昇進は最近個人差があるものの、定年は、年齢によって決められています。なぜかということを、山崎氏はこう考えています。

「これまで、年齢によって人の扱い方を変えることや、他人の年齢を問うことが、「差別」や「失礼」としてあまり問題になって来なかったのは、なぜだろうか。1つには、能力や貧富を問わず、誰でも1個だけ年齢を持っており、1年経つと共通に1つ歳を取るという点で、「年齢は誰にとっても平等だ」という先入観があるからだろう。そして、この先入観の中には、年齢が同じなら人は同じように扱われるようであってほしい、あるいはそうあるべきだという、年齢に関する平等願望ないし平等主義があるように思う。この願望ないし主義の背景には、飛び級が原則としてなくて、落第もめったにない学校制度によって、日本人が年齢だけで差を付けられることに慣れていることがあるだろう。しかし、歳が同じなら人は同じだというのは大嘘だ。差別の危険を問題にした文章で、別の差別を指摘されるのは間抜けだから、具体例を挙げないが、人は年齢が同じでも、能力も容姿も持っている資産や知名度や家族、友人の数も異なる。」

この指摘は、まさに年齢別保育を多くの園が行っている理由と全く同じです。そこで、定年から考えた年齢による弊害を、教育についても指摘し始めています。「重要な公的サービスの1つである教育はどうだろうか。思うに、教育も年齢で“差別”されるべきではない。日本の学校では、もっと広範囲かつ柔軟に飛び級を認めるべきだろう。十分な学力を持っている児童・生徒を年齢だけを理由に本人にとって実りのない教育レベルに留め置くことは、本人にも、社会にとっても大きな損失だ。すでに時効の部類だろうから書いてしまうが、かつてある教育政策関係者から、ゆとり教育の導入について、“本当は、エリートにはエリート教育をしたいということが、ゆとり教育の真の目的の1つなのですが、(学力が)上の方の自由度から先に拡げると世間はうるさいので、戦略的な判断として、まず下の方から自由度を拡げるのです”とお聞きしたことがある。」

 さらに、山崎氏は、こう指摘しています。「世間が今後、“年齢差別”に対して、いつ、どの程度敏感になるのかは予想できないが、“歳が関係ない社会”への準備をしておく方がいい。年齢差別は確かに“差別”なのだ。問題意識が拡がり始めると、伝播が早いかも知れないし、制度や企業の変化も早いかもしれない。」そのために、山崎氏は今から準備をしておいた方がいいと提案しています。「何よりも自分の人材価値の確立とメンテナンス」だと言います。また、「歳をとっていれば(あるいは、若ければ)、偉いというわけではないというのと同様に、“社長”や“部長”といった肩書きも、仕事に限定された単なる役割であって、それ自体として人の優劣とは無関係だということを心からわかっていれば、できるはずだ。気分的にもすっきりするだろう。」

 高齢化社会が、年齢による均一的判断に疑問を持ち始め、個人の個性、特性を優先させる異年齢児保育に移行することになるのかもしれません。