関わり方

 「愛着障害」(岡田尊司著)を読んで、同意するところと、私が日々出会う乳幼児や保護者を見る中で、若干違和感を感じるところがありました。それは、私の現場は、一見、愛着という要素を、効率という名のもとにないがしろにされている場と多くの人に思われているところだからです。子どもの最善の利益を守る場所でありながら、保護者の利益を守ることをしているように思われがちな保育園が現場だからです。保育園には、産休明けである2か月児から、母親が働くために、施設に預けられて、長時間保育される子がいるからです。

 だからこそ、「愛着」とは何か?「愛着」にはどんなことがキーワードとして考えなければならないかを考えることになります。また、ある意味では、生みの親と育ての親、または、血のつながり、もっと根本的に人類の進化としての子育ての在り方などを考えることになるのです。それは、単純に、親の代わりに子どもを育児することではなく、乳幼児期にはどのような教育が必要なのか、その基盤としての愛着、情緒の安定をどう図るのか、その時の母親との関係をどのように築いていくのかを考える場所として変化しつつあります。かつては、保育所は家庭的な環境、保育者は母親の代わりとして「保母」でした。

もう一つ、私が「愛着」を考える理由があります。それは、私の乳幼児のころは、家に「お子守さん」という人がいて、その人にいつもおんぶされていて、食事の用意は、「お手伝いさん」がしていたからです。それは、私の家が裕福な家庭ということでなく、下町は問屋街のために、両親が働いていることもあり、多くの家庭ではほとんどそのようでした。私の子どものころは、赤ちゃんをおんぶして子守唄をよく歌っていましたが、日本の子守り歌は、ほとんどおばあさんか、お子守さんが歌う歌です。母親がおんぶしながら歌う歌ではないのです。ですから、少し切ない響きと歌詞になっています。しかも、このお子守さん、お手伝いさんは、わりと人が変わりました。ただ、夕方になると母親のもとに帰り、親子で川の字になって寝ました。

不思議に思うのは、西洋の子守り歌は、「ねむれ、ねむれ、母の胸に」とあるように、母親が歌う歌が多いのですが、逆に寝かしつけるときには、母親が添い寝することは少なく、赤ちゃんが泣いても一人で寝かさないと自立をしないと思っている家庭が多いようです。また、アメリカの家庭では、よく映画などで見ると、夫婦で夜、子どもを家に置いてパーティーに出かける光景がありますし、働いているというだけでなく、ボランティアに行くために子どもをベビーシッターに預けて出かけることも多いようです。

どの国でも「愛着障害」がみられるようですが、どうもそれは、育児の形であったり、いつも母親が抱っこすればいい、いつも母親がそばにいればいいということではなく、もっと違った関わりでの問題があるようです。そして、「愛着障害」が、他人と関わる上での障害であれば、母親だけでなく、さまざまな人との出会い、関わりはその後の他人と関わるときに力になると思います。

もうひとつ、考えなければならないのは、私の子どもの頃の絵日記で紹介しましたが、きょうだいを含めた、子ども同士の関わりです。ままごとが、大人になってからの大人の作法を学ぶ遊びであるのであれば、きょうだいや、子ども同士で遊ぶことは、大人になってからの人との関わりを学ぶ機会であるということです。少子化は、この関わりを学ぶ機会が少なくなってきたことも、愛着障害をおこしている要因の一つであるという観点も必要です。

他人とのかかわりにおける問題は、愛着障害だけが要因ではないと思うのですが。