高齢者

 先日の「敬老の日」にちなんで、総務省統計局は、65歳以上の「高齢者」について統計を取りまとめて発表しました。それによると、いわゆる「団塊の世代」が65歳に達し始め、65歳以上人口は3000万人を超え、高齢者の総人口に占める割合は24.1%で過去最高となったということです。すなわち、ほぼ4人に1人が高齢者ということになるというのです。そうすると、困るのはもちろん、年金問題です。そこで、少し発想を変える必要があります。それは、わたしも再来年にはその仲間入りすることになっているからです。ですから、団塊の世代として、老後の考え方が少し変わってきているような気がします。

現在、高齢者と言えば、何となくイメージするのは「ゲートボール」とか、「旅行」などです。また、「巣鴨商店街」などの「人情」というイメージです。しかし、私たちの世代は、青春時代の「学園紛争」とか「ビートルズ」「カレッジフォーク」「反戦フォーク」などの影響から、「ジーパン」「VAN・JUN」「アイビールック」という服装もイメージします。今回の総務省の発表では、高齢者の自由時間における主な活動もされています。「学習・自己啓発・訓練」では「パソコンなどの情報処理」、「スポーツ」では「ウォーキング・軽い体操」、「趣味・娯楽」では「映画鑑賞」の割合がそれぞれ最も上昇しているそうです。この活動は、全く私と同じですので、随分変わってくるだろうなという確信を持ちます。

私の、保育の中で「異年齢保育」を提案しています。その1番の長所は、「年少児は、年長児から刺激を受ける」ということがあります。それは、それぞれの年齢における役割があるということです。また、外から見える形「生年月日」によって人をくくらず、個人としてその人を見るということもあります。ダイヤモンド・オンライン メールマガジンの9月19日号に山崎元氏が「マルチスコープ年齢差別の世代交代論をやめ、“脱年齢の時代”を模索せよ」という提案をしています。

よく言われる「世代交代」とは、どういうことでしょうか?このことについて、山崎氏は、世代交代論に「年齢差別」の要素が入っていることに対して、もっと敏感であるべきだと言います。本来チャンスが平等であるべき世界で「高齢だから、遠慮してください」とは言えないのではないかと疑問を持ちます。「若手にチャンスを」というところまではいいとして、「老人は去れ」というようなことを言った場合、その言葉には、差別性が含まれるのではないかというのです。しかし、これまで世代交代論には多くの人が賛成してきたのは、企業の年功序列人事や公的年金における優遇など、これまで高齢者があまりにも有利で不公平な既得権を持っていたからだと言います。もし、「高齢者=不当に有利な人」という前提があれば、「高齢」を攻撃することは、それほど悪いことだとは思わなくなりますが、今後、高齢者が急増しており、年金を考えても、企業を考えても、単純な世代交代論では済まなくなるというのです。

山崎氏は、人を年齢で区別することの問題点について考えています。同じ給料で同じ働きができる65歳と64歳の社員がいたときに、65歳の社員が問答無用で解雇される定年は、年齢による差別であり、加えて、65歳の社員の方がより有能な人であるとした場合、差別であると同時に、会社側にとっての損失でもあるのではないかというのです。外資系の企業では、社員の年齢を個人情報として一切他人にわからないように扱う会社があるし、国によっては、採用の際に年齢を問うことを差別として禁止するケースがあるそうです。

ただ、「定年」の廃止ということは、企業は、客観的に見える別の基準をつくる必要がでてきます。新しい発想が必要になってくるようです。

高齢者” への5件のコメント

  1. 徳島県上勝町で「彩」最高齢は95歳のおばあちゃん。この村の高齢者には“人生の定年”がない。85歳のおばあちゃんでも、次の世代のために苗木をせっせと植えている。彩が人生の生きがいなのだ。ボケる暇がないほどお年寄りの仕事があるので、とうとう町営の老人ホームが廃止になったほど。おばあちゃんたちの収入も凄い。年収1000万円を超える農家も出てきた。「葉っぱ御殿」が次々と建っている。Uターン、Iターンのおかげで、山深い村なのに人口が増えている。

    「老人は去れ」どころか、この村では老人が彩の主役。おばあちゃんたちが持っているいいところ―山の知識、根気強さ、丁寧さ、負けず嫌いなどを最大限に生かす場面をシステムに組み込んでいる。だから、市場の急な“特別注文”にも対応できる。営々と積み上げた絶対的な信用が『上勝の彩』を他の産地の追随を許さないブランドに押し上げた。どこの山にでもある葉っぱが、上勝産ならお札に変わるのです。日本一高齢者の笑顔が輝く村が、四国にはあります。

  2. 年齢ではなく個々の役割によって社会の中で生きていくということは、個々の責任が当然必要になってくると思います。年齢で区別されない社会になればそれでいいというわけではなく、その社会で生きていくための力を個々がつけていく教育も同時につくられていかないといけないんじゃないかと感じます。だから、年齢では区別しませんよというシステムに変更しても、今は戸惑う人が多かったりするんじゃないでしょうか。でも社会としては年齢が特別に重視されないあり方の方がいいと思うので、だからこそこれからの保育のあり方、教育のあり方は特に重要になってくると思うのです。個々が自分の責任のもとで自信をもって活動できるように、というは全く具体的ではありませんが、方向としては目指していきたいところです。

  3.  私の父もそろそろ、そういう年齢になるので考える必要があります。高齢者の自由時間の過ごし方というと、やはりゲートボールや老人会などで温泉旅行に行くという印象があります。地方では、まだまだそういう過ごし方が多いかもしれませんが、都心の方では藤森先生のようにパソコンやスポーツなどを趣味としている世代が、もっと高齢になると過ごし方は、かなり変わりますね。それと同時に、働き方も変わってくるのでしょうね。どうしても定年になると退職という流れが、一般的になっています。しかし定年退職する社員が辞める事で会社に大きな損害を与えてしまうならば、退職を少しでも引き延ばしたいですし、厳しい言い方ですが、少しも成長しない社員や新入社員が会社にいるよりは、有能な社員を残したいと思います。今後、高齢者の過ごし方がかなり変化していきそうですね。

  4. 「団塊の世代」の方々が「定年」を迎えるにあたって、ニュースでは取り上げられることが多いですね。そのニュースを見るたびに今まで日本を引っ張っていた人たちがいなくなることでやはり日本社会は変わっていくのかもしれないと思うことがありました。しかも、今の方々はみなさんまだまだ働く気概がある方が多いですね。そのなかで、年齢だからと有能な方がいなくなるのも差別以上に企業にとっては損失なのだと思います。海外では定年がなく、年齢も他人に触れないことで差別をなくしているというのはとても今の社会にあっているように思います。若い人に働くチャンスを与えるのは確かにその通りなのですが、それぞれの個人を尊重し、適材適所といった場合、高齢者の方の力も必要なときはあると思います。幅の広い人間の個性や能力が十分に発揮できる「客観的に見える別の基準」があるともっとどの人にもより良い社会になるのかもしれませんね。

  5. 65歳を超えたから、「年金」の恩恵を被る、ということはよくわかります。おそらく、私もその域に至れば、恩恵を被ってしかるべき、と思うかもしれません。しかし、現在の「年金」支給の財源は、現役で働く私たちの年金負担です。私たちは将来年金を受け取れるよう現在年金を納めなさい、と奨励?されています。しかし、事実は、現在の年金生活者を支えている、ということのようです。国から頂いた権利ですから、資格要件を満たしたら年金受給することには何の異論もありませんが、現今の60代70代は「年金」なくても大丈夫でしょ、といいたくなるケースをまま見受けます。「高齢者」は重要な清き一票です。私たちにも「清き一票」があるはずですが、年金受給者の一票は我々の一票より大分重いようです。

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