ブラヘイジ丸の内1

10月1日の公開を前に、テレビではさまざまな特集が組まれている東京駅ですが、昨日の「ブラヘイジ」では、その東京駅を途中で見ることができました。昨日のコースは、「ビジネスの町 丸の内を楽しもう!」というスタンプラリーに参加しました。スタートは、地下鉄半蔵門線の大手町駅です。江戸城には、周囲にはいろいろな門があります。中学生でも知っている門といえば「桜田門」かもしれません。そのほかにもいろいろあるのですが、徳川家康の家臣であった服部半蔵正成の屋敷の側にあったことからついた名前の門が「半蔵門」です。開業はとても新しく、平成15年3月19日に水天宮から押上間が開業しました。

大手町駅を出発して最初にスタンプを押す場所は、「ていぱーく」です。この「ていぱーく」の前身は、明治35(1902)年の万国郵便連合(UPU)加盟25周年記念祝典行事の一環として誕生した「郵便博物館」です。現在の場所に開館したのは、昭和39(1964)です。ここは、「公益財団法人通信文化協会」と「NTT東日本」の2機関で共同運営をしていますので、展示は、郵便に関するものと、電話に関するものとが階に分かれてされています。そんなことから「ていぱーく」の「てい」は、逓信総合博物館の「逓」を意味し、また、「〒」マークの「てい」とテレコミュニケーションの頭文字の「T」にもかけています。また、博物館の「博(はく)」と「パーク(公園)」をかけて、気を養う身近な場所として受け止めてもらいたいということから命名されています。また、よく「逓信」という言葉を使いますが、この言葉は、実は、逓信省創設時に新しく作られたことばで、順次送り伝えていく意味があり、郵便・電信・電話・電気などの通信全般を意味するそうです。

次のポイントに行く途中に「JR東京駅」を通ったのですが、ここは重要文化財に指定されています。他に、丸の内には登録文化財として「日本工業倶楽部会館」、重要文化財として「明治生命館」があります。つぎのポイントは、この1934年に建てられた「明治生命館」と、2004年に完成した明治安田生命ビルからなる「丸の内MY PLAZA」です。今回復元された東京駅を含め、丸の内界隈にはとても貴重な建物がたくさんあります。最近、それを上手に残しています。「伝統」と「最新」が調和されています。ドイツに行くと、町並みが大切に保存されています。それは、上手に保存しているのですが、昨年、全面建て替えをしている建物の工事中を見たのですが、なんと、通りに面している壁面をそっくりそのまま残して、その後ろをすべて建て替えているのです。ですから、町並みは変わらないのです。

神社仏閣や美術品などの修復を手掛ける老舗の株式会社小西美術工藝社会長であるデービッド・アトキンソンさんは、こんなことを言っています。「私の出身はイギリスですが、イギリスのみならずヨーロッパの人間にとって、散歩は基本的な生活スタイルのひとつです。街の景観や建物、公園などを楽しみながらぶらぶらと歩きます。それらが実にきれいなので、散歩が楽しいわけです。残念ながら、東京では街を歩いていて、楽しめるところが少ない。あまり街がきれいではないからです。」それは、東京は建築物に対する規制が多い割には、街をきれいにする、古い街並みを美しく保存する、ということに対する規制や基準が欠けているようだと言います。そんななかでは、「丸ビルや新丸ビル、明治生命や東京銀行協会のビルなどは、往時の建物の面影を1階や2階にうまく残して、街並みに美しさを与えていますね。」と言っています。

今回の「ブラヘイジ」は、下町巡りというよりは、シティー派といきました。

夕涼み会2

夕涼み会の会場は、すべて室内です。そこで、それぞれのコーナーをどのように配置し、どのように親子で回ってもらおうかと担当の職員は考えます。同時に、夕涼み会の時間帯や流れも計画します。開催は、土曜日ですので、あまり遅くなると、片付けが合わるのがかなり遅くなり、職員に負担になりますし、あまり早い時間ですと、まだ明るく、暑く、夕涼みという感じが出ません。何となく、涼しくなったころ、浴衣や甚平を着て涼みながら親子で遊びに来るというイメージを持たせたいため、結果的にあまり遅くない夕方である16時から18時45分までになりました。

時間の次に、全体責任者は園全体の会場イメージを考えます。そんな時に、全体の年間テーマが決まっているとイメージは湧きやすくなります。今回の全体テーマは「森」ですので、園内を森としてイメージします。そのイメージの中で、今年の担当は、1階は、室内の真ん中に大きなブルーシートを敷いて、湖をイメージし、そのほとりで、家族でキャンプをし、そこで食事を作るというイメージで「食事コーナー」としました。食事は、早夕飯として軽食とデザートと飲み物です。一度で食事をすると混雑するために、事前に時間を指定したチケットを配ります。食事の内容はテーマである「森」にちなんだものにします。飲み物として、木の葉を使った「ほうじ茶(カフェインが少ない茶葉)」、木の花を使った「桂花茶(キンモクセイの花)」を用意しました。
食事は、バウムクーヘンとスモークソーセージとスモークチーズです。 バウムクーヘンとは、ドイツ語で木とケーキという意味で、中心にドーナツ状の穴があり断面に樹木の年輪のような同心円状の模様が浮き出たケーキです。森の中の木の棒に、パン生地を巻きつけ焼いたもので、園庭で同じように子どもたちの前で焼いて見せました。そして輪切りにしてみると、まさに年輪が見える切り株のようです。ただ、子どもたちには、購入したバウムクーヘンを食べてもらったのですが、多くの人は手作りと思ったようでした。スモークは、サクラ、ナラ、オニクルミ、ヒッコリー、ブナなどの木をいぶして作ります。子どもたちは、どの木でいぶしたものがいいかを選択してもらいます。実際は、違いが判るのかなと思うのですが、普段から選択しなれているのか、どれがいいとはっきりということが多いです。スモーク作りは、段ボールを使って簡単にできます。事前にためしに作ってみたのですが、煙もあまり出ず、火の気がなく、都会でも安心して作ることができます。
デザートはゼリーです。私は、以前、「おやこでつくろう!キッズクッキング」(1)(2)(3)(4) (Orange page books)という本の監修をしたことがあります。その本の中で紹介したものですが、ブルーのクラッシュしたゼリーの中に、魚の型抜きをして、目のところにチョコレートを埋め込んだスイカを浮かべたものから、掬い取ってもらいます。湖で魚を取るというイメージです。このコーナーは、園の調理が担当するのですが、どうしても専門性から、清潔、栄養が優先されるのは仕方ないのですが、そこに「子どもにとっての楽しさ」との両立を考えるのが大変ですが、それを考えるのが専門性だと思います。「だめ!」とか「むり!」というのは簡単ですが、どうしたら、子どもを楽しませたいという職員の思いが実現することができるかを考えることが必要です。
もう一つ忘れてはいけないのは、「職員が準備するときの楽しさ」を企画に入れ込むことです。ここで紹介した夕涼み会の食事の準備は、聞いているだけでも楽しくなると思います。職員が楽しく準備することができないと、当日の子どもたちは決して楽しく感じないものです。

復元

先日の24日に。大正時代の開業時の姿に生まれ変わった東京駅丸の内駅舎の内部がグランドオープンの10月1日を前に報道陣に公開されたというニュースが流れました。少し前に大阪駅に行ったのですが、2004年から開始されていた大阪駅の大規模な改修が完了し、随分ときれいになっていました。今年の5月4日に「大阪ステーションシティ」としてグランドオープンしたようです。駅北側の「ノースゲートビルディング」と、駅南側の「アクティ大阪」を増築して、新しく「大阪ステーションシティ」という名称になり、店舗面積では、ららぽーとTOKYO-BAYを抜き、西日本最大、日本2位の規模だそうです。そして、駅上空には2階建ての人工地盤が建設され、南北連絡橋と橋上駅舎が設置され、南北連絡橋によって往来できるようになりました。非常に、近代的なビルに生まれ変わっていました。

一方、東京駅は、対照的です。東京駅が開業したのは、98年前の1914年(大正3年)12月です。駅舎の設計を担当したのは、日本近代建築の祖とされ、日本銀行本店などを手がけた辰野金吾で、赤レンガ造りの3階建て駅舎を6年9か月かけて完成させたものです。南北の駅舎にそれぞれ取り付けたドーム形の屋根が目をひく洋風デザインだった建物を復元したのです。

それに先立って、先週末22 日(土)、23 日(日)に東京駅丸の内駅舎前広場で、最新鋭の映像スペクタクルショー「TOKYO STATION VISION-トウキョウステーションビジョン-」を開催しました。そのショーを妻と見に行きました。これは、東京駅丸の内駅舎保存・復原工事の完成を祝う記念イベントとして、大正時代創建当時の姿によみがえった駅舎をスクリーンに、最先端の技術<プロジェクションマッピングを用いて「時空を超えた旅」をテーマに高精細フルCG 映像を投影したものです。

このショーの内容も、東京駅や鉄道の歴史と未来をめぐる感動的なものでした。まず、蒸気と共に登場するSL、徐々に組み上がる建物、和風のモチーフで彩るモダンなレリーフ、そして未来を予感させる華やかな光景など、高精細フルCG 映像が幅120 メートル×高さ30 メートルに及ぶ巨大なスケールで、駅・鉄道・人・街を巡る「時空を超えた旅」が描かれます。ただ、残念なことに、土曜日に見に行ったのですが、警備や交通規制が甘く、随分と混乱をきたし、3回のショーが2回で打ち切られました。とても素晴らしものだったので、もっと、多くの人にゆっくりと見てもらいたかった気がしました。

今回、完成した東京駅駅舎を、まだ私は昼間に見に行っていないのですが、映像で見る限りでは素晴らしいですね。大阪駅のような近代的なものと、東京駅のような復元型は、ともに近未来的な気がします。私が常々思っていることですが、成熟した社会は、前に進み事ではなく、心豊かな、一人一人が生かされ、大切にされ、そして、古いものを残しつつ新しいものを創造していく社会であるべきだと思っています。そんなことを、大阪と東京という東西の中心地における取組みから感じました。
このことが、今回の復元の意図の中にこう書かれてあります。「効率化が優先される現代技術の中で、失われつつある漆喰や擬石塗等の左官、銅板葺等の板金の特殊技能を活かし、かつ現代の技術(安全技術含む)を採り入れ、保存・復原に努めます。明治・大正の創建時の技術と、昭和・平成の現代の技術が、丸の内駅舎に結集され、将来へ継承されていきます。」

復元、伝承は、外見だけではないのです。

夕涼み会

 知らずに、夏が終わり、秋の色が街を染め始めています。日本は、それぞれの季節に、それぞれの楽しみがあります。随分と、日が経ってしまいましたが、このブログで行事についての取り組みを紹介していましたが、夏のイベントである「夕涼み会」について書いている途中で中断してしまっていました。それは、今年の夕涼み会での取り組みを紹介しようとしたのですが、まだ、きちんと計画が練られていなかったためです。もうすぐ、秋の運動会になる前に、まず、夕涼み会を振り返ってみようと思います。

 私の園の最近の夕涼み会は、その年のテーマに沿って、大きく「体験コーナー」「製作コーナー」「ゲームコーナー」「クイズコーナー」「食事コーナー」が用意されます。そして、それぞれのコーナーの内容を、分担して考えるのですが、話し合い時間を調整したり、実際に作り始めたりする時間を調整したり、協力したりする必要があるために、担当は、クラスごとに担当します。例えば、「体験コーナー」は、「0歳児クラスの担任」というよぅにです。私の園では、他の行事、例えば誕生会の出し物を考えるのも、毎月、クラスごとに分担します。そうすることで、全体の話し合いの時でも、各クラス一人ずつ出てくれば、担当ごとに一人ずつ出ることになります。そして、いろいろな準備は、保育の合間にクラスごとの調整で進めていくことができるのです。コーナー以外のかかりは、個人で責任者が決められます。ただ、これは、企画、進め方、段取りを担当するのであって、それに関する製作物などの担当はみんなで、時間の空いている人で進めていきます。例えば、全体のプログラムは、まず、担当からの提案で、各職員からアイディアを募集します。コンペを行い、名前を伏せて投票して、プログラム担当が検討して原案を決めます。この時に決まるプログラムは、職員の投票なので、必ずしも素晴らしいものとは限りません。というのは、その後に自分たちで作らなければならないので、作りやすさも選ぶ観点になりますし、材料費も考慮されます。一つに決定すると、担当が見本を一つ作り、そのパーツの作り方をみんなに示し、職員室に材料を置いておきます。すると、時間が空いた職員や、昼休みに職員室に出てきた職員、実習生、ボランティアさんなどが作ります。夕方も、退勤するまでの間、おしゃべりしながら作る職員もいます。まあ、言ってみれば手持無沙汰の職員が、手を動かしているという感じです。

年間の行事には、それぞれプログラムがあります。それは、その行事の内容を紹介するためだけでなく、その行事によって、作り方が違います。夕涼み会は、「親子で楽しもう」ということで、テーマに沿って夕方に園に出かけてきて、親子で、いろいろなコーナーを回りますので、回って歩いていろいろなことを発見していくような趣向のプログラムになります。まず、入り口で、プログラムと、夕涼み界のゲームコーナーで使う釣竿と、食事チケットなどを渡します。今年のテーマは「森で楽しもう」ということでしたから、園内を森に見立て、親子で森の中を歩きながら森の中でいろいろなものを見つけていくというような趣向に沿ったプログラムで、森の中でプログラムにあるような場所を見つけたらその場所にシールを貼り、ビンゴを完成させるという趣向でした。昨年の「森に行こう」では、木の葉の部分にスタンプを押して、木を完成させるというものでした。すべての行事に言えるのですが、その行事に至るまでの日々も一つの行事です。その準備には、子どもだけでなく、保護者も、職員もかかわっていきます。準備は、当日を期待して迎えるまでの「わくわくする日々」「待ち遠しい日々」でなければなりません。プログラム作りは、印刷して終わりではなく、日々みんなで楽しく会話をしながら少しずつ出来上がっていくという楽しみがあるものです。

年齢差別

ドイツでは、乳幼児施設や小学校など初等教育などでは、いわゆる年齢別保育、年齢別クラス構成は法律で禁止されています。しかし、日本では、小学校は別として、乳幼児施設においてなかなか異年齢保育にはなりません。どうしてでしょうか?それは、学校だけでなく、社会に出ても、日本では、昇進にしても定年にしても年齢によって判断します。乳幼児施設において、子どもたちの発達を保障することが主な目的であるはずで、そこには個人差があり、必ずしも年齢によって均一的な発達を遂げているわけではないのに、同じ年齢でクラスを構成し、そのクラスの子どもたちに同じ狙いを持って保育することが多くなります。同じように、企業においても、その人の能力や業績によって個人差があるのに、昇進は最近個人差があるものの、定年は、年齢によって決められています。なぜかということを、山崎氏はこう考えています。

「これまで、年齢によって人の扱い方を変えることや、他人の年齢を問うことが、「差別」や「失礼」としてあまり問題になって来なかったのは、なぜだろうか。1つには、能力や貧富を問わず、誰でも1個だけ年齢を持っており、1年経つと共通に1つ歳を取るという点で、「年齢は誰にとっても平等だ」という先入観があるからだろう。そして、この先入観の中には、年齢が同じなら人は同じように扱われるようであってほしい、あるいはそうあるべきだという、年齢に関する平等願望ないし平等主義があるように思う。この願望ないし主義の背景には、飛び級が原則としてなくて、落第もめったにない学校制度によって、日本人が年齢だけで差を付けられることに慣れていることがあるだろう。しかし、歳が同じなら人は同じだというのは大嘘だ。差別の危険を問題にした文章で、別の差別を指摘されるのは間抜けだから、具体例を挙げないが、人は年齢が同じでも、能力も容姿も持っている資産や知名度や家族、友人の数も異なる。」

この指摘は、まさに年齢別保育を多くの園が行っている理由と全く同じです。そこで、定年から考えた年齢による弊害を、教育についても指摘し始めています。「重要な公的サービスの1つである教育はどうだろうか。思うに、教育も年齢で“差別”されるべきではない。日本の学校では、もっと広範囲かつ柔軟に飛び級を認めるべきだろう。十分な学力を持っている児童・生徒を年齢だけを理由に本人にとって実りのない教育レベルに留め置くことは、本人にも、社会にとっても大きな損失だ。すでに時効の部類だろうから書いてしまうが、かつてある教育政策関係者から、ゆとり教育の導入について、“本当は、エリートにはエリート教育をしたいということが、ゆとり教育の真の目的の1つなのですが、(学力が)上の方の自由度から先に拡げると世間はうるさいので、戦略的な判断として、まず下の方から自由度を拡げるのです”とお聞きしたことがある。」

 さらに、山崎氏は、こう指摘しています。「世間が今後、“年齢差別”に対して、いつ、どの程度敏感になるのかは予想できないが、“歳が関係ない社会”への準備をしておく方がいい。年齢差別は確かに“差別”なのだ。問題意識が拡がり始めると、伝播が早いかも知れないし、制度や企業の変化も早いかもしれない。」そのために、山崎氏は今から準備をしておいた方がいいと提案しています。「何よりも自分の人材価値の確立とメンテナンス」だと言います。また、「歳をとっていれば(あるいは、若ければ)、偉いというわけではないというのと同様に、“社長”や“部長”といった肩書きも、仕事に限定された単なる役割であって、それ自体として人の優劣とは無関係だということを心からわかっていれば、できるはずだ。気分的にもすっきりするだろう。」

 高齢化社会が、年齢による均一的判断に疑問を持ち始め、個人の個性、特性を優先させる異年齢児保育に移行することになるのかもしれません。

高齢者

 先日の「敬老の日」にちなんで、総務省統計局は、65歳以上の「高齢者」について統計を取りまとめて発表しました。それによると、いわゆる「団塊の世代」が65歳に達し始め、65歳以上人口は3000万人を超え、高齢者の総人口に占める割合は24.1%で過去最高となったということです。すなわち、ほぼ4人に1人が高齢者ということになるというのです。そうすると、困るのはもちろん、年金問題です。そこで、少し発想を変える必要があります。それは、わたしも再来年にはその仲間入りすることになっているからです。ですから、団塊の世代として、老後の考え方が少し変わってきているような気がします。

現在、高齢者と言えば、何となくイメージするのは「ゲートボール」とか、「旅行」などです。また、「巣鴨商店街」などの「人情」というイメージです。しかし、私たちの世代は、青春時代の「学園紛争」とか「ビートルズ」「カレッジフォーク」「反戦フォーク」などの影響から、「ジーパン」「VAN・JUN」「アイビールック」という服装もイメージします。今回の総務省の発表では、高齢者の自由時間における主な活動もされています。「学習・自己啓発・訓練」では「パソコンなどの情報処理」、「スポーツ」では「ウォーキング・軽い体操」、「趣味・娯楽」では「映画鑑賞」の割合がそれぞれ最も上昇しているそうです。この活動は、全く私と同じですので、随分変わってくるだろうなという確信を持ちます。

私の、保育の中で「異年齢保育」を提案しています。その1番の長所は、「年少児は、年長児から刺激を受ける」ということがあります。それは、それぞれの年齢における役割があるということです。また、外から見える形「生年月日」によって人をくくらず、個人としてその人を見るということもあります。ダイヤモンド・オンライン メールマガジンの9月19日号に山崎元氏が「マルチスコープ年齢差別の世代交代論をやめ、“脱年齢の時代”を模索せよ」という提案をしています。

よく言われる「世代交代」とは、どういうことでしょうか?このことについて、山崎氏は、世代交代論に「年齢差別」の要素が入っていることに対して、もっと敏感であるべきだと言います。本来チャンスが平等であるべき世界で「高齢だから、遠慮してください」とは言えないのではないかと疑問を持ちます。「若手にチャンスを」というところまではいいとして、「老人は去れ」というようなことを言った場合、その言葉には、差別性が含まれるのではないかというのです。しかし、これまで世代交代論には多くの人が賛成してきたのは、企業の年功序列人事や公的年金における優遇など、これまで高齢者があまりにも有利で不公平な既得権を持っていたからだと言います。もし、「高齢者=不当に有利な人」という前提があれば、「高齢」を攻撃することは、それほど悪いことだとは思わなくなりますが、今後、高齢者が急増しており、年金を考えても、企業を考えても、単純な世代交代論では済まなくなるというのです。

山崎氏は、人を年齢で区別することの問題点について考えています。同じ給料で同じ働きができる65歳と64歳の社員がいたときに、65歳の社員が問答無用で解雇される定年は、年齢による差別であり、加えて、65歳の社員の方がより有能な人であるとした場合、差別であると同時に、会社側にとっての損失でもあるのではないかというのです。外資系の企業では、社員の年齢を個人情報として一切他人にわからないように扱う会社があるし、国によっては、採用の際に年齢を問うことを差別として禁止するケースがあるそうです。

ただ、「定年」の廃止ということは、企業は、客観的に見える別の基準をつくる必要がでてきます。新しい発想が必要になってくるようです。

かむ2

子どもの「かみつき」は、他を攻撃するための行動であると思われがちですが、私は、現在、世界に広く生活しているホモ・サピエンスという種は、「歯」を攻撃には使ってこなかった気がします。物をかむことを、人間では「咀嚼」というのですが、それは、口腔内に運ばれてきた食べ物を飲み込めるように細かく噛み砕くことを言います。「かむ」という行為は、食べものを体内に取り込むための、最初の消化活動なのです。また、食べ物の消化・吸収を助けるだけでなく、顎の成長発育、脳を活性化させる重要な役割も果たしています。人間は咀嚼する事で顎が発達し、発達した顎でさらに噛み砕くことで食べ物を摂取します。もし、歯を攻撃に使うのであれば、もっと鋭くなり、犬歯の本数が増えてきているはずです。それが、物をすりつぶすための臼歯が多いのです。

特に、日本人は、古くから狩をして動物や魚からも蛋白質を摂っていましたが、田畑を耕して農作物を収穫し、大麦・黍・稗・あわ・はと麦などの雑穀を主食としてきました。縄文時代にはすでに雑穀を食べており、雑穀は白米と比べて硬く、たくさんの咀嚼回数が必要とされます。しかも、口腔内で唾液と混ぜて澱粉が麦芽糖に変化するまで咀嚼していたと考えられています。そのかむ力も、人間の場合、体重の2?3倍だそうです。このように見てくると、かむという行為は、人間だけではなくて地球上の動物が生きていくために行う必然的な行動です。ただ、何を優先して歯を整備したかは、その生物の生存戦略によります。

人間は、噛む事で、「顎を発達させ歯を丈夫にする。」「噛み砕くことで消化を助ける。」「唾液の分泌を促進する。」というほかに、「集中力を高め、同時にストレスを緩和する」効果があるのです。これらの効果を見ると、子どもがほかの子に「かみつき」をするのは、四番目の行動としか思えないのです。ということは、多くのかみつく場面では、子どもたちは人とかかわる中でストレスを感じているか、今取り組んでいることにより集中したいために、他人に邪魔されたくないためということになります。

子どもの「かみつき」を、咀嚼の意味から考えるととても面白いことがわかります。もう一つ、咀嚼にはある効果があります。それは、「大脳を刺激し認知症を予防する」ということです。かむと大脳が刺激されます。これにより認知症の予防につながると考えられています。また、さまざまな研究では、人間の記憶力は、ガムをかむ前より、かんだ後の方が高いことが証明されているそうです。また、ただ噛めばいいのではなく、回数を多くかんだ方がいいのですが、ガム1枚をかむときには、約550回かんでいるというのが平均とされています。どうも、他人にかみつく赤ちゃんは、1回だけなので、認知症予防のためではなさそうです。

これらのことを考えると、「かみつき」を予防するためには、おしゃぶりやタオルなど、かむものを口にくわえさせておけばいいということになります。瞬間的にストレスを解消し、集中力を高めるために、瞬間的に何かをかみたいわけですから。大人ならガムをかんでいてもいいかもしれません。、

子どもの「かみつき」のついての私の考察は、全くアカデミックではありませんが、そのように、当たり前のように思っていることを、そもそもどうしてだろう、違う観点から考えるとどう見えてくるだろうということが、4つの行動的スキルである最後の、「実験力」だと思います。これは、「新しい経験に挑み、新しいアイデアを試す」ということに通じるのです。

「質問力」「観察力」「ネットワーク力」「実験力」の四つのスキルを大切にしたいと思っています。

かむ

保育園、幼稚園の子どもの悩みの一つに「ひっかき」「かみつき」という行動があります。すべての子どもが発達上通る道ではなく、それをする子は、一部ではあるのですが、他の子に危害を加える行為ですので、問題になりますし、なぜか、その行為が子どもの中で伝染し、「ひっかき・かみつき」する子が広がっていくことがあります。また、問題になるのは、子ども集団がある場では、その行動をなかなか止めることができないからです。それは、全くその気配がなく、仲よく遊んでいたり、一人で遊んでいるかと思うと、突然目の前の子をかんだり、ひっかいたりします。しかも、かむ場所は、所構わずです。

そんなひっかき、かみつきですが、私はある傾向がある気がします。それをする年齢に特徴があります。先日、区内の保育園の看護師の集まりの中で、その話題が出たところ、私の園の特徴が出たということで、私の園の看護師が聞きに来ました。それは、私の園で、ひっかき、かみつきが起こる年齢は、0歳児クラスであることが多いのです。そして、1,2歳児なるにつれてその行為は消えていきます。それが、他の園では、1,2歳児で起きるというのです。どうしてでしょうか?と聞きに来たのです。

以前、ブログでも書いたことがありましたが、危機管理の原稿を幼稚園の園長先生と一緒に書いたことがありましたが、ひっかき、かみつきの項目をどちらが書くかという話になった時に、幼稚園の先生は、「それは、私たちが書きます。だって、それは、3,4歳児の発達上の行為であるから。」というのです。幼稚園では、ひっかき、かみつきは3,4歳児のころによく起きることだというのです。その時、その行為は、発達上の問題ではあるけれど、年齢の問題ではなく、子ども同士がかかわり始めたときのストレスとか、他人とかかわるうえでの自己表現ではないかと思ったのです。私の園では、いま、0歳児から子ども同士がどのようにかかわるのか、その中でどのような力を学んでいるのかを課題にしています。ですから、0歳児で起きるのです。多くの保育園では、たぶん、1,2歳児くらいから子ども同士を関わらせ初め、幼稚園では、3歳児で初めて子ども集団を体験するからでしょう。

私の子どものころは、あまり「かみつき」など聞いたことがありませんでした。たぶん、各家庭で、きょうだいで子ども集団を体験していたからでしょう。きょうだいの中で、物を取り合い、自分の思い通りに行かないことを学び、遊びを邪魔された経験をたくさんしてきたからです。では、かつては、そういう経験を家庭でしてきたとなると、家庭でひっかき、かみつきをしていたかというと、きょうだいげんかはしていましたが、突然、かんだり、ひっかいたりはしていなかった気がします。なぜならば、家庭の中で行われた人とかかわる経験は、異年齢であることが多かったからです。物の取り合いは、異年齢で行えば、下の子は我慢することが多かったり、上の子は譲ってあげたり、年長児として我慢したりしていました。きょうだいでの生活は、集団に入るときの練習だったのかもしれません。

では、どうして、子どもは、ストレスが起きると人にかみつくのでしょう。それは、生きるものが持っている攻撃的行動の一種であると解説できます。それと、面白い考え方があります。これは、私の考え方ですが、今、食事において必要なことの一つに「咀嚼」というかむことがあります。ひとは、かむことで「集中力を高め、同時にストレスを緩和する」効果があると言われています。「人間は不快な音を聴くと、脳の扁桃体と呼ばれる部分が反応して活動が変化します。ところが、ガムを噛みながら不快な音を聴くと扁桃体に変化は見られなくなり、ストレスを緩和しているものと考えられます。スポーツ選手がガムを噛みながら練習に励んだり、試合に臨んでいるのは咀嚼することで集中力を高め、ストレスを緩和するためなのです。」ということが、何かの本に書いてあったことを思い出しました。

 子どもは、カーッときたことを収めるために「かむ」という行為をするのかもしれません。

どう変えるか?

 幼児教育でも初等教育でも当たり前のように過去からやっていることについて、どうしてこれをするのだろうか、それによって、どんな力を子どもたちにつけようとしているのか、その力は、子どもたちが世の中に出たときに役に立つ力なのか、ということを私は常に考えてしまいます。どうも、これは、「質問力」という力のようで、どうして質問なのかというと、「物事の探求に情熱を燃やし、現状に異議を唱えるような質問を行う」ということのようです。

 また、取り組んでいる内容は、他のものに優先するものであるのかということも私はよく考えます。例えば、少し前のブログでも書いたのですが、「幼児教育から小学校への円滑な接続を図る観点」として、保幼小の話し合いが行われていますが、そのために「低学年の児童が幼児と一緒に学習活動を行う」ということがあります。もっと、小学校低学年が、保育園などに遊びに来て、乳児などと接することで、刺激を受け、手本となることなどから小学生としての自覚を持つことができると思います。しかし、そのような提案に対して、そんな時間的余裕はないとか、今、ゆとりがなくなり、目いっぱいであるということを聞くことがあるのですが、私から見ると、最近、どの地域でも、小学校で行われている運動会の練習をしている姿を見ると、そんなに毎日毎日そろえるために練習する必要があるのだろうか。もう少し、その練習を減らして、1時間でも保育園に来ればいいのにと思ってしまうのです。しかし、毎年の運動会の素晴らしさを変えないために、保護者から素晴らしいと言われるために必死なのでしょうね。
現状を変えるために、「そもそも、それは何のためにしているか?」という原点に戻る必要があります。というのも、「なんのため」と

 いうことは、変えてはいけないものが多いからです。というのも、変えることが重要なのではなく、どうして変えなければいけないのかを考えることです。そのためには、「観察力」が必要なのかもしれません。その力は、「周りの世界に目を光らせ、新しいやり方の元になる洞察やアイデアを得る」としています。子どもたちは、将来社会に出ていきます。社会の中で、自己を発揮していかなければなりません。その子たちは教育する教師は、より広い視野が必要になります。また、新しいやり方は、社会の中から見つけていかなければなりません。ということは、社会は常に変化しているものですので、変えていこうとしない人は、社会を見つめ、社会から学んでいない人ということになります。その危機感は、社会を反映しやすい企業よりは、教育の世界は感じにくいかもしれません。

 そんな社会だからこそ「ネットワーク力」が必要になるのかもしれません。時代は、より専門化し、細分化しています。その中で、個人の考えること、やれることには限界があります。そこで、多様な人たちとのネットワークが必要になるのです。「ネットワーク力」の説明として、「多様な背景や考え方を持つ人たちとの幅広いネットワークを通じて、アイデアを見つけたり試したりする」とあります。ここに、私の提案する「チーム保育」の意図の一つがあります。チーム保育とは、子どもたちをネットワークの中で育てるということなのです。そのネットワークは、園内にとどまることなく、保護者とも、地域ともネットワークをとる必要があるのです。特に、今後、保育、教育に求められてくるのは、地域の人々とのネットワークです。

 必要なのは、子どもたちは、特定の人に育てられる時代から、人々のネットワークの中で育てられる保育への変化です。それが、「ソーシャルネットワーク論」なのです。

四つのスキル

 今の子どもたちが大人になり、世の中に出るこれからの時代、世界はグローバル化し、もはや、ただ成績がいいとか、行儀がいいとか、黙って座ることができるとかいうこと自体は、あまり意味がなくなります。子どもたちに必要な力は、「創造力」「問題解決能力」「コミュニケーション力」と言われ、その力が日本の子どもたちに欠けていると言われてきました。また、PISAの学力調査でも、日本の子どもは学力において少しずつ低下してきている傾向にある中、その対策を文科省が模索しています。しかし、私は、それら学習のもととなる「意欲」が、日本の子どもたちはOECD参加国の中でも下位であることが関係していると思います。

 そして、実際に社会に出て、企業を経営するうえで、国際競争力をつけるうえで必要な子とは何かというと、「アントレプレナーシップ」「柔軟性・順応性」「中小・中堅企業の成長性」であることを昨日のブログで紹介しました。そして、それらにおいて、日本は非常に低いのです。特に、この中で、「アントレプレナーシップ」「柔軟性・順応性」が必要であり、それにもましてそれらが非常に足りないことは、幼児教育の世界でも実感します。その中で、「アントレプレナーシップ」は、あまり聞きなれない言葉ですが、「新しい事業の創造意欲に燃え、高いリスクに果敢に挑む姿勢。」ということであるとすれば、幼児教育を含めて、教育分野でも思い当たることが多いですね。古くからの事業を守ることが「子どもを守る」ということにすり替えて、新しいものへの創造意欲に欠けるどころか、新しいものを排除したり、新しい取り組みを阻止します。

 よく、保育園の民営化の中で、条件として「今までの保育を変えないでほしい」ということがありますが、変える、変えないではなく、今の時代に求められる保育はなんであるかをきちんと議論すべきだと思います。そして、変化することを、子どもが戸惑うからと言いますが、子どもたちは常に時代が変わる中、環境が変わり、新しい時代で活躍するために、前進しようとする存在です。しかも、これから必要な力として「柔軟性・順応性」が重要であるにもかかわらず、日本は、OECD参加国59国の中で、昨年は54位、今年50位なのです。また、アントレプレナーシップ教育の重要な観点として「異なる視点で物事を考えることの重要性を知ること」が挙げられていますが、やはりこの柔軟性にも欠けているのです。

 昔から必要とされる「創造力」について、クレイトン・クリステンセン、ジャフリー・ダイアー、ハル・グレガーセン「イノベーションのDNA」(翔泳社)の中で、面白いことを言っています。「創造性は生まれより育ち」であり、学習を通じて習得できると指摘しているのです。そのために、質問力、観察力、ネットワーク力、実験力という4つの行動的スキルをフルに活用し、それらの動機として、「現状を変えたいという意思に燃えている(現状に異議を唱える)」「変化を起こすためにリスクをとる」ということが、新しいことに取り組む勇気を持たせてくれるというのです。

 この4つの行動的スキルを、「イノベーションのDNA」という本の中では、もう少し詳しく説明しています。「質問力(物事の探求に情熱を燃やし、現状に異議を唱えるような質問を行う)」、「観察力(周りの世界に目を光らせ、新しいやり方の元になる洞察やアイデアを得る)」、「ネットワーク力(多様な背景や考え方を持つ人たちとの幅広いネットワークを通じて、アイデアを見つけたり試したりする)」、「実験力(新しい経験に挑み、新しいアイデアを試す)」

 この4つのスキルは、とても参考になります。