無償の愛

 私は、誰かに信じられている、誰かが認めてくれている、自分のことをいつも見守ってくれている、自分に何かあったらきっと守ってくれるという確信は、生きていくうえで大きな励みになります。苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、その人のことを思い出すだけで立ち直ることができます。その存在は、母親であることが一番多いでしょう。

 私が主催するギビングツリーとは、「与える木」という意味で、無償の愛を表わしています。それは、シェル・シルヴァスタイン作の「おおきな木」という1964年にアメリカ合衆国で出版された絵本の原題である「The Giving Tree」というところから採っています。この中の「大きな木」の無償の愛について、「リング」という小説を書いた鈴木光司さんは、母親の愛であるということをある新聞の書評の欄で書いていました。確かに、母親のわが子への愛情には、何の報酬、見返りを望まない気持ちがあることが多いでしょう。ですから、そんな母親から見放されたり、信じてもらえないとそのショックは、ほかの誰からよりも強く感じます。そして、不安定になります。

 しかし、不幸にして母親からその愛情を受けることができない子、母親の存在が心の安定をもたらしてくれない子は、救われないのでしょうか。それは、誰かその子を信じ、わかってあげる存在があれば、救うことができると思っています。その存在は、その子を強くすることができ、心の安定をもたらすことができるのです。それらの関係を「愛着」と呼ぶのであれば、この関係を結べないのを「愛着障害」と呼ぶでしょうし、不安定な気持ちにさせる関係を「不安定型愛着」と呼ぶのかもしれません。ただ、もし、「愛着」を、乳幼児のころの母子の関係に限定するのであれば、この言葉は少し違う気がします。ということで、それは、それぞれの人がかかわっている分野での定義になります。

 そんなことを承知して、もう一度、岡田尊司氏の「愛着障害」を読んでみます。「安定型愛着の子どもは、自分の興味を引き付けるものや可能性を広げてくれるものについて、じっくりと取り組んでいくことができやすい。」ということで、安定型愛着の子どもは、学校の成績が良好であることは多くの研究によって裏付けられているそうです。これは、成績に直接関係のない幼児でも同じようなことが言えます。誰かに見守ってもらっているという確信があれば、探究心や好奇心を満たすべき行動を積極的にします。ただ、そんなときに見守ってくれる人は、すぐそばにいて、何かあったらすぐに助けてくれるであろう存在であることが多く、母子における関係ではない気がするのです。

 また、「社会に出ていくにあたって、非常に重要になるのは、いかに自分の特性や興味にあった路を模索していくかということである。模索期間が短すぎても弊害があるが、長すぎて、いつまでたっても、自分の道が決められないというのも困る。」このような状況である時に、研究によると、「安定型愛着の若者は、キャリアの選択にあたり、自分に合っているかどうかについて、十分な模索や検討を行う傾向がみられる。自分の適性にあった現実的なキャリアの選択をし、自分で主体的に決めることができるのである。そして、いったん進路を選ぶと、予想される困難についてよく認識したうえで、それを積極的に克服しようとし、着実な進歩を示す。」

 失敗を恐れずに挑戦する、困難が予想されてもその道を進む、それは、そんなときに支えてくれる誰かがいるということは容易にわかります。その誰かを、母親がなるべきであるとか、ほかの人に押し付けあったら、より不安定になります。幼稚園、保育園、学校の先生は、母親に押し付けないで、自ら率先してその役割をすべきだと思います。

無償の愛” への5件のコメント

  1. 最後の「幼稚園、保育園、学校の先生は、母親に押し付けないで、自ら率先してその役割をすべきだと思います。」の文は、全くその通りだと思います。責任を押し付け合うような無意味なことを考えず、自分で引き受ける態度が保育者には求められていると思っています。
    この夏休みに4年生の女の子4人が、かなりの日数保育園へ通ってきて、乳児と関わってくれていました。しかも午前と午後の2回です。中には保育士になりたいと考えている子がいたり、また決まっていなくても、そうでないにしても、子どもと関わることに楽しさを感じていたりと、見ていて嬉しい気持ちになる風景がいつもありました。自分で向いていると思われるものや興味のあることを自分たちで見つけていく通ってくれていたと思うのですが、そのことはすごいことだと思っています。いろんな人から見守られていることで自分から活動の幅を広げていき、この小学生のような活動ができる子になってもらいたいなあと園児の姿も眺めていたところです。

  2. 昨日のNHK「BS歴史館」で幕末の松下村塾が、実は元祖「白熱教室」で、教壇がなくコの字型の机の並びで、討論形式で講義が行われていたことを知った。知識注入型ではなく、実践的な問題解決能力を鍛える松陰の教育手法は、現代でも立派に通用します。だからこそ、たった2年の松下村塾から、92名の卒業生のうち20名が維新までになくなるものの、総理大臣2名、大臣2名、県知事4名の人材を輩出できたのだ。師弟の愛着関係も深く、高杉晋作と同門の双璧と言われた久坂玄瑞に送った壮行の辞が残っています。

    『吾が妹婿日下実甫は年いまだ弱冠ならざるも、志状気鋭、之を運らすに才を以てす。吾の之に語る、余謂えらく、今や天下大変革の兆あり、しかして実甫は吾が社の領袖なり。吾の之に語る、寧んぞ尋常の言を以てせんやと…(略)…
    若し然る能わざれば、吾れの推すに少年第一流を以てせしは、一家の私言となりて、天下の士に愧ずべきや大なり。実甫行け。これを贈言と為す。』

    最後の『実甫行け!』の師匠の激励の一言に奮起した久坂は維新回天の命がけの戦いに挑んでいきます。

    『人生にあって最大なる幸福は、生涯の師を持つことであろう。師を持たぬ人生ほど不幸なことはない』

    松陰という良き師に見守られ、自分の決めた道を一直線に奔ることができた久坂玄瑞。短くも幸福な一生だったと言えます。師の愛も「無償の愛」です。

  3.  「大きな木」の本はもちろん読んだ事があります。読んだ瞬間は木の優しさに感動しますが、深く考えてみると、もし少年が木から見放されると、どうなっていたのか?おそらく不安定な気持ちになるでしょうね。あとは、なぜ木にしたのか?絵本なのであえて母親にせず、リンゴの木にしたのでしょうが、ブログにも書いてあるように、愛着形成は何も母親だけでなく、他の存在とても愛着は結ぶ事ができるという事も表したかったのかもしれません。そして安定型愛着を結ぶ事が、就職にもかなり関係してくるのですね。自分の適性に合ったものを選択し、それに、向けてチャレンジしていく。愛着形成が人生のいたるところに影響していくと考えると、最後にも書いてあるように自ら率先して愛着関係を結ぶ存在になる必要があるのですね。

  4. 愛着があることで、好奇心や探究心の持ち方も大きく変わってくるんですね。何かあったときに必ず助けてくれる、この安心感がないと子どもたちは外に目がいかないのは当然のことだと思います。大人でもこういったバックアップや信頼関係があるのとないのとでは大きく違うわけですから、子どもだとなおさらでしょう。「不安定愛着」という言葉が今回出てきましたが、少し意味合いが変わるかもしれませんが、よくいう下に兄弟ができ、落ち着かなくなったり、「赤ちゃん返り」する子どもたちはこの「不安定愛着」な状態に一時的になっているような気がします。よく街の不良が恩師にであったことで更生したという話も聞きます。これはまさに愛着が母親以外で培われた一例なのかもしれません。藤森先生が講演で「人生に一人でも、いい人に出会えれば、悪の道には行かない」といっていたことを思い出しました。確かに母親の影響は大きいです。しかし、その重責を母親だけが被るのもなかなか大変な話です。だからこそ、連携して、保育園や学校も子どもたちのために自ら率先して愛着を結ぶ役割を担わないといけないですね。

  5. 乳幼児期の母子愛着にはやはりどうしても違和感を感じますね。愛着attachmentについては以前のブログでコメントを入れさせてもらってはいるのですが、どうもしっくりこない。「愛着」ということが強調されると母子愛着から保育所では「特定な大人との愛着」ということになって、ついには不自然な「担当制」になり、担当制によって子どもの情緒が安定する、とされてしまうのです。子どもの「情緒安定」については当ブログでも何回か触れられておりますが、情緒の安定はただじっと落ち着いていることではなく、熱中・没頭している、何か生きるための活動、すなわち生活を一所懸命に行っている子どもの状態を表します。母子や特定な大人とでなければ「情緒の安定」が図れないということではありません。「愛着」ということもどうか?と思ってしまうのですが、頼れる存在、お願いできる存在は「愛着」者?というよりは見守ってくれる人、でいいと思うのです。「見守り」が「愛着」という西洋由来の概念に取って代わり、ジャパーニズスピリットとしての「見守り」のほうが大人と子ども、あるいは子ども同士の関係の中で皆さんの認めるところとなればいいのに、と思います。

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