無償の愛

 私は、誰かに信じられている、誰かが認めてくれている、自分のことをいつも見守ってくれている、自分に何かあったらきっと守ってくれるという確信は、生きていくうえで大きな励みになります。苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、その人のことを思い出すだけで立ち直ることができます。その存在は、母親であることが一番多いでしょう。

 私が主催するギビングツリーとは、「与える木」という意味で、無償の愛を表わしています。それは、シェル・シルヴァスタイン作の「おおきな木」という1964年にアメリカ合衆国で出版された絵本の原題である「The Giving Tree」というところから採っています。この中の「大きな木」の無償の愛について、「リング」という小説を書いた鈴木光司さんは、母親の愛であるということをある新聞の書評の欄で書いていました。確かに、母親のわが子への愛情には、何の報酬、見返りを望まない気持ちがあることが多いでしょう。ですから、そんな母親から見放されたり、信じてもらえないとそのショックは、ほかの誰からよりも強く感じます。そして、不安定になります。

 しかし、不幸にして母親からその愛情を受けることができない子、母親の存在が心の安定をもたらしてくれない子は、救われないのでしょうか。それは、誰かその子を信じ、わかってあげる存在があれば、救うことができると思っています。その存在は、その子を強くすることができ、心の安定をもたらすことができるのです。それらの関係を「愛着」と呼ぶのであれば、この関係を結べないのを「愛着障害」と呼ぶでしょうし、不安定な気持ちにさせる関係を「不安定型愛着」と呼ぶのかもしれません。ただ、もし、「愛着」を、乳幼児のころの母子の関係に限定するのであれば、この言葉は少し違う気がします。ということで、それは、それぞれの人がかかわっている分野での定義になります。

 そんなことを承知して、もう一度、岡田尊司氏の「愛着障害」を読んでみます。「安定型愛着の子どもは、自分の興味を引き付けるものや可能性を広げてくれるものについて、じっくりと取り組んでいくことができやすい。」ということで、安定型愛着の子どもは、学校の成績が良好であることは多くの研究によって裏付けられているそうです。これは、成績に直接関係のない幼児でも同じようなことが言えます。誰かに見守ってもらっているという確信があれば、探究心や好奇心を満たすべき行動を積極的にします。ただ、そんなときに見守ってくれる人は、すぐそばにいて、何かあったらすぐに助けてくれるであろう存在であることが多く、母子における関係ではない気がするのです。

 また、「社会に出ていくにあたって、非常に重要になるのは、いかに自分の特性や興味にあった路を模索していくかということである。模索期間が短すぎても弊害があるが、長すぎて、いつまでたっても、自分の道が決められないというのも困る。」このような状況である時に、研究によると、「安定型愛着の若者は、キャリアの選択にあたり、自分に合っているかどうかについて、十分な模索や検討を行う傾向がみられる。自分の適性にあった現実的なキャリアの選択をし、自分で主体的に決めることができるのである。そして、いったん進路を選ぶと、予想される困難についてよく認識したうえで、それを積極的に克服しようとし、着実な進歩を示す。」

 失敗を恐れずに挑戦する、困難が予想されてもその道を進む、それは、そんなときに支えてくれる誰かがいるということは容易にわかります。その誰かを、母親がなるべきであるとか、ほかの人に押し付けあったら、より不安定になります。幼稚園、保育園、学校の先生は、母親に押し付けないで、自ら率先してその役割をすべきだと思います。

愛着と共感

 昨日のブログで取り上げた「部分対象関係」と「全体対象関係」を隔てるものが何かといえば、それは、「相手の気持ちがわかるかわからないか」ということであり、言い換えれば「共感性が芽生えているかどうか」ということであり、部分にとらわれやすいという状態は、共感性に欠けている状態でもあるということになると岡田氏は言っています。幼児を見ていると、共感は、相手の立場に立ち、相手の痛みを自分の痛みと感じられてこそ、相手の一言からだけでなく、その言葉の後ろにある気持ちを感じることができるのです。

 しかし、次の岡田氏の言葉には、もう少し説明がいると思っています。「愛着障害の人は、相手の気持ちに対する共感性が未発達な傾向を示す。相手の立場に立って、相手のことを思いやるということが苦手になりやすいのである。それは、幼いころに、共感を持って接してもらうことが不足していたことと関係しているだろう。」私は、この言葉の逆は成り立たないと思っています。「相手の気持ちに対する共感性が未発達な傾向を示す人は、愛着障害の人である」とは言えないのです。それは、この共感性は、「共感脳」の働きであり、ずっとブログで説明してきた「社会脳」の働きだからです。この「社会脳」は、愛着によってのみ育つのではなく、子ども同士、多様な大人との関係の中で育っていくものだからです。

 また、確かに幼いころに共感を持って接してもらう必要は、大いにあります。しかし、例えば、乳児においても遊んでいるときに共感しあっている場面を見ることができます。共感することで、模倣が始まります。その子ども同士の関係を「愛着」と呼ぶかどうかです。また、赤ちゃんが、他者の視線の行方を感じ、そのものを一緒に見るという共同注視という行為は、その見ていた人と愛着関係になくても行うことがあります。そして、見ている先のものを社会的参照という、一種の共感が生まれることがあります。

 そのほかにも、人との関係において様々な問題行動があり、それらの原因を岡田氏は愛着障害の特徴としていますが、愛着を、乳幼児のころの母子における関わりの問題に限定せず、他者との信頼関係や、自分を見守ってくれる存在が確認できずに、他者への疑惑だけを持つ中で、他者との関係を上手に結べないことを「愛着障害」というのであれば、これらの行動の特徴は、納得がいくことが多いように思います。

例えば、「愛着障害の人の重要な特徴の一つは、過度に意地を張ってしまうことである。自分流儀に固執したり、否定されればされるほど同じことをしようとしたりする。安定した愛着スタイルの人は、相手とやり取りするなかで、相手の気持ちも考えて、譲歩したり、気持ちを切り替えたりするということを学んでいる。そんな柔軟性は、安心できる愛着という柔らかな環境があって初めて発達する能力なのである。」

この部分は、私はとても面白く読みました。というのは、私の園の職員は、とても柔軟性があります。「みんなで統一された理念のもと保育していくためには、どのような力が必要だと思いますか?」という質問に、私の園の職員に一番多かった回答は「柔軟性」でした。私は、どうして職員が柔軟性を持っているかというと、彼女らが乳幼児のころ煮干し愛着が形成されているというよりも、今の職場が信頼関係で結ばれているということが大きいような気がします。そして、私は、管理職として職員を信じ、信頼して見守っているからのような気がします。柔軟性は、現在おかれている環境の中で、身近な他者との愛着関係が結べているかによる気がしているのです。

距離感

 現在、親子の関係の問題を、「愛着障害」という言葉で表すかどうかは別として、整理する必要があるかもしれません。岡田氏は、親子の関係を見るうえで重要な点を挙げています。親に対する敵意や恨みといったネガティブな感情、あからさまな確執や軋轢だけでなく、過度の従順さやよい子としての振る舞いといったで親に奉仕しようとすることも多いことであると言っています。また、両方の感情や行動が、両極端に混在していることも多く、関係がうまくいっている局面では、気に入られようとして親を喜ばせるが、それがうまくいかない局面になると、否定的な感情が噴出し、関係が急に悪化したりすると言います。

 もう一つ重要な問題として、親の期待に応えられない自分をひどく否定したり、責めることがあると言います。親を否定している一方で、親から認められない自分を、だめな人間のように考えてしまう傾向がみられるのです。

 親子に限らず、対人関係を良好にするためには、その距離感が重要です。相手の距離が近すぎるか、遠すぎるか、どちらかに偏ってしまい、程よい距離が取れないということが問題になります。今は絶版になってしまったのですが、以前「やってあげる育児から 見守る育児」という保護者向けの本を出版したことがあるのですが、その中の1章目のタイトルは、「今、問われる、親子の距離感」でした。「子どもにとって、親は大切、大切!」ということは、少子時代においては、親子の距離を近すぎか、遠すぎる結果を生んでしまいがちです。これは、一人っ子政策の弊害に近いものがあります。

 最近の若者での問題点の一つとして「現代うつ病」が挙げられます。社会に出たときに、自分自身の評価と他者からの評価のギャップにショックを感じたり、ある部分を否定されたことで、人格すべてを否定されたと思ってしまうことからうつになってしまうのです。乳児においてよくみられる傾向として、相手からどんなに恩恵を施されても、一度不快なことをされれば、それ以外のことは帳消しになって、相手のことを全否定してしまうというような対象との関係は、「部分対象関係」と名付けられています。この傾向は、成長とともに相手を全体的な存在としてみることができる「全体対象関係」が発達してくると言われています。どうも、現代うつ病の若者は、この関係において、発達していないのかもしれません。

 この対象関係を提起したのは、メラニー・クラインですが、ボウルビィは、それを「愛着」として捉えなおしたと言われています。岡田氏は、このようにこれらを説明しています。母親が悪いことをしたわが子に対して、叱りながら涙を浮かべている場合、「部分対象関係の段階にある子どもの場合、自分のした行為と“叱られる”という結果を結び付けて考えることくらいはできる。こうして、子どもは“ある行為をすると叱られる”という条件付けがされるのだが、なぜ自分が叱られるのか、ましてや、なぜ母親が涙を浮かべているのかを理解することまではできない。しかし、全体対象関係に目覚めた子供は、自分の行為に対して、母親は怒っているだけでなく、悲しく思っていることを理解する。それによって子どもは、“ある行為をすると叱られる”という条件付けがされるだけでなく、“自分が悪いことをして母親を悲しませてしまった”ことを理解し、自分も悲しい気持ちを味わうことができる」

 私は、この発達過程において、乳幼児期は、“愛のむち”は、ありえないと思っていますし、最近の若者を叱るときにも気を付けなければいけない観点だと思っています。

愛着障害の原因

岡田尊司氏は、「愛着障害」という本の中で、ボウルビィによって提起された「愛着」という概念が、時代によって変わってきたことを指摘しています。それは、実の親のもとで育てられている子どもでも、当初考えられていたよりも高い比率で、愛着の問題が認められることがわかったことでした。愛着障害とは言わないまでも、実の親のもとで育てられた3分の1の子どもたちが、不安定型の愛着を示したのです。さらに成人でも、3分の1くらいの人が不安定型の愛着スタイルを持ち、対人関係において困難を感じやすかったり、不安やうつなどの精神的な問題を抱えやすくなるのです。

 この本の2章「愛着障害が生まれる要因と背景」になると、岡田氏は、少子化の影響を感じているようです。「日本がまだ貧しかったころに比べて、いま一人ひとりの子どもに分け与えられる愛情や資源は、桁違いに増えているはずだ。不幸な境遇に生まれても、それなりの支援が受けられる仕組みも整えられている。また医療、福祉、教育といった分野には、何十倍もの資金が投入されている。ところが現実をみると、愛着の抱えている子どもだけでなく、大人までが、この社会にあふれているという事実は、なにを意味しているのだろうか。」

 彼は、この章で有名な作家や政治家の生育を検証していますが、最後には、このような疑問を投げかけています。「愛着や愛着障害について主として論じられてきたのは、母親との間の問題であった。実際、母親の不在や機能不全は、愛着障害のもっとも大きなリスク要因となり、その後の愛着スタイルだけでなく、発達全般に影響を及ぼしやすい。」岡田氏は、このような環境の若者に多く接しているでしょうが、私だ接している若者や子どもたちの多くはいわゆる普通の家庭で育っている子たちです。その子どもたちの中に問題を感じるのは、岡田氏が次に言っている事例が多いのです。「母親との愛着が安定しているにもかかわらず、その後、不安定な愛着スタイルを示すようになる場合もある。その理由は単純だ。その子にとって親は一人ではないし、その子に関わり、見守る人間はもっとたくさんいるということである。」

 ここで、まず、愛着研究ではあまり研究されてこず、ほとんど論じることのなかった父親との愛着について述べています。これは、かつて紹介した「愛着からソーシャルネットワーク論」という本の中でも取り上げられていましたが、今までの乳幼児における研究は、母子関係が中心で、父子の関係、祖父母との関係、きょうだい間の関係などが研究されてこなかったということが書かれてあります。ここでも感じることですが、私たちが園で一番、目にし、観察する子ども同士の関わりはまったく論じられていません。最近分かったことですが、子ども同士の研究は、意味がないわけでも、興味がないわけでもなく、研究者にとっては非常に困難だということです。

 愛着についての父親の研究が始まると、愛着の構築は母親だけではないこと、夫婦間の関係も影響することなどがわかってきます。また、両親以外でも、祖父母や兄弟、身近で親しんでいた遊び友達や親せき、教師との関係も関わってくることがわかってきます。そして、中学、高校、大学、就職と周囲の環境によって変化し、最も大きな変化が、恋愛や結婚だと言います。

 愛着パターンを決めるのは、このような周囲の影響だけでなく、生まれ持った気質によっても一部影響されるのではないかということも指摘されているようです。どうも、母子の関係だけに責任を押し付けることでは、愛着障害の問題は解決しないようです。

愛着の時代性

 育児を理屈で考えるととても難しいものです。他人に教えるのも難しいものです。それは、方法というよりも心という説明のつかない問題ということもありますが、なによりも個人によって違うことが多く、また、結果がすぐにはあらわれないからです。しかし、人類が誕生してから、ずっと子育てをし、遺伝子をつないできました。人間においての子育ては、本能なのか、または、学習していくものなのでしょうか。たぶん、どちらかという問題ではなく、両方が混ざり合っているのでしょうが、それでも、どんな説があろうが、延々と育児されてきているのです。

 私は、そんな育児を最近は情報によって理屈つけていることの弊害を感じることがあります。「こうしなければいけない」「こうしてはいけない」とどこから変えた情報で子育てをしようとします。しかし、自分の行動をそれによって見直すのであればまだいいのですが、子どもを「こうしなさい」「これはしてはいけない」「これだけしなさい」と抑制してしまうと、その弊害は、大きくなってから出るようです。

 こうして見ると、いくら愛着といっても、子どものためといっても、子どもと関わればいいということではなく、子どもにとってはよくないかかわりがあるようです。岡田氏は、本の中で、母子間の愛着の質を観察して評価する実験法としてM.S.エインズワースが開発したストレンジ・シチュエーション法を紹介しています。この時の愛着の質というのは、安全基地としてうまく機能しているかです。どんな関わりをしたかというよりも、どのような機能を持ったかというところは重要です。最近、園への相談や新聞の身の上相談で、実母がストレスになるというものが多いのですが、どうも実母が安心基地というよりもストレスの対象となっている人が増えているようです。それは、親の自己満足であったり、周りへの見栄とか体面のためで、本当に子どもからの真の欲求を満たすような関わりをしている場合が少ないように思えます。

もうひとつ、最近の傾向として、少子化であるために親子の距離感が近すぎることがあるような気がします。いつもその行動が見え、そこに手を出す時間があるために、先回りをして子どもを抑制してしまう過干渉な親が増えてきたこともあるような気がします。また、少子化は、子ども同士の関わりが減り、その分、親との関わりが増してくることも問題です。もうひとつは、地域の連帯、地域の教育力の低下があり、育児、子どもへの教育が母親の方だけにかかってしまっているということもあります。

しかし、エインズワースがストレンジ・シチュエーション法を開発したのは、1978年であり、その時に調査した母親はその2?30年前に子育てをした人たちです。しかし、日本では、1992年版の「国民生活白書」の中で、「少子社会の到来、その影響と対応」という副題のもとで、少子社会の現状や課題について、解説していますので、やっとその時期から問題が表われています。また、ジョン・ボウルビィが、子どもと母親の結びつきの本質についての考察の成果を初めて出した『母子関係の理論』は、1958年にまとめられています。

確かに、愛着の問題は子どもの問題と大いに関係しています。愛着について、もっと考えないといけないとは思いますが、その時にボウルビィやエインズワースなど当時の研究を、今にそのまま当てはめるとか、そのころに戻ろうとする考え方は、今の子どもたちにおきている問題を解決することにならない気がしています。

子どもからの見守り

 愛着について考えるうえで、誤解を生じるといけないのですが、私は、決して母親との関係を軽視するものではありませんし。母親の抱っこを否定するつもりもありません。子どもにとって、母親の存在は何よりも大切だと思っています。また、愛着の絆の結びつきにおいて、抱っこの効果は十分あると思います。しかし、最近、産休中、育休中の母親を見ていてわかったことがあります。よく、「母性本能」とかつて言われていたけれど、最近は「母性」は本能ではないと言われます。私は、人間においては、そう思います。母性は、赤ちゃんから育てられていくことのような気がします。もちろん、出産のときの感動はあります。それは、わが子の誕生というよりも、生命の誕生という営みに対しての感動です。まず、その子をじっと見つめていると、なんだかいとおしく感じてきます。初めて自分の手の中に抱かれて、自分にその存在をすべてゆだねている姿を見ると、かわいく思えます。

 今年の初め、私の息子に子どもが生まれ、病院に駆けつけました。まだ、新生児室でガラス越しの対面でしたが、隣で一緒に見ていた息子が、泣き出したわが子を見て、「あっ!かわいそう、かわいそう!」というので、私は「赤ちゃんって、泣くに決まっているじゃない。泣いて深呼吸したりしているだよ。」と慰めると、「そんなこと知っているよ!だけどかわいそうなんだよ。」と答えました。理屈では分かっていても、そこにいる赤ちゃんが泣くと、なんだかかわいそうに思え、思わず抱きたくなるようです。放っておけないのです。最初は、それはわが子だからではないでしょうが、わが子とは、こんなことを毎日繰り返していきます。それは、母親ではもっとでしょう。そうした日々の中で、次第にわが子への母性、父性が育っていくようです。

 ところが、最近、わが子が泣いていてもかわいそうと思えない母親、父親が増えているような気がします。うるさいとしかりつける親、知らん顔をしている親、自分ことを優先してしまう親、そんなには多くありませんが、少しずつそんな親の姿を目にします。それは、子どもへの愛情がないのでしょうか?子どもへの接し方がわからないのでしょうか?私は、どうも、それは、その親に、他人に対する共感する能力、脳の神経細胞であるミラーニューロンが委縮しているか、育っていない気がするのです。それでも、子どもを抱いたり、ミルクをあげたりしているうちに、共感する能力は育てられていく気がするのです。

 親が赤ちゃんを抱っこすることで、赤ちゃんにとっての愛着の絆が結ばれていくと言われていますが、私は、それ以上に、親のほうに、愛着が育っていくような気がします。愛着とは、生きていくうえで、痛かったり、不安になったり、恐れたりという負の状況に陥った時に、それを支え、そこから立ち直らせてくる存在としたら、赤ちゃんにとっての親というよりは、親にとっての赤ちゃん、わが子の存在が、育てていくうちに次第に愛着関係であるようになってくるような気がします。どんなにつらくても、恐れが襲ってきても、わが子の存在が支えてくれるような気がします。わが子さえいれば、この子のためならばと強くなれるのも、わが子の存在です。

 こうして考えると、子どもから親としての在り方を育てられ、わが子の存在は、親にとっての安心基地かもしれないのです。かつて、戦場に送られ、過酷な日々を送っていても家で待っているわが子のために頑張ることができましたし、現在も、子どもから離れて仕事をしていても、わが子のことを頭に浮かべると頑張れるのは、もしかしたら、親は子どもから見守られているのかもしれません。

愛着と母子

 「愛着障害」という本の中で、著者の岡田氏は、どうも乳児おいての見解が少し現場と違っている気がします。たとえば、「いったん、愛着の絆がしっかりと形成されると、それは容易に消されることはない。愛着におけるもうひとつの重要な特性は、この半永久的な持続性である。しっかりと結ばれた愛着の絆は、どんなに遠く離れていようと、どんなに時間を隔てていようと、変わらずに維持される。」とあります。

 私は、乳児のころに母親だけにたくさん抱かれるよりも、幼児のころに子どもの思い、欲求を適切に受け止めてあげることが大切な気がしますし、子どもが小学校に入学してから、帰ってきた子どもに学校であったこと、子どもが一生懸命に親に伝えたいと思ったことに耳を傾けることが必要だと思っています。また、その子が、中学生になったら、やはり中学生の我が子にきちんと向き合って、子どもが負の状況に陥ったときに、いつでも支える用意がされていることを伝えるべきだと思います。

 しかし、もし幼児期に誰かから愛され、大切にされ、存在を受け入れてもらった経験があり、その人と長い間接することがない場合や、その人と別れた場合には、その思い出はいつまでも残り、生きる上での支えになることはあります。それは、保育園、幼稚園の先生であったり、小学校の先生であったり、近所のおばさんであったりします。その時に自分を受け入れてくれた人との愛着は、半永久かもしれません。しかし、母親は、子どもが自立するまで離れません。いくら幼児期に愛着関係を結んだとしても、小学生になって、中学生になって無視されたり、欲求を感じ取ってくれる感受性がなければ、愛着の絆は切れてしまいます。

 岡田氏の言葉の中で、最後の文は納得がいきます。「しっかりと結ばれた愛着の絆は、どんなに遠く離れていようと、どんなに時間を隔てていようと、変わらず維持される。」という部分です。愛着は、いつもそばにいなくても、ずっと一緒にいなくても、維持されます。距離や時間の問題ではないのです。

もうひとつの問題があります。その愛着は、実母でなければならないかということです。たとえば、岡田氏の見解の中で、「ある研究では、2歳の時点で親から十分なサポートを得られた人の場合、青年期になってから、恋人に気軽に頼ることができる傾向が認められている。逆に言えば、2歳の時点で親からの支えが乏しかった子どもでは、恋人にうまく甘えられないということである。」とあります。この研究での見解は、2歳の時点で親から十分なサポートを得られた人はどうなるかであって、その逆は成り立たないのではないかということです。というのは、では、もし親から十分なサポートを得られなくても、他の大人から十分なサポートを得られた場合はどうなのか、たとえば、祖母とか、近所のおばさんとか、親以外の養育者とかからのサポートは愛着には影響しないのでしょうか。

しかし、岡田氏の次の指摘は非常に重要なことです。「過保護になってサポートを与えすぎ、子どもの主体的な探索行動を妨げたのでは、良い安全基地ではなくなるということである。それでは、子どものを閉じ込める牢獄になってしまい、依存的で、不安の強い、自立できない子どもを育ててしまう。」この言葉は、少子社会を迎えている現在、愛着という言葉に隠れる、さまざまな子どもにおける問題をはらんでいる気がします。

抱っこと愛着

「愛着障害」という本の中で岡田氏は、イスラエルの集団農場キブツで行われた、実験的とも言える試みの教訓を書いています。「かつて、進歩的で合理的な考えの人達が、子育てをもっと効率よく行う方法は無いか?と考えました。その結果、『1人の母親が1人の子どもの面倒を見るのは無駄が多い』 という結論に達しました。それよりも、『複数の親が時間を分担して、各々の子どもに公平に関われば、もっと効率が良いうえに、親に依存しない、自立した、もっと素晴らしい子どもが育つに違いない。』 ということになり、実行されました。ところが、何十年も経ってから、そうやって育った子供たちには重大な欠陥が生じやすいことがわかりました。その子たちは、親密な関係を持つことに消極的になったり、対人関係が不安定になりやすかったのです。更に、その子どもの世代になると、周囲に無関心で、何事にも無気力な傾向が目立つことに多くの人が気付き始めました。効率本位の子育ては、『愛着』という重要な課題をすっかり見落としていたのです。こうした弊害は、幼い子どもだけでなく、大人になってからも『不安定な愛着スタイル』として認められました。」

 岡田氏は、この例をあげ、「いくら多くの人が、その子を可愛がり、十分なスキンシップを与えても、安定した愛着が育って行くことにはならない。特定の人との安定した関係が重要なのであり、多くの人が関わりすぎることは、逆に愛着の問題を助長してしまう。」と言っています。

 私が以前、勤めていた園に、子どもが5人いるこんな母親がいました。そのお母さんは、とてもいい人で、いつも赤ちゃんを抱っこしていました。そして、2歳まではお母さんが家でみていて、3歳から園に入園させます。そのうち、子どもが大きくなって小学校に行くころになると、あまり子どもに構わなくなります。道で会ったそのお母さんは、私にこう言ったのです。「私は、赤ちゃんの“におい”と“肌触り”がたまらなく好きで、いつも抱っこかおんぶして、肌に触ったり、臭いをかいでいます。しかし、子どもが大きくなると途端に興味を失って、つい、次の子を産みたくなるので、結果5人になってしまいました。」その母親は、子どもたちが全員大きくなったら、父親と違う男の人と子どもを置いて駆け落ちしていなくなってしまいました。数年たって、その中の子の名前をネットで見つけました。それは、犯罪を起こしてしまい、逮捕されたというものでした。

 もし、青年になってから問題行動を起こす子たちの事情を聞くと、乳児のころに母親に抱っこされた経験が少ない子が多いかもしれませんが、逆に、保育園で、0歳児から見ていると、とてもいい母親で、いつも母親に抱かれている子でも、大きくなって、他人とのかかわりにおいて問題であったり、問題行動を起こす子がいることがあります。どうも、愛着障害は、乳児期における母親との抱っこに関係があるのではない気がします。

 岡田氏の次のような見解から、母親という言葉を「周りの大人たち」と書きかえるのであれば、私が常々思っていることに近くなります。「愛着がスムーズに形成されるために大事なことは、十分なスキンシップとともに、母親(周りの大人たち)が子どもの欲求を感じとる感受性をもち、それに速やかに応じる応答性を備えていることである。子どもは、いつもそばで見守ってくれ、必要な助けを与えてくれる存在に対して、特別な結びつきを持つようになるのだ。求めたら応えてくれるという関係が、愛着を育むうえでの基本なのである。」

 いつも抱っこしてくれる関係ではなく、求めたらいつでも応じてくれる関係が大切な気がします。

抱っこ

 最近は、「愛着」を、乳幼児のころの母子関係だけとしてとらえなくなりました。私も、その実感を強く持っていて、小学生、中高校生や、大人においても、愛着についての問題がみられます。また、この問題は、特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かったのですが、どうも一般の子どもにも当てはまることがわかっていたということが、「愛着障害」を書いた岡田氏は言っています。

 しかし、私として気になるのが、「深い信頼関係を築き、それを長年にわたって維持していくことで、大きな人生を手に入れやすい。どんな相手に対してもきちんと自分を主張し、同時に不要な衝突や孤立を避けることができる。困ったときは助けを求め、自分の身を上手に守ることで、ストレスからうつになることも少ない。人に受け入れられ、人を受け入れることで、最高のチャンスをつかみ、それを発展させていきやすい。」となる基盤が、安定した「愛着スタイルを持つこと」だけかな?ということです。ただ、それは、たぶん「愛着」という定義の問題かもしれません。

岡田氏が述べている「人に気ばかり使ってしまうのか、なぜ自分をさらけ出すことに臆病になってしまうのか、なぜ、人と交わることを心から楽しめないのか、なぜ、本心をおさえてでも相手に合わせてしまうのか、なぜ、いつも醒めていて何事にも本気になれないのか、なぜ、拒否されたり傷つくことに敏感になってしまうのか、なぜ、損だとわかっていて意地を張ってしまうのか。」という人の中にある葛藤は、人との関係の中での葛藤です。人は社会の中で生きていく生き物ですし、当然、その中での人とのかかわりは欠かすことができません。その「人とのかかわり」ということを広く「愛着」と定義するのであれば、これらの問題は、「愛着の安定」が、「人とのかかわりの安定」と言えなくもありませんし、その観点からの考察も必要になってきます。

「愛着の研究は、まず子どもの愛着障害から始まったのだが、今では、大人においても愛着が果たす役割の重要性に注目が集まっている」ということで、「良好な対人関係」「幸福な家庭生活」「社会生活での成功」などにも大きく関与しているといいます。また、心理的な面でも、「自分が助けや慰めを求めたときに、相手がどう応じるかについて、どんな期待を持ち、どれだけそれをあてにしているのか」が関係してきます。

そこで、岡田氏は、その基本を「母親の抱っこ」としています。抱っこには、スキンシップという面と、「支え、守る」という面が合わさった行動であるとし、抱っこすることで子どもから母親に対する愛着が生まれ、母親から子どもに対する愛着も強化されるといいます。そして、よく抱っこされた子は、強くたくましく育ち、その影響は、大人になってからも持続するほどであると彼は言います。

私も、若いころに問題行動を起こしていた中学生の面倒を見ていた時に、この抱っこ「心の抱っこを含めて」の効果を実感していますし、その子らと話していた中には、「問題行動を起こすようになったのは、もしかしたら、お母さんに抱っこされたことがなかったからかもしれない」ということを言った番長がいました。1960年代にザスロウ博士によって創始された心理技法に「抱っこ法」というのがあり、海外では、おもに心の交流が難しい自閉症児等の教育のために活用されてきました。その後、日本では独自の発展を遂げ、自閉症のみならず、一般の子ども達の心を育てるのにも有効な方法として確立されています。しかし、この抱っこも、母親だけには限定しておらず、助産師や保育者などのカウンセリング的な関わりとして、対象の年齢を問わず実践できる具体的な方法としているのです。

では、母親のだっこは、特別なものなのでしょうか?

原因

 最近、幼児でどうも気になる子どもたちが増えたという話を聞きます。どのように、どの箇所が気になるかというと、それは様々ですが、その原因は母親との関係にあるのではないかという話は最近増えているように思います。そして、幼児とかかわる仕事をしている人たちは、専門用語として「それは愛着障害」ではないかという話を聞きます。それは、気になる子の気になる部分が、「人との関係」においてのことが多いからです。人は、社会の中で人とかかわって生きています。しかし、そのかかわり方は、必ずしも仲がいいとか、一緒に仕事をするとか、集団で行動するとかだけではありません。集団の中で自己を発揮できるとか、自分に自信を持つとか、他人との関係の中で自己を確立することもあります。

 では、その基礎はどこにあるのでしょうか。その土台が乳児期の母子関係にあるというのが「母子愛着」という言葉で説明されます。確かに、子どもにとって、母親の存在はとても大きな役割を持ち、とても重要です。何よりも、多くの子どもたちは母親が大好きです。もちろん、父親のことも大好きです。そして、父親の存在ものちの人生に大きな影響を与えます。では、母親、父親がいないとだめなのか。ほかの人がとってかわることはできないのか。自分の子どもが好きでない母親、父親は絶対にいないのか。というと、そう簡単な話ではありません。

 最近、いじめが多く名問題になっていますが、虐待も大きな問題です。その件数が、平成19年度には、初めて4万人を超えました。その中で一番多い虐待者は、実母が2万5千件で、次いでジップ9千人、続いて実父以外の父、実母以外の母と続きます。社会としてケアをしなければならない人たちにはそういう人が多いこともあり、親が一番と言い切ることは解決にはなりません。もっと、きちんとした理解をするべきでしょう。

 「本当の問題は『発達』よりも『愛着』にあった」と「はじめに」に書かれてある「愛着障害」を書いたのは、岡田尊司氏です。彼はとてもユニークな経歴を持ち、現在京都医療少年院に勤務している医師です。ですから、かなりの実例と、問題を抱えた少年とかかわりを持っています。ですから、その本の内容には説得力があり、かなり参考になる部分が多いと思います。しかし、イギリスの神経科医であるジョン・ボウルビィが「愛着理論」を打ち出したのは、1950年代、第二次世界大戦後のイタリアで孤児院、乳児院などに収容された戦災孤児についての研究から始まったものですので、何となく、現在、子どもの置かれている環境、時代、社会の在り方などが変わってきている部分では、違和感を感じる部分もあります。

 私は、今、愛着という概念を一言でいうと「誰かに見守られているという確信」だと思っています。それは、「自分という存在を丸ごと受け入れ、信じてもらえているという」ということを「愛着」という専門用語ではなく、日本では、だれでもわかりやすい言葉「見守ってもらっている」と説明したものだと思っています。ですから、この確信をいつ、どのような時に持つことができるのか、そして、その確信がどのような行動を促すのか、ということが課題になります。決して、どこまで手を出し、出さないかということではないのです。

 少し、「愛着障害」という本の中で考えてみたいと思います。