遊びと学び

よく、子どもの遊びには、遊びには目的がない。ですから達成感を子どもは感じないと言われることがあります。本当に子どもがするすべての遊びに目的がないでしょうか?先日書いた1歳児が皿を回して無心に遊んでいる姿は、確かに、皿を回してどうしたいのか、どのような目的で皿を回しているのかというようなものはない気がします。そこには、大人の考えるような「皿を回すことによって随意筋を育て、手首の動きを促すような微細運動をしているのだ」という目的など思ってもいないでしょう。ただ、おもしろいから、不思議だから、偶然にできて快感だからというような心の中からわき出るような欲求から回しているように見えます。

一方、それを見て、真似て一生懸命皿を回そうとしている子は、どうでしょうか?もちろん、先に回していた子と同じように筋肉を育てようとかという目的はないかもしれませんが、先の子以上に、皿を回したいという目的があるように思えます。というのは、上手に回るように、一生懸命見て真似ようとしているからです。その回し方は、次第に進化していきます。最初は投げつけてみて、縦に皿を置いてみて、手首をひねってみて、というように改良を重ねています。明らかに、皿を回すという目的に向かって何度も繰り返し、もし上手に回せたら、達成感を感じたでしょう。

「遊びには、目的がない」という「目的」とは何でしょうか?皿を回すことなのか、筋肉をつけることなのかです。辞書で「目的」と引いてみると、「実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。」とあります。この意味からすると、皿を回そうとすることが目的のようです。それが、「実現しようとして目指すこと」だからです。ということは、「子どもの遊びには、目的があることも多い」となるような気がします。逆に、私は、心からの欲求からの「生活」から、目的を持った「遊び」に、次第に移行していくというように考えています。そして、その時の目的は、「自らやろうという意志を持って、その実現に向かって行動することを「遊び」と言い、そこでは、生きていくうえで大切な学びをしているのです。

幼児教育の祖ともいえるドイツのフレーベルは、遊ぶということで直観的に幼児教育を行うという考えをもっていました。それは、遊びの中に学びがあり、幼児にとって、それは脳への刺激をもたらすものと考えていたからです。そもそも幼児教育にとって学ぶということと遊ぶということははっきりと分けられるものではなく、複合的に行われるものです。それは、幼児にとって楽しいことが遊びであっても、自発的に遊んでいるものであれば、そこには学習効果が多く含まれているのです。たとえば、折り紙を折ることで、直観的に図形認識をしていく脳の経路を作っていることが行われているのです。このように、幼児期の遊びとは、ほとんど学びと同義ではないかと思っています。というような言い方をするとなると、乳児期の遊びとは、ほとんど生活と同義ではないかということになります。

乳幼児にとっては、生活であろうが、学習であろうが、遊びに変えてしまう能力があるように思います。学びには楽しさが必要だからでしょう。大人でも、「遊び心」は、必要なようです。