生活と遊び

「子どもの遊ぶ権利宣言」は、1977年11月に国際児童年(1979年)の準備のためにIPAが開催したマルタ島での会議で作られました。その後、1982年のウイーンでのIPA評議会、1989年のバルセロナでのIPA評議会で改訂されました。IPAの正式名称は「International Play Association」といいます。この会が設立されたときには、「International Playground Association」」といい、「国際遊び場協会」と呼んでいました。しかし、子どもの基本的人権として<遊ぶ権利>を保護し、維持し、促進しなければならないという考えのもとに名称が変わっています。その中には、「子どもにとって遊びとは何か?」ということが、下記のように書かれてあります。

 「子どもたちは、明日の社会の担い手です。子どもたちは、どんな文化に生まれた子どもでも、いつの時代に生まれた子どもでも、いつも遊んできました。遊びは、栄養や健康や住まいや教育などが子どもの生活に欠かせないものであるのと同じように、子どもが生まれながらに持っている能力を伸ばすのに欠かせないものです。遊びでは、友達との間でそれぞれの考えや、やりたいことを出し合い、自分を表現します。遊ぶことで満ち足りた気分と何かをやったという達成感が味わえます。遊びは、本能的なものであり、強いられてするものではなく、ひとりでに湧き出てくるものです。遊びは、子どもの体や心や感情や社会性を発達させます。遊びは、子どもが生きていくために必要なさまざまな能力を身につけるために不可欠なものであって、時間を浪費することではありません。」

 子どもたちは、多分人類の誕生以来、遊んでいたでしょう。その遊びからさまざまな文化が生まれてきたことでしょう。そして、その遊びは、子どもが生まれながらにもっている能力を伸ばすのに欠かせないものでしょう。しかし、私は、乳児においてはそのような行為を「遊び」と規定したくはないのです。どう見ても、幼児における遊びとは異質な気がします。たとえば、上記の遊びの説明でも、ほとんどの部分では全く同意しますが、その中の「遊びでは、友達との間で…味わえます。」という部分は、乳児には当てはまりません。もし、上記の説明が「遊び」についてお説明であれば、どうも、乳児においての行動は、私は「遊び」ではなく、生きていく知恵を学んでいる「生活」ではないかと思います。

 「遊び」の重要性、意味、役割、動機、発展性、援助の仕方、見守る大人のスタンス、それらを考えるときに、乳児における「遊び」は別に考えないと、当てはまらないことが多い気がします。というよりも、乳児は遊んであるのではなく、生きるために必要なさまざまなことを身につけようとしている行為の気がします。たとえば、赤ちゃんが机をバンバン叩いているとします。これは、遊んでいるかのように見ようと思えば、そう見ることもできます。内からわき出てくるものを表現しようとしています。しかし、机を叩いて「遊んで」いるのでしょうか?私から見ると、「生きるための活動」である「生活」を営んでいるように思えます。乳児は、何かに触ろうとします。それは、そのれを使って遊ぼうというつもりではなく、遺伝子に組み込まれた発達であり、その発達を遂げようとする行動なのです。

 もし、赤ちゃんに、「おもちゃ」と分類されたものを渡すとします。もし、そのおもちゃが、その乳児にとってその時期の発達に合っているものであったならば、そのおもちゃで遊ぶでしょう。しかし、たまたま与えられたものがおもちゃであるために「遊び」という行為になり、日用品であれば「いたずら」となるのは、乳児にとって同じ行動を、大人の価値観で分けているのに過ぎないのではないでしょうか。それは、乳児にとっての生きるための「生活」の一部のような気がします。