何が遊び?

 先日、ある出版社から子どもの「遊び」について取材したいという依頼が来ました。遊んでいる姿も写真に撮りたいということでした。これを、その通り受け取ると「わかりました」というところでしょうが、どうも、私はへそ曲がりなようで、「何をしている姿が遊びなのだろうか。」と考えてしまいます。だからといって、その出版社にケチをつけるのではなく、自分に問いなおしてみるのです。

 乳幼児にとって重要な課題は、きちんとした発達をしていくことであり、それを、子どもたちの生活と遊びの中からしていくものであるということは、多くの人が合意していることです。フレーベルは、『人の教育』のなかで、「遊びは幼児期の最高の自由な表現であり、内なるものやむにやまれぬ要求の表現」であるとしています。倉橋惣三は、『幼稚園雑草』のなかで、「子供にとって遊びほど幸福で貴いものはない。」とし、「子供が生きているということと同じ意味であるといってもいいのです。」とまで遊びの意味を高めています。

しかし、この自由な表現である遊びとは、どのような遊びのことを指しているのでしょうか。たとえば、積み木を一生懸命に積んでいる子どもはそう言えますが、コマを回して遊んでいる子どもは、どうでしょうか。オセロを二人で遊んでいる子はどうでしょうか。絵本を読んでいる子は、遊んでいるのでしょうか。子どもにとって、遊びとは、「目的を持ってするもではなく、ただ楽しいからするもの。そんな遊びの中で、子どもたちは心身を発達させていくのです。」ということもよく言われます。この言葉も一見納得がいくものですが、子どもは、遊びには目的は持たないのでしょうか。

子どもの発達は、今をよりよく生きようとする子どもの姿があります。そんな心の内なるものからのやむにやまれぬ要求であることは、赤ちゃんを見ていると納得がいきます。いろいろなものを触ったり、叩いたり、つまんでみたりします。この行為は、発達に必要な学びを本人が意識せずに行っていると思えます。しかし、この行為は、そのあかちゃんの遊びなのでしょうか。遊んでいるのでしょうか。また、歩き始めた赤ちゃんは、うれしくてたまらないかのように、あちらこちらを歩き回ります。部屋からも出ていこうとします。これは、その子にとって遊びなのでしょうか、生活なのでしょうか。今度、遊びについて写真を撮りに来る人は、歩きまわる子の姿を写真に収めるのでしょうか。

また、モッテッソーリは、遊びには目的がないために達成感を感じることができないので、達成感を感じる目的のある行為を「仕事」と称しました。たとえば、折り紙で「鶴を折ろう!」と思って一生懸命に鶴を折っている子は、遊んでいる子なのでしょうか、仕事をしている子なのでしょうか。先日、こんな動画を職員がとって、私に見せてくれました。1歳児の子が皿を回して遊んでいました。その子は、たぶん、皿を回そうと思って回したのではなく、偶然と皿を持っていじっている間に、皿を縦にしてくるりと手を回せば皿が回ることに気がつき、その面白さに何度でも回しているのでしょう。この行為は、目的を持ってはじめられたものではなく、内なる要求によってその行為をしているように見えます。何度でも回している姿は、無心に見えます。しばらくして、その姿を見た他の子二人が、皿を持ってきて真似をして回そうとし始めました。最初は、皿を放り出します。手から離すことで回ると思ったのでしょうか。しかし、回りません。そこで、もう一度回している子をじっと見つめます。皿を縦にしていることに気がつきます。そこで、同じように縦にして放り出します。少し回るようになりましたが、くるくるは回りません。そこでまたじっと見つめます。そんなことを繰り返すうちに次第に上手になっていきます。その時には、同じように回すようにはなりませんでしたが、1歳児のこの子は、目的はなく、自由な表現なのでしょうか。

遊びとは、何なのでしょうか。