ケアギバー

OECDでは、2006年9月11日に「Early Childhood Education and Care」(ECEC)という 書籍が発行されました。その日本語訳として「乳幼児期の教育と養護」とありますが、日本語訳版として発行された本のタイトルは、「教育とケア」とあり、「Care」を養護は訳さず、そのまま「ケア」としています。日本では、保育園の保育内容を「養護と教育」と言い、この「養護」として、「生命の保持」と「情緒の安定」が挙げられていますが、この「養護」という言葉について吟味する必要がありそうです。それは、海外でも「Care」という言葉の意味について吟味されているようです。

たまたま、大阪に行っていたときに、時間が2時間余り空きました。どこかを見学するには雨が降っており、どうしようかと思っていたときに、偶然目の前にちょうど空いた時間内に放映される映画を見つけました。何か縁があると思ってそれを見ることにしました。それは、「幸せの教室」という映画です。大卒ではないという理由で、長年勤めていたスーパーをリストラされてしまったラリー・クラウン(トム・ハンクス)は、再就職のアテもなく落ち込んでいたが、心機一転、再就職のためのスキルを身につけようと、短期大学に入学します。そこで出会ったのは、スピーチの授業を担当する教師メルセデス・テイノー(ジュリア・ロバーツ)でした。彼女は、授業の最初にこんな言葉を言います。「スピーチの中で特別に大切なことは“ケア”である。」と言いながら、黒板に大きな字で「Care」と書きます。その時の字幕に「ケア」の訳として「気配り」という文字が映し出されました。

その時、私は初めて「ケア」を「気配り」と訳したのを知りました。すると、いろいろなことに納得がいきました。私の「HOIKU」という本の英訳をインドのネルー大学院のモトワニさんにお願いした時に、「保育士」という言葉を「ケアギバー(Caregiver)」と訳した時に少し抵抗しました。それは、「世話をする人」というような意味を感じたからでした。しかし、モトワニさんは、あくまでもケアギバーでいいと言い張りました。その時に、もう一度「ケア」という意味を考えたほうがいいと思ったのです。それが、映画の中の訳からすると、保育士は「子どもに対して気配りする人」という意味になります。そうすると納得がいきます。

北米を代表する教育哲学者であるネル・ノディングズは、教育は「ケアリング」の一つの形態であるということを主張しています。教育とケアリングが並び立つのではなく、また教育の一分野としてケアリングあるのでもなく、ケアリングのひとつの形として教育を考えていくのです。この時のケアリングの日本語訳として「心くばり」としています。ノディングズの考えでは、ケアリングとしての教育には、「自己へのケア」「身近な人へのケア」「身近でない人へのケア」「動物・植物・地球へのケア」「道具へのケア」「知識へのケア」がふくまれます。学校教育は、これらのケアの諸領域をもとに再編されるべきだと、彼女は言っています。すると、まさに教師は「ケアギバー」となるのです。

立命館大学文学部・応用人間科学研究科教授である中川吉晴氏は、「ホリスティック」を特徴づけるものとして、「ケアリング(心くばり)」であるとし、「ケアリングとは、ものごとに愛情をこめて、ていねいにかかわっていく営みであり、人が育っていくとき、また癒されるときに必要な養分です。」と言っています。また、「このケアリングには、日本のなかに伝統的あった心くばりの文化とも共通するものがあり、興味深いところです。このように臨床教育学の実践をホリスティックな教育としてとらえ、それを“つながり” “変容” “ケアリング”という側面から見ていくことができます。」と言っています。

臨床教育とはケアリングの実践であると中川さんが言っていると沿うように、「臨床保育とは、ケアリングの実践」であり、「保育者はケアギバー」でいいのかもしれません。