臨床保育学2

私は、ずいぶんと前から「関係性」について興味があります。グッドデザイン賞を以前に受賞した時の2次審査において、最初に審査官からこう言われました。「1次審査では保育という仕事とデザインがどう関係するかよくわからなかったので、とりあえず1次は通過させて、2次のプレゼンで話を聞いてみようと思った」というのです。そこで、私は、「デザインというものは、かつて付加価値でした。たとえば、コップは飲む容器という機能があり、それにいいデザインが加わると“このコップは、いいコップだね”というように飲む機能に付加価値としてデザインの良さが評価されてきた気がします。しかし、コップは、そこに入っている飲み物と飲み手の関係をどう演出するか、どうデザインするかという問題だという気がします。同じように、教育、保育は、「教える」という「するもの」と、「教わる」という「受け手」というとらえ方ではなく、お互いの関係性をどうつくっていくか、その関係をどうデザインしていくかという問題になっていくべきだと思います。まさに、保育とは、関係性をデザインする仕事だと思って応募しました。」

その後、ずいぶんと保育に関してキッズデザインのような賞もできたのですが、私はその受賞した製品を見たときに、いわゆる“美術的にデザインがいい“というものが多く、そこに、使い手との関係をどう演出しているのかという観点が薄い気がします。

病室のベッドは、ケアする側とケアされる側が「関係」を構築する場所であるということが「臨床」という「床に臨む」というベッドサイドのことです。その関係をどうデザインするのかということが臨床学であるのです。鷲田清一氏は、『「聴く」ことの力』という本は、「哲学を“臨床”という社会のベッドサイドに置き、そのことで哲学の時代・社会における“試み”としての可能性を探り、とりわけ“聴く”こととしての臨床哲学の可能性を追求した、哲学を社会につなげる新しい試み。」と紹介されています。その中で「ケアとは、ケアする人がその職務(=役割)を離れてひとりの人間としてケアされる人の前に立つことなしには遂行されないという矛盾に充ちた営み」であると述べています。ですから、臨床を単純に「実践」という言葉と同様に使う事は少し違うようです。

「臨床保育学」とは、実践ノウハウを示すことではなく、保育者と子どもが、お互いにどのような距離感をもって、両者の「あいだ」をどのように共有して、どのように関係を創り合うのか、そのプロセスが問われなければならないのです。それを私は「見守る」という言葉で象徴しているのです。その言葉だけをとって、「子どもは見ているだけではだめだ」という人がいますが、関係性を述べているのであり、保育者の立ち位置を確定するものではないのです。

臨床教育学が個別性を重視すると同様に「臨床保育学」においても、関係性を持つ一人ひとりが多様性を兼ね備えることが必要になります。子どもたちの行動、表情は、多くの意味を持っています。それは、個々の違いだけでなく、一人の人間の中でも多面性を持ち、さまざまなことを訴えかけています。その中から、「変わってはいけないもの」「不易」を見出していかなければならないのです。そこに、現場の必要性があるのです。鷲田氏が言っている「聴く」ことの力が必要になってくるのです。さらに、鷲田氏は、「聴く、届く、遇う、迎え入れる、触わる、享ける、応えるなど」を社会につなげることの必要性を訴えているのは、たぶんそういうことなのでしょう。

「関係性のデザイン」こそが、保育かもしれません。