夏休みの思い出7

暑い夏、昔も今も子どもの楽しみは水遊びです。私の子どもの頃は、もちろんクーラーなどはありませんから、涼しくするためには、水遊びが最適でした。その中で、小学生になると主流を占めるのが、学校プールです。休みに入る前に、夏休み中のプール予定表が配られ、自分の学年のプールの日を確認します。そして、その表には、指導する先生の名前と、検定日が書かれてあります。夏休みの間に、プールがない日は、お盆あたりの数日間で、あとは夏休み中、プールが開かれていました。

私が教員のころは、プール当番は基本的には教員が均等に受け持つのですが、年配の女性の先生はあまりやりたくないらしく、私が代わってやり、結果的に、ほぼ毎日プール当番をしました。こんなことをいうと不謹慎に聞こえるかもしれませんが、私は、そのころ若かったので、どうせお金を払って市民プールなどに行くのであれば、学校のプールに毎日入れるとなるとありがたかったですし、しかも、夏休み中は給料は丸々もらえるのに、プール当番の日は日当が別にもらえますので、夏休み中やるとかなりのアルバイト代をもらえ、ありがたかった思い出があります。しかし、最近は、社協などへの委託で、教員は一人だけとか、プール監視をPTAの役員、NPO法人等がボランティアで行ったり、指定管理者となった業者、NPO法人等が、監視員を採用して監視を行ったりとさまざまで、夏の間先生と会う楽しみや先生と水遊びをする楽しみがなくなった気がします。。

このようなプールは、昔はありませんでした。多くの子どもたちは、水遊びとして泳ぐのは近くの川や池、または海でした。学校のような、訓練の一環として泳ぎを教えるためのプールは、以前ブログでも書いた、会津藩校の日新館が日本最古の最古のプールで、水練場あるいは水練水馬池として残っています。池の周囲は153mもありかなりの大きさで、この藩校以外で水練場があったのは、長州藩の藩校・明倫館だけと言われています。この
水練場を、日本ではプールと言いますが、このpoolは単に「水溜り」を指しています。関西では、駐車場のことをパーキングと言わずに、モータープールということが多いようですが、水泳用のプールのことはswimming poolと呼ぶのが正式だそうです。

 私が小学生のころに、夏休み中、1度は海に連れて行ってもらいました。その日のことが絵日記に書かれてあります。7月29日の日です。波が怖くて泳げなかったのを、父親に深い所に連れて行ってもらって泳ぎを教わったと書かれてあります。私が子どもの頃は、泳ぎは速く泳ぐというよりも、長く泳ぐことが重視されました。父親が戦争体験で得たことのようで、沖につれて行かれ、そこに長く浮いているのを教わったのです。アメリカで、ベビースイミングがはやったのは、アメリカの各家庭にあったプールに赤ちゃんが落ちたとき、助けが行くまで浮かんでいるためだと言われています。その地域、時代によってなにが大切か変わってきています。

 もうひとつ、川で水遊びをする目的にひとつは、そこで魚釣りや魚を捕まえることにありました。私が育った下町には身の回りには魚はいませんでしたが、工場がある八王子には、家の前の側溝、というより小川にはドジョウがたくさんいました。家からざるを持って出かけ、ドジョウをたくさん捕まえました。そのことが日記に書かれてあります。また、八王子の家の庭には、大きな池がありました。その池に入って、魚とりをすることが許されました。魚といっても、鯉ですが、私たちきょうだいが入るために、水を抜いて、浅くしてくれました。

 この時代、子どもの遊びには大人たちはとても寛容でした。

夏休みの思い出6

 ものが豊富でない時には、子どもの世界でもものが豊富ではありません。ですから、ものを大切にせざるをえませんでした。鉛筆にしてもそう簡単には買えませんので、最後のほんの小さくなるまで使います。そのころは、鉛筆削りは使っていませんでしたので、短くなっても削ることができるのです。しかし、持つのが大変なので、短い鉛筆を長くするホルダーを使います。これは、今でも売っているようですが、あまり使っているのを見ることはありません。または、短い鉛筆を二本尻同士をつなげて使います。また、昔の鉛筆の芯は折れやすいために、キャップをはめていました。そのキャップを鉛筆の後ろに差して長くして使いました。

 このように鉛筆1本でも大切に使いました。今は、鉛筆は使わずに、何種類ものシャープペンが並んでいたり、床に鉛筆が落ちていても誰も拾わなかったりすると、時代の変わってきたのを感じます。そんな、ものが豊富でない時代でしたから、当然、生活必需品ではない子どものおもちゃは、特別な日である誕生日とか、クリスマスとか以外には買ってもらえません。しかし、子どもは「遊びの天才」です。どんなものでもおもちゃにします。それは、家で使った廃品であったり、家に来る職人が使った残りの物であったりします。

 私の家は、八王子の工場で紐とかゴム紐を糸からつくって、東京の下町の問屋街にある店で小売店に卸す会社でした。ですから、仕事上、いらなくなった糸くずや段ボールがおもちゃになりました。小学校1年生の時に夏休み絵日記には、「8月7日 おとうとが『はこにのせてよ』といったから、ぼくはあせをたらしておしてやりました。そしたらとてもよろこびました。」

 私は、当時からすると少しすくない方ですが、きょうだいは3人でした。すぐ下に妹、その下におとうとがいました。このときに、私の弟は3歳でした。私の住んでいた下町は、基本的には専業主婦はいませんでした。昼間は、母親が子どもとずっといるというような家庭は、どこにもありません。私の家も、商売をしていたために、昼間は、親は遊び相手はしてくれません。しかし、きょうだいが小さかったために、その子守りをしながら遊ばなければなりません。ですから、夏休みの絵日記には、友達と遊んだというよりは、きょうだいで遊んでいます。こんな幼少時代の生活を送ってきたためか、「伝統的な子育て」ということが、「子どもが小さいうちは、母親は働かず、家にいて、子どもと遊ぶように」ということに違和感を感じるのです。また、広い園庭がないと、子どもはかわいそうという言葉にも違和感を感じます。夏の間、私の遊び場は、家の前の道路であったり、家の中であったりしたことが多かったのです。

 8月12日の絵日記には、「ゆうがた、いもうととおとうとと、さんにんでおうちのまえであそびました。いとくずでおばけをつくりました。」どうも、家の仕事から出た糸くずがこの日はおもちゃだったようです。絵から見ると、家の前は道路ですので、道路にござか何かを敷いてそこに3人で座って遊んでいたようです。下町は、庭のある家がないために、道路が遊び場でした。道行く人たちは、それを見ていたでしょうし、隣近所もみんな見ていたでしょう。そんな地域の人たちの見守りの中で子どもたちは遊び、生活をしていたのです。

 東京下町での子どもの暮らしは、日本の中では特殊かもしれません。しかし、それは子どもの遊びの種類であったり、遊び場であったり、遊ぶ道具であり、遊びの本質は変わらないはずです。どの場所においても、子どもは遊びの天才であり、遊びは子どもにとっての大きな学びであることには変わりはないのです。

夏休みの思い出5

 最近の子どもは生活体験が少ないと言われて久しいです。それは、生活リズムが違ってきたということと、生活が便利になってきたことと、自然が減ってきたことなどいろいろな環境の変化がありますが、最近の子どもは大人のやることを見る機会が減ってきたということがあると思います。この大人のやることを見る機会が減ってきたということは、子どもたちの遊びにも変化をもたらしています。昔から子どもの遊びは、大人のまねをするところから出ていることが多いからです。それは、大人の仕事を手伝うことだけでなく、じっと見るということも必要です。何度もブログで取り上げますが、皿を回している子をじっと見て、真似てやろうとする子と同様に、大人のやっていることをじっと見て、それが、おもしろそう、不思議だ、すごいことだなどを感じ、真似てやってみようとするのが子どもです。
 そういう意味では、私たち大人は、子どもが憧れるようなことを子どもの前でやって見せることが重要です。私が子どものころに憧れた大人の姿は、職人と呼ばれた人たちの職人芸でした。この職人芸は、今ではよくデパートなどのイベントやコーナーでやっていることが多いのですが、かつては町の中の各店の中で行っていました。特に、私が育った下町は多かった気がします。いわゆる「おかず横丁」を歩くだけで、魚や鰻をさばく手つき、味噌を樽からしゃもじですくいとってから、そのしゃもじを元の樽に投げ入れて戻す技、惣菜をぴったりと要望した重さによそる技、どれも、子どもたちは感心して眺めていました。
 そのほかにも、職人は自宅に来ていろいろなことをしました。今では「プレハブ」という「あらかじめ部材を工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法のこと」に代表するように、工場や作業場で加工をして、現場では組み立てるだけというような職人が多くなりました。たとえば、畳屋さんは、表をとりかえるのを頼むと、畳を取りに来て自分の作業所に持って帰り、そこで作業をし、出来上がった畳を持ってきて敷いていくだけです。それは、仕事をする場所がないことと、作業を機械で行うためかもしれません。私の子どもの頃は、自宅の前で畳の表を替える作業をしました。前といっても、家の前の通りです。当時、車はほとんど通りませんでしたが、今考えると、よく邪魔でなかったかと不思議に思います。ですから、畳屋さんは、畳の表裏を替えるときには、肩に木枠の台と畳のへりを担ぎ、糸と大きな針を持ってきたものでした。
 自宅の前で作業をする姿は、子どもたちからすると、非常に興味をそそります。目の前でみるみる出来上がっていくからで、何度も邪魔だと怒られながらも周りをうろちょろしていました。子どもにとって、もうひとつ、目の前でやることの面白さがあります。それは、いろいろな廃材が出ることです。取り替えた畳のへり、畳表を切り取った端っこなど子どもの格好のおもちゃになります。
私の小学校1年生の絵日記には、7月27日「だいくさんが おうちをなおしにきています。かんなでいたをけずりました。そのくずであそびました。」とあります。家の前で、かんながけをしています。大工仕事は、子どもにとって非常に興味のあるものです。かんながけ、墨つけ、のこぎりでひく、のみを使う、木を組み合わせる、釘を打つ、次第に出来上がっていきます。
また、カンナくずは、子どもたちにとって格好の遊び道具です。カンナくずを体にかけたり、巻いたりして遊ぶと、木の香りがぷーんとしてきます。先日、園の夕涼み会では、今年のテーマが「森で遊ぼう!」だったために、あるコーナーでは、ビニールプール二つにスギとヒノキのカンナくずを入れて、その感触、臭いを感じてもらいました。私の子どものころは、これは日常でした。

夏休みの思い出4

 私の子どもの頃は、テレビゲームはもちろんありませんし、テレビではあまり子ども番組はやっていませんし、すごろくなどのゲームは正月でしかしませんし、おもちゃはそれほどありませんし、なにをして遊んでいたのでしょう。しかし、いつの時代でも子どもは遊びの天才です。身の回りの物を遊び道具にしてしまいますし、身の回りの物を使っておもちゃをつくって遊んでいました。また、家の手伝いをよくしましたが、それも子どもにとっては遊びにしてしまったのかもしれません。

私が小学生のころは、夏休みの宿題に「手伝い」がありました。夏休みの入る前に、夏休みの目標を立てます。そこには、必ず、子どもが引き受ける手伝いがありました。当然、そのころは、子どもにとっては楽しいことではなく、早く終わらせて遊びに行きたかったのですが、やらないと遊びに行かせてもらいません。ですから、手伝いの遊びに変えてしまったのです。大人も、それは承知していて、それほど怒らず、見守っていてくれました。

そのころの子どもの仕事は、買い物、玄関の掃除、金魚とかハトなどの動物へのえさやり、配膳の手伝いなどでした。子どもクッキングを計画する時、できるだけその材料の買い物からするようにしています。特に、買い物は子どもの役目でした。「のびちゃん、おつかいに行ってきてちょうだい!」とアニメ「ドラえもん」の中で、お母さんはすぐ買い物かごを、のび太にわたします。同じように、ジャイアンの家庭でも、サザエさんの家庭でもかつおくんにお使いを頼みます。買うものを覚えていくこと、お店でその素材のよしあしを見分けること、買うものを注文すること、時には値段の交渉をすること、お金のやりとりをすること、などその中には様々なことが含まれていました。

玄関の掃除は、子どもにとって、ちょうどいい広さです。箒で掃いた後、水を流してきれいにします。初めのうちは、あまり上手に箒が使えます。どうしても押してしまおうとするのです。それが、次第に上手になっていきます。また、水をまくのも、ホースは使いません。バケツに水を汲んで来てそれをまくのです。ずいぶんと力仕事です。大人の仕事の手伝いは、大人の仕事のごっこ遊びの要素もあります。手伝う内容も年齢によって変わっていくことで、次第に大人になる準備をしていることになります。

7月23日の絵日記には、「おてつだいに おそうじをしました。いもうとのひきだしも かたつけてやりました。ついでに そともはきました。」とあります。現在、園でも食事の後は、年長さんが床をぞうきん掛けしてくれます。また、 製作などした後の机の周りに散らばった紙のゴミを、掃除してくれます。そうじ、ぞうきんがけはかなり体を使います。ということは、体を調整するのに役にたちます。子どもは、小さいうちは、筋力は育ちません。

乳幼児の運動発達は,不随意運動から随意運動へ,そして,頭の方から下肢の方へ進み,からだの中枢部から末梢部へ広がり,全身性の運動から細かい運動へと巧ち性が増していくといわれています。また、これらの発達は,脳・神経系の発育・発達の他,筋肉・骨格系や平衡器官の発育・発達によって促されます。これらの発達を促すのは、子どもの遊びであり、手伝いであり、決して筋肉トレーニングや、過度の運動トレーニングではないのです。

子どもたちの運動能力を増すためには、なに式をやるよりも、十分に遊びこみ、手伝いをしてもらうことの方が、乳幼児期では大切なことです。昔は、自然と行われていたようです。

夏休みの思い出3

 今、都内で迷惑な鳥といえば、カラスとハトです。私が子どもの頃は、それほど都会ではカラスは見かけませんでした。圧倒的にスズメの姿が多かった気がします。そして、ツバメです。ずいぶんと、都会のおける生態系は変わってきています。

 カラスは、なんとなく不気味です。雑食性ということもあり、獰猛なイメージがあります。職員と「ブラヘイジ」で明治神宮に行ったときに、森の中を散歩していると、夕方ねぐらに帰ろうとカラスが多く飛んできました。私の子どもの頃は、そんな姿は「カラスと一緒に帰りましょ」と歌ったように、夕方のほのぼのとした情景でしたが、今は、その鳴き声は気味悪く聞こえます。

 同様に、ハトのイメージも変わりました。ハトといえば「平和の象徴」と言われていたのが、今はベランダでの鳩の糞公害が都会では問題になっています。神社や公園に行くと、半ば野生化したハトが、空を覆い尽くしています。しかし、私の子どもの頃は、基本的に空を飛んでいるハトは各家で飼育されていたものです。私の父は、動物が好きでしたから、いろいろな動物を飼っていました。しかし、庭もない下町の家で飼うことができる動物といえば、限界があります。その中で、各家庭で割と多く飼っていたのがハトでした。私の家でも、屋根の上に大きなハト小屋がありました。

 私の小学1年生の時の夏休み絵日記の7月25日には、ハトに餌をあげている様子が書かれています。そこには、4羽だったのが6羽になったと書かれてありますが、そして、まだ卵を温めていると書かれています。このころは、ハトを増やすことは目的だったのです。なぜかというと、それらのハトは、「伝書鳩」と言われていたある役割も持ったハトだったからです。私の家では、八王子に工場があったので、そこからの手紙をハトが運んできたのです。ですから、ハトの足には紙を入れることができる筒がついていました。しかし、全く当てにしていたわけでもなく、ひとつの趣味でした。

伝書鳩とは、もともとは、遠隔地から通信に利用するために訓練された鳩のことです。それは、鳩は帰巣本能が強く、自分の巣に戻ろうとします。ですから、家で飼っているときでも、ハトを空に放ち、しばらく飛んだら、餌を食べに巣に戻ってきます。そのために、ハト小屋には、外からは自由に中に入れるような入口がついていました。このハトには、今でもよく見られるドバトの改良種が使われ、かつては軍事用や通信用に用いられていました。しかし、私の子どもの頃は、伝書鳩のレースがあり、父親は何度か参加していたようです。

ハトが平和の象徴になったのは、もともと旧約聖書の中で、ノアの箱舟から放たれた鳩がオリーブをくわえて戻り、洪水の終わりを告げたことからで、その当時からハトが通信手段であったことがうかがわれます。記述には、紀元前約5000年のシュメールで使用された可能性があるようですし、紀元前約3000年には、エジプトで漁船の成果を伝えるのに利用されていたようです。また、新聞社では、スクープを届けるのに使ったようです。第二次世界大戦でイギリス軍が50万羽の伝書鳩を配置したために、ドイツが対抗して、鷹による伝書鳩攻撃をしたと言われています。

日本でも、奈良時代から使われていとようで、明治時代には、報道用・趣味として利用されていました。そして、1969年に第一次伝書鳩ブーム到来します。私の家では、やはりそれよりも早い時期に父親が凝ったようです。現在でも鳩レースが行われているようですが、ずいぶんとデジタル化されつつあるようです。

ハトは、私の子どものころには、多くの大人たちの遊び道具だったようです。

夏休みの思い出2

 最近、スマホが普及したということもあって、電車の中でゲームをしている人をよく見かけます。PS2・ゲームキューブ・XBOXなどの据え置き型やDS・PSPなどの携帯型などいろいろな種類が出ていて、家でもゲームをやっている人が子どもだけでなく、大人も多いようです。総務省が2009年6月に発表した「平成20年通信利用動向調査報告書(世帯編)」によると、携帯電話機やパソコンの世帯普及率は頭打ちであるのに対して、携帯メディア・プレーヤやインターネット対応ゲーム機、IP電話は徐々に普及が進み2008年末で2割を超えたそうです。その内容として、携帯電話機の2008年末世帯普及率は95.6%、パソコンは同85.9%と、2007年末に比べて世帯普及率上昇幅は1ポイント未満だったのに対して、2008年末までの1年間に最も普及率が上昇したのが、ワンセグ対応携帯電話機で、対前年同期比15.7ポイント増の42.2%で、携帯電話機所有世帯では44.1%と半数に迫ろうとしているようです。

 このゲーム人口は、ワンセグ対応携帯電話機の普及のスピードほどではないにしろ、パソコン以外のインターネット対応機器も徐々に普及が進みつつあるようです。インターネット対応家庭用ゲーム機の世帯普及率は2007年末より5.6ポイント増の20.8%、インターネット対応テレビは同3.5ポイント増の15.2%だったそうで、IP電話の世帯利用率も同2.2ポイント増の21.2%に上昇したようです。

 私は、ゲームは全くしないので、その機種や用語はちんぷんかんですが、私の園の男性職員は、随分と家でやっているようです。私はゲームはしないのですが、家ではテレビはよく見ます。特に何を見るということはありませんが、今週末から大変なのは、オリンピックが始まるために、テレビをより見るようになるかもしれません。本当は、省電力のためには、冷房を消すよりは、テレビを消したほうがいいと言われています。しかし、昨年の計画停電の時ではありませんが、夜テレビがないと、どうやって時間を過ごしたらいいかわからないほど、テレビは生活に密着しています。

 そんなテレビが始まったのは、1953年(昭和28年)2月1日午後2時、NHKテレビの本放送が最初でした。開局の第1声は「JOAK-TV こちらはNHK東京テレビジョンであります」という話は有名ですね。以前、ブログに取り上げましたが、開局式の後、尾上松緑らによる舞台劇『道行初音旅』がオンエアされ、これが日本初のテレビ番組とされています。しかし、まだまだ普及はせず、当時の受信契約数は866だったそうです。その後、8月28日には、日本初の民放テレビ局・日本テレビも開局します。そして、35年から,カラー放送も開始されました。

 テレビジョン受信機は,白黒テレビが30年代において急速に家庭に普及し,39年には世帯普及率は90%に達します。また,カラーテレビについては,放送開始当初の30年代には伸び悩んだものの,40年代に入り急速に普及し,50年における世帯普及率は90%となります。私の小学校1年(昭和30年)の夏休みの7月24日の絵日記には、テレビを買ってもらったということが書かれてあります。そして、その絵日記のテレビ画面には、たぶんプロレスをしていると思われる画像が描かれています。テレビを買ってもらったのは、随分と早い時期だと思いますが、それでも、それまでは何をして過ごしていたのだろうかと不思議に思います。ラジオを聞いていたり、ほかの何かをしていたのでしょう。よほど創造性がなければ子どもだけで毎晩過ごすことはできなかったように思います。

 夏休みのどんなことをして過ごしたか、ほかの日をみると、よくわかりますが、随分といろいろなことをしています。

夏休みの思い出1

 夏休みは、子どもにとってはとても楽しみな日々です。それは、どこかに連れて行ってもらえるからで、多くの日々は、子どもにとっては退屈です。今の子たちは、夏の間、どのように過ごしているのでしょうか?たまたま、私が小学校1年生にときの夏休み「絵日記」が出てきたので、昔は毎日どのように過ごしていたのか、また、そのころの子どもの遊びとはどのようなものなのか、そんなことをそれを見て、懐かしくも思い、また、今の子と比較して随分と変わってきたところがあるということを考えるきっかけを与えてくれました。そこで、その日々を少し検証してみたいと思います。

 夏休みは、私の子どものころから7月21日から8月31日まででした。しかし、それは地域によって違います。当然、夏休みは暑いさなか、冷房もなく、勉強がはかどらないということが大きな理由の一つでしたので、地域のよって、その期間に差が出るのは当然でしょう。また、近くの小学校などは、校舎の冷房設置も進んできたことや、学校週5日制施行により授業時間が減ったことによる学力維持対策で、夏休みを1週間早く終わりにしています。

先日、地下鉄に乗ったら、「隅田川花火大会」の案内がありました。今年は、7月28日(土)に行われます。この花火大会は、1733年の江戸中期に始まった「両国川開き花火大会」から続いています。この前の年、大飢餓で多くの餓死者が出、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。そこで8代将軍吉宗は、翌年、享保18年旧暦の5月28日に、犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が許可をもらい、花火を上げたことが由来とされています。
その後、「両国の川開き」ということで、打ち上げ場所を両国橋上流で、昭和36年まで行われていたのですが、翌年、交通事情の悪化に伴い開催されなくなりました。それが、昭和53年「隅田川花火大会」と名を改め、ビルで囲まれた隅田川で復活しました。また、打上場所もさらに上流へ移動し、打上会場も2ヶ所となり、今に至っています。

私が、小学校1年生の時の絵日記には、夏休みの初日の7月21日にこの花火のことが書かれてあります。私が、当時住んでいた場所からは、家の屋根にある物干し台からこの花火をよく見ることができました。花火の日には、朝から枝豆などを茹で、物干し台にござを敷いて見学しに来る客を待ちます。私たち子どもたちは、朝から鳴っている空砲にワクワクし、うろうろしては大人たちに怒られます。そして、明るいうちから何度も物干し台に上がります。

私の家は、八王子に工場があり、そこの従業員たちが花火を見に集まります。そして、明るいうちから枝豆をつまみにビールを飲み始めます。次第に空が薄暗くなるにつれ、それぞれの家々でも、屋根の上に人が登り始めます。そのうちに、最初の花火が打ち上げられます。それを合図に、家々から大きな声の「たまや?!」「かぎや?!」という掛け声が聞こえてきます。「鍵屋」は、打ち上げ式の花火を開発した花火屋で、6代目の弥兵衛という人が1733年に「隅田川で開催された花火大会」で花火を打ち上げ人気者になります。そこからのれん分けした「清七」という天才花火師が、開いたのが、「玉屋」でした。歌舞伎と同じように屋号を呼ぶのです。

子どもの頃は、意味もわかりませんでしたが、大人のまねをして大声で叫んだものです。今は、花火に大勢の人は集まるのですが、文化としての花火大会は昔のことになってしまったようです。

夏の楽しみ

 小学校が夏休みに入りました。夏休みというと、今の子は何を思い起こすでしょうか。田舎のおじいさん、おばあさんに会いに行く、キャンプに行く、今ではディズニーランドに行くかもしれません。私の子どもの頃は、そうあちらこちらに行くことはありませんでした。それは、大人は夏休みがないからで、あってもお盆のあたりの数日間でした。そんな夏休みの毎日での過ごし方の中心は、「朝のラジオ体操」でした。私の子どもの頃は神社の境内でおこなっていました。今は、ラジオ体操はしているのでしょうか。先日、テレビのドラマの中で、夏休みのラジオ体操の場面を放映していました。そこでは昔ながらの風景でした。また、昨日、歩いていたらラジオ体操の案内版を見つけ、今でもやっているところがあるのだと思ってホッとしました。

 朝のラジオ体操が終わると、急いで並んで役員さんからカードにスタンプを押してもらいます。そのために、カードが配られたら、まずそれに穴をあけてひもを通します。そして、そのカードを首からぶら下げて参加し、体操をしている最中にそれが邪魔だった記憶があります。それを毎日欠かさず押すのが目標でした。それは、夏休みの最後の日に、全部ハンコが押されていると何か商品がもらえたからです。ですから、まず、朝は、必ず6時半までに会場に駆けつけます。始まる前に参加者で歌う「ラジオ体操の歌」が流れてくると、急ぎ足になります。「新しい朝が来た 希望の朝だ …」という歌詞は、今でもスラスラ出てきます。藤浦洸作詞・藤山一郎作曲で、私が小学校1年生の時につくられています。

 このときに困るのが、具合の悪くて、行けない時です。その時には、きょうだいに頼んで、スタンプを押してきてもらいます。それは、まだいいのですが、長期に出かける時です。子どもの頃は、真面目というか、それしか楽しみはないというか、ラジオ体操のためにどこにも行きたくないと言ったり、出かけてもすぐに帰ってくるようにと頼んだ気がします。それでも出かけるときには、仕方なく、どこへも行かない人に頼むか、あきらめるしかありませんでした。

 そんな夏休みのラジオ体操にも、私は、いつのころからか参加しなくなりました。それが、また、参加し始めたのは、私が教員時代で、その勤務先の地域で、保護者のお父さんを中心に子ども会をつくり、その夏の行事でラジオ体操を行おうと企画した時でした。場所は、その地域の中にある公園でしたが、最初、隣接したお宅から朝早くからラジオの音がうるさいと苦情を言われ、ラジオの周りを子どもたちが囲んで、小さい音で体操をしました。私は、その場所までは自宅から遠かったのですが、まだ小さかった我が子を連れて、朝、車で参加したものです。

 最初、細々としていたラジオ体操でしたが、次第に参加者が多くなり、あるとき、NHKから、ラジオ収録をしたいという話があり、市内の大きな公園で広く呼び掛けて収録した思い出があります。よく、ラジオで放送している「みなさん!おはようございます。今日は、どこどこに伺っています。」という始まりで紹介するものです。それもあり、参加者は、お年寄りも増えてき、場所も広いところで行うようにいきました。ある年、夏休みが終わるころ、お年寄りたちからこんな提案がありました。「ラジオ体操を夏休みだけでなく、1年中やりたい」ということで、1年中、そのお年寄りたちを中心にラジオ体操をすることになりました。ずいぶんと、前の話になりますが、今ではどうしているのでしょうか?

 私の子どもが小学生になって参加した、地域の小学校の校庭で行われていたラジオ体操は、夏休みの最初の1週間と、最後の1週間だけしか行いませんでした。カードを持って行ってスタンプを集める楽しさも、朝、みんなで集まる楽しさも、もっと面白いことが多くなった子どもの世界からは消えつつあるかもしれません。

遊びの意味

 いろいろな本には、子どもの遊びを分類して整理してあるものが多く見られます。たとえば、「運動遊び」とか「感覚遊び」などです。しかし、私は、いろいろな提言の中で、「日本冒険遊び場づくり協会」の宣言が好きです。そこには、「遊び」についての重要な基本が書かれているからです。

「遊びは、子どもにとって生きることそのものです。子どもは、自然環境の中で遊び、たっぷりと五感を使ってさまざまなことに興味を持ち、いろいろな人とかかわりをつくり、自分のやり方や自分のペースで、創意工夫をし、挑戦し、失敗し、それをのりこえて、成長していきます。遊びは、そのすべてを子どもに届けることができるのです。」と書かれてあります。

 もちろん、教育も生まれながらに受ける権利があるように、遊びも、生まれながら保障される権利があるのですが、あえて、上記の宣言を見てもわかるように、幼児以上を対象にして考えています。まず、本来の遊びとは、原則、自然環境の中で行われる五感を使って行うものであるべきです。それは、自然環境の中だけで行われることを言っているのではなく、自然環境には五感を刺激するものが豊富にあるからで、もし、人工的な空間であったとしたら、それを意識した環境づくりが必要になります。子どもにとって必要な環境とは、小学校の校庭のように運動をしたり、走り回ったりだけをするような環境ではないということです。その五感を使って、環境に興味、関心、好奇心を持って働きかけて、遊びを工夫していきます。その遊びは、自然との関わりだけでなく、いろいろな人との関わりをつくっていくことになり、その人たちの中で、自分のやり方、自分のペース、自分らしさを発揮することが必要です。仲間作りで大切なことは、それぞれの違いを認め合うことです。ですから、集団の必要性が出るのです。特に「遊び」には、複数の子どもたちの知恵を出し合うことが次に重要な「創意工夫」に幅が出てくるのです。

 遊びに創意工夫が必要なのは、違っている仲間で一緒に遊ぶからで、その違っているという重要な要素として、異年齢児集団であることがかつて地域で自然に行われていたのです。野球をやるのにも、人数が少ないから三角ベースにするとか、小さい子は手打ちでいいとか、ルールを改正しました。その工夫がかつての遊びにはあったのです。そして、最後の大切なことは、「挑戦」「失敗」です。トライ&エラーは、子どもの特権でもあるのです。最近の子どもたちは、どうも失敗を恐れます。親も、先回りをして失敗しないようにします。しかし、遊びでの失敗は、将来での仕事の失敗を乗り切る力を養っているのです。

 この冒険広場での遊びの重要な観点は、園での園庭の作り方の参考になります。また、散歩など屋外保育の参考になります。園は、特に幼稚園は、どうしても小学校をモデルにしています。しかし、遊びも教育的意味を大きいのです。「子どもの遊ぶ権利宣言」には、「遊び」が教育の一環になるための提言をしています。「公教育の中に、遊びを通して自主性、創造性、社会性などを身につけるような機会を設けること」「子どもたちのために仕事をしている、あるいは、子どもたちを相手に仕事をしているすべてのプレイワーカーやボランティアが受ける研修のプログラムの中に、遊びの重要性や遊びの機会の作り方を学べる科目を設けること」「子どもたちの学習効果を高めるために、小学校に遊びの施設を一層増やすこと」「地域の遊びのプログラム等に、学校や公共の施設を開放したりして、日常の暮らしや仕事や勉強との間の仕切を低くすること」「働かざるを得ない子どもたちにも、学校以外のところで遊んだり学んだりする機会をもてるよう保障すること」

 これは、世界に向けての提案ですが、そろそろ日本でも、小学校教育を考え直す時代ですね。

遊び

こうして遊びをざっと眺めてみると、私たちが「遊び」という言葉を使うときに、子どもが食べるとか、寝るとか、なにか具体的な行為をするとき以外の行動を、「遊び」と言って片づけることがあるようです。もう少し、整理が必要に思います。また、おもちゃも同じようなことが言えます。そのいわれのように、子どもが手にしたもので、道具以外のものをすべて「おもちゃ」といっても理論的には説明が通ってしまいます。しかし、私の子の「遊び」について考え始めたきっかけとして、さまざまな「遊び」「おもちゃ」について書かれてある考察は、必ずしも、子どもの「遊び」に当てはまるのか、特に、乳児における「遊び」と言われる行動が、「遊び」に分類されるものなのか、という疑問から始まったのです。

1980年に発行され、1991年には第4刷が発行されている本に『おもちゃの文化史』(和久洋三 監訳/玉川大学出版部)があります。その著者は、アントニア・フレイザーというイギリス・ロングフォード伯爵家の8人兄妹の長女で、本人も5人の子どもの母親です。彼女は、この本のような子どもに関する本の執筆活動を続けていますが、雑誌「ボーグ」[ママ]の編集者としても有名です。この本の中で、「おもちゃ」について書かれてあります。

「おもちゃは、楽しみと空想性と模倣性を組み合わせたもの。そして、おもちゃの歴史を作ってきたものは、「子どもの要求」「歴史家の興味」「おもちゃの収集家の存在」そして、「すっかり成長したおとなでも、きっぱり断ち切ってしまうことのできない子ども時代をなつかしむ気持ち」であり、どれも同じ重みを持っているといえる。」
この内容はイギリスにおいての話かもしれませんが、日本でも言えそうです。確かに「楽しみ」と「空想性」と「模倣性」が組み合わさったものが「おもちゃ」であるということは、遊びにも言えることのような気がします。そして、この三つの能力を持った存在として子どもをみることもできます。

しかし、このようなことは、乳児においても言えるでしょうか。私は、最初に疑問を持ったように、乳児においての「遊び」は、大人の価値観からそう位置づけたもので、赤ちゃんにとっては、生きていくうえで必要な発達を、より確実に、より創造的に繰り返す行動であり、それは、「息をする」とか「食べる」と同じような行為のような気がするのです。したがって、乳児のころのこのような行動は、赤ちゃんにとって「生活」をしているということになるような気がしています。

そして、乳児期から幼児期に向かっていくにつれ、子どもの生活の中で、遊びの占める割合は、次第に大きくなってきます。生活だけであった毎日から、次第に遊びが生活の中心部分をなし、生活そのものが遊びに転化されていくのです。そのきっかけは、生活の中から偶然とその自分の行動から、楽しさや不思議さ、変化することを見つけ、それが遊びになっていきます。ですから、「遊び」には、その成長を育むための社会的な行為ともいわれるのです。そして、大人社会や大人の行動を模倣する行為からきているものが多いのです。

このようなことから考えても、こどもの「遊び」は、大人の「遊び」とは同類ではなく、それどころか、とても高貴な、真剣で、真摯な行いなのです。