先日、今年の1月に我が子が生まれた息子から面白いことを聞きました。我が子の成長を毎日見ていると、驚くことが多いといいます。保育に関係ない仕事をしている息子にしてみれば、初めて赤ちゃんを毎日眺めているので、そういう感想を持つのは当然です。あるとき、赤ちゃんが自分の手で足をつかむのを見て、すごいと思ったそうです。そんな息子が、赤ちゃんとは、どんなことをするのかということを知りたくて、育児雑誌を買ってみたそうです。すると、そこに「赤ちゃんは、4か月を過ぎるころから、手で自分の足をつかむようになる」と書かれてあるのを見て、がっかりしたそうです。我が子のしぐさが、別に天才とかは思わないのですが、このころは誰でもするということが書かれてあると、なぜかがっかりしたというのです。しかも、次には何々するとか、何か月になるとこんなことをするようになるというようなことが書かれてあり、なんだか、未来までわかってしまうようなつまらない感覚を覚えたそうです。そして、「もう、絶対、育児雑誌なんか買わない!」と怒っていました。
なんだか、その気持ちはわかるような気がします。人の成長を見るのは、驚きがあり、とてもうれしいことであり、次への期待感が生まれます。特に我が子に対してはその気持ちは強いでしょう。しかし、育児雑誌などで、その成長過程を読むと、成長そのものの驚きや喜びよりも、そこに書かれてある平均値と我が子を比較して、我が子のほうが進んでいるという喜びになってしまいます。また、そこよりも遅れていると心配になり、我が子を伸ばそうと必死になってしまいます。
私たちが保育の指針として根拠とする「保育所保育指針」には発達過程が書かれてあります。そこには、「おおむね生後何カ月には、こんなことができるようになる」ということが書かれてあります。保育者の専門性として、子どもたちの発達過程を理解しておくことと言われることがあります。しかし、それを覚えておくことにはどのような意味があるのでしょうか。子どもの成長は、目標ではなく、課題ではなく、喜びであるような保育を展開する必要があります。また、他の子との比較をするのではなく、その子の成長を喜ぶことが必要です。保育、育児の楽しさは、子どもたちの成長する過程を知識として知ることではなく、その過程を見ることができること、そして、それに関わることができる喜びです。
このような子ども成長を保護者とも共有して喜ぶことができるようにするためにいろいろな方法があります。その一つが行事を通して保護者に伝えるということがあります。そこが、小学校における行事と大きな違いがあると思っています。小学校における行事では、普段の教育の成果を見せます。私が、教員の時に、2年生の担任を最後に、教員をやめることになった最後の授業で、保護者を招待をして「お別れ会」をしたことがありました。その会自体は、保護者が言いだしたのですが、内容は子どもたちと話し合って決めました。まず、出し物のプログラムは、時間割にしました。1時間目、算数。ここでは、子どもたちが交代で掛け算九九を暗唱しました。2時間目、国語では、1年間の国語の教科書の中で子どもたちが一番好きな単元が「片足ダチョウのエルフ」だったので、その紙芝居をみんなで作りました。そして、読み手は、交代で、国語の教科書のその部分を音読したのです。この行事を通して、私は、1年間の子どもの学びの成果を紹介したのです。
しかし、乳幼児教育では、少し違うのではないでしょうか。それが、「教科」と「領域」の違いなのです。