集団のポイント

ストリンガー博士は、「高度な技術は高度な頭脳から生まれ、単純な技術は単純の頭脳から生まれるというのは誤解です。高度な技術は大きな人口で生まれ、維持させていくのです。」4万年以降のヨーロッパの場合、人々のネットワークは私たちが想像する以上に大きく広がっていたことが、出土する遺跡から窺えるのだそうです。

 子どもを見ていると、集団の役目の大きさを感じます。それは、数の問題だけではなく、お互いに響きあう関係をどう築いていくかということのようです。そこには、何かの媒体が必要になってきます。一緒に食事をするという「食事」を媒体として「共食」が行われる事によっての学びにも大きなものがあるようにです。そして、その学びが伝承されていくことによって、文化となっていくのです。今までの集団におけるポイントを整理してみると、こんなことが言えるようです。まず、「集団の規模」があります。そのサイズは、多様性の数でもあり、多様なものを生み出す基礎となります。ただ、あまりに大きいと、人の認識、協力することの出来る限界を超えてしまいかねません。

そこで、次に必要なのは、「集団におけるネットワークの存在」があります。集団の規模は、物理的な数ではなく、ネットワークのサイズなのです。しかし、そのネットワークから生み出された技術や、得られた情報は、「集団の中に、保存、維持、伝承」されていかなければ文化になりません。そのために、ネットワークは、単に情報を得る関係ではなく、実際に会う、見る、体験する、取り入れるというような五感を使う関係でなければならないのです。したがって、現在におけるネット環境は、文化として保存されるためには、もうひと工夫が必要になってきます。それは、そのネットワークを構築するための道具などの触媒が必要になってきます。

この集団のポイントから園における子ども集団を考えてみたいと思います。子どもたちの学びにはある規模の集団が必要です。そこには、多様性が存在するからです。多様性が、いろいろなものを生み出していきます。その多様性は、個人差だけでなく、男女であったり、年齢が違ったり、発達が違ったりという集団が必要です。よく、保育において、同じ年齢同士の中で育つこともあるのではないかという人がいます。同じように、男の同士で育つもの、女同士で育つものもあるでしょう。しかし、だからといって、クラスを男の子だけでクラスを構成するとか、女だけでクラスを構成するとかを今は考えません。それと同じであるのに、同じ年齢だけでクラスを構成することが多いのはどうしてでしょう。子どもたちは、男女混合のクラスであっても、男の子だけで集まって何かをすることもありますし、女の子だけでおしゃべりをすることもあります。同じように、異年齢児クラスであっても、同じ年齢だけで何かをすることもあります。

異年齢でクラスを形成することの意味がほかにもあります。子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するためには、縦の関係によるネットワークがなければならないからです。大きい子がやるのをじっと見ること、それを真似すること、それが次の世代につないでいくことになるのです。よく、「子ども文化」と言われますが、これは、子どもの中で生み出され、子どもの中で伝承されていかなければならないのです。

そして、子ども集団を構築するための「触媒」が必要になります。集団を必要とするもの、それは、ボードゲームなどの遊具であり、また、集団のほうが面白いもの、それは、レンガブロックやごっこ遊びであったり、集団のほうがより効率的になるもの、それは、班活動やグループ活動であるなど、そんな環境が必要になってきます。

このような子ども文化は、今の時代、家庭では生まれ、伝承していく環境が少なくなってきています。

集団のポイント” への7件のコメント

  1. 宮崎県の幸島は周囲4キロの小島である。ここのサルは、芋を海水で洗うことで有名ですが、そのやり方も年々進歩しているようです。最初は、片手に芋を持ち、ごしごし洗っていたのだが、子ザルたちはもっといい方法を編み出しました。それは、海水で簡単に洗い、一かじりしては食べ、また海水につけては食べるというやり方。こうすると、塩味がついておいしいことを発見したのです。親ザルから継承した食文化を子ザルたちが見事に発展させたんですね。

    また、ここのサルたちは、もともと海へは入らない文化を持っていたんですが、人間たちからもらった餌が海に流れるのをみて、最初に海に入ったのが子ザルたち。大人のサルたちは自分たちの「しきたり」にとらわれて入れないのを尻目に、「海は怖いもの」という刷り込みがない子ザルは、岩から飛び込んで海水浴を楽しんでいるとか。ここの島の「子ども文化」は確実に島のサル社会に革命を起こしている。それは、集団の中での自由な遊びから創造された工夫や発見であり、今の人間世界の画一的な教育への反省を促すものだと思います。

  2. 子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するのが保育園の役割ということですが、このような言葉で役割を考えることがなかったのでまだ十分に理解しきれていません。でも大事なことだというのはよくわかります。子ども文化という言葉を時々使うことがありましたが、ここまでの理解のもとで使ってはいなかったと反省しています。異年齢であることの意味をこのように捉え直すことをやっていくことにします。わかっているようでわかっていなかったのかもしれないと反省させられる内容でした。

  3.  保育園での集団の役目というのを改めて考える内容でした。もちろん集団は大切だと分かっていても、どこか大切な部分を理解しきれていない自分がいました。「集団の中に、保存、維持、伝承」をしなければ文化にならない。確かに地域で昔から伝わる伝統工芸、舞踊などがありますが、基本的には街全体の住民達で協力して保存し、維持し、構成に伝承していっています。この部分を保育園に置き換えて考えてみると、異年齢での関わりというのは、とても大きな役目であり、重要であると思いました。違う発達同士が同じ空間で過ごすことで、小さい子が大きい子の真似をすること。そうすることで、遊びにしろ、生活にしろ、保育園での生活が下の子ども達に伝承していきます。「子ども文化」子どもの中で生まれ、子どもの中で伝承していかなければならない・・・確かにその通りです。その為に大人は子ども達に、どのような環境を用意すればよいのか、考える必要があります。

  4. 以前、藤森先生が講演の際にお話しして頂いたことを思い出しました。「異年齢クラスで過ごしていても一緒に遊びたいときは同じ年齢を、何かを真似したいときは少し上の年齢の子を選ぶ」とおっしゃっていました。確かに子どもたちを見ていたらまさにその通りになりました。お友達とブロックで遊んでいる際に飽きてしまったのか隣で年上の子が他のお友達とやっているブロックをジッと見始め少ししたら真似をし始めていました。ブログの最後の文章でもありましたが、「このような子ども文化は、今の時代、家庭では生まれ、伝承していく環境が少なくなってきています」というのは納得がいきました。きっと飽きてしまった子はそこに年上の子がいなかったら止めていただろうし、一緒にやる子がいなければそれよりも早く止めていたことでしょう。子ども集団がつくれる保育園の重要さがわかります。

  5. 「年齢別」とか「異年齢」ということを子どもの視点から捉え直すとどういうことになるのでしょうか。物心があまりつかな頃にはそした別・異は存在しないでしょうし、クラス意識というものが芽生えてくると、その上のクラス、あるいは下のクラス、あるいはもっと下は「赤ちゃん」「ぐんぐんさん」といったような感覚を持つようになるのでしょう。そして小学生や中学生のお兄さんお姉さんになると「別」は年齢ではなく「学年別」ということが明らかになり、一級上の先輩、一級下の後輩、みたいになりますね。保育園や幼稚園の「年齢別」は実際のところ「学年別」であって、これは大人側の都合の問題です。「年齢別」がいいとか「異年齢」がいいとかさまざまな議論が出されますが、詰まる所は、ケースバイケースであり、「学年別」保育を押し付けられて困るのは当の子どもたちであるという認識をせめて私たち現場に携わる大人たちは持ちたいものです。「同年齢」≒「発達近接集団」を理解して保育することには意味がありますが、いわゆる「学年別」保育(現行の年齢別保育)には大人の都合が優先されているのだ、ということを理解する必要があると強く思います。「年齢別」=「学年別」こそはひとりひとり個性・特性を顧みない差別だと私は思っています。

  6. 確かに男女でクラスを分けることはありませんが年齢別だと分かれてしまうのか、不思議に思います。
    子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するためには縦の関係によるネットワークがなければならない。じわっと心に響いてくる言葉です。実際に保育園にいる子どもたちを見ていると自然と伝承している姿が見られます。ボードゲームをしている年上の子たちがやっているとじっと見ていて入れてもらいルールを教えてもらっていました。先生が教えている時よりも素直に聞いている感じです。伝承している姿をみるとそれはやはり五感をフルに使って学んでいるようでした。そんな関係をもっと保育者が環境として準備していかなければいけないなとブログを読んでいて思います。

  7. 「集団の規模は、物理的な数ではなく、ネットワークのサイズ」というのはまさにその通りだと思います。それが保育の質と言っても過言ではないような気がします。特に少子化の今となっては「集団」の特徴という部分は重視されるものであると思います。だからこそ、響き合う環境を作り、多様性を感じることが必要なのだと思います。保育者はとかく子どもをよくしようと思って、どういう関わりがその子にとって良いかという議論が多いことのように思います。たしかに、一環境として保育者も多様性の中に入っているでしょう。しかし、その周りには他の子どもたちがいます。その近しい発達の子どもたちが響き合うからこそ、より刺激になるのは間違いありません。その中で、自分に波長のあう友だちやその他の人と関わることもコミュニケーションだと思います。今の社会でどういった能力が求められ、伸ばさなければいけないか。とても目が覚まされる内容でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です