社会における主体性

ホリスティックにおける自由の考え方は、他者を排除し、その制約からの開放ではなく、社会の一員としての他者の存在を認め、受け入れ、貢献していくなかで、他者とつながっていくことをいいます。そのつながりのなかで、自分の行動、価値観などを自分の意志で選択し、自己決定し、自分の存在を確認でき、自己責任を負うことであり、その結果を自分で引き受ける根源的自由があるということになります。ですから、私の考える自立した人とは、適切な相互補完的な関係を結べる人であり、社会の一員としての自分の役割が確認できた人のことをいうと思います。

教育・保育とは、人を人として育てることであるとしたら、NHk「なぜヒトは人間になれたのか」が参考になります。しかし、このタイトルには、番組を見なくてもその答えがあることに気がつきます。それは、「ヒト(人)」と「人間」の違いは、「間」があるかないかです。「人」は、「ひと」と「ヒト」が支え合っている姿だといわれます。しかし、それはあくまでも二者関係です。それは、夫婦であり、母子関係であるかもしれません。しかし、それは、他の生き物でもその関係はあります。しかし、「ミラーニューロン」の存在がヒトと他の霊長類を枝分かれさせていったのです。それは、人と人を結びつける「間」ができたのです。そこで、社会が構成されていきます。

人は社会の中で分け合い、協力し、貢献することで脳を大きくしてきたことを、どうも歴史の中で何度も忘れてしまっているかのような行動をします。今、求められている教育、もう一度見直す観点からのホリスティック教育とは、子どもを、社会に適応させ、活躍することを目指して知育に偏重していることから、ともに協力してよりよい社会へと変革していく人間を育てることにあるのかもしれません。現在求められる力を目指すことは、子どもにとってその力を発揮するのは15年後くらいになるわけですので、その時代で求められているものは違っている可能性があります。また、ある時代だけの適応だけでは、人類の進化、社会の進化を促進することにはなりません。共に学びあい、共に協力しあい、新しいものを創造していく共同創造の関係をつくることこそが、人間としての使命なのです。

欧米では、ホリスティック教育への見直しと同時にシチズンシップというこれからの政治・社会へのかかわり方が課題になっています。わたしも、最近の「SNS」というソーシャル・ネットワーキング・サービス」というものがはやっていますが、どうも、これはネットワークをつくっているとは思えません。携帯電話に向かって、安否を尋ねるとか、家族への伝言を頼むとかいうのは、どう考えてもネットワークではないと思います。私が考えるネットワークとは、主体と主体とのかかわりのことであり、携帯電話には主体性はないからです。

最近、政治や政府などの対応には情けないところがありますが、私は、日本人のその嘆き方には疑問を持ちます。BBCが世界33カ国で「他国によい影響を与えている国は?」という世論調査に対して、普通は自国の評価には甘くなるものです。案の定、アメリカでも韓国でも、自分の国はそこそこ高く評価をして、7?8割が「よい影響を与えている」と答えています。しかし、日本は、4割程度でした。その結果に対して慶応義塾大学講師の竹田氏は「日本がひどい社会ならそれでもわかりますが、これほど豊かで文化が高く、治安もいいし、伝統もある。そんなすばらしい国なのに、たった4割しか日本を評価していないのはおかしいですよね。」

どうも、日本人の多くは、主体的に生きるよりも、誰からか与えられる、やってもらえると思い、それが叶わないと、国がいけないと思うようです。ですから、保育カリキュラムも、すぐに既成の外国のカリキュラムを採用し、自分たちで日本にあったものを作ろうとしないことがあります。私は、日本という国は、過去から外国にいい影響を与えていると思うのですが。

社会における主体性” への6件のコメント

  1. 自立した人とは「適切な相互補完的な関係を結べる人であり、社会の一員としての自分の役割が確認できた人のこと」という言葉に深く納得です。子どもは自ら育つ力をもっているといっても何もせずにその自立した人になっていくのではなく、そのための適切な環境が必要なはずです。だからこそホリスティックという考え方を私たちがきちんと理解し、自分自身も自立した人を目指した行動をとっていくことが大事になっていきますね。また、SNSなどがこれだけ広がっている現状を考えると、その意味や使い方を子どもたちに伝えることの必要性はますます高くなってくると思います。ネットワークとは何か、自立とは何か、社会にとっての個とは何か。そうしたことを私たちが間違えないようにしなければと思っています。

  2. 昨日のコメントにあった「幸福」と「快楽」について、参考にした一文を紹介します。

    ≪ちなみに、この「幸福」と「快楽」とをはき違えたところに、教育をはじめとする戦後の日本社会の最大の迷妄があります。そのはき違えのおもむくところ、「自由」は「放縦」や「勝手気まま」に堕し、「人権」は「独りよがり」に、「民主主義」は「衆愚主義」に堕してしまう。挙句は「人権の完成」どころか、いくつになっても幼児性から抜け出せず、他人の意見など聞く耳を持たぬ「慢心しきったお坊っちゃん」のおびただしい輩出であります。人間が人間らしくあること、本当の意味での充足感、幸福感は、“結びつき”を通してしか得られない。人間と人間、人間と自然、宇宙等々、時には激しく打ち合いや矛盾、対立、葛藤を余儀なくされるかもしれないが、忍耐強くそれらを乗り越えて、本来あるべき“結びつき”の形にまで彫琢し、鍛え上げていくところに、個性や人格も自ずから光沢を増していくのです。≫(「教育のための社会」を目指して)

    日本人が、グローバル時代の中で、その慢性的な依存体質から脱皮するには、教育における主役の座に子どもたちを据えて、「自らが価値創造していく力」と「他者と結合していく力」を身につけることができる教育モデルを創っていくことだと思います。

  3.  「人」と「人間」の違い、一見全く同じだと思います。ただ「間」が付くか付かないかの違いだと思っていましたが、そこに一番重要なことが隠されていたのですね。最近のブログでも重要なキーワードの一つである「社会」これを構成するためには、人と人を結びつける、そのために「間」ができた。私自身、人間という生き物の生きる意義、使命を分かっていたつもりになっていた部分がありますが、とても身近なところに重要な鍵が隠されていたのには、とても勉強になります。しかし「SNS」より私達の生活を豊かにしていく反面、失っていくものもあります。人と人を結びつけると言っても、本来のネットーワークではないですね。藤森先生が言われるように主体と主体の関わりこそが、本当のネットワークだと私も思いました。

  4. 以前、藤森先生が50年後の人間がどのようになっているかを考える時には、50年前の人間を見て変わっていないものを考えるというお話をして頂きました。「人」ではなく「人間」と「間」がつくことで、人間は人と人が結びつくことで多様性ができ社会が創られてきたはずです。以前のブログにもありましたが、多種族が集まりビールや豚を食べるというのはまさに「人間」なのですね。つまり、これらのことは今後も変わっていかないものになるはずです。「他国によい影響を与えている国は?」という調査で日本は4割程度とありましたが、どのくらいと数はわかりませんが世界の人は素晴らしいとよくテレビなどで言ってくれています。この前ニュースを見ていたら国家戦略大臣が「和食」を日本の文化としてユネスコ無形文化遺産保護条約に提案すると言っていましたが私はとても素晴らしいことだと思いました。何年も前から日本の食文化が海外から注目があったり、他にも古くから伝わる伝統芸能や日本製の半導体技術や他にもたくさん日本には素晴らしいものがあると私は思います。

  5. 「ホリスティックにおける自由」について藤森先生は次のように定義されています、「社会の一員としての他者の存在を認め、受け入れ、貢献していくなかで、他者とつながっていくこと」と。これは「自由」ということの定義です。それゆえ、ある保育形態をさして「自由保育」と非難することはすなわち上の定義を了解していない、つまり「自由」の誤解から来るものであり、その意味では「わがまま保育」とか「自分勝手保育」と称されるものです。もっともそうした非難的決めつけをする方が必ずしも実態を把握して非難しているとは限らないことがこれまた実に多くあり、まぁさほど目くじらを立てるに値しない場合が多いのですが・・・。ところで、この「人間」、すなわち「人と人との間」は、恥ずかしながら、私が大学の卒業論文で扱ったテーマでした。学術論文にはなり得ない、まぁ「エッセイ」みたいな論文になったわけですが、自分としては諸々の参考文献や実践活動を参照しながら「人間」について私見を披露できたと思っています。しかも私的「人間」論を説くにあたり依拠した考え方が仏教の「慈悲」でした。今回のブログのおかげで懐かしい過去を思い出しました。その時に考え思ったことは30年経った今なお変わりません。原理主義信奉者の如くその論説をいまだに信奉しているのです。私の中の「不易」ですね。私は「人間」である私たち日本人を改めて素晴らしい国民だと思っているのです。

  6. 人が社会を作って生活していく上で必要な能力や人たる能力は普遍的なものだというのが「なぜヒトは人間になれたのか」という番組の話を中心としたブログを読んでいてよく分かりました。今の時代に求められている教育はそういった「社会における主体性」はあまり重要視されていないのかもしれません。主体性といいながらも手取り足取りと導いてしまっているところもあるのかもしれません。自分自身もどこかで「甘え」がありますし、自分で選択することに戸惑いがあります。しかし、社会とはそういったものですし、これから世界と日本とはますますグローバルになっていくと思います。そんな中、生きる今の子どもたちはどういった能力が必要か、もっと深めていく必要がありますね。

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