先月、京都に行った時に今年は辰年ということで「龍」にちなんだ場所が特別公開されていました。そのなかに、通称「鳴き龍」と呼ばれる狩野永徳の子・光信が描いた壮麗な天井画「蟠龍図」がある相国寺に行きました。そのときに、同じ境内にある「開山堂」も普段は公開されていないということでしたが、そこも見学することが出来ました。現在の開山堂は、江戸時代に桃園天皇の后・ 恭礼門院の黒御殿を移築したもので、かつては水が流れていたという前庭は「龍淵水の庭」と呼ばれています。その建物の内部は、礼堂と祠堂に分かれ、開山の夢窓国師像が安置され、杉戸には円山応挙の筆による小犬の絵が描かれていました。

 杉戸といえば、もう一つ最近話題になったことがあります。京都の金閣寺が、平成19に終了した解体修理の際、近代日本画家・石踊達哉氏・森田りえ子氏による杉戸絵が新作されました。今回行われた世界遺産金閣・鹿苑寺方丈(本堂)は、330年ぶりで、まだ若く美貌の女流画家に金閣寺の杉戸絵を描くことを任せたことで話題になりました。彼女の杉戸絵は「春・牡丹図」「秋・菊図」「夏・花菖蒲図」「冬・椿図」で、石踊達哉の杉戸は「双樹・紅梅図」「遠山桜図」「秋草・秋草図」「晩秋・秋草図」です。

 法隆寺に残されている戸は、檜の節なしの一枚板です。この戸は、四方に作られ、外に出るための戸です。奈良時代の建築の特徴は、まだ、内部空間を仕切る建具がなかったために、空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっています。そこを仕切るためには、衝立や簾、几帳のような可動式の「障子」が使用されていました。そのときに、木製の格子を骨組みとして、両面に絹布を張り衝立て状に台脚の上に立てたものがありましたが、一般的には、軽い杉板を台脚の上に立てた衝立てが、主流でした。

 平安時代になると、内部の仕切りとして、母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」を設けるようになります。この障子は、今日の明かり障子ではなく、絹布を貼った可動式の嵌め込み式の板壁で室礼として用いられ、時に応じて設置されるものでした。この障子は、絹布に賢聖を描いていたので、「賢聖の障子」の名があります。そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたようです。

当時の「障子」とは、間仕切りの総称として使われ、「障」とは、間をさえぎるという意味で、「子」は小さいものや道具につけられる接尾語です。ですから、衝立、屏風、簾、几帳のほか、木で作られた室外との仕切の唐戸、板戸の一種である舞良戸、蔀戸等も障子といいました。

鎌倉時代になると、藤原定家の日記『明月記』に、杉板障子に画を描きお終わったので立てたとあります。この障子戸は、黒塗りの框に杉の一枚板を嵌め込だ板戸で、杉障子、杉遣戸、杉板障子、杉戸などと呼ばれていました。そして、杉障子は襖障子と同じように、主に縁側と部屋との仕切りや縁上の仕切りに使用され、そこに絵を描きました。杉障子に描かれる絵は、襖障子と同様に時に唐絵が描かれることもありましたが、多くは大和絵の花鳥風月や跳ね馬でした。私が見た円山応挙の絵は、子犬が戯れているものでした。

杉の戸は、現在は使用されていない建具ですが、貧しい家屋に用いられることが多く、和歌・俳句の世界においても「杉の戸」というのは、「貧しい我が家」を表す常套句でした。そこで、卒業式などで歌われる「蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつ、いつしか年も、すぎの戸を開けてぞ 今朝は、別れ行く。」の「すぎの戸」は、「過ぎ」と「杉」の掛詞で使われています。その意味は、「貧しい家から出て行く」といわれることが多いようですが、私は、寺院などに多く用いられている絵が描かれた杉戸を開けて、修行の年月が明けて出て行くというイメージを持つのですが、その解釈はどうでしょうか。