人間らしさ

 人間という生き物はとてもすばらしい能力を持ち、すばらしい生き物ですが、それは、完全無欠ということではありません。ミスもするし、落ち込むこともします。そのために、何度も危機に陥ります。そのときに、種を滅ぼすような状況に進むのか、または、生き残るための何か方策を打つのかによって、今に遺伝子をつないできているのかどうかです。

 様々な能力は二面性を持っています。また、遺伝子を子孫に残すために残酷な面があるのも確かです。たとえば、人の気持ちに「共感」する能力も、二面性があるようです。人は必ず共感するわけではなく、共感して自己犠牲を厭わず行動する場合もあれば、まったく共感せずに冷ややかに黙殺している場合もあるのです。私たちの脳は、不公平な人、つまりは不愉快な、嫌な人の痛みを見たときに、快感を感じるようです。私たちの脳は、驚くべき「選別」を行っているというのです。

 よく、性善説か性悪説かと議論するように、人は生まれつき、このような両面を持って生まれるのでしょうか。それは、もちろん確定するほど解明されてはいません。しかし、いろいろな場面で推測されています。イギリスのロンドン大学のウェルカム・トラスト神経画像研究センターは、世界でも有名な脳神経科学研究の拠点だそうですが、そこのベン・シーモア博士は、どういう相手に対して痛みの共感が生じるのかを、さまざまな実験で市食べています。彼は、人間が経験するさまざまな社会的な出来事を脳の先天的な回路で対処するというのは無理だと考えています。そして、こう考えています。「大切な役割を果たすのが前頭葉です。前頭葉は不確かな新しい状況に対処できるような機能があります。人間は社会性を学習する力、生まれた環境で協力を学習する力を持っているようです。」

 久しぶりに「前頭葉」ということばを聞きました。一時、どこでも前頭葉について語られていたのですが、最近は、もっと細かいところまでわかってきて、あまり言われていませんが、やはり、前頭葉に関係しているようです。ただ、もちろん、ミラーニューロンや前頭前野は前頭葉にある神経細胞ですから、同じことなのでしょうが。すなわち、この前頭葉の働きゆえに、共感する能力を後天的に習得している可能性も否定できないと言います。

 また、人は社会を構成し、協力することで生き延びてきた生き物でありますが、社会というのは、一人ではなく、他人がいるということですので、他人と比較するということが行われます。それが、競争を生んだり、切磋琢磨という競い合いの中から向上も生まれるのですが、心の中には、ほかの生き物には見られないこんな気持ちも人間特有といわれています。「人を羨んだり、あるいは自分に劣等感を抱いたり、そねむ、ひがむ、あるいはコンプレックスを持つことが私たちにはよくあります。全部よく考えてみると、他者との比較のうえに成り立っている感情です。簡単にいうと、自他の落差の認識なんです。自分というものの置かれている状況と、他人が置かれている状況の両方を見ている。自分ひとりのことにしか目を向けていなければ、そういう感情は生まれないはずです。」というのは、京都霊長類研究所長の松沢さんです。自分と他者との違いに対して非常に感受性が高いことが、さまざまな悩みや負の感情の原因になってしまうのは、チンパンジーには見られないそうです。「チンパンジーは、ほかの人は、どうでもいいといいます。自分の暮らし、他者の暮らしは他者の暮らし、それはそれ、これはこれ、なんです。」と松沢さんは言います。

 「人間は、他者の心を読むことができる。それゆえ、困っているヒトに対して、自らの手を差し伸べる志を持つことが出来る。しかし、同時にその同じ能力がまったく逆の方向に働き、負の感情を生み出す。こうしてみてくると、人間が共感能力を持つのがはたしてよいことなのか、それとも悪いことなのかわからなくなる」

 どうでしょうか?

人間らしさ” への6件のコメント

  1. 3・11の大震災直後は、日本中に「頑張ろう日本」の掛け声が充満して、被災地の苦しみに国民全体が寄り添おうとしたかに見えたのに、放射能の影響を不安視する一部の人々の反対で、京都の大文字の送り火の問題やら、福島で製造された花火の使用中止など、いったい日本人はいつからそんなに薄情になったのかを思わせることが起こっている。

    うずたかく積まれたがれきの山もなかなか片付かない。先日は、能登半島地震で同じ苦しみを味わったはずの輪島市でも瓦礫引き受けに反対する運動が起こっているとの報道がありました。悲しいですね。東北の被災地を心配する気持ちの奥底に、自分たちが被害に遭わなかった安堵感が隠されているんでしょうね。安全地帯からどんな励ましの言葉をかけても憐みにしかならない。だから、がれき処理の問題が自分に降りかかると途端に本心がでる。人間というのはつくづく難しい動物ですね。

  2. 社会の中で生きるということは単純なことではないというわけですね。他者と自分を比べるということ以外にも、他者から受け入れられるような行動をとろうとして自分の行動に自分自身で枠を作ってしまうしがらみの構造の話を聞きましたが、これなんかもまさに社会で生きることの難しさだと思います。そんな難しさがあるのですが、それでも私は共感する力があることの良さを大事にしたいと思います。うーん、上手く理由は言えないんですが、確かに負の感情を感じることはしんどいことでもありますし、そこから生まれる争いなんかも辛いのですが、それでも共感し助け合ったりすることで感じるプラスの気持ちの方が遙かに自分にとって大きく意味のあるものに感じるからです。この難しさとはずっと付き合っていかなくてはいけないんでしょうが、そのことをなくしてしまったらそれこそ人間らしさからは遠くなってしまう気がしていますので。

  3.  前回のブログでも人間はミスをする生き物に対して、コンピューターはミスをしません。ミスをすることで、落ち込み、危機に陥っても、そこから這い上がれる力を持っているからこそ、今まで遺伝子をつないできているのですね。それは前頭葉の働きで、他人に共感し、それが協力を生み、社会を形成してきましたが、ブログに共感は二面性を持っていると書かれています。嫌な人の痛みを見て快感を感じるようになっている。それを聞くと、性善説か性悪説かどちらかというと、おそらく両方を持って生まれてくるのかもしれません。ただ、何度もブログにも書かれていますが、人は協力して遺伝子をつないできました。そのためには共感が必要です。その時に負の感情を生み出すのは、その人が生まれてきた環境が影響するような気がします。

  4. 人間の共感能力とは善も悪もあり二つの面がありますが、私はやはり必要な能力だと思います。人間はそもそも協力をして生き延びてきています。そして以前の藤森先生のお話でもありましたが、「赤ちゃんが振り返って大人を見るのは一緒に同じものを見て共感をしてほしから」とおっしゃっていました。赤ちゃんの時から大人に共感を求めるというのは、やはり子どもの成長に欠かせないことではないのかと感じます。
    そして人間の五感が発達していくのは人間同士の関わり合い、「共感」が重要なのではないかとこのブログを読ませて頂き思いました。

  5. 今回のブログのタイトル「人間らしさ」、人間らしいとはどういうことか。実はこの命題は西洋哲学2千年来の命題なのです。このことに答えが出るのかどうかはわかりませんが、仏教徒の私は、釈迦牟尼仏陀の教えによって、人間とは、因果関係において存在する生き物、と了解しています。この「因果関係」とは何か、という次の命題が現れてきます。「因果応報」「善因善果」「悪因悪果」「天網恢恢疎にして漏らさず」云々。自然について考えを巡らします。自然は、ヨコの関係において成立している、と考えられます。決してタテの関係ではありませんね。因果関係も上下や貴賤の区別がありません。ヨコの関係を表しています。仏教は宗教概念に包括されます。しかし一神教がタテの関係なのに対して仏教はそうではない。おそらく現実直視の結果がヨコ関係重視の宗教である仏教を生み出したのでしょう。なかなか難しいコメントになってしまいました。コメントの領域を超えたコメントになってしまいました。失敬。

  6. 共感というのは幅が広いですね。つい保育の言葉で考えることが多く「共感」「共視」といった意識してる部分を考えましたが、なるほど、向上心や劣等感、コンプレックスにいたるまで感情は「共感能力」から端を発しているんですね。最近、近所付き合いや地域との繋がりが薄れてきているのが、チンパンジーの例に出てきた「人は人、自分は自分」という部分に見えてくるように思います。ただ、できるだけそういった人間らしい感情を負の方向ではなく、真っ当な倫理観を伝えていくような社会を作ることが必要で、そのための教育や保育をしないといけないですね。そのためにも、「人間らしさ」を知ること、必要な能力、そのための保育環境を考えていきたいと思います。

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