能動と誘導

人は、赤ちゃんのころからすでに非常に能動的であるということを今では誰でも知っていることです。赤ちゃんは、何もできず、大人がいろいろとやってあげなければならないと思っていたことは間違いであり、世話を大人がするように赤ちゃんから働きかけてさえいるということもわかってきています。ですから、子どもが自ら働きかけるように意図するというよりも、子どもが興味・関心を持つような環境を用意するだけでいいのです。かつて、子どもはある意味では無力であり、大人の庇護が必要で、大人が誘導しなければいろいろなことを学んでいかないと思われていました。子どもを主体的に考えていた倉橋でさえ、子どもの遊びを誘導するために、計画します。それは、「系統的保育案」といわれるもので、子どもの遊びの中にある主題を保育者が誘導し実現していく 誘導保育案 と、唱歌・遊戯・談話・観察・手技の保育五項目を意識的・計画的に配置した 課程保育案 を総合した保育カリキュラムとして位置づけています。

倉橋は、このように保育の計画性の必要を提案しているにもかかわらず、子どもの能動性についてもよく理解しているようです。「興味のある主題はその誘導保育の主題から誘導されたものでも、自由感で遊んでいるのであれば、それは当然自由遊びだといっていいのであります。すなわち、ここでいう自由遊びということは、誘導保育案に誘い出されている保育と、必ずしも別なものと決まっているわけではありません。」と述べています。ということは、保育の計画において、主題を中心とした「誘導保育案」だけが必要であるのではなく、子どもの活動の中から子どもの興味関心の実情を理解し、子どもに経験して欲しいねらいや内容を探っていくのです。それが、前から私が提案している「DO、SEE、PLAN」の考え方なのです。そういう意味で、自由遊びは、「設定保育」の前に行う、意図のない保育ではなく、自由遊び自体にも学びがあり、その中に意図する課題を見つけ出す保育であると考える必要があるのです。

モンテッソーリは、あるとき教具の棚の鍵をかけるのを忘れたとき、子どもたちが勝手にそれを持ち出している姿を見て、それは、自分で教具を選べることを表しているのだということに気づき、棚の鍵をやめ、子どもの取り出しやすい配置にして自由に選ばせたところ、以前より真剣に取り組むようになったことから、「活動を自由選択から始める」重要性に気づきます。子どもの自由選択は、子どもが自分の育ちに必要な要素を選んでいる行為なのです。

] 倉橋が提案する誘導保育に、私は、保育者の「教育的意図」を感じてしまうのでどうしてもそのまま受け入れることには抵抗があるのですが、それは、当時の子どもの生活環境や保育、教育の現状がそう提案させた背景にあるようです。当時、子どもは地域の中で、また家庭の中でそれほど大切にされていたわけでもありませんでしたし、物も豊富にあったわけでもありませんでした。そのときに、いろいろなものが置かれている保育室の中で子どもを自由に思いのままに行動させてしまったら、子どもたちは勝手に振舞い、収拾がつかないほど放任されてしまったでしょう。また、保育、教育現場では、大人が主導し、一斉に指示し、知識をただ頭から叩き込もうという教育が行われた中で、子ども主体である保育を実践しようとしたときに、誘導保育は、限りなく子ども主体にするために譲歩した方法ではなかったかと思います。

 もし、今でも子ども主体の保育に変えよう、子どもが興味関心を持ち、自ら選択し、自ら取り組む保育をしようとしたときに、それまでの保育が一斉に、保育者主導が強かった場合は、子どもがかなり荒れてしまったり、めちゃくちゃになってしまうことが見られます。それは、子ども主体がいけないのではなく、子どもが育っていないためであり、そのときには、きちんと、丁寧に育てていかなければならないのです。この段階では、もしかしたら、保育者の意図性は強くなるかもしれません。