ブラヘイジ4

旧安田庭園は、その名に残っているように「安田財閥」に関係があります。もともとは、徳川綱吉の母親である桂昌院の異父弟であった常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資の下屋敷でしたが、旧備前国岡山藩主池田章政邸となりました。彼は、廃藩置県で岡山県になるまで岡山藩知事を務めていました。彼の江戸邸だったのが、明治24(1891)年、安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりました。

 彼は、もともとは越中国富山の生まれです。彼の実家は、幕末に富山藩の最下級の武士の身分でしたが、実際は、半農半商で生活は貧困していました。そんな生活の中で、善次郎は20歳のとき江戸に出て市内を行商したのち、日本橋小舟町の両替店に手代奉公します。そして、1864年、零細な鰹節小商兼銭両替店の安田屋を日本橋人形町の裏通りに開業して独立します。そして、維新後は安田商店と改称し、新政府が発行した不換紙幣(太政官札)を取り扱い、巨額な利益を手にし、その後も次々に発行された公債を買い、当時屈指の新興の金融業者に成長します。そして、明治9年には、第三国立銀行の設立に参画、次いで13年には安田商店を安田銀行に改組し、15年には新設の日本銀行の理事に就任して、日本銀行を背景に両銀行の経営を発展させていきます。そして、26年に帝国海上保険を設立するとともに日本最初の火災保険会社の東京火災保険の経営を引き受け、これがのちに安田火災保険となります。しかし、大正10(1921)年9月28日、84歳のとき、刺殺されてしまいます。彼の死後、大正11(1922)年、この家屋及び庭園は東京市に寄付されました。そこで、この旧安田邸跡地は寄付者の名を残して「旧安田庭園」と命名しました。同じように、彼の名を残しているものに、生前寄付することを約束した東大安田講堂および東京市政会館、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などがあります。これらは、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていませんでした。

 この日のブラヘイジの最終目的は、大江戸博物館で開催されている特別展「平将門」を見ることです。この特別展は、初めて武士による世の中を作り上げた「時代への挑戦者」平清盛の生涯を描いた50年目の節目を迎えたNHK大河ドラマ「平将門」にちなんだ展覧会です。この展覧会では、世界遺産・厳島神社に伝えられる多数の至宝をはじめ、この時代を生きた人々の肖像画や書跡、主要な源平合戦を描いた絵画のほか、平安末期の文化を象徴する美術・工芸品などが展示され、平清盛が活躍した時代が紹介されています。

 平氏は、海賊退治などで瀬戸内海に進出、清盛が安芸守に任じられると、航海の守り神・厳島神社を一門の氏神のように篤く信仰しました。清盛は後白河法皇をはじめ多くの人々をともなって参詣し、社殿を造営し、社領や宝物を相次いで寄進します。今回の展覧会での目玉は、清盛が長寛 2 年 (1164) に一門の繁栄を願って奉納した、善美を尽した装飾経「平家納経」を4巻です。「平家納経」は、平清盛が一族の繁栄を願い厳島神社に奉納した装飾経で、経文名を記した題箋に鍍金した金銅を、軸には水晶を使い、両端に精緻な細工を施した金銀金銅の透かし彫り金具をつけている非常に美しいもので、国宝に指定されています。料紙には雁皮紙を使用し、表裏に金銀の箔や砂子を撒き、金泥・銀泥、或いは岩絵具や型押しで地紋を浮き出たせ、更にその上に金銀泥、岩絵具で絵や模様を描き、文字は墨・緑青・金泥を使用しています。これらの経巻を清盛、重盛、頼盛、教盛、そして重臣ら32人が一人一巻ずつ書写したと願文に記されています。

 この日のブラヘイジは、両国駅で、体の温まる飲み物をみんなで飲んで、帰路につきました。東京は、あちらこちら行ったようですが、それぞれが近く、総歩数は、約13000歩でした。