震災復興

昨日の午後も、茨城県北部を震源とする地震があり、茨城・日立市では震度5弱を観測しました。昨年の東北大震災からほぼ1年になりますが、その余震かわかりませんが、北関東から東北にかけての地震が多い気がします。特にこの地域は、津波のほか、東海第2原子力発電所などがあるので震源地がどこなのか心配です。

最近、ブラヘイジで訪れた「東京都慰霊堂」は、関東大震災のときにこの地震によって一番多くの死傷者を出した「本所被服敞跡」ですが、そのときの震源地がどこであったかは割りと知られていません。実は、震源地は東京直下ではなく、神奈川県三浦半島付近です。そのために、震度7の震度地域は今の鎌倉市から小田原市に至る相模湾岸を中心とした地域で、被害の大きかった横浜市や東京市などは、震度6程度であったと推測されています。それでも多くの犠牲者を出したのは、それに引き続いて起きた火災でした。その火災は、建物の倒壊と違って、街全体を焼き尽くしました。今回の東北における津波の被害と同様に、街全体の復興計画をしなければならなかったのです。

1923(大正12)年、大地震に続く大火災のさなか、山本権兵衛は組閣し、同年4月に東京市長を辞任した後藤新平を内務大臣として再登用し、帝都復興院総裁も兼務させ、帝都復興計画の策定を始めました。後藤は、世界に誇れる模範的大都市の形成を目指し、焼失区域だけでなく、焼失を免れた山の手・郡部まで及ぶ計画範囲で、道路一運河・公園・鉄道・築港などを含む総合的な計画を立てました。最初は、いろいろな夢とも思える理想論、机上論での計画がされたのですが、財政の限界、早期実現の見込みがないことなどから最終的には、復興計画は実行案として次第に縮小されていきます。たとえば、品川から干住間の幹線道路の幅員は、当初の理想案では40間(約72m)とされていましたが24間(約44m)に変更されました。そのほか、非焼失区域の事業廃止、東京築港・京浜運河・東京環状線などの別事業化、幹線道路の幅員と公園の縮小、広場の廃止、共同溝の全廃などでした。

  それでも、帝都東京のライフラインや都市施設の近代化、鉄筋コンクリート建築による不燃化、市民の住宅の改良を目指して実行に移されました。それまでの東京の建物の多くは木造建築でした。ですから、震災では火災が起き、多くの犠牲者を出してしまったために、当時の建築基準法で耐火被覆の必要性が盛り込まれたために、モルタルや銅板で建物の表面を覆うスタイルが普及していきました。その代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興公園、震災復興橋、九段下ビルなどがありまう。先月20日の新聞に、この関東大震災復興のシンボル「九段下ビル」の解体が進んでいるという報道がされていました。このビルは、関東大震災の後、被災した近隣商店街の店主たちが集まって建設した店舗や住居で利用できる複合ビルで、南省吾が設計しています。同潤会アパートもすでに安藤忠雄の設計によって建てかえられています。

ほかにも、震災のときに建てられた建物が消えつつあります。それは、全国的に寺社建築のような外観をもつ共同浴場、いわゆる銭湯です。これは、関東大震災後に東京で成立した宮型造り銭湯の様式で、東京墨田区東向島の「カブキ湯」発祥といわれているため、主に関東近郊にこの建築様式が集中しており、地方の銭湯ではめずらしいようです。宮型造りというのは、建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく建築様式です。その姿は、神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線、また、極楽浄土へいざなう入り口、そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面もあり、銭湯の利用客は、あたかも、日本各地の神社仏閣への「お参り」をしている気分になったかもしれません。

私が下町に高校を卒業するまで住んでいたのですが、いつも通っていた銭湯は「大黒湯」といいました。そこが休みのときは、「鶴の湯」「亀の湯」「梅の湯」に行きました。銭湯の名前もこのようなめでたい名前が多いのですが、今、地下鉄に張られているポスターには、「大黒湯」という名の銭湯が写っています。とても懐かしく眺めています。

震災復興” への5件のコメント

  1. 問題です。次の三つの言葉から連想する人物をお答えください。
    ?読売新聞?公民館?ボーイスカウト
     答えは今日のブログにもある後藤新平その人です。

    関東大震災による被害で瀕死の状態にあった読売新聞。経営はどん底で引き取り手を探していた。正力松太郎は、買収費用を後藤に頼った。正力の話を一通り聞いた後藤は、即断即決。10万円(現在の貨幣価値で数億円)の融通をあっさり了承する。
    「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練を残すなよ。金は返す必要はないからな。」

    後に分かったことだが、この10万円は、後藤が麻布の土地を担保に、無理な借金をして工面したものだ。後年、正力はその恩義に応えるべく、新平の顕彰事業費として、彼の故郷の水沢市に倍の20万円を寄付した。その資金を使って建てられたのが、「後藤新平記念公民館」。日本で初めての公民館といわれている。

    こわもての大政治家と思われているが、実は後藤新平は根っからの子ども好きで、日本のボーイスカウトの創設に尽力する。

    「自分は子供を先生だと思っている。そうでなければ、こんな老人と子供はあそんでくれないよ。だから子供が一緒に遊んでくれるのさ」

    彼は亡くなる直前、遺言のようにこんな言葉を残している。

    「よく聞け、金を残して死ぬものは下だ。仕事を残して死ぬものは中だ。人を残して死ぬものは上だ。よく覚えておけ」

  2. 関東大震災の際もいかに復興計画を描いていくかで多くの人が苦労されたんでしょうね。こういうとき、夢のような話をするなと言われるとしても大きな理想を掲げることはある部分では必要なことだと思っています。実際に動いていくのは現実的なものだとしても、です。どちらが良くてどちらが悪いということではなく、どちらにも意味があることだと思っているので。もう少しで震災から1年というところまで来ました。今どういった段階まで進んでいるのかは個人的に情報を得ようとしなければわかりにくい状態で、そのことには問題があるのではと思っています。今回の震災からどの方向に進んでいくのかは、全ての人に関係のあることだと思うからです。東北で起きている個人や企業の動きには、私たちもそこから学ばなければいけないと思うことがたくさんあります。まだまだ目も心も向け続けておきたいと思っています。

  3.  東北大震災からそろそろ1年がたちます。まだまだ余震が続きますし、近いうちに関東大震災が起きるとも言われています。なかなか安心して暮らせるとは言い切れない状態ですね。だからと言って、指をくわえてじっと我慢しているのも違うので、自分なりの対策を考えなければいけませんね。建物も耐震構造がされている物も増えてきていると思いますが、昔に建てられた建造物は耐震構造がしていない分、大きな地震には耐えることができないので、消えつつあるのは残念ですね。写真のような銭湯は始めて見ました。地方の銭湯はスーパー銭湯が多くなってきた為、無くなってきていると思います。震災によって昔ながらの建物が減ってくるのは、寂しいですが、なんとか残して欲しいと思います。

  4. この国に住んでいる限り、地震による災害は宿命、避けられない運命です。東京に直下型地震が発生するのはほぼ確実、と言われていますから、それがいつなのか、という問題は別として、どこで地震に襲われたらどうするか、可能な限り考え備えておく必要はありそうです。とは言っても、ことはそれほど簡単ではないことを今回の東日本大震災で知らされました。私が田舎にいたときは叔父や従兄と「いつか津波が襲ってくるだろう」という話をまことしやかにしておりました。そして実際津波に襲われると結局なすすべもなく、幸い命と家が無事であったことを神仏先祖に感謝するだけでした。養殖漁家の従兄は結局何千万円にも上る施設を失うことになりました。「備えあれば憂いなし」と言われますが、実際のところ「備え」には限界があり、また「言うは易く行うは難し」で、詰まる所、自然の力の前では人間はさほどのことはできない、あとは自然にまかせるのみ、くらいの覚悟を養うことが先決か、と考えます。震災復興、震災から1年経って、やっと緒についた、というところでしょう。みなさんの「見守り」が必要です。そして一人ひとりの復興力が被災地の復興の後押しになるのです。

  5. 阪神大震災でも、多くの人が亡くなったのは火災だったのを思い出しました。もちろん倒壊も多いのですが、火災は何もかもを焼き払ってしまうので尚更恐いですね。いつの時代でも日本は地震大国でつねにそういった経験は語り継がれます。その都度、立ち直る人間の強さも共に感じます。東北も今の東京や神戸のように力強く立ち直ってくれることを心から願います。その復興の証の建築物が無くなるのは少し寂しい気もしますね。昔の風景が少なくなっていくのに、ノスタルジックを感じながらも時代の進み具合に逆らえない部分をとても感じます。今の時代もそうなるでしょうね。未来のことを考えるとワクワクしますが、その反面、どう変わっていって、どう残るのかも気になりますね。

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