私たちは、子どものころから「日本は発掘可能な天然資源をほとんど持っていない島国である」と聞かされてきました。ですから、工業を発展させ、技術革新が必要なのだといわれてきました。また、このような環境や生活条件によって、日本人は、個人の幸福を超えた集団の幸福、そして集団に高い価値を置くようになったかもしれないと、「PISAから見る、できる国・がんばる国」という報告書の中で、日本について分析しています。そして、集団への無批判な愛によって包み込まれるというこの感覚は、「和」という、日本社会においてきわめて重要な概念であるといっています。この「和」は、幸福に不可欠なものとして、生涯のあらゆる段階、つまり最初は母親との間、次に残りの家族、学校や大学での友達、仕事場での同僚や上司との間で求められるとしています。

 この「和」を大切にすることが、人同士の関係を良好にするものであればいいのですが、それは、少し違うように働いています。このように書かれています。「そのような環境の中では、個人は集団から高く評価されることによって尊敬を得られるのであり、個人の行いが集団の調和を脅かすならば、社会的制裁は広範囲にわたる影響を伴う。もし、ある集団の信望を失うならば、別の集団と和を確立することがさらに難しくなるのである。」このような文化的要因が、自分が所属する集団とのよい関係を維持するために必死に働くという日本の特徴が説明できるとしています。そして、それが、日本の教育が良い成績を収めていることの背景になっていると考えています。

 また、この「和」という考え方から生まれたのかはわかりませんが、欧米とは違った考え方を日本人は持っています。そろそろ、週刊誌に有名大学への入学者の出身高校の順位が掲載される時期になりましたが、このように学校の評価が生徒の学業成績とその態度に左右されるのは珍しいといっています。それは、日本の社会では、欧米では見られないことだそうですが、両面に学校が責任を持つものと考えられているのです。たとえば、こんな例が出されています。「もしも生徒が法律に違反したら、警察当局にその生徒の担任も母親も呼び出され、そして教職員全員が生徒の行動に対して謝罪をする。」このような風潮のために、日本では、生徒が教員に強い義務感を抱く傾向があり、学力の面でよい成績を収め、学校外でも法律の範囲内にとどまるよう努力するのだと報告書は書いています。

 このような価値観は、仕事場にも浸透しており、日本においては概して同僚の尊敬や承認を得るために、人々は一生懸命に働くとよく言われているようです。個人の名誉ではなく、むしろ集団の利益のために懸命に働いているというのです。日本の労働者は、「怠ける」ということをあまりしないのは、上司が監視しているというよりも、彼らの仲間や後輩の職員も監視しているからだといいます。そのために、会社は家族のような見返りを求められ、住宅、旅行、教育、そして葬式の費用さえも従業員に提供しているというのです。

 なんとなく、外からどのように日本人を見ているかということを読むと、私たちが当たり前だと思っていることが、珍しいことであり、それが、学力向上に寄与しているということがわかります。この学力の高さを持続的に保証したり、また、学力の高さだけでなく、それぞれ個人の幸せとは何か、何が社会を豊かにするのかが少しずつ見えてくる気がします。日本の特性を、よいほうに持っていくために、その特性を否定するのではなく、きちんと理解することが先ず必要でしょう。

” への5件のコメント

  1. 私の住む町は、緑豊かな農村地帯、と言えば聞こえはいいが、人づきあいが濃密で、時にうっとうしくもある。冠婚葬祭は地域ぐるみで祝い、そして弔う。ひとたび火事があれば、地域の消防団が駆けつける。地域の付き合いをこなすことを俗に「帳面を消す」という。地域の世話になっている「借り」を返さないと「非難」の対象になるのだ。今はあまり見られないが、村の秩序を著しく乱すと「葬式」と「火事」以外は、付き合ってくれない。いわゆる「村八分」である。閉鎖的な農村共同体では、村人が一致協力しないと生きていけなかった時代の名残だ。

    外国人は、縦の関係、つまり神との「契約」が生き方を決める。日本人は、横の関係、世間との「義理」が生き方を規定する。『義理を欠いちゃあ、おしめぇよ』職場での義理とは、上司や同僚、取引先との信頼関係だ。その『信頼』に応えようと涙ぐましい努力を惜しまない。生真面目に几帳面に、「帳面を消そう」とする。時には、自己を犠牲にしてでも仕事に没頭する。いわゆる過労死は日本人の特有のこんな心理が生み出す現象ではないか。

    昨年は、「絆」という言葉が日本中を席巻した。流行語大賞になり、昨年を象徴する漢字にも選ばれた。未曽有の大震災と津波、そして原発災害を乗り越えようと、「絆を深めよう」とも叫ばれた。しかし、ちょっと待てよ。絆を広辞苑で引くと、「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」とある。元々、「絆」とは自由を束縛するもので、地域とのしがらみのことだ。縁とか連帯とかそんな甘っちょろいものではない。時には、個人の自由よりも、集団との親和性を重んじてきた日本人の心を象徴しているのが「絆」であることを忘れてはならない。

  2. 日本の特性をよいほうに持っていくために、まずはきちんと理解すること。ついついこのことは疎かになってしまいます。否定したり非難することで自分の考えを明らかにすることもできますが、そこから何かを変えるというのはなかなか難しいと実感しています。それなのに安易に否定することから始めてしまうんですよね。日本の和は同調圧力を生んでしまいやすい特徴があると思っています。同じであることを強く求められてしまうこと、そして単一の価値観で評価しようとする傾向があることなど、あちこちで感じることです。そのような現状を踏まえて、さて乳幼児教育はどうあるべきかと考えていくわけですが、やはりすべきことは変わりません。ただ私の場合はもっと穏やかな心で和を大事にしなければいけないとは常に感じてはいますが。

  3.  日本人の特性というのを、最近の藤森先生のブログで理解するようにしていますが、まだまだ私自身、日本人独特の特性というのを理解していない部分が多くあるようですね。確かに日本の「和」というのは大切にする必要もありますし、人間関係も良好にします。まず私は「和」という言葉の意味をちゃんと理解していないので、辞書などで調べてみました。たくさんの意味がありますが、代表的な意味では和やか、和らげるなどの意味が書いてあります。日本人が当たり前と思っていることは、海外から見ると珍しいことも、日本人、日本という国の特性、「和」から来ているということならば、しっかりと理解し、良い方向に向けていく必要があるには、私ももっと学ぶ必要があるようです。

  4. 海外の幼児教育を見ると、こども個人の興味関心探究心の尊重や個の確立、主体性、自発性ということをその中心に据えていることがわかります。我が国の幼児教育関係者の中にはその諸外国の幼児教育観に倣おうとする人たちがいます。先生主導で先生の指導の前では子どもはその個性を発揮してはならず、発揮しようものなら叱れるという事態が従来の我が国の幼児教育現場にはあったわけですから、海外の幼児教育に飛びついてしまうのでしょう。わからないでもないですね。ところが、私たちには先祖から受け継いできている「和」の精神があります。我が国はヤマトすなわち「大和」です。現代の言葉を使えば「関係性」の精神ということになります。私たちは安易に他国に倣うのではなく私たちの歴史的文化的そして精神的伝統から乳幼児教育を創っていくべきでしょう。競争より協力、愛より思いやり、縦関係より横のつながり、を目指していくことが身土不二なのでしょう。日本はこの「和」の部分で世界に貢献できるはずです。

  5. 「和」という言葉は日本をとても象徴する字だなとより強く思いました。日本はとてもモラルが高く犯罪も少ない国というのを私の小さい頃は聞いていました。今でも比較的少ない方だと思いますが、少しづつ変わってきているという話も聞きます。コミュニケーション能力が低下していると言われている昨今、今回のブログにあるような周りを気にする文化が重荷になるような社会になっているように思います。だからこそ、いま求められている能力が見えてくるように思います。せっかく、元からあるとても良い文化をより活かす社会体系に変えていけるようにしていかないといけないですね。

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