共視から共感へ

 赤ちゃんは、共に同じ物を見るという「共視」によって、何を学んでいるのでしょうか。この行為によって、開かれる発達の可能性はとても大きいということが言われています。まず、赤ちゃんは、他の人の視線を追いかけることによって、その人の注意がどこに向けられているのかを知り、その人が、その視線の先にあるものについて、何か関心を持っているということ、あるいは何かを思っているということ、場合によっては、何かを言っているのだということに気がつき始めるのだといわれています。それは、赤ちゃんがことばを習い覚え始める頃にとても大切な働きをするということが言われています。それは、ことばは、人に何かを伝えようとする道具であり、その道具を効果的に使うためには、相手の視線の行方を知ることが大切になるわけですから、まず、人の視線が向いているほうを知る練習が必要かもしれません。また、ことばは、あるものを指したり、ある行為を表したりするわけですから、そのものを大人がことばで説明したときには一緒にそのものを見ていないといけないわけです。

 また、共視はそれだけの意味ではなく、そのものへの感想や思いまで伝わることになります。遠藤氏は、こう言っています。「気持ちの読み取りにおいて視線と共に重要な役割を果たすのが顔の表情や声の調子などです。私たちは、日常、何かを見ているときに、とりわけそれが自分自身の関心に深く関わるものであるときには、つい顔にある表情を浮かべたり、声を発したりしてしまうことが少なからずあるものです。そして、その様子をそばで誰かが見ていたとしたら、その人は、私たちの気持ちをたやすく感じ取ることができるはずです。」こうした視線と表情を手がかりにした人の気持ちの読み取りや、それを通したものの意味の推測のことを、心理学では「社会的参照」というそうです。この行動は、他の霊長類でも見られることですが、人におけるこの能力は飛びぬけているといわれており、人がこれほどまでの知性を身に付けることができたのは、この「社会的参照」によるのではないかと考える人もいるそうです。

 たとえば、私たちが飛行機に乗っているときに大きく揺れたら、先ず、スチュアーデスの顔を見ます。慌てた顔をしていないと安心します。同じように、赤ちゃんは、1歳前後になると、見ず知らずの人と出会ったときに、母親の顔を見て、その人が安心できる人かどうかを判断します。もしかしたら、初めての食べ物、初めてのにおい、それらは、自ら体験しなくても、人の視線や表情を見るだけで、そのものがどういうものであるかのかを感じることができるのです。ですから、非常に効率的な学習方法だといわれているものです。しかし、時には、それは、思い込みになったり、刷り込みになったり、食わず嫌いを起こしたりする可能性があるかもしれません。

 この「共同注視」や「社会的参照」の発達がさらに進むと、赤ちゃんは、自分が関心を持ったものに、指さしなどを使って他の人の注意を呼び込み、自分の気持ちを自発的に伝達しようとし始めます。それは、そのものを見て欲しいとか、そのものを取って欲しいとかという思いからそのものを指さすだけでなく、自分が喜んだり、驚いたりしたことの感想めいたものを他の人と分かち合おうとするような場合もあります。そのものを一緒に見て!という合図です。

もう一つ、こんな役割もあるようです。私が赤ちゃんの部屋を覗いたときに、私に関心を持った数人子が私のほうに近づいてきて、一生懸命自分をアピールしようとしました。普通は、腕を差し出して、抱っこをせがむのですが、そこまでまだ私に気を許していないグループです。その赤ちゃんたちが、自分をアピールした方法は、何かを指さすのです。しかし、指さした先には、何もありません。何もない空中を指さします。しかも、私が指さしたほうを見ると、指す先を変えます。どうも、自分を見てというときに、自分を指ささずに、どこかを指さすようです。指さしは、自己アピールの役目もあるようです。

共視から共感へ” への6件のコメント

  1. 乳児保育の現場ではよく『情緒の安定』という保育用語が聞かれますが、それは決して保育の最終目的ではなく、一つの過程にしか過ぎないという思いがしています。教育心理学の視点から見ると、保育とは、精神発達の面で、子どもが猿から進化した動物から人間へと社会化していくために、集団の関わりからソーシャルスキルを獲得することだと理解しています。このソーシャルスキルには、非言語的と言語的の二種あります。乳児においては特に非言語的ソーシャルスキルが重要です。中でも注目されるのが、このなかに、「非言語キュー」(視線や身振りで気持ちを伝える)や「他人の行動の理解」(相手の行動の意味や意図を理解できる)という能力を乳児は潜在的に持っているという点です。「他人の表情や視線を理解する能力」を生まれながらにして備えているというのが定説です。確かに、赤ちゃんをじっと見つめると、真剣に「このおじさんは何者か!」という目で見てきます。視線をそらすとそれを追っかけてきます。母親と和やかに話しだすと、安心したのかにっこり微笑んでくれます。生きていくとは、社会の中で、いろんな未知の人間と交流することとも言えます。生きていく術を乳児はこの時期から学習しているわけです。

  2. 飛行機のたとえ、よーく理解できました。確かにその場その場で自分が頼るべき人がどのような表情をしているかはつい確認しますね。知り合いを介して人と会ったりするときなんかは、その知り合いとその人の関係を無意識のうちにやりとりや表情などから感じ取ろうとしたりもします。少し意味合いは違いますが、赤ちゃんがとっている行動もそういうことでもあるんですね。例えがあることで話はグッとわかりやすくなります。例えを上手く使えるようになりたいと、内容とは関係のないところで考えてしまいました。赤ちゃんの行動についても、書かれているような場面はよく目にしています。そこからその意味を掴んでいくことが私たちのすべきことなのですが、なかなかそれも進んでいません。なのでここで教わって理解をしている次第です。まだまだだなあと反省してばかりです。

  3.  本の写真を見ながら、その写真を指さして、時には何だか声を出している場面を見ます。また、少し発達をし、自分で歩けるようになった赤ちゃんは、本を持ってきて指をさして、私にアピールするときもあります。可愛いなぁと思いながら見ていますが、この行為は、ことばを覚え始める頃に現れる行動で、また指差しをすることで、その物を一緒に見て欲しい、また自分をアピールするためでもあるのですね。赤ちゃんの行動一つ一つに、発達をしていく為の意味が含まれていると考えると、私より充実した一日を過ごしているように思います(笑)また、飛行機の中での例から、赤ちゃんも同じように人の表情を見て、その物がどういうものか確認し、知っていく行為も行っているとは、またまた驚きです。赤ちゃんの行動を見ていると、つい表面だけしか見ないで、可愛いなぁと思ってしまいがちです。もっと本当の意味を考え、乳幼児教育という物を確立していく必要があると思います。

  4. 今回のブログ最終段落のことは私も経験しました。確かに、指をさすのです。しかし、何か特別個別のものを指さしているようではないのですね。その子はそれまでは私の顔をみると(怖い顔をしているからでしょうか)いつも泣くのですね。ところがその指さし以降は泣かなくなりました。むしろ話しかける私の方をよく見ますね。まだ微笑みはしませんが・・・時間の問題でしょう、微笑んでくれるのは。職員室にいると2歳未満の子たちが時々先生と一緒に来ます。歩ける子、ハイハイする子たちが私のところに来ます。彼らにとって何か楽しいものがあるのでしょうね。それでもやがて先生のところに戻ってお部屋に帰ります。そうそう、彼らは私の膝の上にちょこっと座り時に立ち上がり私のパソコンや机の上の書類に関心を示します。彼らの世界、一体どうなっているのでしょう。かつて私も通った道なのに・・・。絵本を読むならやはりジョイントアテンションですね。

  5. 赤ちゃんを見ていると違う方向を指差していることがありますね。赤ちゃんは感受性が豊かな分、幽霊が見えるということをいう人がいて、そうなのかと思っていました(笑)その活動にも大きな意味があるんですね。最近、赤ちゃんの部屋にいくと初めての人がきたと思ってジッとこちらを注視されることがありました。その時も自分ではなく、他のオモチャを指差して、オモチャと私の間を視線が行ったり来たりしていました。その後、そういったやり取りをすると安全と思ったのか近づいて来るようになったのは共同注視のために共感できたからなのかもしれません。
    日々いろんなものを見て感じて、多く学んでいるんですね。

  6. 共同注視や社会的参照について、考えると人のもつ能力は、乳児の時から発揮され、その能力を使い、相手とのコミュニケーションを図る体験をしているように思えました。そして、゛赤ちゃんがことばを習い覚え始める頃にとても大切な働きをする゛とあり、言語獲得において、他者の存在、例えば、指さしをし、相手が言葉で、指さしをした方向にあるものや何かしら答えたとき、言葉を聞くという経験ができます。そのような中で、表情で反応したり、身振りを使い、反応を示すなどし、関わりをもっといると思うと、やはり、子どもとの距離感をちょうどいい、子ども同士の関わりを持てるなかに、そのような乳児からの共感的コミュニケーションを図れるように考えなければならないと思いました。

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