自由遊び

 乳幼児に使うことばと、同じことばであってもずいぶんと意味合いが違っていることばがたくさんあると同時に、矛盾するようなことばが私はある気がします。そういう意味で、昨日のブログで取り上げた「遊ぶ」という考え方は、子どもの中心課題であるだけにさまざまな論議がされてきています。たとえば、「自由遊び」と言うことばがあるのですが、私は、このことばの自由とは何をさしているのか考えてしまうことがあります。というのは、この「自由遊び」に対応する言葉は何かと言うと、「設定保育」「誘導保育」にあたるのかも知れませんが、これらの言葉は、保育の仕方であり、自由遊びに対応することばではないような気がします。では、「自由」の反対語として普通はどのようなことばが使われるかというと、「専制」「束縛」「統制」ですが、そのなると「自由遊び」に対応する言葉は、「束縛遊び」とか、「統制遊び」ということばになりますが、なんだか変です。というのは、「遊び」の概念にもともと「自由」という考え方が入っているために、違和感を感じるのかもしれません。。

 モンテッソーリは、子どもの活動として、生活の中で達成感を得られる活動を「仕事」と呼んで、「遊び」と分けて考えました。「遊び」とは、特別な目的がなく、途中で終わってもかまわない活動であるのに対して、「仕事」は、目的や終わりがあり、終わったときに達成感がある活動であるとしました。したがって、遊びの「ままごと」はせず、本物の食材を使い、本当につくって食べて、片付けるまでを「仕事」としてやりぬきます。そして、モンテッソーリは、歩き始めのころから4,5歳までを「敏感期」と呼んで、この敏感期の子どもは「遊び」よりも、自分を確実に成長させる「仕事」をやりたがることを発見します。

 しかし、園児が園に登園してきたら、最も無理のない子どもの自然な形態である「自由遊びからはじめる」ということを、倉橋惣三は提案しています。ここで言う自由とは、「自然な形態」を指しているのですが、彼は、モンテッソーリと違って、「目的なしには一切の教育は存在しない」とした上で、「目的を必ずしもこちらから押し付けなくとも、幼児の生活それ自体が自己充実の大きな力を持っている」という、子ども自身に自ら育とうとする力があるとする子ども観、発達観に立脚をしているのは確かなようです。

 日本でお茶大付属幼稚園が設立されたときの保育方法は、欧米で行われていた恩物を中心としたフレーベル式幼稚園を引き写した形で行われていました。それは、非常に教師の主導性や指導性が強いものでした。それを倉橋は、取り扱い方法が厳密に決められていた恩物を「棚から下ろし、全部をごちゃ混ぜにして、ただの積み木にしてしまった」と称されたような保育方法をとります。それは、「子ども中心主義」であり、子どもの生活をその具体的な生活を十分に営ませることによって、より高い生活に導くとして学校の形態としてのその枠をはずしたのです。その保育方法、内容の中心は、「遊び」を主体としたものであり、一人ひとりの子どもの遊びが充実するように教師が「教える」のではなく、子どもの要望があれば、「指導」するとしたのです。

 子どもの遊びにまとまりを持たせ、遊びと指導が発展的に展開するように総合的な保育方法、内容の構成を考えた具体的なものが「系統的保育案の実際」となっていくのです。しかし、また、ここで、乳幼児期における意味と、学校教育、大人の世界で使われる意味の大きな違いがあることばが出てきます。それは、「指導」ということばです。なかなか、厄介です。

自由遊び” への5件のコメント

  1. 藤森先生に出会う前は、長い間モンテにのめりこんでいました。全国各地のモンテの実践園を見学しては、様々な教具に囲まれた部屋で、異年齢集団で遊びに集中する子どもに感動していたものです。藤森先生の見守る保育に触れてから、すっかり宗旨替えをしてしまいましたが。今、あの頃を振り返ってみて、モンテの遊びを客観的に見直しての素直な思いです。

    *「やってみる?」と教具を提示されて、もし「いやだ、こっちの方がいい」と自己主張する子がいたら、僕はその子を誉めてやりたいですね。

    *気に入った教具で遊んだ後、教具棚に先生に言われた通り、丁寧に返してしまう子より、友達に「これおもしろいよ。やってみたら」とすすめる子どもが見たかった。

    *円柱さしは一人で黙々と遊ぶより、4種類の円柱さしを麻雀のように並べて、4人で遊ぶことを発明する子どもの方が創造的だと思う。

    所詮、子どもにとっては、モンテの教具も発達の道具の一つ。そのメソッドも手段にしか過ぎない。ところが、長い歴史の中で、子どもの変化が置き忘れられて、女史の遺した言葉と教具のメソッドが金科玉条のものとして目的化されてしまったことが残念です。子どもは大人がしつらえた環境の中で育つものではなく、環境に働きかけ創造することで育つもの。見守る保育から学んだことです。

  2. 河合隼雄さんが講演でこんなお話をされていたのを聞いたことがあります。『子どもには自由遊びが大事だ、これからは自由遊びをもっと充実させないといけない。そんなことを保育者の前で話をすると、「自由遊びはどのようにすればいいのですか?」と質問が返ってくる。自由というものをどう捉えるか、苦手な人が多いように思う』こんな話だったと思います。自由というだけで捉え方は様々あるように思いますし、だから尚更子どもにとって自由遊びが大事だと言われると、「自由」と「遊び」の様々な捉え方が組み合わさって更に様々な捉え方になってしまうのかなと思います。子どもの持っている力をどう捉えるかということもそうですが、自由の捉え方や遊びの捉え方など、きちんと整理して発信できるようにならないといけないですね。私自身、考えていて頭の中がグチャグチャになってしまっています。

  3.  自由遊びと聞くと、子どもが自分で好きな遊びを自由に選択し遊んでいるというイメージです。その自由遊びの反対の言葉が束縛遊び、統制遊び・・・ちょっと笑ってしまいました。倉橋さんが言われるように「目的なしに教育は存在しない」という言葉、確かにその通りかもしれません。子どもたちは自分で何を作りたいか、友達と何をしたいか、子どもによって様々な目的をもって遊びに取り組んでいます。その時に子どもから大人への働きかけがあった場合は、無視するわけでなく、その時に応じた言葉かけをします。それが言い換えれば指導に当たるのでしょうか。しかし、学校教育、大人の世界で使われる「指導」という言葉は確かに意味のとらえ方が違うと思います。確かに厄介ですね・・・。

  4. 遊びには「自由」という要素が元からはいっている、というのはその通りですね。「束縛」も「統制」といったものが大人から発信されるというのはおかしな話ですが、こちら側からの投げかけというよりは、子どもたちが独自に作り上げていく遊びの方法の中にルールができるのが自然なように思います。そこにスパイスとして大人の「指導」が入ることで遊びの幅が広がるというのが私のイメージです。ただ、それは「束縛保育」や「統制保育」といったイメージではないですね。あくまで発信の始まりは「子ども」というのが自然なもののように思います。
    「指導」という言葉…..、こう最後に締めくくられると、厄介な言葉に思えてきました(笑)

  5. 私は学ぶことが好きで、実にいろいろさまざまなことに興味関心を抱き、今日なお衰えることを知りません。振り返ると、小中高の教科主義の授業が嫌で、「教科」というより、私の意が反映されることもなく「時間割」が組まれ、学ぶ順番も決められ、そこには自分の主体性も自主性も保障されない学校の授業スタイルが嫌で、小学校の高学年になると中学になれば、あるいは中学3年の時には高校に行けば、と学びの自由をその先に求めていました。大学生になって授業を自分で選べる、と思ったときはとても感動したのですが、選ぶことに慣れていない自分に気づき愕然としました。そして、大学の学びの機会をきっかけに、とにかく「やりたいことをやる」「学びたいことを学ぶ」でずっとやってきました。「束縛「統制」そして「指導」。私が好きになれない二字熟語です。時々使ってしまうのですが「勉強」という二字熟語もダメですね。「恩物」や「仕事」・・・と言われると大人の私は重圧を感じます。子どもたちには本来的に無縁なことなのではないでしょうか。子どもの世界、そもそも人間の世界とは何か、こうした哲学的命題に私たち大人がしっかりと向き合わないと子どもたちの未来はないような気がします。

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