生活と遊び

 私が若いころに、少しワルと呼ばれていた中学生の面倒をみていたときに、受験が近づいてきたころ、面接の練習をしました。そのときに、質問で「将来、どのような職業に就きたいと思いますか?」という質問に、「食べていければいいです。生活できれば、どんな職業でもいいです」ということ答えを聞いて、なんだかさびしく感じると同時に、「生活」とは、なんだろうかと思ったものでした。この字から見ると、「生きて、活動すること」となります。ですから、この生活とは、人間に限らず、生きているものにはどんなものにも使います。

 では、「子どもの生活」と使うときには、どのような意味が含まれるでしょうか。
倉橋惣三は「幼稚園真諦」のなかで次のように述べています。「幼児のさながらの生活から出発し、生活を通して、それを本当の生活にしていくのが幼稚園の教育だ。」すなわち、生活の中に教育的価値を見いだし、どのように体験させていくかというところに、教師の計画的な環境構成や援助がいるとしているのです。良い教師とは、一日の生活の中で、そのような教育の機会を与える教師であるといいます。ですから、「幼児を教育すると称して、幼児を先ず生活させることをしない幼稚園に反対」とはっきりいっています。

  よく、園では、「コアタイム」とか、「設定保育」と称し、その時間内だけが保育であり、そのほかの時間帯は子どもたちの自由時間であるとして、週案などの保育計画はただこの時間内だけを立てたり、日誌も、この時間内での活動だけを記したりします。しかし、園は朝「おはよう」と登園してきてから「さようなら」と帰るまでが保育なのです。私の園への見学者にデーリーとして「何時から何時まで設定保育ですか?」と聞かれることがあるのですが、私は「子どもが来てから帰るまで、すべての時間帯は設定保育です。」と答えることにしています。散歩に出かけるときにも、目的地での活動だけが保育ではなく、行く途中、帰り途中すべての時間帯が保育なのです。それは、子どもの生活そのものが保育だからです。倉橋は、「生活の教育化」という概念を持っていたのです。

  「生活の教育化」ということは、具体的にはどのようなことでしょうか。倉橋は、子どもは、自ら育つ力を持っている有能な存在である主体者であるという前提の下、子ども達は環境との相互作用により発達していくことから、環境を構成していきます。環境に主体的に関わることで子ども達は自己充実し、その中で必要な経験をし、保育者は、個々の子ども理解から、子どもに経験してほしい狙いを織り込んだ環境を構成し、個々の子どもがその環境の中で子どもにふさわしい生活を送ることができ、もし、子どもが必要としていることがあればそれに応じて答え、いつでもそのスタンスでいることを表明し、見守っている存在である必要があるのです。

  では、子どもにとっての「ふさわしい生活」とは、園生活の中でどのような生活を指すのでしょうか。彼は、その基盤は「遊び」であり、「主体的な活動」にあるとしました。「遊び」は、子どもにとっては「生きること」であり、「成長すること」そのものであり、まさに「生活」という、「生き」「活動」していることなのです。現在、小児保健の教科書には、「遊び」は「赤ちゃんの生活すべて」と位置づけられています。この遊びの意味は、乳児に限らず、子どもにとっては、「生きる」ための要素がたくさん詰まっているのです。

  子どもの「生活」と「遊び」は切っても切れない関係にあるのです。

生活と遊び” への6件のコメント

  1. 先日のブログにあった「幼稚園教育要領」ですが、あらためて読んでみると、うまく理解できなくて、どうも引っかかるんです。

    「各領域に示すねらいは幼稚園における生活の全体を通じ、幼児が様々な体験を積み重ねる中で相互に関連をもちながら次第に達成に向かうものであること、内容は幼児が環境にかかわって展開する具体的な活動を通して総合的に指導されるものであることに留意しなければならない。」

    『生活の全体を通じ』ですから、藤森先生の言うように、そもそも幼稚園での保育も、朝「おはよう」と登園してからお帰りまでの時間のはずです。それがどうして、コアタイムなどという時間限定の特別保育が設定されるんでしょうか。幼保一元化に収れんしていく過程での幼稚園側の最後の牙城?

    『環境に関わって』というのは、当然子どもたちの自発的意志による主体的な取り組みのはずですが、なぜ保育者の指導が必要なのか?指導が介入するとき、子どもたちはその環境との熱心な働きかけ(遊び)の邪魔になるのでは。

    保育の素人が読むと、余計変なところが目につきます。この文章は、伝統的な「領域主義」「指導主義」的な保育の考え方に、少し生活教育の味つけを施したもので、極めて玉虫色の匂いが強い条文ですね。先生が関わった「子ども指針」はもっと明確なものになるのでしょうか。

  2. 「生活の中に教育的価値を見いだし、どのように体験させていくかというところに、教師の計画的な環境構成や援助がいる」というのは本当に大事な点ですね。そしてその環境構成や援助のために、子どもは自ら育つ力を持っている有能な存在である主体者であるという前提が大事になってくると。遊びとか生活とか、そんなつもりはないのですが割と簡単に使ってしまっているところがあります。『「遊び」は、子どもにとっては「生きること」であり、「成長すること」そのものであり、まさに「生活」という、「生き」「活動」していること』このことをしっかりと理解しておかなければいけないですね。単純なようで、ものすごく深く大事なことと受け止めました。

  3.  「生活の教育化」子どもは毎日様々なものに興味を持ちます。保育園の中で遊ぶとき、散歩先や行き帰りの途中、色々な場面で多くの体験をして、そして学んでいます。これらは、子ども達にとっては当たり前の事です。教育という言葉を聞くと、すぐに文字数指導などを連想する人がいると思いますが、この時期はブログにも書いてありますが、「遊び」は子ども達にとって「成長すること」で決して、大人が思う遊びと子ども達にとっての遊びの意味は全く違うように思います。「子どもの生活」=「遊び」私自身、まだまだ勘違いしている部分が多くあるようです・・・。

  4. 私は保育園で働くまで子どもは毎日遊んで過ごすという認識でしかなかったのですが、保育園で働くようになり藤森先生の講演などを通じて今までの子どもへの認識が変わってきました。 以前の講演の際に「子どもの頃の行動に無駄な事はない」というお話をして頂きました。子どもたちを見ていると本当にその通りだとおもいました。子どもたちにはいろんな遊びを通じていろんな経験をさせてあげたいですね。

  5. 「保育」という概念からいくと保育園に子どもが居る時間はすべて保育時間というのは当然の話ですね。つい「設定保育」というとある一定の時間子どもたちに向けて何かする時間に思えますが、大きな間違いですね。それだけ子どもたちの生活と保育という考え方が離れている現状の証明なんだと思います。倉橋惣三氏の「生活の中に教育的価値を見いだし、どのように体験させるか。」という考え方はもう一度考えなければいけませんね。子どもにとってどういったことが必要か、それが今ある「教育」という考え方も含め、シンプルに優先事項を考えると本来の「保育」や「教育」という考え方に近くなるように感じます。

  6. 私たち大人が「遊び」と捉える子どもの行為は、私たち大人が仕事ではない活動をそう呼ぶのとは大きく異なっていることに気づきます。「生活」と称される「遊食寝」は等価であり、優劣をつけることができないことはもとより、食寝が大切にされるのと同様、遊も大切にされるべきところが、「指導」の概念が入り込み「遊」が遊でなくなってきてしまったような気がします。「計画」しかも「指導計画」が子どもたちの生活実態の上に君臨するようになってから園や所と呼ばれる乳幼児集団施設の子どもの様態は大きく変わってきたのではないでしょうか。自由は放任と同義と捉えられ、あるいは時に「自由放任」と四字熟語化し、何か負の価値を帯びたこととされているようです。「環境に主体的に関わることで子ども達は自己充実し、その中で必要な経験を」するのですから、私たち大人は子どもたちが働きかけられる環境を設定し、そして子どもたちが自らに由ることを信じ、私たちから放れ、彼ら自身に任せられるようにしていかなければならないと思います。子どもたちは、働きかけかけられる環境がしっかりと存在するなら、充実した生活を自ら作り上げていくことができる、と確信しています。

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