幼児教育指導

 学校教育において「指導」という言葉は、その内容を示した「学習指導要領」ということばに代表されるように、「学習を子どもたちに指導する」ということになるのでしょう。しかし、その内容の中で「確かな学力」では、「基礎・基本を確実に身に付け、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」とあります。指導といっても、あくまでも子ども自らの行為である学習を揚げています。

 戦後、日本は、学校教育法が成立し、幼児教育においても幼稚園、保育所、家庭の幼児教育まで含めた幼児教育の手引きとして「保育要領」が示されました。しかし、この作成に当たって、GHQの指導の下、教師の主導性が強いものでした。その後、講和条約の締結後、幼稚園は、高等教育まで見通した「学校教育」の一貫性の中で構想が練られます。それは、「学習指導要領」が定められていた小学校への準備教育という考えの下、「幼稚園教育要領」が刊行されました。しかし、このとき、いくら小学校教育の準備期といっても、「指導」ではないということで、当初考えられた「幼稚園学習指導要領」という名称は、却下されました。それは、幼児期は、一人ひとりの発達が違い、発達の段階としてまとまった形の学習方法、内容を示す時期ではなく、子どもの遊びを中心とした保育方法、内容を示す必要からだったのです。

 しかし、どうしても幼児教育において、小学校教育と同じような「指導」という方法が根強く残ってしまったのは、たぶん、「領域」の考え方でしょう。「学習指導」ではなく、「幼稚園教育要領」ということで、倉橋惣三の子ども達の自然な生活を中心とした生活主義は、反映され、残されたのですが、「望ましい経験」として子どもたちの楽しい園生活が羅列的に並べられて板の保育内容を、もう少し整理しようということで六つの「領域」にまとめたのです。そして、その内容とそのことばが、小学校の教科をイメージさせ、幼稚園教師に小学校との連携を強く意識させ、領域別に教えるという保育活動を産むことになるのです。ですから、今でも「幼稚園教育要領」には、「各領域に示すねらいは幼稚園における生活の全体を通じ、幼児が様々な体験を積み重ねる中で相互に関連をもちながら次第に達成に向かうものであること、内容は幼児が環境にかかわって展開する具体的な活動を通して総合的に指導されるものであることに留意しなければならない。」というように「総合的に指導されるもの」として「指導」ということばが残ってしまっているのです。

 しかし、どうしても幼児の知識や技術の習得に偏した教育を行っている幼稚園が見られるため、文部省では、「領域と教科」の区別について丁寧に説明しています。教科とは、「国語、算数、社会、理科など学校で児童生徒に授ける教育内容の単位で、それぞれの教材の特性に応じて分類され、発展的、系統的に分けられているもの」と説明しています。簡単に言うと、「指導」とは、「授ける」こととして使っています。一方、領域は、「子どもたちが望ましいと思われるさまざまの経験や活動があって、それらの経験や活動を通じて幼児が刺激され、誘発され、気づき、習得されると思われる“ねらい”をまとめたものにつけた名称に過ぎない」

 しかし、どうしても現場では、この「指導」ということばによる誤解が混乱を招いています。「子どもを指導してはいけない」ということを、「子どもに指示してはいけない」とか、「子どもに注意してはいけない」とか、「子どもを導いてはいけない」と思ってしまうことがあります。幼保一体化の中で、きちんと「遊び」「指導」ということばの合意を図ることが必要な気がします。

幼児教育指導” への5件のコメント

  1. タレントで酪農家の田中義剛さんの幼少期を描いたNHK「私が子どもだったころ」を観た。八戸でサラリーマンの一人っ子として育った田中さん。ハーモニカ長屋のような市営住宅で生まれ、近所の子どもたちと日がな一日遊び呆けている八戸でいう「投げ童(わらし)」だったという。5歳の時、幼稚園のシスターさんが、入園の勧誘にやってきた。「義剛君、幼稚園に入ったらお遊戯もできるし、お絵かきもできて楽しいよ」反骨精神逞しい義剛少年、「幼稚園なんて嫌だ!友達と遊んでいる方がいい!」と断固拒否。幼稚園で先生のいうこと(指導)を聞いておとなしく遊ぶことが耐えられなかったのだ。

    『一人っ子だったけど、近所に遊び仲間が大勢いたから、寂しさは無かった。年長のガキ大将はぼくたちを守ってくれたし、僕らも尊敬していた。漁師町の子ども同士の「投げ童」の生活が僕を育ててくれた』

    現在では、多額の負債など数々の困難を乗り越えて「花畑牧場」を成功させ、実業家としても大活躍している田中さん。不撓不屈の彼の人生を支えてくれたのは、決して押しつけられた「指導」や作られた「教育」ではなく、子どもたちの自由な遊びの世界と友情だったのです。

  2. 言葉の合意ができていないまま話が進んでいくと、ずいぶん食い違いが生じてしまうことは周りにもたくさんあります。先日ある議員さんがこんな発言をされている記事がありました。「保育園では教育の充実を、幼稚園では保育の充実を」教育と保育について、多分この方と話をするときには食い違うことが多いでしょうね。「遊び」と「指導」についても一般的には難しいのが現状かなあと思います。何度も何度も考えることですが、その意味について「このような意味ですよ」と言えるのは私たちだと思っています。誤解が生じてしまうのは人のせいと考えず、自分がすべきことができていないからと捉えると、道は開けてきます。何でもこう考えるしかないと思っています。

  3.  「子ども達に指導する」と言われると、どうも大人が先頭に立って、子どもに一つずつ教え込むという印象が出てしまいます。「指導」とは「授ける」ということとして使っているように、子どもは自発的に活動し、そこから多くのことを学んでいきます。大人が何でもかんでも教えればよいというわけではありません。しかしだからといって、大人は何もしなくてもいい、それこそ子どもに指示してはいけない、注意してはいけないというのは、大きな勘違いのように思います。子ども達が間違った方向に進まないように、修正してあげる必要もありますし、時には注意も必要だと思います。「指導する」という言葉は私を含め多くの先生が違う認識をしているように感じます。

  4. 「遊び」と「指導」というものの区別は難しいところではありますが、もともとの刷り込みで持っている「指導」という言葉と今回のブログに出てくる「指導」とはまた少しイメージが違うように思います。どうも私が持っていた指導はビシバシ子どもたちに色んなことを教えるイメージで、教師発信のものです。しかし、今回のブログの場合では子どもからの発信を受けての保育士の導きであって、その発信もとは子どもたちにあります。小学校など「学校」のイメージが強い「指導」という言葉ですが、振り返ると、子どもたちにとってなにが大事で、どういった活動を用意することができるか、「環境を用意する」という行為は「導く」という言葉にすごく近いように感じます。

  5. 「指導」と言われると、何だか上からの目線を感じてしまいますね。こどもたちを相手にする大人たちは「指導」「しつけ」「あいさつ」「しせい」と大人の私も嫌になってしまいます。保育園や幼稚園の先生たちは楽しいお話をするために口を開けばいいのに、言葉を発したかと思うと「指示」「注意」挙句の果てには「叱りのお言葉」となる先生方に時々出くわすと、何が面白くそうしているのだろうと思ってしまいます。おそらくその先生たちはその子の「ため」と思って「指示」「注意」そして「お叱り」となるようですが、この「ため」とは一体何だろうと思います。ところで「領域」の説明を今回のブログで紹介されておりましたが、実に立派な内容だと感服しました。すべての園がこの「領域」の説明通りの保育環境を用意していれば、子どもたちの生活空間がどれだけ有意義なものになることでしょう。それから今回のブログの冒頭部分で紹介のあった「確かな学力」については、「基礎・基本を確実に身に付け」をとにかく「指導」され小学校最初の二年間を過ごした息子の体験を思い出しました。「身に付け」の後が続かないまま学年だけが過ぎていくのです。私のささやかな経験からも「確かな学力」をつける最初にして根本となるのは「興味関心をもつこと」です。これがなければ「確実に身に付ける」ことはほぼ不可能なのです。

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