意図

 最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

 私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

 当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

意図” への6件のコメント

  1. 倉橋惣三の思想には、時代背景と日本のキリスト者としての立場が大きく影響しているのではないかと思うのです。保育の創世期に、伝道師として活躍した人にキリスト者が多いのは、その後の保育界の進んできた道に大きな影響があったと推理しますがいかがでしょうか。

  2. 大人の意図ではなく、自ら育つ力を持っている子どもの意図を汲み取ることの意味について考えるきっかけをいただいてきたことによって、その意味が以前と比べるとずいぶん理解できるようになってきました。子ども同士ということの意味も同じです。少子時代だからこそ、この子ども同士に視点が欠かせないと気づかせてもらえたことは、本当にありがたいことです。自分で気づかなければいけない事なんでしょうが、そんなことは余り気にせず突っ走っています。園庭環境の考え方は、シンプルですがとても参考になります。園庭も園舎も子どもが生き生きと活動する場という点では何も違いはなく、だからこそどちらも大人が手を抜いてはいけないんだと思っています。考えるべきことはたくさんありますが、これが楽しいところなんですよね。

  3. 幼保一元化といっても、待機児対策とか大人の都合で決められたことで、結局様々な思惑から、総合子ども園は、幼稚園と保育所を合体したものと、既存の保育所の二つに集約されそうです。問題なのは、制度上の議論が優先され、今の保育のままでは「子どもの育ち」が危ないという問題が忘れられていることにあります。今求められることは、幼稚園を保育所化したり、保育所に知育教育を取り入れたりすることではなく、縦割り行政の下での養護や教育を超えた「陶冶」という概念を用いた保育を創造することだと考えます。陶冶は、保育者の意図よりも、子どもたちの自発的な意志が尊重されます。保育者の指導よりも、子どもたちと環境の応答的な関わりが重視されます。保育者は、必要に応じて援助する見守る存在でいいのです。これらはすべて、藤森先生の実践の中に具現化された保育です。倉橋惣三の子ども中心の理念も見守る保育によってきっと現代化されることでしょう。

  4.  時代に応じた幼児教育を行う事はとても大切なことです。私が見ても、今の子ども達の姿、子どもを取り巻く環境は、私の時と比べても全く違います。それを理解した上で幼児教育を構築していく必要があると思います。そして、子ども達に必要な力は何か?私はそれが一番重要な気がします。そうなると「子ども同士の関わり」藤森先生がよく言われる言葉です。いかに子ども同士の関わりが増えるような環境、関わりを意図した環境構成が必要になってきます。

  5. 日本で保育という話になるとどうしても保育者と子どもとの二者関係の話になることが多いのですが、いつもそういった話になると違和感を感じます。私は周りにいる子どもたちや大人も子どもたちにとっては「意図的な環境」になると思います。その中でどう自発的に環境を通して成長や発達を遂げることができるかを考えることが必要ですね。「教育の目的」がどこにあって、そのために大人の動きや子どもを含めた「環境」をどう作り上げていくか、そのなかに自発的に子どもが動けるかをもっと考えていかなければいけませんね。

  6. 不勉強な私は最近になってこの「意図性」ということを耳にし、しかも意識するようになりました。「意図がある」とか「意図性に欠ける」などなど。倉橋惣三氏の保育理論によっていたのですね。確かに藤森先生ご指摘の「保育者のかかわりの中」と、「教育の目的」の二つは「保育者主体」を導き出してしまうキーワードのような気がします。通常保育者は「何を教えるとか、何をさせる」ことが「仕事」で「子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」を「保育」だと思っているようなところがありますね。ですから、子どもたちの集まりを「子ども同士の集団」としてとらえることが困難になっていたのではないかと思われます。私たちが目指したいのは、子どもたちが子ども同士で遊び、できれば子ども同士で援助しあう、助け合う関係の構築、ということでしょう。乳幼児の集う園にある「意図性」はそこのところにあるのではないでしょうか。保育者が教育し指導し誘導するという意図性から「子どもの自発的な営み」と「子ども同士で、生き生きと活動すること」を意図する「環境の用意」がこれからの保育者の営み=「仕事」となればいいなと思っています。

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