ブラヘイジ3

  墨田区の「東京都慰霊堂」の裏には、「安田庭園」があります。この庭園は、案内には、「もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688?1703)に築造されたと伝えられる隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園で、明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修をを行い、復元、開園しています。」とあります。

  この庭園からいろいろなことがつながっていきます。昨年の暮れ、私は妻と京都の嵐山に行き、その散策の途中で「清涼寺」に立ち寄りました。ここは、浄土宗の元祖法然上人が、24歳の時に人々を救う仏教を求めて、同寺の釈尊像の前に7日間こもったと言われている寺院として有名で、入ってすぐのところに法然の青年像が建っています。また、この本堂(釈迦堂)は、たび重なる焼失の後、徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院の発願により、大阪の豪商泉屋吉左衛門らの発起により再建されたとあります。この豪商泉屋は、江戸時代はじめに蘇我理右衛門が若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、19歳から京都で店を構え、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。この銅吹き所は、徳川時代を通じて銅精錬業の中心となっていきました。その後、事業を京都から大阪に移し、三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。そして、銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心でしたが、ほかに両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営が行われ、これが「住友財閥」になって行きます。

  また、清涼寺の本堂は、桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれたのですが、この桂昌院についてもずいぶんと面白い歴史があります。彼女は、徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となったのですが、実は、京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘から登り詰めた、いわば日本版シンデレラなのです。運命というのは不思議なもので、まさか、八百屋の娘が後に将軍になる綱吉の母親になるとは思ってもいなかったでしょう。それは、京都の公卿の娘が尼になって、江戸城で家光に拝謁したところ、家光が一目惚れして側室にさせたのがお万の方で、彼女に腰元としてついていったのがお玉でした。腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまり、彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になったのです。ここでも運命のいたずらがあります。まず、生まれたのが男の子であったこと、別の側室に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたのですが、四代を継いだ家網は子どもなしで早死に、続いてその弟、網重も亡くなり、綱吉に将軍の座が回ってきたのです。

  この桂昌院は、非常に教育ママだったようで、綱吉にいつも「勉強しなさい!」といっていたようで、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になり、四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは学者並みであったと言われています。また、桂昌院は、とても身内を大事にしていたようで、弟の本庄宗資は、はじめ公家の家臣でしたが、本庄氏は小大名でしたが 桂昌院の庇護の元、将軍家より松平姓を賜り、常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任していきます。この常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領して、元禄4(1701)年、この地に下屋敷として築造したと伝えられているのが、旧安田庭園なのです。

ブラヘイジ3” への5件のコメント

  1. 徳川五代将軍綱吉についての歴史的な評価が最近変わりつつあります。これまでの通説では、「生類憐みの令」を出して、生き物を極端に大事にする政策をうち出したちょっと風変わりな将軍と思われていますが、実は彼の真の目的は「武士の意識改革」にあったとする見方が有力です。当時の武士は戦国の荒っぽい気性がまだ抜けきらず、街中では斬り捨て御免が横行していました。それを憂えた綱吉は「犬」ですら生類として人間と同格に扱うことで、武士の野蛮な心を変えようとしたわけです。武家諸法度を改定し「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」などと変えたことからもこのことが伺えます。綱吉によって、武士の在り方が大きく変わり、徳川三百年の太平の時代の基礎が築かれたといえます。

    その元禄時代の一大事件と言えば、元禄15年の赤穂浪士の討ち入り。討ち入りの舞台は『本所松坂町』の吉良邸、と言われていますが、実はこれは間違いです。この時点では、本所松坂町は存在していませんでした。正確には、松坂町は討ち入りの翌年に吉良邸の跡地にできた町人地。討ち入りの後にできた町だそうです。たぶん、のちに流行った歌舞伎や芝居の脚色のたぐいでしょう。

    信心深かった桂昌院は、綱吉が将軍になると、大塚に護国寺を創建します。広大な護国寺の境内には、国の重要文化財の本堂をはじめ、江戸時代からの堂宇が多く残っています。墓地には、山縣有朋、大隈重信、三條実美ら錚々たる人々が眠っています。ここも、綱吉つながりで「ブラヘイジ」してみてはいかがでしょう。

  2. Aが○○をして次にBが△△をして、という風に歴史を流れで見ていくのと違い、ある1人に注目してその人を中心に見ていく見方は相変わらずおもしろいですね。視点を変えると見えるものが全く違ってくるという経験が、歴史に関しては割と多いです。綱吉とは全く関係がありませんが、最近ではロシアのピョートル大帝を中心に眺めた歴史の話が非常におもしろかったです。ウラジオストクという町がどのようないきさつで作られたかとか、当時の日本とロシアの関係とか、学校で習った歴史よりもワクワクしました。歴史の授業が、何をどれだけ覚えたかについては全く気にせずに、とにかくそのおもしろさや様々な人の生き方に触れるということのみを目的とすればどれだけ授業がおもしろくなるんだろうと思ってしまいます。
    うーん、綱吉にはどうやってもたどり着かないですね。自分の綱吉に対しての情熱のなさがよく分かりました。

  3.  まず、東京には「○○庭園」と名がつく場所がたくさんあるのですね。もちろんどれも立派な庭園だと思いますが、写真のように日本庭園からスカイツリーが見えている風景は最高ですね。安田庭園から京都の「清涼寺」につながる藤森先生の知識には、いつも驚きます。私も・・・と思いますが、難しいですね。やはり色々な物に興味を持つことが、第一歩かもしれません。そして、大河ドラマゆかりの地を巡るように、テーマを持って出かけたりするのも、大切のような気がします。学校で年号や人物を覚える歴史の勉強よりも、歴史上有名な場所に行き、実際に自分の目で見て体験することの方が、楽しいですね。

  4. 人の人生というのは本当に色んな偶然が重なって紆余曲折していきますね。それを天命というのかもしれませんが、その流れにのってチャンスを掴めるかどうかは、また、違った運命なのかもしれません。結局はどう巡って流されるのを甘んじるのではなく、どうその時を充実して生きるかということが重要なように思います。天命というものを実感して気を引き締めるのは大切ですが、その一瞬を楽しむことも大切です。チャンスを掴むということは「無理をする」ことではなく、「ハードルを越えることを楽しむ」と考えるくらいのほうがいいのかもしれません。豪商泉屋や桂昌院は流されていながらも一生懸命、その時代を生きたように映ります。自分もそうありたいとつくづく思いました。

  5. 京都には「泉屋博古館」、そして東京には「泉屋博古館分館」があります。素晴らしい美術品の収蔵で有名です。この美術館が住友財閥のアートミュージアムであることも知っていましたが、「泉屋」と「住友」のつながりは今回のブログで知ることができました。今度かの地を訪れるときは、収蔵品の見え方がまた違ってくるような気がします。そして旧安田庭園が「安田財閥」で桂昌院を介して「住友財閥」とつながる、まさに「この庭園からいろいろなことがつながっていきます」ね。庭園にしろ美術館にしろ財力のある方々によって今日私たち庶民が楽しめるようになっていることに改めて感謝しなければならないと思います。そして平民風情が大名屋敷や財閥の遺産を楽しめる時代であることにまた感謝するのです。

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