ことばの意味

 ある行為をしたときのことばとして、それが大人がした場合と、子どもがした場合で同じことばを使っていても、その行為の意味はずいぶん違うことがあります。たとえば、赤ちゃんが行う「寝返り」という行為があります。親は、わが子が寝返ることができたときには、非常に感動して眺めます。それは、赤ちゃんが寝返ろうとして一生懸命にがんばっている姿を見ていると、見ているこちら側まで力が入ってしまいます。それは、今まで寝たきりであった赤ちゃんが、初めて自分の意思で移動しようとする行為だからです。ですから、まず足をひっくり返し、上体を、それに引っ張られるかのようにひっくり返そうとします。この「寝返り」は、大人が寝ていてもすることがあります。その場合は、意志で体をひっくり返そうというより、寝ている間に無意識のうちに寝返ることが多くあります。それは、横向きに寝ているときに、体の片側に血液がたまってしまったり、体の片側だけが圧迫されてしまうため、それを均等にするために体の反対側を下にするのです。ですから、まず、上半身をひっくり返して、それにあわせて、足を返すのです。

 このように、赤ちゃんと大人とおじ行動をとり、その行為を同じことばだ言い表してもその行為の意味はまったく違うことがあり、それなのに、大人の行為に当てはめて考えてしまうことがあるのです。代表的なものに「泣く」という行為があります。泣くという、涙を流し、声を出し、顔をしかめる行為であっても、赤ちゃんが泣いている場合と、大人が泣いているときとは、まったく違う理由であるだけでも、赤ちゃん泣くことによって、さまざまな成長に必要が事柄を行っているのです。コミュニケーション力、肺や心臓などの内臓の強化、ことばを話すときの準備などよく知られているにもかかわらず、泣いている赤ちゃんを見ると心配になります。

 このような行為の判断の違いは、まだいいのですが、幼児教育の中で一番困ることばがあります。それは「遊び」です。大人の「遊び人」とは、多くは、定職をもたず、ぶらぶら遊び暮らしている人のことを言います。遊び人がすることの代表は、ばくちうち、女遊び、放蕩者、ろくな人ではありません。必ずしも、それほど悪い人を指さないこともありますが、おおむねマイナスイメージがあります。また、子どもに対しても「遊んでばかりいないで、少しは勉強しなさい!」と母親に怒られることが多いのですが、そのときの遊びは、学習ではなく、身につくものがない行為をさすことが多いようです。

  以前、年長児を連れて小学校を訪問したことがありました。案内を副校長先生がしてくれて、最後に質問を受け付けました。そのときに出た質問のなかに「学校に行っても、遊ぶことができますか?」というものがありました。その質問に対して、副校長先生は、即座に「学校は、遊ぶところではありません。勉強するところです!」ときつく答えたのです。子ども達は、シーンとしてしまい、暗い顔になりました。急いで 、私は「学校も、いっぱい楽しいことがあるよ!そして、友達といっぱい遊べるよ!」とフォローしました。

  どうも、小学校の先生は、「遊び」は、休み時間だけの話だと思っている人が多いようです。ですから、保育園、幼稚園は、ただ子どもたちが遊んでいるだけだと思っているようです。それは、きちんと遊びについての研究や、考察がされていないことや、遊びということばが、いろいろな場面で使われていることの理由かもしれません。もう少し、きちんと乳幼児期における遊びの意味を考えたいものです。

ことばの意味” への5件のコメント

  1. 大人の行動の意味を子どもの行動にそのまま当てはめて捉えてしまうことって本当にたくさんありますね。無意識のうちにそう捉えてしまいがちであることを自覚しておくことが今の自分にはまだまだ必要ではあるのですが、できるだけ早くその状態から抜け出して、子どもたちの行動の意味を正しく広く伝えられるようになりたいと思っています。子どもの遊びについては「子どもの遊び自体が学び」といったことはいろんなところでも聞かれます。それを更に理解してもらうために、子どもたちの遊びの姿を通してその意味を伝えていくことだとか、今の立場からできることをしつこくやっていくことしかないだろうと思っています。

  2. 「学校は勉強するところで遊ぶところではない」ーそう思っている教師が多いところに学校教育が閉塞状態に陥っている原因があるんでしょうね。「教育」という字の「教」は勉強だとしたら、「育」は子どもたちの自由な遊びの体験だと思います。いや、遊びながら学ぶ授業もあっていい。教師の常識を打ち破る発想の転換が必要ですね。

    知識は授業から得られるけど、コミュニケーション力や問題解決能力は、子ども集団の遊びでしか身につかない。何より勉強に必要な挑戦する心は、遊びから身につくもの。勉強のできる子を育てたいなら、しっかり遊ばせること。遊べる環境を地域で創り上げることが求められています。

    昔のように家の周りに遊び友達も遊び場所もなく、塾が忙しくて遊ぶ時間もなく、成績が良くても人と関わる力もないまま成長してしまう子の多いこと。頭でっかちでは、社会に出て人生の解けない問題に直面して立ち往生してしまうのがオチ。このうえ、教育を旨とする学校から「遊び」を排除したら…。ぞっとします。

    <学校というものが設立されたのは、そもそも成長の途上にある子どもたちを、社会から守り、その中でできる限り自由に活動させてゆくというアイデアがあったのだが、最近では、変な逆転現象が起こって、学校の方ががんじがらめの規則で縛られるような状態になっている。これは、教師が「教えこむ」ことに意を用いすぎて、子どもが「育つ」ことを忘れてしまっているからだ。>『子どもはおもしろい』(河合隼雄著)

  3.  確かに寝返りは大人もしますが、上半身と下半身で大人と赤ちゃんでは先に動かす場所が違うのと、そもそもの理由が違うのですね。そして「泣く」という行為。やはり大人は赤ちゃんが 泣いているとすぐに可愛そうと思いがちで、コミュニケーション力、肺や心臓などの強化など、これからの人生を生きるための準備というのは、考えもしないでしょうね。私も、そういう話しを聞くまでは思いませんでした。そして「遊び」という言葉は、どの言葉よりも意味の違いがあるでしょうね。大人の「遊び」の感覚で子どもに当てはめてしまうと、子どもは何をして過ごせばよいのか分かりません。子どもにとっての遊びの重要性と意味を、小学校の先生だけでなく、幼稚園、保育園の先生達、子どもと関わる人は理解し考える必要がありますね。

  4. 「遊び」という言葉は、この保育という世界に入ってから、かなり印象が変わった気がします。今までの「遊び」には意味がない行為という意味合いになることが多く、園児たちの遊びにも伸び伸び楽しむという意味合いでしか、取り上げていませんでした。しかし、この世界に入るとその「遊び」の中に非常に多くの事象や学び、発達が隠れていて、子どもたちは遊びを通して世界を広げたり、コミュニケーションの方法を学ぶ、極めて重要な要素だというのが分かります。どうも今は「勉強=テスト」であることが多く、「遊び=学習」と結びつかないことが多いです。なぜそうできないか、「勉強=遊び=楽しい」にならないのか、そう考えると「遊び」といっても非常に幅の広い言葉のように感じます。

  5. 今年のNHK大河ドラマ「平清盛」は吉松隆さんの曲で始まります。なかなか素敵な曲だと思っています。本編でも出てきましたがこのオープニングにも出てくるのが後白河法皇を編者とする『梁塵秘抄』の「今様」「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」の最初の部分です。子どもは遊ぶために生まれてきた、戯れるためにうまれてきた、という内容ですね。私は個人的にとても素敵なフレーズで最近はよく口ずさみます。小学生だって子どもで、子どもがいる場所である「学校」に「学校は、遊ぶところではありません」とくれば、学校というところは「子ども」の来るところではない、ということになります。「学校は、遊ぶところではありません」と断言する先生は小学生のころ学校では決して「遊ばなかった」のでしょうか。遊びは楽しいものです。学校が楽しいところであったらと願わない子どもはおそらくあまりいないでしょう。つまり学校でも勉強が遊びとなれば、これはもう楽しくて命令されなくても、一生懸命勉強するでしょうね。なぜなら、彼らにとって楽しいことは遊びなのですから。そして本来の「学習」となるのでしょう。

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