ブラヘイジ3

  墨田区の「東京都慰霊堂」の裏には、「安田庭園」があります。この庭園は、案内には、「もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688?1703)に築造されたと伝えられる隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園で、明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修をを行い、復元、開園しています。」とあります。

  この庭園からいろいろなことがつながっていきます。昨年の暮れ、私は妻と京都の嵐山に行き、その散策の途中で「清涼寺」に立ち寄りました。ここは、浄土宗の元祖法然上人が、24歳の時に人々を救う仏教を求めて、同寺の釈尊像の前に7日間こもったと言われている寺院として有名で、入ってすぐのところに法然の青年像が建っています。また、この本堂(釈迦堂)は、たび重なる焼失の後、徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院の発願により、大阪の豪商泉屋吉左衛門らの発起により再建されたとあります。この豪商泉屋は、江戸時代はじめに蘇我理右衛門が若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、19歳から京都で店を構え、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。この銅吹き所は、徳川時代を通じて銅精錬業の中心となっていきました。その後、事業を京都から大阪に移し、三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。そして、銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心でしたが、ほかに両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営が行われ、これが「住友財閥」になって行きます。

  また、清涼寺の本堂は、桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれたのですが、この桂昌院についてもずいぶんと面白い歴史があります。彼女は、徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となったのですが、実は、京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘から登り詰めた、いわば日本版シンデレラなのです。運命というのは不思議なもので、まさか、八百屋の娘が後に将軍になる綱吉の母親になるとは思ってもいなかったでしょう。それは、京都の公卿の娘が尼になって、江戸城で家光に拝謁したところ、家光が一目惚れして側室にさせたのがお万の方で、彼女に腰元としてついていったのがお玉でした。腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまり、彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になったのです。ここでも運命のいたずらがあります。まず、生まれたのが男の子であったこと、別の側室に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたのですが、四代を継いだ家網は子どもなしで早死に、続いてその弟、網重も亡くなり、綱吉に将軍の座が回ってきたのです。

  この桂昌院は、非常に教育ママだったようで、綱吉にいつも「勉強しなさい!」といっていたようで、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になり、四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは学者並みであったと言われています。また、桂昌院は、とても身内を大事にしていたようで、弟の本庄宗資は、はじめ公家の家臣でしたが、本庄氏は小大名でしたが 桂昌院の庇護の元、将軍家より松平姓を賜り、常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任していきます。この常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領して、元禄4(1701)年、この地に下屋敷として築造したと伝えられているのが、旧安田庭園なのです。

ブラヘイジ2

1950年7月、東京都台東区浅草菊屋橋で(株)萬代屋が設立されました。この会社のスタートは、セルロイド製、金属玩具の販売業でした。その後製品を続々と市場に投入し、70年代には、マジンガーZ、仮面ライダー、80年代にはガンプラ、90年代にはたまごっちといった商品が大ヒットします。1961年には社名を「バンダイ」に変更します。この、バンダイ本社が、駒形にあり、「駒形どぜう」の店舗の道を挟んでの隣にあります。ここが、ブラヘイジで最初に立ち寄ったところです。ビルの脇に並んだキャラクターの前で、思い思いに記念撮影です。

その後、隅田川に架かる駒形橋を渡り、吾妻橋からつながっている浅草通りに沿って歩いていくと、業平橋に差し掛かります。この「業平」とは、もちろん、平安時代に「伊勢物語」を書いた在原業平から採られています。「駒形橋」から上流へ「吾妻橋」「言問橋」と続くのですが、この言問橋の名称にはこんな由来があります。「歌人・在原業平は官位を取り上げられ、無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。」と東武鉄道の説明に書かれてあります。この歌とは、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」というもので、この在原業平の「東下り」の故事にちなんで、ここにある「地名や橋名」に「業平」とつけられています。

ただ、東武鉄道では、2012年春に予定されている東京スカイツリーの開業にあわせ、玄関口となる伊勢崎線・業平橋駅の駅名を「とうきょうスカイツリー」に改称すると発表しています。なんとなく残念です。ということで、次の目的は、もうすぐ開業の「東京スカイツリー」の真下に行くことです。東京スカイツリーは、5月22日のグランドオープンに向けて急ピッチで周辺の施設を建設中です。真下からでは、全景を写真に撮ることはできませんし、ましてや人を入れた写真となるとスカイツリーの下の方しか写りません。そこで、地元の人たちでカーブミラーをいろいろなところに用意してあり、そのミラーに映し出された姿をとれば、魚眼レンズのように全景を写すことができます。

そこから、両国に向かいます。まず、立ち寄ったのは、「東京都慰霊堂」です。ここには、私が子どものころにはよく遊びに来ました。そのころは「震災記念堂」と呼んでいましたが、その名のとおり、関東大震災の慰霊堂です。もともと、この場所には陸軍の「本所被服敞」があり、関東大震災が起きた1923年9月1日は公園予定地として更地でした。震災発生後、東京下町の方々から火気が立ち、やがて町中が火の海になってしまったので、ここは格好の避難場所になったのです。しかし、しばらくしてこの地に火災旋風がおきました。多くの家財道具が持ち込まれ、足の踏み場もないほどの状態のなかで火災旋風が起こったわけで、ここで東京全体の犠牲者数の半数以上である3万8000人もの犠牲を出してしまったのです。その後、この跡地に慰霊記念堂が建てられ、震災の犠牲者約6万人の遺骨が納められましたが、その後東京空襲での犠牲者約8万人の遺骨が収められ、名称が東京都慰霊堂になったのです。
もう少し、ブラヘイジは続きます。

どじょう

 私の園の裏の鯉がいる水路には、ドジョウも何匹かいます。このドジョウは、誰かがどこかから捕まえてきて、そこに放したものです。ドジョウは、言うまでもなく日本の代表的な川魚です。私の子どものころは、田んぼや水路だけでなく、側溝にもたくさんのドジョウがいました。ドジョウは、比較的水質の悪化に強いため、田んぼや小川、浅い池沼などの底質が泥や細かい砂の場所に多く生息していました。子どものころは、家からざるを持ち出して、いわゆる「ドジョウすくい」をしたものでした。ドジョウに人気があったのは、ドジョウの特徴である十本の口ひげがなんともかわいいのと、ずっと眺めていると、腸呼吸をするために水面に上がってくる姿が観察できるので、にごっている水でも水面を見ていても飽きなかったからです。

 このドジョウが、また注目を浴びているのは、野田首相が行った「どじょうには、どじょうの持ち味があります。金魚のまねをしてもできません。赤いべべを着た金魚にはなれません。どじょうですが、泥臭く、国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。」という「ドジョウ」演説が有名になり、その後、Tシャツになったり、野田氏自身の著書や、引用した相田みつをさんの作品集も増刷されたようです。もともとの相田みつをさんの作品「どじょう」は、「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」というもので、込められたテーマは「自分を他人と比べない」です。

 こんな、金魚と比べられるドジョウですが、実は、柳川鍋に代表されるように、人間が食べてもおいしく栄養価が高い魚です。一番美味しい食べ方は、ドジョウ鍋です。割いたものを使ったものと、丸がありますが、丸鍋は酒で弱らせたものを湯通し、滑りを取り去り、一度みそ汁で下煮。これを酒、味醂、醤油の地で煮たものです。柳川鍋は割いたドジョウを湯通しして滑りを取り去り、やや甘口の酒、味醂、醤油の地で煮て、卵でとじたものです。東京にはドジョウの専門店が多いのは、江戸という地が、古くは水路が張りめぐらされた水郷地帯であった名残だそうです。

  何回か紹介しましたが、昨日の土曜日、下町をぶらぶら歩く「ブラヘイジ」が開催されました、ぶらぶら歩く楽しみは、下町の味を味わうということがあります。昨日は、歩き始める出発点として、「駒形どぜう」でドジョウ鍋をみんなで囲みました。この店の創業は1801年で、徳川11代将軍、家斉公の時代だそうです。店の上には、創業210年という横断幕がかかっています。この店の歴史には、「初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。」

  また、この店の特徴は、暖簾に「どぜう」と書かれていることですが、もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書いており、それが仮名遣いでは「どじょう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案だそうです。それは、文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったそうです。江戸は、非常に火災が多く、それに対するまじないだったのですね。

  それにしても、寒い日、どじょう鍋の上に山盛りにねぎを載せ、そこにトッピングとして頼んだ裂きごぼうも山盛り乗せて食べたどじょうの味はとても美味しく、体がぽかぽかしてきて、その後の散歩の足取りが軽くなりました。

意図

 最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

 私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

 当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

生活と遊び

 私が若いころに、少しワルと呼ばれていた中学生の面倒をみていたときに、受験が近づいてきたころ、面接の練習をしました。そのときに、質問で「将来、どのような職業に就きたいと思いますか?」という質問に、「食べていければいいです。生活できれば、どんな職業でもいいです」ということ答えを聞いて、なんだかさびしく感じると同時に、「生活」とは、なんだろうかと思ったものでした。この字から見ると、「生きて、活動すること」となります。ですから、この生活とは、人間に限らず、生きているものにはどんなものにも使います。

 では、「子どもの生活」と使うときには、どのような意味が含まれるでしょうか。
倉橋惣三は「幼稚園真諦」のなかで次のように述べています。「幼児のさながらの生活から出発し、生活を通して、それを本当の生活にしていくのが幼稚園の教育だ。」すなわち、生活の中に教育的価値を見いだし、どのように体験させていくかというところに、教師の計画的な環境構成や援助がいるとしているのです。良い教師とは、一日の生活の中で、そのような教育の機会を与える教師であるといいます。ですから、「幼児を教育すると称して、幼児を先ず生活させることをしない幼稚園に反対」とはっきりいっています。

  よく、園では、「コアタイム」とか、「設定保育」と称し、その時間内だけが保育であり、そのほかの時間帯は子どもたちの自由時間であるとして、週案などの保育計画はただこの時間内だけを立てたり、日誌も、この時間内での活動だけを記したりします。しかし、園は朝「おはよう」と登園してきてから「さようなら」と帰るまでが保育なのです。私の園への見学者にデーリーとして「何時から何時まで設定保育ですか?」と聞かれることがあるのですが、私は「子どもが来てから帰るまで、すべての時間帯は設定保育です。」と答えることにしています。散歩に出かけるときにも、目的地での活動だけが保育ではなく、行く途中、帰り途中すべての時間帯が保育なのです。それは、子どもの生活そのものが保育だからです。倉橋は、「生活の教育化」という概念を持っていたのです。

  「生活の教育化」ということは、具体的にはどのようなことでしょうか。倉橋は、子どもは、自ら育つ力を持っている有能な存在である主体者であるという前提の下、子ども達は環境との相互作用により発達していくことから、環境を構成していきます。環境に主体的に関わることで子ども達は自己充実し、その中で必要な経験をし、保育者は、個々の子ども理解から、子どもに経験してほしい狙いを織り込んだ環境を構成し、個々の子どもがその環境の中で子どもにふさわしい生活を送ることができ、もし、子どもが必要としていることがあればそれに応じて答え、いつでもそのスタンスでいることを表明し、見守っている存在である必要があるのです。

  では、子どもにとっての「ふさわしい生活」とは、園生活の中でどのような生活を指すのでしょうか。彼は、その基盤は「遊び」であり、「主体的な活動」にあるとしました。「遊び」は、子どもにとっては「生きること」であり、「成長すること」そのものであり、まさに「生活」という、「生き」「活動」していることなのです。現在、小児保健の教科書には、「遊び」は「赤ちゃんの生活すべて」と位置づけられています。この遊びの意味は、乳児に限らず、子どもにとっては、「生きる」ための要素がたくさん詰まっているのです。

  子どもの「生活」と「遊び」は切っても切れない関係にあるのです。

幼児教育指導

 学校教育において「指導」という言葉は、その内容を示した「学習指導要領」ということばに代表されるように、「学習を子どもたちに指導する」ということになるのでしょう。しかし、その内容の中で「確かな学力」では、「基礎・基本を確実に身に付け、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」とあります。指導といっても、あくまでも子ども自らの行為である学習を揚げています。

 戦後、日本は、学校教育法が成立し、幼児教育においても幼稚園、保育所、家庭の幼児教育まで含めた幼児教育の手引きとして「保育要領」が示されました。しかし、この作成に当たって、GHQの指導の下、教師の主導性が強いものでした。その後、講和条約の締結後、幼稚園は、高等教育まで見通した「学校教育」の一貫性の中で構想が練られます。それは、「学習指導要領」が定められていた小学校への準備教育という考えの下、「幼稚園教育要領」が刊行されました。しかし、このとき、いくら小学校教育の準備期といっても、「指導」ではないということで、当初考えられた「幼稚園学習指導要領」という名称は、却下されました。それは、幼児期は、一人ひとりの発達が違い、発達の段階としてまとまった形の学習方法、内容を示す時期ではなく、子どもの遊びを中心とした保育方法、内容を示す必要からだったのです。

 しかし、どうしても幼児教育において、小学校教育と同じような「指導」という方法が根強く残ってしまったのは、たぶん、「領域」の考え方でしょう。「学習指導」ではなく、「幼稚園教育要領」ということで、倉橋惣三の子ども達の自然な生活を中心とした生活主義は、反映され、残されたのですが、「望ましい経験」として子どもたちの楽しい園生活が羅列的に並べられて板の保育内容を、もう少し整理しようということで六つの「領域」にまとめたのです。そして、その内容とそのことばが、小学校の教科をイメージさせ、幼稚園教師に小学校との連携を強く意識させ、領域別に教えるという保育活動を産むことになるのです。ですから、今でも「幼稚園教育要領」には、「各領域に示すねらいは幼稚園における生活の全体を通じ、幼児が様々な体験を積み重ねる中で相互に関連をもちながら次第に達成に向かうものであること、内容は幼児が環境にかかわって展開する具体的な活動を通して総合的に指導されるものであることに留意しなければならない。」というように「総合的に指導されるもの」として「指導」ということばが残ってしまっているのです。

 しかし、どうしても幼児の知識や技術の習得に偏した教育を行っている幼稚園が見られるため、文部省では、「領域と教科」の区別について丁寧に説明しています。教科とは、「国語、算数、社会、理科など学校で児童生徒に授ける教育内容の単位で、それぞれの教材の特性に応じて分類され、発展的、系統的に分けられているもの」と説明しています。簡単に言うと、「指導」とは、「授ける」こととして使っています。一方、領域は、「子どもたちが望ましいと思われるさまざまの経験や活動があって、それらの経験や活動を通じて幼児が刺激され、誘発され、気づき、習得されると思われる“ねらい”をまとめたものにつけた名称に過ぎない」

 しかし、どうしても現場では、この「指導」ということばによる誤解が混乱を招いています。「子どもを指導してはいけない」ということを、「子どもに指示してはいけない」とか、「子どもに注意してはいけない」とか、「子どもを導いてはいけない」と思ってしまうことがあります。幼保一体化の中で、きちんと「遊び」「指導」ということばの合意を図ることが必要な気がします。

自由遊び

 乳幼児に使うことばと、同じことばであってもずいぶんと意味合いが違っていることばがたくさんあると同時に、矛盾するようなことばが私はある気がします。そういう意味で、昨日のブログで取り上げた「遊ぶ」という考え方は、子どもの中心課題であるだけにさまざまな論議がされてきています。たとえば、「自由遊び」と言うことばがあるのですが、私は、このことばの自由とは何をさしているのか考えてしまうことがあります。というのは、この「自由遊び」に対応する言葉は何かと言うと、「設定保育」「誘導保育」にあたるのかも知れませんが、これらの言葉は、保育の仕方であり、自由遊びに対応することばではないような気がします。では、「自由」の反対語として普通はどのようなことばが使われるかというと、「専制」「束縛」「統制」ですが、そのなると「自由遊び」に対応する言葉は、「束縛遊び」とか、「統制遊び」ということばになりますが、なんだか変です。というのは、「遊び」の概念にもともと「自由」という考え方が入っているために、違和感を感じるのかもしれません。。

 モンテッソーリは、子どもの活動として、生活の中で達成感を得られる活動を「仕事」と呼んで、「遊び」と分けて考えました。「遊び」とは、特別な目的がなく、途中で終わってもかまわない活動であるのに対して、「仕事」は、目的や終わりがあり、終わったときに達成感がある活動であるとしました。したがって、遊びの「ままごと」はせず、本物の食材を使い、本当につくって食べて、片付けるまでを「仕事」としてやりぬきます。そして、モンテッソーリは、歩き始めのころから4,5歳までを「敏感期」と呼んで、この敏感期の子どもは「遊び」よりも、自分を確実に成長させる「仕事」をやりたがることを発見します。

 しかし、園児が園に登園してきたら、最も無理のない子どもの自然な形態である「自由遊びからはじめる」ということを、倉橋惣三は提案しています。ここで言う自由とは、「自然な形態」を指しているのですが、彼は、モンテッソーリと違って、「目的なしには一切の教育は存在しない」とした上で、「目的を必ずしもこちらから押し付けなくとも、幼児の生活それ自体が自己充実の大きな力を持っている」という、子ども自身に自ら育とうとする力があるとする子ども観、発達観に立脚をしているのは確かなようです。

 日本でお茶大付属幼稚園が設立されたときの保育方法は、欧米で行われていた恩物を中心としたフレーベル式幼稚園を引き写した形で行われていました。それは、非常に教師の主導性や指導性が強いものでした。それを倉橋は、取り扱い方法が厳密に決められていた恩物を「棚から下ろし、全部をごちゃ混ぜにして、ただの積み木にしてしまった」と称されたような保育方法をとります。それは、「子ども中心主義」であり、子どもの生活をその具体的な生活を十分に営ませることによって、より高い生活に導くとして学校の形態としてのその枠をはずしたのです。その保育方法、内容の中心は、「遊び」を主体としたものであり、一人ひとりの子どもの遊びが充実するように教師が「教える」のではなく、子どもの要望があれば、「指導」するとしたのです。

 子どもの遊びにまとまりを持たせ、遊びと指導が発展的に展開するように総合的な保育方法、内容の構成を考えた具体的なものが「系統的保育案の実際」となっていくのです。しかし、また、ここで、乳幼児期における意味と、学校教育、大人の世界で使われる意味の大きな違いがあることばが出てきます。それは、「指導」ということばです。なかなか、厄介です。

ことばの意味

 ある行為をしたときのことばとして、それが大人がした場合と、子どもがした場合で同じことばを使っていても、その行為の意味はずいぶん違うことがあります。たとえば、赤ちゃんが行う「寝返り」という行為があります。親は、わが子が寝返ることができたときには、非常に感動して眺めます。それは、赤ちゃんが寝返ろうとして一生懸命にがんばっている姿を見ていると、見ているこちら側まで力が入ってしまいます。それは、今まで寝たきりであった赤ちゃんが、初めて自分の意思で移動しようとする行為だからです。ですから、まず足をひっくり返し、上体を、それに引っ張られるかのようにひっくり返そうとします。この「寝返り」は、大人が寝ていてもすることがあります。その場合は、意志で体をひっくり返そうというより、寝ている間に無意識のうちに寝返ることが多くあります。それは、横向きに寝ているときに、体の片側に血液がたまってしまったり、体の片側だけが圧迫されてしまうため、それを均等にするために体の反対側を下にするのです。ですから、まず、上半身をひっくり返して、それにあわせて、足を返すのです。

 このように、赤ちゃんと大人とおじ行動をとり、その行為を同じことばだ言い表してもその行為の意味はまったく違うことがあり、それなのに、大人の行為に当てはめて考えてしまうことがあるのです。代表的なものに「泣く」という行為があります。泣くという、涙を流し、声を出し、顔をしかめる行為であっても、赤ちゃんが泣いている場合と、大人が泣いているときとは、まったく違う理由であるだけでも、赤ちゃん泣くことによって、さまざまな成長に必要が事柄を行っているのです。コミュニケーション力、肺や心臓などの内臓の強化、ことばを話すときの準備などよく知られているにもかかわらず、泣いている赤ちゃんを見ると心配になります。

 このような行為の判断の違いは、まだいいのですが、幼児教育の中で一番困ることばがあります。それは「遊び」です。大人の「遊び人」とは、多くは、定職をもたず、ぶらぶら遊び暮らしている人のことを言います。遊び人がすることの代表は、ばくちうち、女遊び、放蕩者、ろくな人ではありません。必ずしも、それほど悪い人を指さないこともありますが、おおむねマイナスイメージがあります。また、子どもに対しても「遊んでばかりいないで、少しは勉強しなさい!」と母親に怒られることが多いのですが、そのときの遊びは、学習ではなく、身につくものがない行為をさすことが多いようです。

  以前、年長児を連れて小学校を訪問したことがありました。案内を副校長先生がしてくれて、最後に質問を受け付けました。そのときに出た質問のなかに「学校に行っても、遊ぶことができますか?」というものがありました。その質問に対して、副校長先生は、即座に「学校は、遊ぶところではありません。勉強するところです!」ときつく答えたのです。子ども達は、シーンとしてしまい、暗い顔になりました。急いで 、私は「学校も、いっぱい楽しいことがあるよ!そして、友達といっぱい遊べるよ!」とフォローしました。

  どうも、小学校の先生は、「遊び」は、休み時間だけの話だと思っている人が多いようです。ですから、保育園、幼稚園は、ただ子どもたちが遊んでいるだけだと思っているようです。それは、きちんと遊びについての研究や、考察がされていないことや、遊びということばが、いろいろな場面で使われていることの理由かもしれません。もう少し、きちんと乳幼児期における遊びの意味を考えたいものです。

色と形

  自然の中には、非常に芸術的な形をしたものがあります。その造形美には、感動することがあります。表面張力であるとわかっていますが、シャボン玉が球になり空中を飛んで行く姿にも、宇宙から見た地球の姿の、模様と形の美しさには見とれてしまいます。また、紅葉の時期に森林公園に行ったとき、「紅葉祭り」を開催していましたが、そこでは、色だけでなく、かえでの葉の数学的な形に自然の不思議な力を感じました。

 形の美しさは、葉などの植物だけでなく、動物にも見られます。昆虫の形のすばらしさに、子どもたちは目を奪われることが多いようです。パンダやキリンと体の模様は、どうしてこのような模様にしたのかと思うほど、とても芸術的です。もちろん、人類それ自体の形にしても、人体各部に至るまで、きちんと計算ができるような寸法をしています。本当にすごいことだと感心します。

 だいぶ前にブログで書いたと思いますが、あるとき、長野の諏訪湖のほとりで、ひし形をした奇妙は、宇宙人の顔のようなものを見つけ、一緒にいた小学生と、何だろう、もしかしたら宇宙人のしたいかななどと話し合って、いろいろと調べたらなんと、ただの「菱の実」だったのです。「菱」は全国の湖沼で最も普通な水草だそうですが、私はその実を知りませんでした。水の底に沈んだ種から茎を伸ばし、水面に葉を広げるため、諏訪湖の水面に広く広がっているようです。そして、秋に棘を持つ3?5cmの果実を付けます。このとげが、なんとも宇宙人の触角のように見えるのです。そして、この「菱」の実の形から、「菱形」と言うことばが生まれたそうです。

 「菱形」をしているものと言えば、まず、三菱のマークである、「三つの菱形」です。それから、トランプで「ダイヤの形」、武田氏の家紋である「武田菱」などがありますが、この季節によく見かけるのは、ひな祭りの飾りに使われる「菱餅」です。古代中国で3月最初の巳の日に、厄払いをする行事「上巳節」がありました。その日には、春の七草の一つである「ご母子草を使うと、母と子をついて餅にするということで嫌われ、代わりに蓬を用いるようになります。しかも、蓬は大変香りがよく、香りの強いものには邪気を払う力があるとされているために蓬が使われるようになっていきます。
また、この上巳節が3月3日と制定されてから、上流階級で人気だった、小さな人形などで遊ぶおままごと「ひな遊び」と結びつき、ひな祭りへと発展していきます。そして、江戸初期になると、蓬餅の緑に菱の実を入れた白い餅を組み合わせた、緑と白の2色だけの菱餅が作られます。これを緑・白・緑の3段、あるいは5段にして飾りました。そして、菱の実を入れたことから形を、菱の実を模した菱型になっていったといわれていますが、実は、菱餅の四角い形は、大地をかたどった形です。中国古代の伝説では、天は丸く大地は四角いものと考えられていたからです。そして、天は男子の徳、地は女性の徳を持ったものと考え、女児の節句である雛祭りの餅は、女性の徳をもった大地をかたどって菱形に 作るのです。そして、端午の節句に作る粽は、天をかたどって丸く作るのです。

  そして、明治時代になると、ここに、魔除けの色として欠かせない色であり、おめでたい色、桃の花にも通じる赤い山梔子(クチナシの実)を入れ、3色となります。そして、この赤は桃色に近く、「ピンク」「紅」と表現されることもあります。菱餅は、下から緑・白・ピンクとなっていますが、その意味は、「緑は草萌える大地を、白は雪の純白を、ピンクは桃の花を表している」とされています。

  昔から、色や形から意味を感じ、自然界を連想し、ある力を感じていたようです。人は、生まれてから、次第に物の形や色や手触りの違いに気づいていくようです。

未来へ発信する過去からのメッセージ

  法隆寺は、実にさまざまな条件が組み合わされ、多くの建築上の知恵が集結して、1300年余り命を生き生きと保ち、今も未来へと歩を進めています。もちろん、世界には、そのように長い歴史の中で持ちこたえ、今にその姿を維持している史跡も多くなります。しかし、私から見ると、法隆寺ほど自然と共生しながら残っている建物はないような気がします。世界で残っている建物の多くは、石造であることが多く、自然を寄せ付けない、自然と闘う姿勢が見えるのです。ですから、その今に残っているのは、工夫をしているというよりも、朽ちない材料を使っているということで、今に残っていない理由は、人間が作ったものを、自然が壊すのではなく、人間同士の争いで壊されてしまったものが多いのかもしれません。それは、日本の建造物の多くも、自然に朽ちるというよりも、焼き討ちに合うとか、戦火に巻きこまれるとか、特に木造建築ではそのような目にあって炎上してしまったものがほとんどでした。

  このような状況下の中で法隆寺が残ったというのは、ただ昔からの知恵が終結したというだけでなく、その建物が持っている宗教的に意味があったのであろうといわれています。法隆寺専属の宮大工として知られた西岡常一氏がいます。彼は、鉄やコンクリートを使うことを嫌い、木にこだわって、「伝統的な大工の技術」を後世に残し、伝えることにこだわり続けたのは、「飛鳥の工人の足跡」を伝えたかったからだろうと思われています。彼によれば、仏教は日本化されてはじめて真の仏教になったといいます。その仏教の要締とは、自ら武器を持たず、他から武器を突きつけられてもニコニコと微笑している嬰児の無垢の気持ちと、母ががんぜない子を思う慈悲の心をあわせもつことだといいます。法隆寺は、その仏教としてのシンボルであり、天武天皇亡きあと、聖徳太子が聖人化され始めたことが、法隆寺が庶民の手によって守られてきた理由なのだといいます。

  物が後世まで残っていくとか、持続していくということは、物理的な問題だけでなく、精神的にも人々の心の中に残っていかなければなりません。その心も、ある一部の人々の心だけのものであったり、他の心をないがしろにして守ろうとするものであるのであれば、いつかは、時代が変わったときに滅ぼされてしまうのです。今年、NHK大河ドラマで始まった「平清盛」が保護した非常に美しい厳島神社も、清盛だけの心を満足させるものであったのであれば、諸行無常のごとく、打ち壊されていたでしょうが、清盛から離れても、その存在が、人々の心の中に深く残って、愛されてきたからでしょう。

  もちろん、物理的にも、さまざまな知恵がここには集結しています。海上に展開する社殿群は、周囲の自然と一体となった環境をもち、平安時代の寝殿造の様式を山と海との境界を利用して実現させた点で個性的であると同時に、海という自然に逆らわず、かえって自然の驚異を利用する知恵は、まさに法隆寺に共通するものがあります。同時に、ここが宗教的、聖なる空間であることが確かに影響はしていることは確かですが、物が残るということは、物心両面がそろわなければならないということです。

  人類が、今の世まで生き残り、今後も子孫を残していくためには、たとえば医学的な措置とか、生活の改善とか物理的なことだけでなく、生きようとする意欲とか、子どもを作ろうという精神的なことも必要です。最近の自殺の多さ、少子化は、人類が次世代に遺伝子をつないでいくために、物理的に保育園をただ数を作ればいいとか、お金を渡せばいいということだけでなく、何か、精神的なものが欠けてきているのかもしれません。