普通

 先日、私を訪ねてきた人から「普通のおじさんでびっくりした。」と言われました。名前だけをよく聞いていたので、あるイメージを持って会ってみたら「普通」だったというものです。その感想は、相手は決して悪い意味ではないと一生懸命言い訳をしていましたが。また、私の園に、実習をするために全国の園の職員がみえることがありますが、そのときの感想でも、「おたくの園の職員は、普通ですね。」と言われることもあります。先週末に園で行われた「おたのしみ会」の前の数日実習した人からも、「行事前なのに、保育が、とても普通でした。」と言われました。これらの感想においての「普通」とは、どちらかと言うと、「自然体」であったというような意味であるようです。「肩に力が入っていない」とか、「キリキリしていない」とか、「ゆったりしている」というような意味のようです。

 「普通」とは、本来「特に変わっていないこと」「ごくありふれたものであること」「それがあたりまえであること」というような意味ですが、私は、もっと違う意味を感じます。それは、「普通」の「普」という字で連想する言葉は、「普遍」という言葉です。子どもの発達のひとつの特徴に「普遍性」があるからです。このときは、「すべてのものに共通しているさま。すべてのものにあてはまるさま」というような意味ですが、実は、「広く行き渡るさま」を言うこともあるのです。それは、「普」という字と「遍」という字は、ともに訓読みでは、「あまねく」と読みます。「世間にあまねく知れわたる」というように使いますが、「もれなくすべてに及んでいるさま。広く。一般に。」という意味です。

 ローマ法と教会法からなる法体系のことを「普通法」といいますが、これは、広義には地域固有性を越えた効力を有する一般法を意味します。歴史的には,中世以降のヨーロッパ大陸で,国家や民族を超えて普遍的に妥当する法規範と考えられているのです。ですから、「普通のおじさん」とは、「地域、時代を超えた効力を有する人」と、私は勝手に解釈しているのです。

 建築用語で建物を建てたり、修繕、維持することを「普請」ということがありますが、本来は、普請(ふしん)とは、普く(あまねく)請う(こう)ということで、広く平等に奉仕(資金・労力・資金の提供)を願う事であり、社会基盤を地域住民で作り維持していく事を指しました。この普請という言葉は、禅宗の用語で、禅宗の信者が力を合わせて作業に従事するという意味だったのが、後には寺社普請としてまたは、集落において受益者が合意して作業に従事することも指すようになったようです。

 高浜の原子炉に名づけられている「ふげん」は、「普賢」と書き、究極の慈悲をあらわす普賢菩薩の梵名であるサマンタ・バドラを訳したものですが、「普く(あまねく)賢い者」の意味であり、彼が世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕して人々を救う賢者である事を意味するそうです。

 小西氏は、書籍のあとがきに、「 今、保育や教育の現場では、発達障害の専門知識が必要といわれます。専門知識がなければ、クラス経営はできない、と考える方さえいます。でも、保育や教育の現場で子どもたちを観察して気づいたのは、“普通”に指導する保育士や先生たちがいれば、発達障害児もクラスのなかでそれなりにやっていけるのではないかということでした。」

 私は、専門的知識といわれる刷り込みをなくし、巷にあふれる情報に左右されず、真の子どもの姿を普通に見つめることができることが「専門性」ではないかと思っています。