正月の遊び

今年、最後の日になりました。明日から新しい年が始まりますが、正月は子ども時代はとても楽しみな行事でした。その一つが「お年玉」です。親戚の家々を新年の挨拶に回って、お年玉を集め、その金額を学校が始まって競ったものでした。また、教員のときには、2日は職員が晴れ着を着て、校長のところへお年始の挨拶をしに集まりました。今は、そういうことは東京ではしませんが、地方では行っているのでしょうか。

もう一つの楽しみは、お正月ならではの遊びをすることでした。それは、室内ではカルタやすごろくや福笑い、屋外では羽根突きや凧揚げに興じました。それが、わが子が小さかったころから、カルタからトランプ、また、凧揚げはゲイラカイト、羽根突きからバトミントン、それよりもクリスマスのときにサンタさんからもらったリモコンカーや人生ゲームなどのボードゲームをするようになりました。

昨年、ネットマイルで2010年1月21日、正月に関する子どもへの調査結果を発表しました。それによると2010年の正月にもっとも多くの子どもがした遊びは、調査母体においては「携帯ゲーム機」だったそうです。正月に遊んだ子どもの半数以上、52.0%が「携帯ゲーム機で遊んだ」と答えています。一方、昔ながらの伝統的な正月の遊び「カルタ」「すごろく」「百人一首」などはいずれも10%前後に留まっていたようです。

日本古来の正月の遊びは、全般的には廃れつつあるようです。また、「百人一首」以外は高学年になるにつれて数字が落ちる傾向があり、正月に限らず、学年が上がるに連れて各種ゲームや「子どもっぽく見える遊び」からは遠のく傾向にあるようです。しかし、唯一「百人一首」が上昇傾向を見せているのは、学校で古文として習い、宿題として出されることもあるようです。もともと、百人一首は正月の遊びの一つとしてだけではなく、それを庶民はみんな暗記をしていました。仮名が生まれて、日本人独特の和歌が作られるようになってから日本文学が発達したのですが、平安時代の末になると、古今集だけではなく、いろいろな選集ができました。それを公家階級の人はみんな暗唱できるようにしていました。それで自分が何か作れといわれた時には、暗記しているものの中からいい歌を選んで、ちょっと内容を変えて発表していました。百人一首などの遊びで和歌を勉強する機会を作っていたわけで、ある意味では、遊びを通して教養を身につけるために百人一首ができたのかもしれません。

「百人一首かるた」は平安時代につくられた様々な和歌集を、昨日のブログで取り上げた、鎌倉時代に京都の小倉山に住んでいた藤原定家が集めた「小倉百人一首」でできており、宮中の遊びだったものが江戸時代の木版画技術によって庶民に広がり、お正月に楽しまれるようになりました。定家は、選者としてよく頼まれるようで、天皇から命令を受けて「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の和歌集を編集したことでも知られた公家です。また、定家の和歌だけでなく、筆跡までをもまねることが大流行します。定家の名を取り「定家流」と呼ばれた書風ですが、当の本人は自分の字を上手とも思っていなかったようで、「鬼」のような字だと「明月記」に書いています。

先日訪れた嵐山に、釈迦如来立像(重要文化財)と阿弥陀如来立像(重要文化財)の2像を本尊とすることから、小倉山二尊院と呼ばれる寺院がありました。
ここの奥には、定家が百人一首を選定したと伝えられている三箇所の候補のうちの一つである山荘跡が在りました。ここが本当の場所かわかりませんが、この場所で選んだと思うと、その情景が目に浮かぶようでした。

日記

 来年のNHK大河ドラマの主人公の「平清盛」は、1118年から1181年間での生涯で、平安時代末期の時代です。どの時代でも、時代の変わり目は、ある意味で覇者の交代ということですので、覇権争いがおき、それが当時では「何々の変」とか「何々の乱」と呼ばれ、それを覚えるのに受験生を悩まします。

 これらの「乱」や「変」が多かったのが、平安時代の後期であり、その中心に天皇がいます。それをややこしくしているのが、名前の前に「後」がつく天皇がいることです。今回の大河ドラマでも、平清盛が力を持つきっかけとなったのが、後白河天皇と崇徳天皇(崇徳上皇)の争いである「保元の乱」、清盛を不動の地位につけたきっかけが、後白河天皇(後白河法皇)と対立した「治承三年の政変」で、孫を安徳天皇にしたこと、「鹿ケ谷の陰謀」には、後白河天皇が関わっていますし、清盛の死後、政変の舞台に上るのが、この後白河天皇の孫に当たる後鳥羽天皇です。この後鳥羽天皇と、安徳天皇は、交代が戦いの中で行われたために、在位期間が重なっています。この後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)は、「承久の乱」を起こして、隠岐に流されてしまいます。

 後鳥羽は隠岐に流される直前に出家して法皇となったあたりの時代のことは、「明月記」という日記に記録があります。日記というものが、どのようなものであるかというと、もちろん「毎日、あったこと、考えたことを記すもの」ですが、文字も一般化していない時代では、普通には書かれることはなく、ある意味では公式な記録として残されたのでしょう。それが、平安時代になると、公家たちの間で熱心にかかれるようになります。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事などを記した「土佐日記」が有名ですが、これは、紀行文のようなものでしたが、その後。女流文学の発達に大きな影響を与え、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」などの作品が生まれます。

 このような日記文学と呼ばれる様なものから、会議録とか、儀式の手順などを書き表す日記の内容が、今のような日常生活の記録や、自分が思ったことや、感じたことを書く日記が現れるのは、朝廷での会議・儀式が次第に形式化していった平安時代も後半になってからのことです。このころに、藤原定家が、10代のときから80歳で死ぬまでほとんど欠かさず日記を書き続けた「明月記」という日記です。現在、残っているのは19歳から74歳までのものですが、その多くは今も定家の子孫である京都の冷泉家に大切に保管され、その一部は国宝に指定されています。

 この「明月記」は、別名「照光記」とも言われ、漢文体日記で、非常に難解なもののようですが、定家自身の文事、生活の記録や感想とともに、宮廷、貴族、一般庶民の生活も詳細正確に記され、天文関係の記事もあります。この天文関係の内容には、「客星(彗星や新星などふだん見慣れない星をさす)」の記述が、後年日本のアマチュア天文家射場保昭氏の天文誌への寄稿により、欧米の研究者らの目にとまり、現在のM1(かに星雲)の元の姿であることが判明しています。

 新年の始まりに際し、日記をつけ始めようとする人がいるかもしれませんが、自分の体験からしてどうも日記は長続きしません。ですから、このブログもこんなに長続きしているとは、自分でも信じられません。それは、年の初めからはじめたのではなく、以前のブログでも書いた「“何か始めよう”と決めた時に、本当は今日から始めるのが早い。」というように、思い立った日からはじめたからかもしれません。

先達

 最近、美術館に絵画を見に行くと、必ずハンディの音声ガイドを借りることにしています。音声ガイドの利点が制作会社の案内に書かれてありました。「見ることと聞くことの相乗効果で、利用者はより深い理解と感動を得ることができます。」「文字によるキャプションでは伝えきれない情報を、利用者に提供できます。」「全ての利用者に同じ品質の解説や説明を提供できます。」「作品の解説については、繰り返し聞くことができます。」とあります。

最近、いろいろなとこで音声ガイドがされるようになりました。一番よく使われているのがカーナビかもしれませんが、地方に行ってレンタカーを借りて知らない土地を走るときには、カーナビは欠かせません。車を運転しているときには、目と手は使えませんので、音声によるガイドは助かります。また、美術品などのガイドでは、その作品にまつわるいろいろな情報を得ることができます。しかも、静かにしないといけない場所では、イヤホンから聞くのは他の観客の邪魔をしません。そのように、静かにしないといけない場所では有効的です。先日は、寺院の中の説明で借りました。

また、最近は、「まちナビ」のような、町の中を観光して歩くときに 「まちナビ音声ガイド機」を借りて音声ガイドを聞くことが出来るほか、携帯オーディオプレーヤーを持っている場合は、自宅のパソコンで音声ファイルと専用マップをダウンロードして、町の中で聞くことが出来ます。
中学校で習った『徒然草(二)』にこんな文章があります。

「仁和寺に、ある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。」

この法師が見たという「岩清水」とは、石清水八幡宮と呼ばれている京都府八幡市にある神社で、京都の鬼門にある延暦寺と対峙して京都の裏鬼門を守護する神社とされています。この石清水八幡宮は、京都盆地の西南部、京都と大阪が接する淀川左岸の男山山上に鎮座するもので、その山頂まで登らないと拝むことができないのです。今は、山上の本宮へは京阪電車「八幡市」駅前からケーブルカーでいけるのですが、昔は、徒歩で標高142m余りの山頂まで登ったのです。

仁和寺の法師は、そのことを知らないので、極楽寺や高良社などを拝んで、これで願いがかなったと思い込んで帰ってしまったのです。そして、周りの人に、「長年思っていたことを、ようやく果たしました。評判以上に尊いお宮でした。それにしても、あの時に、参拝の人たちが皆、山に登って行きましたが、山の上に何事があったのか。気にはなったけれど、神へ参るのが目的なのだと思って、私は山の上までは見物しませんでした」と報告をしたのです。

徒然草のこの段の最後には、「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。」とまとめています。この解釈は私からすると他人によって違いがあるように思います。「先達がいるべきだ」という「先達」とは、この文章から直接に当てはまる意味では、「修験道で、山に入って修行を行う際に指導する者、先に立って導いていく人」という意味でしょう。そこから考えて、「案内人」とかになるのですが、もっと深く教訓としてこの文章を読むのであれば、「先達」を「その方面で立派な仕事をして、後輩を導く人。先輩。先学。」と捉えるのがいいと思います。「どんな小さなことにも案内する人が必要である」ということから、「どんな些細なことでも、その道に優れている人からの助言を求めるべきである」ということになります。

 こんなことを、先日、仁和寺に行ったときに思いました。

ニ王門


重要文化財の「観音堂」から、国宝の「金堂」と重要文化財の「五重塔」を望む

双璧無二

では、漢字の「吽」とはどういう意味かというと、「牛」と「口」ということで、もともとは獣が吠え、かみ合う声を言ったようです。それが、仏教語の音訳に用いられ、「阿」が開口音であるのに対して、「吽」が合唇音であり、一切衆生の性情は、「阿」に生じて「吽」に収まり、阿吽の間に包摂されるといわれるようになりました。

 このように、阿吽は、出息入息を示し、ものの始まりと終わりという意味です。それは、「生」と「死」ということであり、この「始まり」と「終わり」にもいろいろと考えさせられることがあります。「万物の初めと終わり」とはどういうことでしょうか。これは、「無二双璧」とも言われますが、私は、すべてに通じる「二進法」だと思います。「口を開ける」「口を閉じる」ということは、「ある」「ない」ということから「穴が開いている」「穴がふさがっている」という昔のコンピューターから打ち出される長い紙であり、「電気が通じる」「電気が通じない」ということで計算をしている電卓であり、「はい」「いいえ」ですべての言葉が表される言語の基本でもあるのです。それが、「息を吐く」「息を吸う」ということで、どちらもとても大切なものの原理なのです。

 「始まり」となると、宇宙の始まりであるビッグバンを思い浮かべますが、そこに、終わりがあるのかは、私はよくわかりませんが、密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心と涅槃などの象徴といわれているのもわかりますし、始まりを真実や求道心に、終わりを智慧や涅槃にたとえてきたこともわかります。そのように二者を、対として考え、それはともに主体であり、優劣をこえた双璧とした考え方は、陰陽にも通じ、二者を主体客体と考えた西欧とは少し違っているように思います。

 この双璧無二を、神社の狛犬として両側に口が開いている方の阿形と閉じている方の吽形として配したのです。

もう一つ、一般には仁王の名で親しまれている金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つですが、開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多いようです。原語は、「金剛杵という仏敵を退散させる武器を持つもの」という意味です。口を開けることで、阿形像は怒りの表情を顕わにし、口を結ぶことで吽形像は怒りを内に秘めた表情を表すものが多いようです。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。

仁王像は安置される場所柄、風雨の害を蒙りやすく、中世以前の古像で、良い状態で残っているものはあまり多くありませんが、寺門に安置された仁王像で日本最古のものは和銅4年(711)の製作とされる法隆寺中門に立つ塑像ですが、先日、妻と見に行きました。
像は心木のまわりに小材を組み付けて、その上に塑土で形づくられたものであり、確かに、古いだけあって、後世の補修が甚だしく、吽形は16世紀に胸から下を木彫に改造されているそうです。吽形像の体部はほとんど木造の後補に変わっていますが、その迫力はすばらしいものがありました。この不気味で古風な怒りが、この寺の創建者の意図を受け1300年の風雪に耐えさせ、仏敵を退散させ、寺を守護してきたのでしょう。

 チームワークよく、「あうんの呼吸」で、子どもたちを守る職員の笑顔とは、似つかわしくない像でした。

呼吸

 私たちの園の職員は、チームワークのもと、「あうん」の呼吸で動いています。「あうん」とは漢字で「阿吽」と書きますが、この字には私はいろいろと不思議なことを感じます。まず、音の「あ」は、発音するときに大きく口を開けます。そして、日本における五十音の最初の字です。もちろん、最初の母音です。赤ちゃんも、最初に「あー」と声を出します。食べ物を食べようと口を大きく開けて、そこから息を吐くと「あー」という声になります。英語でもアルファベットの最初の文字は「A」で、日本語で「あ」と読みます。

日本の五十音は、もともと梵語の配列をヒントにして、それに基づいて整理されたものといわれています。古代インドでは、梵語を書くのに用いる文字のことを「言語梵字」と言います。そして、日本へ伝った梵字は「悉曇(しったん)」と呼ばれているもので、六世紀から九世紀にかけて中央インドを中心に用いられた流行書体です。この「悉曇」は、梵字の字母とそれが表す音声の総称としても使われるのですが、その最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳されているのです。

赤ちゃんは、息をはくときに「あー」と声を出しますが、オギャーと泣くときにも、基本的に声は息を吐くときに出ます。ですから、人は母体からこの世に生まれ出るときに、「オギャー」と産声をあげながら息を吐くことによって人生をスタートするといわれ、死ぬときには、息を吸い込んでこの世から去っていくといわれています。その両方を行うことを、「呼」という息を吐くことと、「吸」という息を吸い込むことを交互にするということで「呼吸」というのです。この呼吸は、空気の行き来だけでなく、息を吐くとき緊張が緩み、逆に息を吸い込むときに緊張します。そうして、人の身体的な機能をコントロールしているのです。それが、「自律神経」と呼ばれているもので、人が頭で考えてしているのではなく、自律的に働くのです。

また、人は力を出すときには、息を吐きます。吐くことによって緊張が緩み、筋肉と緩め、関節を柔らかくすることで、体にしなりのような、力の溜めの状態を作って、最大限の力を発揮するのです。肉食獣が攻撃を仕掛けるときには、獲物が息を吸ったときに飛びつくそうですが、格闘技でも、相手が息を吸うときに、自分は息を吐きながら体を動かし、攻撃をしかけるそうです。それが、「呼吸を合わせる」ということなのです。それは、会話の場合も同様で、相手が話しているときに(つまり声を出しているときは息を吐いていること)適時うなずくことで息を吐き出し、呼気と同調しているので、呼吸を合わせるということにつながるようです。相手と呼吸を合わせると、話の内容がよく理解でき、また、自分の伝えたいことも伝わるようです。

相撲の仕切りも、吐く息と吸う息を合わせます。それが、「阿吽の呼吸」です。では、「吽」はどういう意味でしょう。まず、音の「うん」は、口を閉じて発音します。そして、「ん」は、日本語の五十音では最後の文字になります。ただ、よくこの語源の由来として悉曇字母表の「最後の音」に由来するというのを聞きますが、どうも「あ」は最初の音ですが、「うん」は違うようです。それは、密教全体の真言で大日如来の真言とされている「光明真言」の最後の「ウン」ではないかという説が有力です。この「光明真言」とは、滅罪と浄土往生の功徳があり、広く人々の信仰を集めている23文字の短い経です。これは、「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」と唱え、さいごの「うん」は、「この身のまま、仏にならん」ということのようです。

では、社寺の門前の狛犬や、山門の仁王についての阿吽を考えてみたいと思います。

漢字

 私の園で、3,4,5歳児の保育室は、子どもが自ら活動が選択できるように各ゾーンが設置されています。「製作ゾーン」とか「絵本ゾーン」とかさまざまなゾーンが用意されているのですが、そのなかで、どのゾーンで遊ぶかは子どもが選択できるのですが、選択肢は、時間帯のよって絞られています。それは、子どもが話し合いできまたり、保育者が子どもに経験させたい内容を絞ったり、職員数、職員の得意分野などで絞ったりします。そして、ゾーン表の横に、今は、そのゾーンが「開」か「閉」が表示され、子どもたちは、その表示よって遊ぶゾーンを選んでいます。

先日、見学者から「昨年は、その表示が○か×だったのが、どうして開か閉になったのかと聞かれました。」そのとき、私は、「“開”と“閉”は漢字なので、子どもにはまだ難しいと思うでしょうが、漢字は、記号に一番近いのですよ。」と答えました。たとえば、「ひらく」「とじる」と表記をすると、文字を読まないと意味はわかりません。それは、一文字ずつが音を表しているだけで、その音を一音ずつ読んで単語になり、その単語が意味を持つからです。しかし、漢字は、その文字自体が意味を持ちます。たとえば、○は、その記号が「いい」という意味を持ち、×は「だめ」という意味を持つように、「開」はじっとその字を見ていると、なんとなく○に見えてくると思いますし、「閉」は×に見えてくると思います。それは、それは、子どもからすると、門構えの中の形がなんとなくそう見えてくるのでしょう。

漢字は、とても不思議な文字です。見た瞬間、意味を感じます。文字を読まなくても、その文字の持つ意味を感じるのです。ですから、文章も、漢字かな交じりで書いた文章を読むほうが、かなだけで書かれた文章を読むよりも早く、意味を正確に読み取ることができるのです。日本人の学力の高さは、この漢字にあるといわれることもあるくらいです。私たちを悩ませる漢字も、日本人がコミュニケーションをとる上でハイコンテクト文化を構築したことに貢献したかもしれません。また、単一民族だったせいか、人種や言語が共通であるだけでなく、江戸時代においても多くの庶民に至るまで教育を等しく受けており、、風習、知識、体験、価値観などが共通であることが多いために、「以心伝心」の部分が多いのでしょう。

そのお互いの合意は、ビジネス界でも交渉相手は、日本語を話し、読み書きや計算ができることを前提としてコミュニケーションを取ります。しかし、今までのように、日本人同士だけではなく、ローコンテクスト文化の国ともコミュニケーションをとらなければならなくなりました。すると、日本人は、コミュニケーション能力に劣っていると、苦手といわれてしまうようです。ローコンテクスト文化の国では、コミュニケーションは、「分かりやすく」「印象深く」伝えることが必要なのです。したがって、ロジカルに伝えることが必要になり、その力が、日本人は、劣っていると言われてしまうのです。

また、コミュニケーションの壁は日本人の間にも存在します。それは、年代間の差であり、男女の差です。国の違いも、年齢の違いも、男女の違いも克服できる「ロジカルな話し方」の利点がどこに書かれていたか忘れましたが、私のメモに残っていました。それは、「短時間で大事なポイントが伝わる話し方ができる」「相手を論理的に説得できる」「聞き手のストレスが少ない」ということで、欧米では戦略的に活用されているそうです。日本人のよさを残しつつ、欧米のコミュニケーションのあり方からも学ぶことがありそうですね。

日本の文化

 ずいぶん昔になりますが、カナダから帰りの飛行機のなかで、隣に座ったカナダ人と知り合いました。最初は、つたない英語で会話をしていましたが、途中から日本語が堪能であることを知ってホッとしてそのあとは、日本語で会話をしました。もっと日本語が話せることを早く教えてくれればいいのに、後で考えると、つたないどころかまったく通じないであろう英語を、何とか聞いてくれていたのだと恥ずかしく思いました。彼は、シアトル大学の日本文学教授でした。機内では、三島由紀夫が自殺したことについて話し、私は日本の「美意識」を彼の作品「憂国」のなかで、自害した夫のあとで妻が自害する前に純白の着物を着て、床に広がる血の海の赤が、次第に白い着物を下の方から染めていく様に、私は三島独特の美意識を感じ、その美意識と自己の美への愛から自殺したのではないかという話をしたのを覚えています。今考えると恥ずかしくなりますが、そのあと、川端康成の自殺の話になり、彼も私は彼の作品「古都」を例に出し、やはり心の中で日本の美を求めて自殺したのではないかと語りました。そのときに、はっきりと覚えていませんが、その教授は、川端康成の自殺は違うというようなことを言い、少し議論になりました。そうしたら、なんと、川端の自殺の前日、川端とあって話をしたというのです。そして、三島とも会ったことがあるというのです。

 日本人の文化、日本人独特の美意識、そんなものは日本人でないとわからないのではないかと思っていましたが、実は、外国人は、日本人よりも客観的に、また刷り込みなしに見ることができるので、かえって日本のことがよくわかるのかもしれません。70年近くにわたり日本文学を幅広く研究し、世界に広めた功労者、アメリカ・コロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏は、18歳で「源氏物語」と出会い、その後、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった名だたる文豪とも親交を結び、日本文学に情熱を注ぎ続けてきました。
キーン氏が、初めて日本文学に触れたのは、18歳の時、ニューヨークの本屋で偶然手にしたのが、英訳された「源氏物語」だったそうです。そこには、1000年以上前に日本の王朝貴族が繰り広げた美の世界が描かれていました。キーン氏は、その魅惑的な世界に、たちまち心を奪われたのです。今度、源氏物語の映画化が公開されます。それまでも、何度か映画化されています。しかし、そこでは、ストーリーが中心で、観客は源氏物語に描かれたような、独特の美意識を持つ日本人をどう思っているでしょうか。

 美意識だけでなく、日本人特有の文化が、さまざまなものに影響をしています。たとえば、欧米人の話し方が「論理的=ロジカル」なのに対し、日本人の話し方は「分かりにくい」といわれます。それは、どちらがいいということではなく、文化の違いから来るものです。それは、「あうんの呼吸」に代表されるように日本は世界一の「ハイコンテクスト文化」を持っているといわれています。日本人は、世界一、国民同士がコンテクストといわれているコミュニケーションを取り合う同士が持っている基盤を多く共有できているのです。ですから、言葉にすべてきちんと表さなくても伝わるコミュニケーション力を持っているのです。

 かつて、物まねが得意な国民、はっきりと言葉で伝えない国民、それらは、すばらしい能力なのかもしれません。そんな日本人のよさを、外国の人から気づかされます。

自国への自信

 4月に、日本に帰化し、永住を決めたドナルド・キーン氏は、日本人のよさを語っていますが、それは、私たちが忘れてしまっていることかもしれません。まず、どこに惹かれたかというと「礼儀」だと言います。人間と動物のいちばんの違いは「礼儀」だと言います。人は社会生活を営んでいます生物としての人はそこでは人間、つまり人と人との間と呼ばれています。なぜ、人間の特徴かと言うと、人間の特徴であり、特に日本人の特性である「社会の構成員」としての意識の重要な要素であるのが「礼儀」だからなのです。「礼儀」は、社会を営むうえで、人間は相互の生活秩序を保つためにお互いに合意されてきた知恵の中の一つなのです。ブログでも取り上げてきましたが、私は、日本における道徳観は宗教ではなく、人間生活を心地よく、自分を主体として生きていくうえの知恵が道徳であり、道徳が形として現れたのが礼儀だと思っています。キーン氏も、この礼儀において、日本人は優れていると言うのです。

 また、今回の震災を受けて、日本人とアメリカの違いがよりはっきりしたと言います。それは、「家族に不幸があっても、泣いたりせず、自分の本当の気持ちを隠して人に接するのが日本人。一方、米国人は、ワーッと話す。今回の震災でも、米国人は、日本人の落ち着きぶりに驚いた。素晴らしい、と。今ほど親日感情が高まっているときはない。わたしの友人で、特に日本に関心がない人でも、大震災の話をする。(いろいろな話が出るが)誰からも、一度も日本の悪口を聞いたことがない。」と言います。

しかし、逆に日本の欠点はキーン氏は何だと思っているでしょうか。それは、「極端から極端に走るところ」と言っています。確かに、私もバブルがはじけた後は、世界では日本などはあまり相手にせず、インドや中国、韓国に勢いがあり、行き詰まり感を持っています。しかし、キーン氏は、バブルがはじけると日本人は、「もう日本はだめだ。外国は、みんな中国に興味がある」となってしまっていますが、そんなことはないと言います。もう日本語を勉強したがる外国人はいないと思っていますが、そんなことはないと言います。今年は、コロンビア大学の日本文学のクラスには、去年の倍の学生が集まっているそうです。また、日本では、ジャパン・バッシングからジャパン・パッシング(日本外し)など、誰かが言い出すと、みんなそれにならってしまっていますが、2013年以降、ニューヨークのタクシーが日産車に統一されるように、日本製品はいいということを、みんな知っていると言います。風評被害で日本の食べ物を敬遠する米国人もいるという話がありますが、キーン氏の周りでは聞いたこともないと言います。

日本は、サプライチェーンの混乱など、戦後最大の危機だと騒いでいることに対してもこんなことを助言しています。「日本製品は高品質で信用できるという評価は、揺るぎないものだ。以前は、日本は物まねが上手だと言われたが、今は、日本が新製品を出し、他国がまねる時代だ。日本の美術も人気がある。音楽も、毎年、ニューヨーク・フィルハーモニックが武満徹の曲を演奏するようになり、広く知られるようになった。経済力が、世界2位から3位になったことに意味はない。中国は人口が多い分、(国内総生産が高くなって)当たり前だ。日本が悲観することは何もない。」

彼が指摘するように、私たちはもっと自信を持つべきかも知れません。以前のブログで、立ち直る力であるリジリエンシーの一つの要素は、「自分が好きなこと」とあります。今回の震災を含めて、今いろいろなことが過渡期かもしれませんし、価値観を見直さなければならない時期かもしれません。そのときこそ、自分を信じ、自国の本当の文化に自信を持つことが必要なのかもしれません。

人生のチェンジ

 昨日のasahi.comに、「海外における日本文学研究の第一人者、ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授の著作集(新潮社)が22日から刊行される」とありました。この著作集は、全15巻で、日本語で最初に書いた1957年の『碧い眼の太郎冠者』から、現在連載中の新作評伝まで、50年を超す日本文学の研究成果をまとめたものです。今回の刊行にあたって彼は、「私は日本人像を求めて、いろいろな角度から日本文学を読んできました。日本の文学は心を一番大事にしている。そして自然と愛が大きなテーマです」と話しています。

 彼は、今年の4月26日、米コロンビア大学の約10人の大学院生などを前に最後の授業を行い、56年に及ぶ教師生活にピリオドを打ったというニュースが流れました。なぜ最後かというと、日本国籍を取得し、余生を「日本人」として過ごすために日本への永住を決めたからです。その授業の中で、彼は、「19年前の公式な引退後も教壇に立ってきたが、日本では、88歳(米寿)は重要な年。わたしも人生をチェンジすべきときだと考え、日本で残りの人生を全うすることにした」と、英語で決意を語ったといいます。帰化をしようとした動機は、長い間、驚くほどの親切さで接してくれた日本人への「せめてもの恩返し」だと言っています。

 キーン氏は、いったい日本のどこに魅了されたのか、逆に彼から見る日本人の最大の短所は何かについて、ウオール・ストリート・ジャーナル誌の中でフリージャーナリストである肥田美佐子さんが聞いています。なぜ、永住を考えたかということについては、「1月、日本で3週間入院した際、あとどのくらい生きるか分からないと考え、残りの人生をどこで過ごすか、まじめに考えるようになった。そして、達したのが、いちばん住みやすい所は日本、という結論だった。かねてから日本の友人などに恵まれたことに対し、感謝の気持ちを伝えたいと思っていたところ、大震災が起こった。テレビで、ものすごい津波の映像を見て、日本の国籍を取ろうという気持ちが固まった。わたしの決断が日本の人たちに勇気を与えると言ってくれた日本人もいる。日本を離れる野球選手なども多いなかで、一人だけ日本に向かうのだから、驚く人もいたが、反対する人はいなかった。わたしを知っている人は、みんな、”なるほど(当然)”
と。」

 あの大災害のときの津波の映像を多くの人が見たと思います。そのときに、人はそれぞれ自分の人生に合わせていろいろなことを考えたでしょう。当然ショックになった人が多いと思います。しかし、そのショックが、次のどのような行動に変えたかが大切なことです。時間は後戻りしませんし、いつまでも悲しんでいるだけでなく、その教訓から何を学び、今の自分は何ができるのか、何をすべきか、何を次世代に伝えるべきなのか、ということを考えることが大切です。

 今回の災害が大きければ大きいほど、変化は大きくなります。キーン氏は、まず、今まで1冊も捨てたことがない何十年もかけて集めた文学書や美術書など何千冊を、どう処分しようか、考えているそうです。そして、東京に、35年前に買った家があり、これまでも、1年の3分の2を日本で過ごしてきたこともあり、永住を決心したのです。そして、88歳になる彼は、冗談で、「日本の習慣では、70歳になると仕事がないので」ということで、日本全国、講演活動などを行っていきたいそうです。

 どんな年齢になっても、いつも前向きに生きていきたいものです。

牡蠣

 今年の東北大災害は、各地に被害をもたらし、今まであまり聞いたことのない地域がテレビや新聞で取り上げられるようになりました。それらの地域のなかで町が流されてしまった山田町が取り上げられます。それまで、あまり大船渡市とか山田町のことはニュースで流れることはなかったのですが、たまたま、私がファイルしておいた記事にこんなのがありました。昨年5月31日の 読売新聞です。「三陸名物の殻付きカキを食べ放題できる岩手県大船渡市のカキ小屋が30日、大盛況のまま、初シーズンの営業を終えた。」という記事です。

 三陸では、宮城県松島のカキ小屋が有名で、そこでは、蒸し焼きの殻付きカキを制限時間内に食べ放題できるというものでした。それを、山田町が、2年前に始めて、2月から土日祝日のみ営業し、36日間で2354人の来場を記録したのです。それに刺激を受けて、構想を練っていた大船渡市の養殖業者でつくる「大船渡湾水産物流通研究グループ」も、2月6日から土日祝日限定で営業し、目標の2000人を上回る2569人が訪れたようです。一方、31日が根気最終日の山田町のカキ小屋も30日までに4723人が来場したようです。共に好調だった結果に、山田町の湊事務局長は「両方のカキ小屋に来てくれた人もおり、ライバル視はしていない。相乗効果を期待する」と余裕のコメントをし、新沼会長は「うちは漁師直営が売り。互いに刺激し合うことがいいものを作ることにつながる」と話していたという記事でした。しかし、この両地区では今年大きな被害を受け、カキ小屋はおろか、カキ漁ですら危ぶまれています。ぜひ、早いうちに再開をし、いい意味で、両地区が刺激しあって、また地域力を盛り返してほしいと思っています。

 それ以前から、カキ小屋で有名な地域に、福岡県糸島市があります。一昨日は、福岡の糸島から殻付の蛎を送っていただきました。ちょうどその日の夜は、我が家で有志が集まってクリスマスパーティーが予定されていましたので、カキ小屋のごとく、から付のカキをそのままバターとしょうゆをたらし、焼いていただきました。中にはカキがあまり好きでない人もいましたが、参加者全員が、おいしい、おいしいといってその日のうちにあっという間に平らげてしまいました。

毎年冬になると糸島市内では6つの地区に20数軒のカキ小屋がオープンし、たくさんの人で賑わい、ここ数年、ブームと言ってもいいほど人気を集めています。このカキ小屋に昨年連れて行ってもらいました。外から見ると、そこはビニールハウスが並んでいるというイメージです。しかし、ここ糸島のカキ小屋の名物は身が大きな「焼き牡蠣」ですが、焼けるのは牡蠣だけでなく、ホタテやイカ、活車エビ、サザエなどもあり、カキが苦手な人でも大丈夫です。

ただ、一昨日にカキを焼くときに、気をつけるように言ったことがありました。糸島でカキをいただいたときに、ここでは、自分たちで焼きながら食べるスタイルですが、そのときに、ときどき身が「パンッ」とはじけて、熱い汁や灰が飛び散るのです。ですから、食べる前に、軍手とトングと殻を入れるバケツを貸してもらうのですが、同時に手ぬぐいを借りて胸の辺りにかけて焼いたのを思い出したからです。

それにしても、ぜひ三陸でもカキ小屋が再開されるといいですね。