問題行動

 最近、幾度となく赤ちゃん学会理事長である小西行郎氏と話をする機会があります。そのたびにずいぶんと考え方が似ていることに気がつくのですが、私からすると、その中で最も共感するのが、子ども集団の意義です。子どもはどうやって乳児のころから他を意識し、その中から他者理解をし、自己を確立していくかという発達です。このことに最近特に注目するのは、子ども集団が家庭内、地域の中から消えつつあるからであり、その中で育っている子どもたちは、次第に集団をわずらわしく思い、集団の中に出ていくのを恐れるようになってきている現状を憂えるからです。

 ここ数日にわたって、発達のことを考察し、発達しょうがい児について考えてきましたが、それは、しょうがい児においての子ども集団の意味についても考えてみたからです。先のブログでも書きましたが、どうしても発達しょうがいというと、社会的な適応の問題を取り上げがちで、そこに問題を抱えている子は、子ども集団の中に入れることは負担になるのではないか、子ども集団の中では、他の子にとっても、しょうがいを持った子にとっても迷惑な話であるということを考えがちだからです。その点、小西氏は、どう考えているのでしょうか。

 発達しょうがいは、発達期においてのしょうがいであり、それは病気ではないので、回復も悪化もしないといわれています。しかし、発達しょうがい児によくみられる「問題行動」は、私たちを悩ませ、園に行くと多くの相談は、問題行動に対しての対応です。では、なにが「問題行動」なのかというと、私たちが持っている「普通」から外れているこのことをさすことが多いような気がします。小西氏は、「そもそも大人は、子どもの行動を“良い”ものと“悪い”ものとに分けて判断し、大人が見て“良い”と感じる行動には称賛を与え、“悪い”と感じる行動には叱責を与えて改めさせます。そして誰しも、できれば“良い”行動をしてほしいと望みます。」このように考えるのは、誰しも思うことであり、それは悪いことではないのですが、問題は、大人にとっての子どもの行動の意味は、子どもにとっての行動の意味と少し異なる場合があると言うのです。「そもそも問題行動というのは、子どもにこうあってほしいとか、こうあるべきだという大人の側の考えと、実際の子どもの考えにズレが生じたときに怒るものです。ですから、大人が自分と子どもの認識の“ズレ”に気づくこと、つまり子どもの行動をどう解釈するかがこの問題を考える重要な鍵となります。」

 このことは、以前紹介した「哲学する赤ちゃん」のなかで「赤ちゃんは研究開発部門を担当し、大人は製造販売する部門を担当する」と書かれてあるように、役割が違うために、それに必要な行動が違うのであり、大人から見る子どもによる問題行動は、子どもにとっては発達に必要な行動であることが多いのです。しかし、大人を悩ませている「問題行動」には、大きく二つに分けられるといいます。一つは、発達の過程でしばしば目にする「反抗的態度」です。それは、子どもの自立心を抑えようとする大人に対する反発を伴う意思表示です。また、自分の気持ちや考えがうまく伝えられずに、理解されないことへの不満からときとして攻撃的になります。それは、よく子どもに見られる態度ですが、とくに発達障害の子どもは、どう年齢の子どもとの遊びでは勝てないために意欲的になれず、カッとなってつい先生や友達に手が出てしまうのもそうした理由によるものとみています。

 もうひとつの問題行動は、「相手の気をひく言葉や行動」で、主に大人の注目をこちらに向けたいときや駆け引きの手段として使われる行動です。

 問題行動を起こした場合、その行動だけを見るのではなく、その子どもの気持ち、動機、意図を理解することがまず、大切なのです。

意欲的

 小西氏は、ある仮説を立てています。それは、胎児期に生じる脳、運動、知覚の異常が。新生児期以降にコミュニケーションの障害を引き起こし、本格的な集団が生活が始まる幼児期になって社会性の問題に発展すると思っているようです。そうなると、多くの園や家庭を悩ましている発達障害児のコミュニケーションの障害や、社会性の問題は、胎児期における発達障害に続く二次障害と見ることができるというのです。ということで、少し前からブログで取り上げている胎児からの「運動」「知覚」がどのような意味を持っているかを考察する必要があるのです。

 このことを証明するかのような最近の科学的研究があります。「発達障害をもつ子どもは、物を見たり、音を聞いたり、手足を動かしたりする出発点が健常の状態と違っていて、発達障害の子どもにとってはそれが当たり前の世界である」ということのようです。これは、私がよく講演で話すことですが、しょうがいを持った子が、他の子にぶつかってトラブルを起こしたときに、かたくなに自分は悪くないと言い張ることがあります。そのときに、私たちはまったく自分の非を認めないのだからとあきれることがありますが、実は、しょうがいを持った子からすると、心から自分からぶつかったと思っていないわけで、そうなると相手からぶつかってきたと思うのです。何も自分を正当化しようと思っているわけではなく、相手の距離感が把握できないために、ぶつかってしまうのです。それを、必死になって、言い聞かせたり、誤らせたり、悪いことを認めさせようとすると、逆にしょうがいを持った子を自分の中に閉じ込めてしまっているのです。

 小西氏は「人生の途中で機能が失われたのではなく、また親の養育態度によって他者との社会的関係がうまく結べないのでもなく、その世界を携えて生まれてきたのだとすれば、発達障害を持つ子どもの運動や知覚の機能それ自体を治療することは容易ではないように思います。」この言葉には、多くの保育者が勘違いしている「母子の愛着」があります。母子愛着が形成されていないと、他者との社会的関係がうまくいかないということは、必ずしもいえないのです。また、あまりに社会的関係だけにしょうがいの行動を見てしまうと、「場の空気が読めない」「こだわっている」「怠けている」「頑固だ」などと本人のやる気や態度を非難するのは大きな思い違いであると警告しています。

 人類は、自発的な運動をすることによって、学習をしていきます。それは、しょうがい児にも言えることなのです。保育指針の発達の特徴に「子どもは、様々な環境との相互作用により発達していく。すなわち、子どもの発達は、子どもがそれまでの体験を基にして、環境に働きかけ、環境との相互作用を通して、豊かな心情、意欲及び態度を身に付け、新たな能力を獲得していく過程である。」と書かれてあります。人間は、「自ら行動し、環境との相互作用により発達する存在」なのです。

それは、しょうがいを持った子にもいえると小西氏は言います。ですから、発達しょうがいを持つ子どもに次から次へと課題を与えて「正しいものを見せる、聞かせる、触らせる」だけでなく、子ども自身が「興味あるものを見たい、聞きたい、触りたい」と意欲的になれる工夫をするべきであると小西氏は助言をしています。

別の世界

 最近、幼児教育についての研修会において質問を受けることが多いのですが、その多くは、「しょうがい」と思われる子どもについての対応です。多くの家庭、多くの園では、その子たちによる行動に戸惑ったり、理由がわからなく、ただ子どもをしかったり、抑制しながら、その効果のなさに戸惑っていることがあります。また、その行動に直面したときに、いつ、どのようにして発達障害が起こるのか不思議に思うことがあります。今日、発達障害の発生のプロセスについて、複数の学問分野が研究を始めています。決め手は、まだないようですが、この研究に対して、虐待や不登校、行動障害など、子どもの精神を扱う小児・児童精神科医なども重要な役目を果たしているようです。

 小西行郎氏の「発達障害の子どもを理解する」という本の中で、最新の研究の状況を報告しています。それによると、発達障害の原因を探る代表的にアプローチに「脳機能研究」があるそうです。発達の中で、他人と自分とは異なる考えを持つことが推論できる「心の理論」を説明しましたが、自閉症児はこの機能を司る脳の部位に障害があるといわれているそうです。また、最近では、自閉症、主にアスペルガー症候群では、「社会脳」と呼ばれる扁桃体、上側頭回、前頭前野内側前部、眼窩皮質などに障害があることもわかり始めているそうです。ということは、集団の中で行きぬくすべをえるために発達する脳が育っていないということです。

 最近、脳科学者の間で特に注目を集めているのが「実行機能」障害説というもののようです。実行機能は、「始動」「集中」「努力」「感情」「記憶」「行動」の各機能で構成され、人が目標を立てて、物事を計画し、それに向かって動機を維持し、遂行する能力です。これらを司っているのが一時有名になった「前頭葉」です。この前頭葉の中のどこかの部位がダメージを受けていると考えられているのが、注意欠陥多動性障害や自閉症で、その場所によって、そのあらわれ方が違ってくると考えられているのです。ということは、「すぐ事が始められない」「集中することができず、すぐ気が散る」「何とかしようとがんばる」「すぐカッとする」「何回言ってもわからない」などの行動は、もしかしたら、子どもが、わざとしていたり、怠けようとしていたり、人の話をきちんと聞いてくれないなどと嘆いて、子どもにせいにしているのは間違っているかもしれないのです。

 小西氏はこんな例を出しています。ひとは、誰かに声をかけて、相手が振り向かないときには不自然な印象を持ちます。それは、人々の間にコミュニケーションの前提として「人は呼んだら振り向くものだ」という共通認識があるからだといいます。ですから、振り向かないと不愉快になるのです。発達障害の子どもが話を聞いていないように見えるのは、「聞く気持ちがない」からではなく、「さまざまな情報が同時に聞こえている」か「聞こえているけれども、私たちが聞いているのとは少し違った聞こえ方をしている」からかもしれないといいます。塗り絵の枠をはみ出して塗ってしまい、上手にできないとかんしゃくを起こすもの、「根気がない」「わがまま」だからではなく、「視覚機能にわずかなズレがあって、私たちが見ている風景とは違った見え方をしている」か、「もともともっている運動パターンが少ないために、スムーズに手を動かせずにいる」のかもしれないというのです。

 最近の科学的研究からわかり始めてきたのは、「発達障害をもつ子どもは、物を見たり、音を聞いたり、手足を動かしたりする出発点が健常の状態と違っていて、発達障害の子どもにとってはそれが当たり前の世界である」ということだそうです。

発達を考える

赤ちゃんの発達を考えることは「ひと」を考えることであり、人類が何のためにこの宇宙の中で生を受け、進化していくことがどのような意味を持っているかを考えるヒントが ある気がします。それは、生き物が子孫を未来につないで行くための遺伝子を、そのまま見ることができるからです。そんなことで、私たちは赤ちゃんから学ばなくてはいけないことが多い気がします。

 赤ちゃん学会理事長の小西氏は、こう言っています。「胎児や赤ちゃんは、そのもてる運動能力と知覚能力をフルに活用して自ら探索、学習し、周囲に果敢に働きかけて成長し、発達していきます。たとえば、原始反射は今でも発達学では重要視される視点ですが、人間の原初の運動は、GM運動に代表される「自発的なもの」です。自発的な運動はその後、自らの意思によって行う随意運動に発展します。そして、意識的、自発的に行われなければ「学習」は成立しません。」

 「学習」の意味に、「人間も含めて動物が、生後に経験を通じて知識や環境に適応する態度・行動などを身につけていくこと。不安や嫌悪など好ましくないものの体得も含まれる。」と書かれてあります。また、「“学習”とは、人間が社会的に生きていく中で、より良い状態を作り出すために、自分の意志で、知識、思考、技能、感性、情緒、運動など、人間能力の様々な側面の1つ、あるいはいくつかの側面の向上をはかる行為」とも言われています。「自分の意思で」が大切です。この言葉は、先の小西氏の言葉の中にも「自らの意思によって」と表されています。

 今回、数回にわたって胎児から生後の発達を考えてきたのは、発達しょうがいの子を理解するためでもあるのです。胎児から赤ちゃんの発達する上で、何からの障害が生じるのが「発達しょうがい」だからです。それをもう一度見直そうと思ったのは、先に紹介した赤ちゃん学会の理事長である小西行郎氏が園に来て、しばらく一緒に話をし、今月22日に発行された「発達障害の子どもを理解する」(集英社新書)をいただいたからです。この本の中で、発達障害についてこんな危惧を持っています。「育児や保育、または教育の現場で指摘される“ちょっと気になる”という表現は、どのような意味合いで使われているかというと、“他のみんなと同じようにできない”ということであり、最近多い感覚は、“社会性に問題があり、保育や教育がしにくい子ども”であるようです。“個々の子どもの発達を大切に”という一方で、“集団生活が円滑に送れない子ども”は、やはり保育がしにくく、問題があると見なされるのでしょう。」ということで、最近、そのような気になる子が増えてきていて、社会的にも問題になっています。もっと、きちんとした理解をすべきであるというのが、この本の趣旨であるようです。

 たとえば、発達障害という概念が導入されて以降、わが国では、その障害のあらわれ方としてコミュニケーションの問題を主眼とする「社会不適応」に焦点があてられてきました。そのため当事者による「社会適応をする努力」の必要性が強調されてきましたが、じつは、最近、発達障害が共通して見られる、乳児期の特長的な運動の異常が将来の発達障害を予期させるなど、運動の遅れや見る・聞くなどの認知機能の異常を指摘する報告がされ始めているの小西氏は指摘します。

 最近のこのような知見は、発達障害を持つ子どもの認知世界が私たちと異なっているということを強く示唆しているために、まず、私たちの認知世界の発達を理解する必要があり、そこから、その対応を見直そうというということです。

新しいことをはじめるとき

 時代は、突然と変わることはありません。子どもの変化も突然と変わるわけではありません。 たとえば、少子化により、また、空き地などで子どもたちは異年齢で一緒に遊ぶ経験が少なくなります。そんな環境は、徐々に変化していきます。そして、その影響は、徐々に子どもの心や身体に変化を及ぼしていきます。では、園で異年齢の体験を多くしようと異年齢児クラスにしようと思います。そのときには、徐々に異年齢時クラスにするのではなく、ある日突然変えざるをえません。そのときに、徐々に変化していくことは、人はあまり気にせず、結果的に大きな違いになったときにあわててその変化を憂えることになるのですが、その対応に対しての突然の変化には抵抗します。また、突然変えることに躊躇し、「どうしよう、どうしよう」と思っているうちに時代はどんどん変化していきますし、「いつかはやらなくてはいけないのだけれど」と思っていいるうちに日は過ぎていってしまいます。

 組織を変えるときには、管理職の決断が必要になります。その決断には、当然、さまざまな抵抗にあいますし、さまざまな困難が待ち受けているかもしれません。そのような目にあったときに、決断したことに確信がないと、変化したことを悔いたり、変化の仕方が急すぎたと反省したり、その決心が揺れ動きます。そうすると、部下たちは、その決断に向けて決心し、取り組み始めているのに、その目的が見えなくなってしまいます。その迷いが、より変化への決断の結果を悪くし、その責任を、部下の取り組みに押し付けようとします。「みんな、理解してくれない」「みんな、取り組んでくれない」と嘆くことになるのですが、実は、管理職の迷いがそんなことを起こしていることが多いような気がします。

 変えようと決断するときのポイントがいくつかあります。哲学者プラトンは、人間には四つの徳があるといいます。英知、正義、自制心、そして勇気です。新しいことを始めるには勇気が必要です。今まではできないと諦めていたことを実行に移す勇気をもつことが大切です。また、やってみようという気持ちは人を若くさせてくれます。次に、いつ変えるかということです。何か新しいことを始めるときに、「キリのいい来月1日から」とか「年度が変わってから」「建物が替わってから」などと思いがちです。ここに大きな落とし穴があります。「何か始めよう」と決めた時に、本当は今日から始めるのが早い。「こうしよう」と何か改善方法を決めた時、すぐやれないのは過去にさかのぼってしまうからです。今日から始めればいいのです。それが、「思い立ったが吉日」ということなのです。たとえば、禁煙をしようと思ったときに、「今の箱を吸い終わったら」「来年から」とか思う人は、意外と禁煙はできません。禁煙した人に聞いてみると、「今からやめよう」と思う人ほどやめられているようです。

 また、何から始めようと迷っている時間の多い人がいます。しかし、迷う時間があるなら、すぐに何かを始めたほうが圧倒的に速いことが多いようです。やる前は、「これぐらいかかるかも。でも、ひょっとしたらもっとかかりそうだ」という気がします。そういう時は、仕事の大半は思ったより早く終わることが多いので、とりあえず始めてみることだと助言をする人がいます。どうしてかというと、将棋の山崩しにたとえています。山崩しの山の中には、どれにも触れていないでスッと簡単に取れるコマがたくさんあります。それをどかすと、次にまたサッと取れるコマがたくさん出てきます。別のコマに乗ってしまって取りにくいコマはごくわずかなのです。山崩しも仕事もやってみないことには何もわかりません。

 はじめることで、次の具体的な課題が見えてきます。それを解決していくことで、思っていたよりも早く変えることができることが多いのです。やらなければならない書類は、やらないで机に載っている時間が長ければ長いほど、心理的にかかる負担だけが圧倒的に増えるのです。

生まれてから

 胎児は、母親のおなかの中で、生まれてからのいろいろな準備をしています。それは、運動と知覚の繰り返しの中で生命維持に欠かせない活動を行うためのものであり、他者とのコミュニケーションをとるための準備であり、自他の認知のための準備です。この発達の準備を見ると、人類はいかに社会が必要であることがわかります。生命の維持のための呼吸や嚥下などと同じように準備しているのですから。しかし、その準備は、将来のためだけでなく、準備をする過程でも重要な役目があるのです。それは、「脳を育てている」ということです。運動をすることによって、何かを認知することによって、脳に「身体地図」を作っていると考えられているのです。この「身体地図」というのは、脳自身が、それぞれの刺激に対して、脳のどの部分で感じ取っていくかという脳の役割を分けていクコとです。

 このように、胎児は、生まれてからの準備をしているわけですが、実は、それは、実用的ではないこともあります。実際に、まだ世の中で体験していないわけですから、修正が必要になります。そこで、生後、赤ちゃんは必要なものを選択し、修正をしているのです。その修正、選択は、周囲の環境から見る、聴く、触るなど五感への刺激を受けながら行われていくのです。この一連のプロセスは、遺伝子によってあらかじめプログラムされたものから、妊娠後期から本人の意思による学習へと変化していくことが最近の研究でわかっています。

 人類は、運動と知覚の発達の中で「自他認知」が生きていくうえで大切ですが、これは、生後、周囲の人たちとの関係の中で、「情動」を経験するのに欠かせない能力となっていきます。喜び、悲しみ、驚き、怒り、恐怖なでの感情は、赤ちゃんは、生まれてから周囲のものに興味を持ち始め、五感を使って行動範囲を広げ、人との関わりの中から学んでいくのです。他人からの称賛、注意、叱責などに付随する顔色やしぐさから、赤ちゃんは自分の動作が歓迎されているか、いないかを知って、適切な行動様式を学んでいるといわれています。そして、次第に、相手の行動を予測し、他人の感情を理解することを学んでいくのです。

 このときの、子ども同士の役割についての研究は、まだあまりされていないようです。3?4歳児になるころの集団遊びについては研究されているのですが、赤ちゃんが、非言語的、言語的コミュニケーションを手がかりに、他者の心の動きや感情を類推する能力が、同じような能力を持った他事とのメッセージの交換から、次第に役割分担や協力関係を結ぶ「社会性」を学んでいく過程については、あまり資料がありません。しかし、現場で赤ちゃんを観察していると、1歳児を過ぎるころから他児との役割分担や、協力関係を結んでいる姿がみられますし、それは、その前の0歳児のころにじっと他児を見つめていることから学んでいるように思います。そのときの環境による経験が、本格的に集団生活が始まる準備をしているような気がします。

 赤ちゃんは生後3ヶ月ごろになると、自分の手を頻繁に眺めるようになります。これは、「ハンド・リガード」といわれる行動ですが、それは、「自分には身体があることを赤ちゃん自身が知る始まり」といわれています。いつも自分の目の前に手があり、その手が動くたびに独特の感覚を覚えることに気づき始めると、赤ちゃんは「自分自身」であることを知ります。さらに、目の前で動く手が自分の意思で動かせることに気づくと、自分の進退や目の前にあるものに触れて、そこから返ってくる反応を確かめようとします。そのとき、次第に赤ちゃんは、隣で寝ている子の手や足に触ろうとします。それは、どうも、自分の身体でないことを感じ取ろうとしているかのように思われます。

 この時期に、赤ちゃんを隣同士で触りあう距離に寝かせる研究はあまりしてこなかった気がします。この時期の、母子関係の研究が多かったようですが、園では、この時期の赤ちゃんの行動を観察することができます。

運動と知覚

赤ちゃんは、胎児のころから運動を始めるのですが、この運動には二種類の異なる運動があることを書きました。受精後8週ごろに始まる「自発的な運動」と、受精後13週ごろに始まる「反射」です。この「反射」は、胎児の運動の中で本人の意識に関係なく起こる不随筋の働きによるのものです。誕生から現れる「原始歩行」や「把握反射」などの反射は、胎児のころでも、子宮壁が身体に当たると自然に手をぎゅっと握ったりします。ここで、私は不思議に思うのですが、「自発的な運動」のほうが、自分の意思には関係ない「反射」という運動より先に現れるのですね。この異なる運動をたくみに使いこなしながら、運動機能全体を発達させているようです。

赤ちゃんは、胎児のころから運動を始めると同時に、知覚という能力も胎児から発達をし始めます。人間が持っている感覚のうち5感といわれているものがありますが、視覚は目から、聴覚は耳から、嗅覚は鼻から、味覚は舌から、触覚は肌から外部の刺激を感じ取る働きです。この感覚と運動には深い関係があります。

 胎児は、2種類の異なる運動をしているのですが、もうひとつ、胎児における発達の特徴があります。それは、知覚の中で、最も早く始まるのが「触覚」だということです。感覚能力のうち最も早く発達するのが「触覚」です。受精後7週で胎児の口の周りには触覚受容器ができ、10週目くらいになると手の感覚受容器が機能し始めると指しゃぶりが始まります。そして、このころには大人と同じ程度まで触角は発達するのです。この「触覚」は、手と足を使った「接触運動」の中心をなす感覚であり、胎児は、母親の胎内にいるときにずっとほかのものに影響を及ぼしていくのです。

 胎児期の「運動」と「知覚」の関係でもうひとつ重要なことがあります。それは、「運動と知覚の協調」です。胎児は、自分の指を探して口に入れたり、なめたりして指しゃぶりをします。この指しゃぶりは、口が指の感触を感じ、指が口の触覚を感じる行為です。指と口という二つの部位を協調して動かせているのです。これができるということは、脳や中枢神経回路が出来上がりつつあるということになるのです。

 こうして「触角」から、他の五感を使った活動が始まっていくのです。それが、妊娠中期の最大の特徴です。受精後23週ごろには「嗅覚」が、24週ごろには「聴覚」「痛覚」「瞬目」が、30週ごろには味覚が、そして、37週ごろには体内時計が始まるといわれています。体内時計とは、夜になると眠くなり、朝目覚める前に身体が起きる準備をするなど、生体リズムをコントロールする機能です。それは、体内で、胎児が光の明暗を感じてきているということにあります。また、甘さや苦味、音の高低、快・不快を感じ始めます。それが、運動に織り込まれていくのです。

 胎児がさまざまな運動や知覚を発達させるのは、もちろん、誕生後の準備です。ですから、体内で十分にこれらが発達しておかないと、誕生後の発達に影響を及ぼすのです。その準備の中で、生まれてから呼吸をするために準備、物を飲み込むための準備はよく知られていますが、もうひとつ、人間として生きていくうえで重要な準備があります。それは、他者とのコミュニケーションをとるために準備です。それは、まだまだ親にやってもらわなければならないことが多いために、親の意識を自分に向け、かわいいと思われ、世話をしたくなるようにしむける、赤ちゃんからの能動的な働きかけが必要になるからです。

 また、このコミュニケーション能力は、「自他認知」が土台になります。自他認識は、自分や他人の存在を知る能力です。それは、自発的な全身運動と、外部からの刺激によってお子は反射から、「自分」と、自分の周囲にある「自分以外のもの」を認識しているのです。

胎児の運動

 人は、胎児のころから知覚や運動を用意し始めます。それが、人より優れているかどうかはわかりませんが、最近、「しょうがい」については早いうちからわかるようになっています。しかし、それと同時に、「しょうがい」というものに対する考え方も変わってきています。それは、社会環境の変化から、また、詳細な研究から「しょうがい」と判断されてしまうことが多くなったこともありますし、ひとつの事に秀でた人に対して「しょうがい」と判断してしまう、最近の平均化した人々の判断基準もあるかもしれません。人は、何に優れ、何に劣っているかなどという判断は、どこに基準を置くか、他人と比較してどうかというような相対的な基準であり、大切なのは、それぞれの人が、それぞれ自分から自発的に、生き生きと生活していくことなのです。

「自発性」という行為は、生きるうえでとても大切ですが、それは、胎児のころから始まっています。胎児が運動を始めるのは、受精後8週くらいから始まる「胎動」です。それは、胎児自体の発達だけでなく、動き回る環境、いわゆる羊水もこのころに同時に形成されます。初期の胎動は、全身をピクッと動かす運動と、身体全体を流暢に動かすGM運動(General Movements)があります。このGM運動は運動の大きさ、速度を変化させながら数秒から数分続くのですが、この運動こそ、外からの刺激による反射運動ではなく、「自発的な運動」なのです。この自発性が、後々まで非常に重要な意味を持ってくるのです。

 赤ちゃん学会の理事長である小西行郎氏が、2001年に行われた学術集会での講演でこんなことを話しています。「赤ちゃんというのは、刺激されて動いているのか、あるいは自分で勝手に動いているのかということであります。プレヒテルは赤ちゃんの行動は原始反射ということではなくて、スポンテニアス・ムーブメント(自発運動)、要するに赤ちゃんというのは自分で勝手に動いている、そして、その意味を見つめ直せということを私に教えてくださいました。」プレヒテルとは、彼がオランダに留学していたときに教わった教授です。

しかし、この胎動は発達しないといわれています。胎児の中枢神経は目覚しく成長するのですが、行動と関係ないというのです。ということは、実は、胎児は頭から順番に発達していくのではなく、最初から全身を使う運動をしているということなのです。そして、そこには3つのパターンがあるといいます。1つ目は胎児だけにある運動で、生まれたらすぐ消える運動です。手足をブルブル震わせるような胎児の運動は、生まれてすぐにほぼ消えます。2つ目はお腹の中で出てきて一生続く運動があります。例えば呼吸運動です。息をするのは、あたりまえですが一生続きます。目の運動もこういうパターンです。そして、3つ目の運動は、いったんお腹の中で現れた運動が、消えてまた出てくる現象です。

これらから考えると、生まれてからの赤ちゃんの行動も少し推し量ることができます。少し前に紹介した「哲学する赤ちゃん」という書物も、大人とは違った赤ちゃんの能力を考察しています。大人になって消えてしまうもの、いったん消えて大人になってもう一度発現するもの、大人まで発達していくものなどがあるようです。

そんなことから、小西氏はこんなことを考えているようです。「“子供は育てるもの”ではなく、“育つもの”であり、“子供は作るもの”ではなく“授かるもの”であり、親だけにその養育の責任をおしつけるのではなく、社会全体で育つ環境を作ることが大切であり、障害児は矯正するのではなく、あるがままを社会が当然のように受け入れるようになることのほうが重要だ。」と。

遺伝子

 フジテレビ系番組「エチカの鏡」では、子どもに関するさまざまな取り組みを紹介しました。その内容は、インパクトがあり、視聴者への影響はかなり大きいようです。現代社会では情報が多くあるように見えて、意外と実際は少なく、その多くはテレビとかネットからの情報に偏るようです。子育ては、生きるものにとっては自然なことですが、心配をしたらきりがありません。しかし、本来正しい情報は安心させるものでなければならないのですが、心配の種をまいてしまうことが往々にしてあるようです。また、その取り上げられた内容に飛びついてしまい、広い視野から物事を捉えなくなりがちです。

 その番組で紹介されたもののひとつに、中華人民共和国の国家プロジェクトである、「上海生物芯片有限公司(上海バイオチップコーポレーション)」の遺伝子検査により人間の可能性(才能)を見つけることのできる検査がありました。この遺伝子の検査により、特に子どもの才能や強い部分、弱い部分を確認し、その成長に役立てようというものです。この上海バイオチップコーポレーションは、2001年8月に中国最大のバイオテクノロジー企業の一つとして民間企業10社を株主として、また4500万ドルの中国政府助成金をもとに設立されました。そこでの検査は、遺伝子の活性化レベルを判別することにより活性化されている遺伝子に起因する子どもの才能を伸ばそうというもので、子育てや習い事などの幼児教育を行うにあたり、適性を正確に判定し、的確な教育を受けさせてあげることによって、持っているものはもっと伸ばし、足りないところを補うという「天才教育」をするための指標となるものだというふれ込みです。

 この検査には、5万円くらいかかり、潜在的な能力の有無を4段階で六分野、41項目で報告されるそうです。その項目を見ると、知能指数(IQ)に関する先天的潜在能力については、記憶力・理解力・想像力・思考力・注意力・思考力の機敏性(頭の回転の速さ)などがわかるようです。まあ、これらの力を持っているかわかったとして、心の知能指数がわかるというのはなんとも言えません。たとえば、勇気(勇敢冒険)・内向性・執着心・楽観・同情・気質・探求心(チャレンジ精神)・社交性などのようです。ほかにも、音楽潜在能力、絵画潜在能力、ダンス潜在能力、運動潜在能力などがあるようです。

 この内容については多くの専門家は反対を唱えるでしょうが、保護者の中にはやってみようと思う人もいるでしょうね。確かに、中国や欧米では、子どもの教育という観点から遺伝子研究が進んでいます。特に、しょうがいについての研究が進んでいます。以前のブログでも紹介したように、ドイツでは、IQの高い子には特別な保育をすると言ったことにたいして、どんな保育をするのかと問うたところ「しょうがい児教育をします」と答えました。そういうことからすると、遺伝子検査は、まんざら胡散臭い訳でもないことになります。

たとえば、赤ちゃんが運動や知覚を発達させるなど、誕生後の生活に備えて成長するのは遺伝子の働きによるものです。人類は、受精して小さな命が誕生したその瞬間から、胎児は遺伝子に組み込まれたプログラムにしたがって急速に成長する生き物です。しかし、この組み込まれたプログラムは、決してどのような人生を送るかということを示しているわけでもなく、幸福な人生を送ることができるかを決めるものではありません。もう少し、発達というものについての理解が必要です。

秋の実

 秋の景色として趣のあるひとつに、晴れ渡った空を背景に柿の木が一本、枝に鳥のために残したであろう熟した柿の実をつけて立っている姿があります。春にはさまざまな花が咲き誇り、その華やかさに、長い冬の終わりを告げていることを知りますが、秋には、さまざまな木に実をつけ、実りの秋を感じるとともに、これから来る冬に向かって充実期を迎えている季節を感じます。

 秋には、花の色があまりない代わりに、葉の色や実の色に鮮やかなものが多いような気がします。だいぶ前になりますが、ブログで取り上げたものに「南天」があります。咳によくきくため「南天のど飴」として有名なことと、抗菌作用から赤飯の包み紙にその絵柄が用いられています。

きれいな紫色の真ん丸い実を見つけました。
そのことから漢名を「紫珠」と名づけられている「紫式部」という木の実です。初夏には、淡紅紫色の小花を多数つけ、秋、球形の液果が紫色にします。もちろん、この名の由来は、平安時代の女性作家「紫式部」であることは誰でも想像ができますが、この植物にこの名が付けられたのはもともと「ムラサキシキミ(紫重実)」と呼ばれていたためとも言われています。「シキミ」とは重る実ということで、実がたくさんなるという意味です。スウェーデンの植物学者のカール・ツンベルクが学名を命名したそうです。属名のカリカルパはギリシア語の「美しい」「果実」の二語から来ています。このムラサキシキブはクマツヅラ科のカリカルパ属の落葉性低木で、主に日本、台湾、朝鮮半島、中国に分布しており、主に秋に紫色に色づく光沢のある美しい実を鑑賞するために庭にも植えられています。ひとつひとつの実は小さいですが節ごとにまとまって付けるので、満開時期は非常に見栄えがします。

このムラサキシキブと同科同属にコムラサキ(小紫)という花があります。やはり、初夏に薄紫色の花を咲かせ、秋に垂れた枝に紫色の小球形の果実を多数付ける落葉低木です。やはり、果実が美しいので、公園や庭などに広く植えられています。名前は、葉や果実などが「ムラサキシキブ」より小ぶりなのでこの名がつけられたといわれていますが、単に「コムラサキ」とか「コシキブ」とも呼ばれることもあります。逆に実の大きいオオムラサキシキブ、実の色が白いシロシキブなどもあります。

また、果実をたくさん着け、鮮やかな紅色に熟して美しいものに、トキワサンザシという常緑低木があります。この名称は、常緑のサンザシという意味です。この果実は、ナシ状果と呼ばれる偽果。花床が肥大し、果実を包み込んでいるために、冬の間、野鳥の貴重な栄養源になり,野鳥により各所へ散布されます。

また、クロガネモチ(黒鉄黐)も常緑ですが、こちらはそれほど高くはなりませんが、高木です。葉は革質で楕円形をしていて、鋸歯がなく、ライターなどであぶると少しして黒く変色するためにこんな名前がつけられました。この木にも秋には赤い果実がたくさんつくために、庭園木や街路樹などに植栽されています。

昨日の日曜日に、妻と埼玉の森林公園に行ってきました。そこでは、紅葉祭りが開催されていましたが、その美しさとは別に、園内でこれらの色とりどりの実を見つけました。今まで、色をつけた実からはそれほど秋を感じませんでしたが、よくみると、紅葉した木の葉からだけでなく、その葉の間につけた実からも、秋の風情を感じることができるのですね。