最近、幾度となく赤ちゃん学会理事長である小西行郎氏と話をする機会があります。そのたびにずいぶんと考え方が似ていることに気がつくのですが、私からすると、その中で最も共感するのが、子ども集団の意義です。子どもはどうやって乳児のころから他を意識し、その中から他者理解をし、自己を確立していくかという発達です。このことに最近特に注目するのは、子ども集団が家庭内、地域の中から消えつつあるからであり、その中で育っている子どもたちは、次第に集団をわずらわしく思い、集団の中に出ていくのを恐れるようになってきている現状を憂えるからです。
ここ数日にわたって、発達のことを考察し、発達しょうがい児について考えてきましたが、それは、しょうがい児においての子ども集団の意味についても考えてみたからです。先のブログでも書きましたが、どうしても発達しょうがいというと、社会的な適応の問題を取り上げがちで、そこに問題を抱えている子は、子ども集団の中に入れることは負担になるのではないか、子ども集団の中では、他の子にとっても、しょうがいを持った子にとっても迷惑な話であるということを考えがちだからです。その点、小西氏は、どう考えているのでしょうか。
発達しょうがいは、発達期においてのしょうがいであり、それは病気ではないので、回復も悪化もしないといわれています。しかし、発達しょうがい児によくみられる「問題行動」は、私たちを悩ませ、園に行くと多くの相談は、問題行動に対しての対応です。では、なにが「問題行動」なのかというと、私たちが持っている「普通」から外れているこのことをさすことが多いような気がします。小西氏は、「そもそも大人は、子どもの行動を“良い”ものと“悪い”ものとに分けて判断し、大人が見て“良い”と感じる行動には称賛を与え、“悪い”と感じる行動には叱責を与えて改めさせます。そして誰しも、できれば“良い”行動をしてほしいと望みます。」このように考えるのは、誰しも思うことであり、それは悪いことではないのですが、問題は、大人にとっての子どもの行動の意味は、子どもにとっての行動の意味と少し異なる場合があると言うのです。「そもそも問題行動というのは、子どもにこうあってほしいとか、こうあるべきだという大人の側の考えと、実際の子どもの考えにズレが生じたときに怒るものです。ですから、大人が自分と子どもの認識の“ズレ”に気づくこと、つまり子どもの行動をどう解釈するかがこの問題を考える重要な鍵となります。」
このことは、以前紹介した「哲学する赤ちゃん」のなかで「赤ちゃんは研究開発部門を担当し、大人は製造販売する部門を担当する」と書かれてあるように、役割が違うために、それに必要な行動が違うのであり、大人から見る子どもによる問題行動は、子どもにとっては発達に必要な行動であることが多いのです。しかし、大人を悩ませている「問題行動」には、大きく二つに分けられるといいます。一つは、発達の過程でしばしば目にする「反抗的態度」です。それは、子どもの自立心を抑えようとする大人に対する反発を伴う意思表示です。また、自分の気持ちや考えがうまく伝えられずに、理解されないことへの不満からときとして攻撃的になります。それは、よく子どもに見られる態度ですが、とくに発達障害の子どもは、どう年齢の子どもとの遊びでは勝てないために意欲的になれず、カッとなってつい先生や友達に手が出てしまうのもそうした理由によるものとみています。
もうひとつの問題行動は、「相手の気をひく言葉や行動」で、主に大人の注目をこちらに向けたいときや駆け引きの手段として使われる行動です。
問題行動を起こした場合、その行動だけを見るのではなく、その子どもの気持ち、動機、意図を理解することがまず、大切なのです。