自立と共同

 震災復興には、住民の自立が基盤になければならないようです。その自立が絆を作り、協力が始まります。かつてのコミュニティーは、共同体と訳されたように、社会が求めている行動と同じように行うことが求められていました。いわゆる社会との同化が求められたのです。それは、皆が同じように行動することによって、産業が営まれ、生産性が高まりました。それぞれの個人は、社会の、会社の部分でした。しかし、社会文明が進んでくると、より社会はより複雑化し、専門家し、大きな集団に属するという考え方だけでは、大きな力にならなくなりました。そこで、個々を生かし合う集団という「インクルージョン」という考え方が求めれらてきました。そして、コーヒージョンという、個性の抑制をせず、その個性が共に支え合うという関係を築くことが求められてくるのです。支え合うというのは、助ける・助けてあげるという関係性を越えて、手を貸す・守ることが自然にできることです。このことができるということは、援助できる人にも多くの学び、喜びが生じてくるという認識ができるようになることが必要で、個の確立、自立が不可欠になってきます。
 毎年言われることですが、先日のある記事に京都大学の入学式の様子が掲載されていました。式には新入生3000人を上回る家族4000人が出席したそうで、保護者席が足りず、立ち見が相次いだということでした。その光景は、「はい、撮りまーす」といような、仲良く記念撮影する親子であふれていたといいます。かつては入学式は学内の体育館で行い、会場に入れない家族には別室で中継を見ていたのですが、年々増えて別室に収容しきれなくなったことと、「わが子と一緒に式に出たい」という要望にも応えるため、2年前から会場を現在の大型施設に移したとのことです。この傾向は、どの大学でも同様のようです。
 「息子はどの教室で授業を受けたらいいのですか」という電話がある大学の教務部に、新入生の母親から電話が入ったので、「時間割表に載っていますよ」と答えると、受話器の向こうで「○○ちゃん、時間割表に書いてあるって」と母親が話している声が聞こえてきたといいます。他にも、一流と言われる他大学でも、親から「サークルで帰りが遅いが、そんなに夜遅くまで活動しているのか」と心配する問い合わせや、「独り暮らしの子どもと連絡がつかない。自宅まで様子を見に行って」「恋愛で三角関係になったので解決してやってくれ」など、職員が首をかしげたくなる要望が次々と寄せられているといいます。しかも、大学側に非があると決めつけ、抗議してくる親もいるそうです。スクールバスの運転手が通学定期の切れた学生に注意したところ、親が「運転手の応対が悪い。クビにしろ」と要求したといい、「単位不足で卒業できない。こうなる前に親に知らせろ」「子どもがカルト教団に誘われた。なぜ防いでくれないのか」などといい、京大の大学院で、論文提出が期限に間に合わなかった院生の親が「どうして受理しないのか」と、抗議してきたこともあったそうです。
 アメリカでは大学以降はすべて学生自身がローンやバイトなどして、学費を払います。日本みたいに、親が学費を払い、いつまでも親元で暮らすのはよほどの恥と思われているそうです。ですから、大学生の下宿代は、ベッド代で、ひと部屋に全くの他人とシェアして住むことも多いそうです。個人で、立派な部屋を親の費用で与えられ、大学時代は、学問をきちんと修めるというよりも、飲み歩いたり、遊び歩いたりする学生が、日本では社会の部分をつくっていくのです。