歴史の中の嵐

今回の台風で、東京は大騒ぎでした。電車が至る所で止まり、帰ることのできない人々が駅にあふれていました。台風には、東京の交通網は弱いようです。今回止まってしまった交通手段は、鉄道と飛行機でした。その点、昔の交通手段は、主に歩きですから、台風が来て困ったとしたら、川の増水で渡れなくなることかもしれません。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、川が増水すると足止めを食っていました。
もうひとつ、大きな交通手段に船がありました。船は、交通手段だけでなく、荷物の運搬に重要な役目をしていましたから、台風などが来ると困ったでしょう。また、日本は海に囲まれていましたから、海外とだけでなく、国内においても、船は、戦いのためにも使われていました。そんなわけで、日本の歴史の中で、船と嵐に関係する出来事が多くあります。よく知られているものに、「元寇」と呼ばれている「文永の役」「弘安の役」があります。史実はよくわかりませんが、台風に随分助けられたようです。
昔は、日本の船はそれほど立派ではないために、船で大陸に渡るのは至難のわざだったようです。その有名なものに630年から894年までの265年間に、およそ20回計画された遣唐使があります。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が選ばれ海を渡ったのです。しかし、未熟な日本の造船技術と航海技術によって、当時の遣唐使の航海の成功率は約50%,往復すると25%の確率であったようです。日本の船は船底が扁平で戸板を張り付けただけの構造であるから荒波には大変に弱い構造であっただけでなく、多くの航海術と言われるものは、陰陽師による占いで船の進路を決めていたといわれていますから、台風などの直撃にあってしまったこともあったでしょう。
遣唐使船の航路としては、「北路」「南島路」「南路」の3種類あったようです。「北路」は、遣唐使の派遣された前半に用いられたもので、大阪から瀬戸内海を通って、福岡に行き、壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の西岸沿いを北上し、黄海を横断して山東半島に上陸するもので、このルートが最も安全と考えられていました。8世紀の初頭から中頃まで「南島路」を用いました。九州から南下し、南西諸島、屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を経由、東シナ海を横断して揚子江の河口を目指します。このルートは、外洋を渡ることから危険が多いコースでした。8世紀後半から最終的に選ばれたのが、五島列島を経由する「南路」です。このコースは、最短でしたが、外洋を最も長く航海するため、非常に危険性の高い航路でした。
その中で、五島に関係し有名なのが、804年、第16次遣唐使船4隻が、久賀田之浦に寄泊後、唐に出発したと伝わるもので、この船団の中に、当時31歳の空海、38才の最澄が乗船していました。二人は大変な苦労をしながらも見事入唐し、帰国後、五島各地を巡り数多くの伝説を残しています。先日、五島で研修会があったので、合間を見てそれらの史跡を案内してもらいました。
魚津ヶ崎は、肥前風土記・松浦の郡・値嘉の郷の一節に、「値嘉の郷、八十余りの近き嶋あり、西に船を泊つる停二處あり、一處の名は、相子田、一處の名を川原浦という、遣唐の使は、これよりたちて…」とあるように、遣唐使船が寄泊したところで、その地形は、蛇行3キロにも及ぶ深い入り江を持ち、周囲を山で囲まれた天然の良港となっています。そして、魚津ヶ崎の岬が細長く入り口を狭めるように突き出て、湾の外に広がる東シナ海からの風波を防ぎ、浦内を守っています。また、唐から日本に戻る途中で嵐に遭遇した空海は、大宝の浜に漂着したと言われ、大宝寺に滞在し真言宗を開いたといわれています。大宝寺もそれまでの三論宗から真言宗に改め、紀州高野山に対して西の高野と呼ばれています。

歴史の中の嵐” への5件のコメント

  1. 外国へ渡る船、外国からやってくる船、その航海の大変さを学校の授業で知ったとき、何故か胸が締めつけられるような思いになったのを覚えています。本当に低い確率であるのにも関わらず海へと飛び出していく人々の思いはいったいどれほどのモノだったんだろうと想像もしてみました。今となってはそこまでの苦労は必要ないのかもしれませんが、過去に大変な思いをしながら海を渡った人々によって今という時代がつくられていることを考えると、そのつながりを感じて不思議な気分になります。例えば宗教の教えを広めようとした人たち、例えば貿易に力を注いだ人たち、いろんな人がいたようですが、そこからつながっていく世界史を見ていくような視点は、今の時代でも同じように求められていると思います。単に自分のことだけを考えるのではなく、大きなつながりの中での自分の役割を見ていくことができれば、もっと行動は変えられるような気もしています。

  2. 若い頃、鹿児島県の枕崎よりもさらに西にある坊津という漁村に行ったことがあります。ここは、古代から薩摩藩治世の半ば頃まで長きにわたって海上交通の要地として栄えた港です。遣唐使船の寄港地としてのほか、倭寇や遣明船、薩摩藩の中国との密貿易の拠点にもなっていました。多くの僧侶が出入りした津(みなと)だったことからその地名がついたと言われています。特に有名なのが、中国僧鑑真。日本に戒律を伝えるため、決死の航海を続けること5回。いずれも失敗。失明という過酷な宿命を乗り越え、753年12月20日、6度目にしてようやく坊津に到着。宿願だった渡日を果たすこととなります。中国のことわざに、「泉の水を飲むときは、井戸を掘った人のことを忘れない」というのがありますが、日本人の精神の支柱ともなり、文化・芸術の源泉ともなった仏教を伝えてくれた中国の先人の恩は決して忘れてはならないと思います。

  3. 遣唐使をのせた船が無事航海を終える確率をみて驚きました。2回に1回は渡航がうまくいかず、往復となるとこれはもう限りなく不成就に近い。そうした困難を克服して中国の文物あるいは人が日本にやってきてやがて日本の文化を開花させる、こうしたことを知ると遣唐使やそれ以前の渡来使の意義は想像以上に凄いものがあるのだとわかります。そして私たちの現在の文化のルーツに思いを馳せる時、感慨を新たにさせられます。私たちが歴史を学ぶというのは、こうしたことを知っていくことであり、ただただ暗記していくことではないですね。暗記してもテストが終わればほぼ忘れてしまうわけですから、どうせ歴史を学習するのであれば、生涯に渡って記憶に残る学び方をしたいものです。

  4.  東京は電車が張り巡らせているので地方に比べて交通の便はとても良いですが、台風などの自然災害が起こった場合には麻痺してしまい、大勢の帰宅難民が出てしまい困ってしまうようですね。それは今に始まったことではなく、昔から台風による被害はあったのですね。とくに船での移動は、今よりも船の技術、航海術も無く、天気も予測できません。そんな中、船で大陸を渡るのは至難の業で、帰ってこれない場合も多かったのではないでしょうか。歴史で仏教やキリスト教を伝来しようと日本へ渡ってきた偉人達は、自分が死ぬかもしれないのに、困難を乗り越えて日本にやってきて、宗教を伝来しました。それだけ自分の使命というのを強く感じ、それは嵐にも負けないくらい大きな志なんでしょうね。

  5. 今でこそ、日本の都道府県を簡単に旅行できていますが、そういった交通手段がなかった時代は不便や事故もおおくあったでしょうね。それこそ、遣唐使や遣隋使、元寇も多くの犠牲があったのだと思います。渡航率が50%というのはそのすさまじさを感じますね。それだけ他国の文化を取り入れるのはその時期の人々にとっては貴重なことであり、得がたいものだったのだと思います。今の文化があるのも先人たちのそういった多くの犠牲や伝承が今に影響しているんですね。

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