四神の香

 私の部屋は、先日松島の瑞巌寺で買ってきた香の香りがします。私が炊いているのは、「青龍」という香です。
瑞巌寺は、もともとは、「青龍山延福寺」と称し天長五年(828年)慈覚大師が開山した天台宗寺院でした。その後いろいろとありましたが、江戸時代に入って仙台藩主伊達政宗が禅僧虎哉宗乙のすすめで、現在の堂宇を造営し、慶長十四年(1609年)に完成させたものです。このとき寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称したのが正式名称です。ですから、瑞巌寺の宝物殿は青龍殿といいます。
 京には、風水香の香りがあり、それぞれに効き目が違います。中国の神話では、天の四方の方角を司る霊獣である「四神」が登場します、世界の四方向を守る聖獣のことです。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といい、風水では、それぞれ川、海、道、山などに対応しています。その中の青龍は、東を守護する聖獣で、姿は通常の龍と変わらなく、青い色をしています。風水香での青龍香は、白檀と沈香をベースに深みのある穏やかな川の香りがします。この青龍香を東に置けば、財運、豊作、出世運が授かるといわれています。
 先日、妻とホワイトタイガーを見てきました。このホワイトタイガーについて、説明版にこのように書かれてありました。「ホワイトタイガーベンガルトラの白変種で、目は澄んだ青(アイスブルー)をしていて、鼻先と足の裏はピンク色をしています。現在世界中に約200頭が飼育され、日本国内の動物園では20数頭が飼育されています。インドでは神の化身と古くから信じられ、姿を見た人には幸運が訪れるという伝説があります。また中国の古代神話によると、ホワイトタイガーは縁起が良いとされる天の四霊のひとつ“白虎”です。」
 この白虎が西を守護する聖獣です。江戸時代中期の図鑑『和漢三才図会』では虎が500才になると白虎になるといいます。白は五行思想で西の他、土も表すため土の精であるという説もあります。風水では女性に子宝と安産を授け、夫婦円満に導くとされています。風水香では、白虎香は、伽羅をベースにスパイシーで神秘的な香りです。そして、この白虎香を西に置けば、家内安全、商売繁盛を授かるといわれています。会津戦争のときに会津藩によって白虎隊という16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊があり、悲しい歴史が刻まれていますが、実は、「四神」により、18歳から35歳までで攻勢された「朱雀隊」、36歳から49歳までで構成された国境守備隊が「青龍隊」、50歳以上で構成された予備隊の部隊が「玄武隊」です。また、東京都港区虎ノ門は、江戸時代江戸城を守護する白虎の描かれた門が同地に存在したことにちなんでつけられた町名です。
 朱雀は、南を守護する聖獣で、四霊獣の鳳凰のことです。普通は5色の羽を持つ美しい鳥ですが、江戸時代中期の図鑑『和漢三才図会』では背丈が1m以上で、コウノトリ、ツバメ、ニワトリ、蛇、魚、オシドリ、龍などが混じり合った姿をしているとされています。天下太平のときだけ出現し、鳥の王のような存在で、飛べば多くの鳥がその後に従って飛ぶといいます。朱雀香は、白檀をベースに気品に満ちた甘い艶のある香りで、南に置けば、夫婦円満、末永く家が栄えるといわれています。
 玄武は、北を守護する聖獣で、亀と蛇を合成したような姿をしています。五行思想で北は黒を表すため玄(黒)、甲羅を背負い防御に長けていることから武と呼ばれます。玄武香は、気分をすっくりさせる凛とした桧の香りで、北に置くと、健康、長寿運を授かるといわれています。

九九

 小学校2年生になると、子ども達は掛け算九九を覚えるのが課題になります。学校では、何段を言えるようにという宿題を出し、家に帰ると何度も繰り返します。そばに見ている親もハラハラしながら子どもを叱咤激励します。秋葉原で7人を殺傷した青年の子どものころの思い出を公判でこんなことを言っていました。母親と風呂に一緒に入ると、掛け算九九を言わされて、間違えると、頭を押さえつけられてお湯の中に沈められたそうです。親子で楽しく入る風呂が、地獄のような目にあわされたという思い出だけがあると、どこか心が屈折するのもわかりますね。
 そんな掛け算九九ですから、その事情は海外でも同じようです。しかし、筆算を含めて、そのとき方はずいぶんと国によって違うようです。有名なのは、インドです。日本では「九九」を覚えますので、全部で1桁の暗算が99個出来るようになります。それが、インドでは、ところが、インドでは2桁の暗算が出来るといいます。ですから、なんと9801個の暗算ができるようになるのです。
 ほかの国はというと、カナダやニュージーランドの九九は、times tableと呼ばれています。それは、1×1から12×12までを学習します。One by One is One(1×1=1)、One by Two is Two(1×2=2)というように○○ by □□ is △△(○○X□□=△△)の形でかけ算を言います。覚え方は、日本語のようにリズムを持って暗証せず、そのまま暗記します。台湾では九九のことを、九九乗法と呼んでいます。そして、日本と同じように1×1から9×9までを学習します。1chen 1denyu 1(1×1=1)、1chen 2denyu 2(1×2=2)というように○○chen□□denyu△△(○○X□□=△△)の形でかけ算を読みます。また、ドイツの九九は、Einmaleinsと言います。それは、日本のように韻を踏む記憶しやすい覚え方ではなく、二の段だったら「2、4、6、8・・・」のように、答えの数字部分を丸暗記していきます。
 掛け算だけでなく、算数のやり方は国によってさまざまですが、考え方をだいぶ違うようです。ドイツでは、算数の授業について、こだわりがあるようです。それは、計算ドリルをあまり使用しないことです。算数というのは、計算練習をひたすら繰り返すようなことではなく、答えに行き着くまでの思考プロセスを重視しているからです。たとえば同じ割り算でも等分除や包含除といった考え方の違いを理解させます。正しい答えばかりを求めずに「計算や工夫の仕方は色々あるよ」ということを考えさせます。しかし、書店には、計算ドリルはあるそうですが、これを買いに行った2000年からドイツに在住し、現在、教育関連の仕事をしている内田 博美さんが、書店の教科書アドバイザーに「計算ドリルは時代遅れでしょう。日本や韓国ではまだ使用しているようですね。ドイツではもうそのような学習方法はとっていません。子どもには自分の頭で考えさせるからです」と、言われたことがあると書いています。
 確かに、掛け算九九からだけ言うと進んでいるように見えるインドでは、全体としては知識偏重型で小さなうちから覚えこませるのが中心のようです。そのために、教育のもたらす弊害もあるようです。確かに計算や数学的思考力などの基礎は大変すばらしいのですが、それを活かすための思考力や相手の要求を理解し、それに合わせて基礎を応用するといったような理解力・判断力を必要とされる場面には弱いようです。「理解している」ことと「やり方を知っている」のとでは大きく違うようです。日本でも同じような傾向が見られます。
 子どもにとって、どのような能力が生きていくうえで重要なのでしょうか。

ピッカピカの

1977年からスタートした「ピッカピカの一年生」というフレーズで知られる(株)小学館の「小学1年生」のCMは、そろそろ1年生になる子を持つ親が、入学の準備を始めるころになったと実感するきっかけにもなり、そのCMの中で、各地の小学校の新入生たちが登場し、小学一年生になったらの抱負を語る場面は、地方の子どもたちの様子から素直な子どもの姿が表れていました。そのほかにも、ランドセルのCM、勉強机のCMが年末になると増え始め、クリスマス商戦に向けて激しくなります。また、新入学児童を抱える保護者たち、また、その子の祖父母たちは、その準備の大変さとともに、楽しみと期待と、ちょっとした不安を抱えることでしょう。この姿は、ほかの国でも同じようです。ただ、多くの国では、新学期が9月から始まるので、入学準備は、7,8月の夏の間に行われるようです。
先日のダイヤモンドオンラインの中の記事で、幼稚園から大学まで中国の新学期を迎えた姿が特集されていました。
この時期の経済を中国語では「開学経済」と呼ぶそうです。どうしてかというと、新学期に向けての商戦は、大きな経済効果を生んでいるようです。これは、もちろん子どもがかわいいということもありますが、特に中国人は「面子(メンツ)」を何より大事にするといわれていることも原因のひとつだといわれています。よく、日本人を揶揄するのに、「みんながするから」という行動をとるといわれていますが、中国でも、大人だけではなく、子どもも「みんなが持っているから、持っていないと恥ずかしい」という意識は強いようです。そこで、多くの親は、わが子のメンツのためにも、月収以上のお金を投じて、欲しい物を出来る限り買い揃えてやる傾向があるというのです。
日本では、まず買い揃えるものは勉強机というイメージですが、中国では、パソコンに人気があるようです。この時期のパソコン雑誌やIT系のオンラインメディアは、学生向けのパソコン特集記事が組まれます。その中で、「淘宝網(TAOBAO)」に代表されるオンラインショッピングサイトが利用されるようです。特に売れ筋としてはノートPCで、4000?7000元(日本円にして5万円から8万5000円程度)のモデルが人気があり、中国としては決して安くはない金額ですが、学生にとっては必需品で、PCパーツを一式揃えて店側にデスクトップPCを作ってもらったりとさまざまな方法で手に入れるようです。
 また、この時期は携帯電話ショップも携帯電話キャリアも学生顧客の獲得に必死になります。現在中国では3G+スマートフォンの人気が急上昇しているようですが、3G方式の異なるキャリア3社「中国移動(China Mobile、TD-SCDMA方式)」「中国聯通(China Unicom、W-CDMA方式)」「中国電信(China Telecom、CDMA 2000方式)」も熾烈な戦いをしており、中国政府は「悪性の競争」だとして禁止を通達していますが、事実上無視され競争は激化する一方のようです。
この開学経済の担い手は、新大学生やその親たちに限らず、新小学生や新中学生、新高校生とその親たちもまた重要な買い手のようです。8月には文房具が平常時の数倍売れ、眼鏡や服、靴、化粧品の販売、アパレル業界や化粧品業界にとっても大事な商戦期なようです。家電量販店では、iPhoneをはじめとしたスマートフォンや携帯電話、あるいはmp3プレーヤー、mp4プレーヤー、PSPといったプレーヤー類だけでなく、電子辞書も人気を集めているようです。ピサの学力調査で首位に躍り出た上海などでは、園児のわが子にも「成績がよかったので多くのクラスメートが所持するiPadを購入する」という親もいるそうです。
子どもを思う親心はわかるのですが、メンツとか、成績のご褒美とかで物を与えるのはどうかと思います。

五島の秋

 ずいぶんと秋が深まってきました。そうはいっても、今年は残暑が厳しく、いつまでも暑く、今日も電車内にはクーラーが効いていました。しかし、さすが、風は冷たく、クーラーは使いすぎの感があります。数週間前に、長崎県五島で、真っ赤なトンボを見かけました。急いで写真を取ろうと思ったのですが、あっという間にどこかに飛んで行ってしまいました。この赤とんぼは、尻尾の処が真っ赤だったので、たぶん長崎県の絶滅危惧種に指定されているミヤマアカネだったような気がします。
“赤とんぼ”とは体が赤いトンボのことを指します。その多くがアカネ属に属しますが、そのアカネ属には体が赤くならない種も入っております。以前はアカトンボ属と呼ばれていましたが、赤くない種が属するのと、この属に含まないトンボの中にも全身真っ赤になる種がいるため、アカネ属に改められました。少し前までは、高原ではもちろん、少し郊外に行くと秋になると空一面を覆うほど赤とんぼが飛んでいました。夏の終わりの光景として、子どもたちが、昆虫網を振り回して、赤とんぼを追いかけていた姿を思い浮かべます。それが、いつの間にか見かけなくなりました。
赤とんぼというと、三木露風作詞、山田耕筰作曲の楽曲「赤とんぼ」が、日本の代表的な童謡の一つとして、日本人の人気のある曲があります。歌詞は、夕暮れ時に赤とんぼを見て、懐かしい故郷を思い出すという郷愁にあふれた曲です。この赤とんぼは、普通は、秋に平地に群を成して出現するアキアカネのことですが、季節的な長距離移動がよく知られています。また、アキアカネと名前がついていますが、羽化するのは秋ではなく、6月末です。そして、水田などで羽化したアキアカネは山へ移動し、夏のあいだは高原ですごし、秋になると平地におりてきて産卵します。ですから、夏の高原で無数に見られるトンボはほとんどがアキアカネですが、その時期の体色はオレンジ色で、秋が深まると次第に成熟して赤くなり、里に下りてくるので、「秋に見る赤とんぼ」となるのです。
やはり、五島で、かつてはよく見かけ、最近はあまり見かけなくなった「シジミチョウ」を見ました。このチョウの名前は、羽根の形がシジミ貝に似ているからで、種類は、世界中で南極大陸を除く全ての大陸に分布しているそうで、種類数は6,000種にも達するそうです。全世界にはチョウが15,000-20,000種いるそうですが、その中でシジミチョウが40%ほどを占めているそうです。幼虫は最初、秋の代表的なワレモコウの花を食べるそうですが、成長するとアリの巣に運ばれ、アリの卵や幼虫を食べるそうです。日本でよく見かけるシジミチョウは、そんなにも派手な色ではありませんが、世界には、非常に鮮やかな色彩のものや、キラキラ金属光沢に光るものなどもいます。
 やはり五島で写真に撮ったものに、秋の七草のひとつになっているクズの花があります。この花については、 以前確かブログで取り上げましたが、日本中いたるところで繁茂しているという感じです。こんなありふれた、生命力の強い植物が秋の七草に選ばれているのは、少し違和感を感じます。秋は、暑い夏が終わり、なんだか物寂しく、物思いにふける季節ですから、派手でなく、華々しくない植物が選ばれている気がします。
今から約1300年前、大海人皇子は、 兄天智天皇の子大友皇子と戦って勝ち、天皇の座についたのが天武天皇です。その戦いの旗揚げの地が吉野の宮で、そこは、奈良県国栖付近にあったといわれています。この国栖(くず)地方は、葛粉(くずこ)の産地であったところから、クズと命名されたようです。そんな日本に古くから関わってきた植物なので、秋の七草に選ばれているのでしょうね。

なでしこジャパンが世界一になったのはまだ記憶に新しいですが、その価値進んだ試合は、非常に運がよかったところもあります。実力がわずかな差の中で勝ち進んでいくのは、実力だけでなく、運もあるでしょう。同じように、人生には、運があります。人によって、運がいい、悪いもあるかもしれません。運も実力のうちともよく言います。
 そんなことで先日アイドルグループ「AKB48」の24枚目のシングルを歌うメンバーを決める「AKB48 24thシングル選抜じゃんけん大会」が、日本武道館で行われました。そして、優勝した人が、シングルでのセンターポジションを取れるというものです。従来の選抜方式では、どうしても実績や知名度といったものが優先されがちだったのが、純粋に「運」のみで決めるというものです。このじゃんけん大会に、武道館には約1万1000人の観客が集まり、日本各地の映画館で中継されました。
学生自治を重んじる自由な校風で知られる自由の森学園の入試試験は、とてもユニークです。現在は、4種類の方法で行われていますが、A入試の条件は、第一志望であること、評定平均2.0以上、国語・算数の筆記試験・理科・社会・体育・美術・音楽の5科からひとつの授業を選び、授業において課題に取り組み、グループ面接です。B入試では、理科・社会の2科からひとつの授業を選び、授業において課題に取み、作文・個人面接です。C入試では、国語・算数の筆記試験・体育・美術・音楽の3科からひとつの授業を選び、授業において課題に取り組み、個人面接です。D入試では、国語・算数の筆記試験とグループ面接です。どのような選抜試験で行うのが、本当に力のある子を取れるかを試行錯誤しているようです。ずいぶんと以前になりますが、この学校でどのような試験方法がいいか議論をしている職員会議がテレビで放送されました。最終的に、ある人数は、“くじ“にしたらどうかという話になっていました。
人生は、運があるといいますが、私は、AKB48が行ったじゃんけん大会は、理屈では理解できるのですが、何だか引っかかるものがあります。人生とは言わないまでも、人が面白半分に運をもてあそんでいる気がするからかもしれません。多くの中からのたった1票の“くじ”でも、人生を狂わすことがあるということを知ってほしい気がします。
先日、妻と「1枚のハガキ」という撮影当時98歳という日本最高齢監督の新藤兼人が、自らの実体験をもとに引退作として製作した戦争ドラマを見に行きました。戦争末期に召集された中年兵士が、1人の兵士から託された彼の妻からの一枚のハガキを、終戦後、届けるというものです。同じ戦友でも、戦死した人と、生きて復員した人との差は、“くじ”だったのです。
太平洋戦争末期、中年兵として招集された100人の兵。彼らの次の任務は、上官の引くくじによって決められます。フィリピンに向かうもの60名、潜水艦に乗るもの34名、そして、予科練兵の寮を掃除するもの6名に振り分けられることになります。そして、戦争を生き延びたのは、100人中、たった6人、国内残留組に振り分けられた者たちだけだったのです。この話は、監督の新藤兼人の実体験だそうですが、なんだかやるせなくなります。
 人生には、“くじ”によって左右されることはあるかもしれません。だからと言って、なるようになると諦めるのではなく、自分がやるべきことに最善を尽くして、そしてのち、運を待ちたいと思います。「種を蒔きてこそ、遂に運や開けん」

子は宝

 いつの世でも、子どもは宝でした。子どもを守るために、何をさておいても子どものことを優先的に考え、社会全体で子どもの育ちを支えようとしました。それは、子どもは未来だからです。子どもは希望だからです。決して、大人の都合で振り回されてはいけないのです。その原則は、いつの時代でもみんなの心の中で共有されていました。
 数週間前に訪れた、長崎県五島にある堂崎教会の庭園には、子どもを抱き寄せているペルー宣教師の像と、堂崎教会を指差して、子どもと二人で立っているマルマン宣教師の像が建っています。
「復活の夜明け」と名付けられたマルマン・ペルー像の説明板には、「1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、パリ外国宣教会によって行われる。堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。マルマン師は1877年より約10年間下五頭全域の宣教、潜伏キリシタンの復帰に努めながら、奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済事業を始めた。1888年よりペルー師が2代目主任司祭となり、1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、1908年5月10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し30年に及ぶ宣教司牧の日々を堂崎に捧げた。」
 寛政9(1797)年大村藩から五島への移住が始まり、約3年の間に3,000人が移り住みました。彼らは、地区の寺の壇徒となり仏教徒を装い、密かにキリスト教の信仰を守っていたといわれています。日本における江戸時代の教会の歴史には悲惨な物語が多く残されています。それは、五島でも例外ではありませんでした。しかし、明治に入っても、元(1868)年の久賀島牢屋の窄殉教事件をきっかけに奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害が行われました。それが、明治6(1873)年、ようやく禁教の高札撤去がなされるといち早くフレノ師が来島し、この堂崎の浜辺で五島初のクリスマスミサが捧げられたことが地元で語り継がれています。明治10年には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始され、以後島内各地に小教区制度が整うまで、堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになるのです。
 宣教師達が五島にやってきた明治の初期、当時の五島の人々の暮らしは非常に貧しく、赤子が生まれても食べさせることができず、間引きといって密かに闇に葬らざるを得ないほどの状況にありました。この悲惨な状況に心を痛めた宣教師はすぐに子どもを引き取り、近隣のキリシタンの乙女達を集め世話をさせました。その頃、宣教師が通りそうな道端には赤子がそっと置かれていたこともありました。彼女達の何人かは独身のまま子ども達に奉仕する道を選びました。困難に満ちた子育ての日々を、彼女達は希望を持って命の尊さを賛美し、祈りながら多くの子どもを育て上げ社会に送り出してきたと言われています。
フレノ師についても子どもに関する様々な逸話が残されています。幼きイエズス会のシスターが作った小学校が、改変され幼稚園を開園した際、幼児教育の重要性を説いたのですが、親たちが、貧しさゆえに月謝が高いとこぼしているのを聞いてシスター・マリ・マグダレーヌに月謝を下げるように注文に行ったそうです。「マリさも、幼稚園の親が、月謝が高いと言うぞ。遊んでばかりいるのに30銭もとって。毎日1銭ずつもたせるからよかろうがというとるぞ」しかし、結局、月謝はまけてもらえなかったもののシスター方は宗教教育に力を入れ、両親の理解を得たと言われています。
 子どもを優先に考える世の中であったほしい気がします。

災害対策

先日の台風15号により、東京は交通網がストップして大変な目にあいました。東北大震災の時と同じで、帰る人で駅はごった返し、歩いて帰宅する人も多かったようです。しかし、東北大災害の時と違って、大雨と風が強かったために、歩くのは困難だったようです。そこで、東京都では、地震や水害など大規模災害時の帰宅困難者対策として、石原慎太郎知事が記者会見で、企業に水や食糧の備蓄を義務づける条例案を検討することを明らかにしました。東日本大震災では、都は帰宅困難者10万人を公共施設などで収容しました。石原知事は「台風の場合は過ぎれば交通機関も復活する可能性は十分ある。無理して帰宅せず自分の職場に留まることも大事だ」とし、「災害に備え企業も備蓄しておくべきだ。法律で決めるわけにはいかないため、条例で促す措置をとった方がいい」と述べました。
確かに、その対策はいいかもしれませんが、園としては、では、園や学童にいる子どもたちは親が帰ってこないとなると、誰が見るの?ということになります。今回の台風でも、小学校では子どもたちを早めに帰宅させました。しかし、園に併設されている学童クラブでは、小学生が、早目に学童クラブに来たということになるだけで、帰宅が早目になることはありませんし、しかも、いつもは一人で帰宅している子たちまで、お迎えに来るまで待つことになり、その日は、最後のお迎えが21時30分になってしまいました。
災害が起きるたびに思うのですが、その時の対策で一番有効的な方法は、人と人との関係の気がします。いわゆる人同士の「むすび」が大切なのです。いつも懇意にしているとなり近所の人との関係が大切で、ちょっと困ったら声を掛け合うような、そんな関係が最後は大きな力になります。ただ、行政に要求するとか、福祉を受ける権利があるだとか、何かのシステムに頼るとかではなく、人とのつながりでしょう。
新宿は、長野の高遠町と姉妹都市を結んでいます。それは、高等藩の藩主であった内藤家の中屋敷があった場所が内藤新宿という宿駅になり、その名から新宿という名前になったからです。話はそれますが、この高遠藩の初代藩主である保科正光に預けられ、その後2代目藩主になった保科正之は、先日NHK大河ドラマで取り上げられた、徳川秀忠と静の間に生まれた子です。その後保科正之は、会津松平家の初代として会津藩藩主になり、さまざまな功績を残します。新宿と高遠とはそんな縁があって、「新宿区と高遠町との相互援助協定」が結ばれています。
 新宿区では、各関係機関と様々な災害協定等を締結していますが、災害時の応急活動に関する協定一覧の中で2番目に書かれてあるのが、高遠との相互援助協定です。協定の目的は、どちらかに災害が発生した場合の応急対策及び復旧対策に関し、相互に援助協力を行うことにより、災害による被害を最少限度に防止することです。その内容として、(1)食糧品、(2)生活必需品、(3)応急対策資器材、(4)復旧に要する職員の派遣、(5)被災者の一時受入れなどです。
 災害の多くは、地域が限定されることが多く、日本全国規模で助け合う体制はとても大切です。しかも、その助け合う力は、普段からの付き合いにあるのだと思います。困ったときにだけ隣に頼むのではなく、普段からの付き合いが必要なのです。その「むすび」の関係は、決して必要以上に干渉せず、「頼まれたら嫌と言わぬ江戸っ子気質」と言われるような、「見守る」関係です。

航海術と天文学

 日本では、海に囲まれている割には、航海術はあまり進んでいなかったのでしょうか。茂在寅男氏が、「古代日本の航海術」(小学館ライブラリー)の中で、『古事記』や『日本書紀』にみられる理解できない船の名前や地名などを、古代ポリネシア語で次々と解明しています。その結果、海は、文化の流れの障害物ではなく、むしろハイウェイであったことを立証しています。ということは、もっと日本でも航海術が進んでもよさそうですが、遣唐使の時代を見ても、日本ではずいぶんと遅れていました。しかし、当時の中国は、かなり進んでいたようですが、日本では、それほど外洋に乗り出すことがなかったからのようです。
人類は、古くから外洋に乗り出していきました。その時の航海など長距離の移動には、夜空の星に関する知識は欠かせないものでした。星をはじめとする天文学は、人類は生活の必要性から進んでいきました。今回、日本では、さまざまな自然災害に襲われていますが、人類は、その災害から逃れるすべだけでなく、自然を生かす工夫もしてきました。ナイル川の氾濫によって、土地を豊かなものにするために、古代エジプトでは、星の観測によって季節を正確につかみ、はんらん期の予測をしていましたし、農作物の植え付けや収穫に役立てていたということがわかっています。そのために、古代の人々は、夜空の星が1年の時間の流れとともに規則正しく運行していることを知り、季節や方角を知り、宇宙に関わりを持ってきました。
私が、小学1年生の担任した時に、4月の初めの授業に、「大人のいうことや、書物に書いてあることではなく、自分の目で確かめたことをまず信じなさい!」といいました。そして、「大人は、地球は丸いというけれど、見てみても、どこが丸いかと思うでしょう。どう見ても平らにしか見えないでしょう。地球が丸いというのは、もしかしたら、大人の作戦かもしれないよ。でも、何かの時に、あれっ?と思ったら、よく見てごらん。そうしたら、だんだん本当のことがわかるから。」それは、「8歳ころが脳の臨界期と言われ、それ以前は、子どもは実際に体験したり、五感を使って物事を把握し、その中で探究心や好奇心をつけることが大切である」ということがわかっていますが、その頃の私は、まだ20歳代で、それほど勉強をしていなかったのですが、子どもたちと過ごす中でそれを感じていたのかもしれません。
当然、古代の人は、地球は平らで、宇宙は傘のようなものがかぶさっていると思っていました。しかし、なんと古代ギリシャに紀元前190年頃に生まれたとされるヒッパルコスという天文学者がいました。彼は、精密な観測と三角法を利用し、天球における星の位置や太陽や月までの距離を驚くべき精度で測り,星座表を最初につくり、1000個以上の恒星表を作成し、春分点移動(歳差)を発見したりして、古代天文学を体系化したのです。
今日は、秋分の日ですが、海王星の日でもあります。1781年の天王星が発見されたのですが、その軌道がニュートンの天文力学に合わないのは、どうも、その外側にさらに惑星があるためだと考えられていました。そのためいろいろな科学者が天王星の軌道の乱れ等を元に未知の惑星の大きさや軌道・位置を計算しました。イギリスでは天文学者ジョン・クーチ・アダムスが、フランスでは天文学者ユルバン・ルベリエが計算をし、その存在を予言しました。ついに、ドイツの天文学者ヨハン・ガレが1846年の今日9月23日、ベルリン天文台での観測で海王星を発見したのです。ルベリエが計算としたものと発見された位置の誤差は1度しかありませんでした。

歴史の中の嵐

今回の台風で、東京は大騒ぎでした。電車が至る所で止まり、帰ることのできない人々が駅にあふれていました。台風には、東京の交通網は弱いようです。今回止まってしまった交通手段は、鉄道と飛行機でした。その点、昔の交通手段は、主に歩きですから、台風が来て困ったとしたら、川の増水で渡れなくなることかもしれません。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、川が増水すると足止めを食っていました。
もうひとつ、大きな交通手段に船がありました。船は、交通手段だけでなく、荷物の運搬に重要な役目をしていましたから、台風などが来ると困ったでしょう。また、日本は海に囲まれていましたから、海外とだけでなく、国内においても、船は、戦いのためにも使われていました。そんなわけで、日本の歴史の中で、船と嵐に関係する出来事が多くあります。よく知られているものに、「元寇」と呼ばれている「文永の役」「弘安の役」があります。史実はよくわかりませんが、台風に随分助けられたようです。
昔は、日本の船はそれほど立派ではないために、船で大陸に渡るのは至難のわざだったようです。その有名なものに630年から894年までの265年間に、およそ20回計画された遣唐使があります。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が選ばれ海を渡ったのです。しかし、未熟な日本の造船技術と航海技術によって、当時の遣唐使の航海の成功率は約50%,往復すると25%の確率であったようです。日本の船は船底が扁平で戸板を張り付けただけの構造であるから荒波には大変に弱い構造であっただけでなく、多くの航海術と言われるものは、陰陽師による占いで船の進路を決めていたといわれていますから、台風などの直撃にあってしまったこともあったでしょう。
遣唐使船の航路としては、「北路」「南島路」「南路」の3種類あったようです。「北路」は、遣唐使の派遣された前半に用いられたもので、大阪から瀬戸内海を通って、福岡に行き、壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の西岸沿いを北上し、黄海を横断して山東半島に上陸するもので、このルートが最も安全と考えられていました。8世紀の初頭から中頃まで「南島路」を用いました。九州から南下し、南西諸島、屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を経由、東シナ海を横断して揚子江の河口を目指します。このルートは、外洋を渡ることから危険が多いコースでした。8世紀後半から最終的に選ばれたのが、五島列島を経由する「南路」です。このコースは、最短でしたが、外洋を最も長く航海するため、非常に危険性の高い航路でした。
その中で、五島に関係し有名なのが、804年、第16次遣唐使船4隻が、久賀田之浦に寄泊後、唐に出発したと伝わるもので、この船団の中に、当時31歳の空海、38才の最澄が乗船していました。二人は大変な苦労をしながらも見事入唐し、帰国後、五島各地を巡り数多くの伝説を残しています。先日、五島で研修会があったので、合間を見てそれらの史跡を案内してもらいました。
魚津ヶ崎は、肥前風土記・松浦の郡・値嘉の郷の一節に、「値嘉の郷、八十余りの近き嶋あり、西に船を泊つる停二處あり、一處の名は、相子田、一處の名を川原浦という、遣唐の使は、これよりたちて…」とあるように、遣唐使船が寄泊したところで、その地形は、蛇行3キロにも及ぶ深い入り江を持ち、周囲を山で囲まれた天然の良港となっています。そして、魚津ヶ崎の岬が細長く入り口を狭めるように突き出て、湾の外に広がる東シナ海からの風波を防ぎ、浦内を守っています。また、唐から日本に戻る途中で嵐に遭遇した空海は、大宝の浜に漂着したと言われ、大宝寺に滞在し真言宗を開いたといわれています。大宝寺もそれまでの三論宗から真言宗に改め、紀州高野山に対して西の高野と呼ばれています。

 今年は、台風が多く日本を直撃します。二百十日、二百二十日がやっと過ぎたかと思っていると、今回の台風です。久しぶりの東京直撃で、園の近くの大木の街路樹が、根元から倒れて道路を覆っていました。以前、ブログで、中国では、奇数は偶数で割れない数字(固い、割れない、分かれない、に通じる)であることから良いことをあらわす「陽数」と考えられ、神聖なるもの・無限なるもの・偉大なるものを意味するということを紹介しましたが、特に「九」は聖数の代表の数字です。この「九」の古代文字を見ると、頭部分が分かれた形をした竜です。これは雌の竜の形で、身を折り曲げた竜の形を表しています。雄の竜の形を著した字が「虫」だそうです。ただ、この虫が表わすのは、昆虫ではなく、蛇とか竜のような爬虫類だそうです。

瑞巌寺の襖絵


 竜は中国の代表的な聖なる創造上の生き物です。「竜」の古代文字を見ると、頭に「辛」(針)の字形の冠飾りをつけています。雨水、洪水をつかさどる竜神のシンボルとして頭に飾りがついているのです。神社を入ると、拝礼の前に手を洗い、口をすすいで身を清める場所である手水舎があります。そこに水を注ぎ込むためのところを水口といいます。この水口で最もポピュラーなのは「竜」です。また、竜は洪水の神でもあります。9月に台風が多く、洪水が多いのは、何かの因縁でしょうか。
 この聖なる「九」が重なっているのが9月9日で、「菊の節句」または「重陽の節句」といいます。陽数である奇数は人間に活力を与えるものといわれ、陽数の重なる日は節句として盛大に祝い、なかでも陽数の極みである「9」が重なる9月9日は、たいへんめでたい日とされ、「重陽の節句」とされたのです。菊は厄を払い、長寿を得る妙薬といわれていたため、重陽の節句には、杯に菊の花びらを浮かべて飲む、菊酒で長寿を祈ったのだそうです。
 菊の香には、カンフェンなどの精油成分があり、皮膚を刺激して血行を促進し、身体の痛みをやわらげる効果があると言われています。また保温効果も高く、身体の芯まで温まります。そこで、9月には「菊湯」に入るといいかもしれません。菊湯には、菊の中でもリュウノウギクという種類を使います。乾燥のものや、生の花びらを浮かべるといい香りがします。菊の花を風呂に入れるといいというと驚きましが、実は、中国で「母菊」と呼ばれる種類は、ハーブティーとして有名は「カモミール」です。ですから、カモミールを風呂に入れてもいいようです。
 シャワーを浴びるだけが多い海外に比べ、日本では、湯に体全体を沈め、ゆったりとくつろぐことを好みます。日本では、赤ちゃんが産まれると、その場でお風呂に入れます。これを産湯といいますが、産湯とは、産土さまのお守り下さる大地の水のことを指します。また、子どもの身体を清めるとともに発育を願う意味もあり、その湯でお清めすることで神様の産子となるというものだとも言われています。産湯とは新しく生まれ出た生命を祝い、再生された魂を寿ぐための儀式とされていました。日本人は、生まれ変わりの思想を持っていたのですが、ここに水が大きく関与しています。ですから、江戸時代の大名には自分の子の産湯をわざわざ遠くからとりよせた人もいたくらいです。
ことしのNHK大河ドラマの主人公は「江」ですが、もう一人の主人公は、彼女の旦那であった徳川秀忠です。秀忠の母は、武田軍の三河侵攻のときに戦死した西郷正勝の未亡人で、家康に見初められて側室になった人です。そのため彼女は、西郷の局と呼ばれていましたが、浜松城内にあった下屋敷内で秀忠を出産しました。昨年暮れ、妻とその誕生井戸を訪れました。

秀忠の誕生井戸


その井戸のそばの説明書きには、「誕生井戸は、ここの西方約50メートルくらいの処にあった。昔、その一帯は旧城下であり家康の在城当時には下屋敷が構えられていた。2代将軍徳川秀忠の生母は、家康の側室西郷の局で秀忠の出産は同下屋敷で行われた。その時に使われた産湯の井戸を誕生井戸という。その井戸は明治のころまで残っていたそうである。また、ここの北方の誕生橋は秀忠の生まれた下屋敷が誕生屋敷と呼ばれたことにちなんでの命名である。」
産湯として使った井戸が史跡として残されているのも、水と深いかかわりのあった日本の文化の一つかもしれません。