文化

 最近、「教育文化論」が論じられています。同じような考え方で、「教育文化人間論」といわれ、相互に規定しあう教育・文化・人間の円環的関係を見据えた新教育論も論じられています。すなわち、人は人と人との邂逅と対峙を通して、人は生成や変容を遂げる存在であり、人間相互の関わりから文化がつくられていくものであり、教育というのは、そのような人間相互の関わりを生かす場の力を活用することであると考えます。
最近、インターネットを使うようになり、情報リテラシーということがいわれるようになっていますが、それは、その情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことです。「情報活用能力」や「情報活用力」、「情報を使いこなす力」です。このリテラシーとは、もともとは、「言語により読み書きできる能力」を指す言葉で、「識字」訳されています。いわゆる「読み書き」の能力です。教育文化の基盤には、この読み書き(リテラシー)の習得がありました。しかし、リテラシーは単に識字能力にとどまらず、知識をそれぞれの状況や社会的文脈において活かす知恵(叡智)も広義のリテラシーなのです。これは、最近小さいうちから熱心に行われている英語教育に対しても言えることです。小さい子への英語の授業は、ほとんど英単語を覚えることに費やされます。しかし、実は、必要なのは言葉を使いこなす能力であり、その使う場や状況に合わせて、知っている知識を引き出して使う能力が必要なのです。
このリテラシーの能力を伸ばすために教育が必要になるのです。しかし、人の才を育てていくには、教育する側にも教育の才が求められるということで、人と人とが出会い、相互にその才を伸ばしていくには、人をみる目、事柄を見極める目が必要になるのです。こうした才としての目(心眼)は、タクトとも呼ばれ、人育ての知恵や才、判断力としてのタクトの働きが重要になるのです。特に、人育ての知恵や才は、人生の極限において自己自身を超え出ていく力を必要となります。そこには、理屈ではない、直観や勘の働きも影響してきます。
また、近代的な教育文化の特質は、世界を展覧できるメディアを開発することでした。このメディアとして博物館、美術館、博覧会、動物園など展覧のメディアが教育に貢献してきましたが、子どもにとって、玩具、絵本、童話、童謡などは、教育文化を構成している重要なメディアです。子どもの日常に深く関わる「もの」は、時代の価値観を反映しつつ、これまでも子どもたちをその時代の子へとつくりあげてきました。また、宗教的な儀礼や成人に至るまでの通過儀礼、年中行事や祭事の儀礼、さらに、学校での入学式や卒業式、運動会といった行事での儀礼、誕生祝や結婚、出産の儀礼などを通して、人はいろいろなことを学んできました。儀礼は教育文化のひとつであり、伝統の様式をなぞりながらも、それぞれの時代の文化的・社会的条件に合うように、改変されながら伝承されてきました。
そのほかに、人が生存のために伝承しているものは他にも様々あります。親から子へと物のやり方が伝承されてきました。それは、伝統的な技芸やものづくりの場においての方法だけでなく、親から伝わる家庭の味のような感覚を通した伝承もあります。
もし、教育文化というものが伝承という広い観点から捉えてみるときに、学校教育を含めた学習・伝習・伝承は、どのような意味を持つことになるのでしょうか。教育文化論は、人類学や詩学の思考方法を通して、人間の生成変容の歴史的、文化的な違いを明らかにするという学際的・国際的な研究領野のようです。簡単に言うと、教育という行為を対人関係でとらえるのではなく、社会の中で人と人との関係の中からされるものであり、それが文化として伝承されていくという考え方のようです。

タブとコウヤマキ

 日本各地には古くから伝わる伝統工芸があります。以前にも、ブログで紹介しましたが、その中で織物も各地にいろいろと伝わっています。西陣織とか、大島紬などが有名ですが、東京都で有名な織物に「黄八丈」があります。伝統工芸の説明には以下のように紹介されています。「その昔、本居宣長が“八丈という島の名はかの八丈絹より出ずるらむかし”と書き残しました。島の名の由来とも言われる黄八丈については室町時代から絹を貢いでいた記録があり、江戸時代の中期以後から現代にも通用する粋な縦縞、格子縞が織られるようになりました。」そして、その記事を染めるのには、すべて島に自然に生えている植物性の天然染料を用いています。そして、天然染料を煎じた液で数十回染色した後、黄色や茶色はツバキやサカキの木を焼いた灰で作った液につけ、また黒色は鉄分を含んだ沼の泥をこした水につけ、糸を染めています。この天然染料に、古くから「タブノキ」(島ではマダミと呼ばれる)の樹皮も利用してきました。黄八丈の色は、黄色を主として、樺(茶)色、黒とありますが、樺色の染料にはタブノキを利用してきました。タブノキの樹皮にはタンニンが多く含まれているからです。島の名前の由来にもなった「八丈」とは、8丈の長さ(1丈は約3m)で織られた絹織物で、他にも美濃八丈、尾張八丈、秋田八丈など各地に特産品があります。
この「タブノキ」は、万葉集で大伴家持が「磯の上の都万麻(つまま)を見れば根を延へて 年深からし神さびにけり」(巌に根を逞しく張り、大きく枝を伸ばしたこの木に自然の力の神秘さや神を感じる)と歌った都万麻(つまま)のことです。やはり、日本の代表的な常緑広葉樹で、昔からこの木に神を感じていたようです。春、黄緑色の小さな花を咲かせるタブノキは、クスノキ科の常緑高木で、街路樹などでよく見かける木で、樹形が綺麗に整っています。花が咲き終わった後には赤い花茎の先端に緑色の小さな球形の果実が成ります。
この木は染料として樹皮が利用されるだけでなく、材は器具材、家具材、建築材、ベニヤ材、枕木などに用いられ、昔から日本では有用な樹種である。朝鮮語で丸木舟をtong-baiといい、丸木舟を作る木の意味から転化してタブとなったともいわれるように、材は古くから船材に適し、昔、朝鮮半島から日本に渡来した船は、すべてタブノキの材で造られたといわれています。また、耐陰性、耐潮性、耐風性が強いので、海岸近くの防風・防潮樹に適していて、暖帯の海岸付近の極相林を構成する代表的な構成種となっています。
この「タブノキ」が切手シートの3番目に取り上げられているのも頷けるほど、日本では、生活に密着した木だったようです。
4番目も、日本では古くから庭園に植栽し、材木としても利用され、世界三大造園木の一つで、木曽五木の一つです。この材は、丈夫で朽ちにくく、水に強いなどの特性から、古代から高級な棺や水桶、橋杭などの材料として多く使われています。古墳時代前期の前方後円墳の竪穴式石室に埋葬された巨大な木棺は、コウヤマキの巨木の丸太をくりぬいて作った「割竹形木棺」「舟形木棺」などが多く残っていいます。またその利用は、日本ばかりではなく、生い立ちが日本と深く関わっていた百済の武寧王の棺にも、用いられたことが発掘調査で確認されています。また、橋杭としては千住大橋で使われたものが有名です。現在でも湯船材や橋梁材として重宝されています。このような高級材として江戸時代には伐採を禁じ保護された「停止木」として指定されていました。現在でも、木曽五木(ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキ)のひとつとして親しまれていますし、悠仁親王のお印が、コウヤマキであることも知られています。なお、この名前は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来しています。高野山では霊木とされています。
このコウヤマキについて、最近面白い話題があります。それは、人類史上もっとも感染者が多いといわれる病気である歯周病にコウヤマキが効くというのです。昔から殺菌効果はあることは知られていましたが、あるとき歯周病に悩む関西のうどんやの女主人が、コウヤマキのエキスを歯茎に塗ってみたところ、腫れが見事に引いたことから、歯周病に効くコウヤマキの研究が始まったようです。
いまだにどうも生活に密着しているようです。

さくら

 以前、多摩ニュータウンで保育園を開園するために現地を見に行ったときに、園の敷地の隣の公園に、大きな桜の木がありました。職員と、開園したら、この木の下で花見をしようと約束しました。あの花吹雪の舞う、満開の花の下での花見は、さぞかし華やかで、気分が高揚するであろうと計画しました。ところが、4月になって桜が咲き始めると、思っていた咲き方と違って、葉も同時に出てきて、葉に見え隠れするように地味に花が咲き、とても桜の花の下でいわゆるばか騒ぎをする雰囲気でなかったことを思い出します。この桜は、上野公園や、千鳥ヶ淵で咲き誇るソメイヨシノではなく、日本の本来種であるヤマザクラだったのです。この山桜が、森林年記念切手のヒノキの次に2番目に図案化されている木です。
昔はサクラといえばヤマザクラのことでしたが、明治のころからソメイヨシノが一般的になります。この桜は、以前のブログで紹介したように、巣鴨の染井が発祥の地とされていますが、葉がでる前に一斉に花が咲くため、ご存じのとおり豪華絢爛を極め、少なくとも関東地方ではサクラといえばこのソメイヨシノを指すことが多い。4月はじめに満開となるため、小学校や中学校の入学式を彩るには格好のものとなる。そのためにサクラと学校とは日本人の深層心理に切り離せないものとして刷り込まれている。
 たしかにソメイヨシノは美しい。葉が出る前に一斉に花が咲き、絢爛とした満開の美しさをみせたあと、一斉に花が散る姿に、日本人は魅了され、桜といえばソメイヨシノになったのです。桜の区別というと、簡単にわかるのは、花と葉がどの時期に咲くかという違いがあります。葉が出る前に花が咲くのは、ソメイヨシノのほかにもヒガンザクラやオオシマザクラがあり、これらから品種改良されたものにサトザクラがあります。そこで、一説には、花が葉に先立って開くサクラをまとめてサトザクラということもあるようです。これに対して花が葉と同時に咲いてくるのをヤマザクラといいます。
 あらためて考えると、花見、桜の花というと人だかり、ゴミの山というイメージがつながるのはソメイヨシノで、ヤマザクラは、里山の中で葉と一緒に咲き出すその花の風情が楚々としている感じがします。しかも、花の色と葉の色がその咲く場所、それは土の違い可否の当たり方の違いかよくわかりませんが、木の一本一本で微妙に違っており、それぞれが個性を表しています。それは、花だけでなく、同時に出てくる葉にも違いがあり、開花時期のずれが、個性がより複雑な違いとなって主張されます。そこでは、日本特有の社会のあり方を見せてくれます。
自然は、その地域の中ではぐくまれ、地域の中で一つの形をつくってきました。まさに、その地域の中で生きていく知恵が詰まっているのです。その自然の中で、ある生き物として存在する人間も、その地域の中ではぐくまれ、その地域にあった特性を持ってきます。世界森林年を記念して発行された日本古来の木々を眺めてみると、そこで暮らす人間の生き方が見えてきます。それが、たぶん自然を見ていると心が落ち着くという理由かもしれません。

ヒノキ

 今月の初めの7月4日の新聞に、「5500年前、縄文5500年前、縄文時代の日本人はヒノキの樹皮からポシェットを作っていた!」というニュースが流れました。これは、三内丸山遺跡で出土した重要文化財の通称「縄文ポシェット(編籠)」の素材が、ヒノキ科の樹皮だったことが分かったという内容です。これまでは、イグサ科植物で編み上げられたとされてきたのですが、あらためて調査を進めた結果、ヒノキであることが判明したのです。このポシェットは、約5500年前の縄文時代前期のもので、1993年に出土しています。幅5ミリほどの素材が縦横に組み上げられ、当時の人々が高度な技術を持っていたことをうかがわせるものだそうです。このほかにも、全国の縄文遺跡からササ製の編籠の出土例が多く確認され、ポシェットの破片を高性能の電子顕微鏡で検証したところ、ヒバやスギといったヒノキ科の樹皮と判明したのです。ただ、このポシェットが当時の人々にとってどう使われたのかは、まだわかっていないようです。
それにしても、ヒノキは日本と台湾に自生し、日本ではずいぶんと古くから付き合いがあるようで、建築・木彫・木材工芸に最良の材としてわが国の「木の文化」に重要な役割を果たしてきたのです。法隆寺・東大寺など大寺院の建立や伊勢神宮式年遷宮に用いられる大量の檜材を産出するために、林業政策を古くから行い、木曾・吉野など優良産地が大切にされてきました。このようにヒノキは、日本の代表的な気ですが、私は特別に深いつながりがあります。それは、私の家の家紋は、「丸に檜扇」なのです。
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檜扇(ひおうぎ)とは、ヒ(檜 桧 ヒノキ)の薄板をつなぎ合わせてできていて、奈良時代から平安時代にかけてできたと言われています。この檜扇は、後の時代の紙の扇に先立つものとされています。
平城宮跡から、紙が広く普及する以前に、文書の記録や荷札に用いられた木の板である「木簡」が多く発掘されています。その材料には、ヒノキ、スギ、他、様々な種類の木が使われていますが、使用済みのヒノキの木簡を綴り合わせた檜扇があるそうで、これが原型と言われています。この檜扇で使われているように、檜(ヒノキ)は、古くは一音で「ヒ」と呼ばれました。こうした一音節の語は、特定のものでなく、「ヒ」という性質のチカラ(昔の人が考えるところの霊質、霊力、生命力、威力)を持った物として、「ヒ」の音の名を付けたようです。「日」や「火」を、「ヒ」の性質のあらわれたものとして、「ヒ」の音で呼ばれたと同じように、檜も同様に、檜に「ヒ」の性質を見いだしていたのかもしれません。檜扇が他の樹木の板でなく、檜の板で作られたのは、「ヒ」の力が期待された呪物的意味があっただろうと言われています。また、扇は神のヨリシロ(依り代)とされることがあり、もとは呪具だったものが、神の概念の発生と宗教の展開から、神のヨリシロと見られるようになり、扇にも宗教的意味があったようです。
また、「日本書紀」にこんな記述があります。「スサノオノミコトが自分の髭を抜いて散らしたらそれがスギになった、胸毛を抜いて散いたらヒノキに、尻毛はマキ、眉毛はクスになった。スギとクスは船に、ヒノキは瑞宮に、マキは棺にすべし。」
法隆寺・東大寺など大寺院の建立や伊勢神宮などの建築にヒノキを中心として用いられたのは、納得がいきます。現代でも、建物にヒノキを用いることが理想的だと言われています。
森林年における記念切手の最初の図柄は、この「ヒノキ」です。

緑被率

 かなり前になりますが、路上に立った人の視野に占める草木の緑の割合である「緑視率」についてブログで取り上げました。この「緑視率」は、一般的には、街並みや地区など広い範囲を対象にしたときの景観規制の指標として用いられていますが、職場や保育室などの視野に入る草木の緑の割合が、仕事の能率や、子どもたちの情緒の安定に影響するということを取り上げました。それともうひとつ、町の中における緑の量についての計算に、昨日のブログで取り上げた「緑被率」があります。これは、ある地域又は地区における緑地面積の占める割合の事で、平面的な緑の量を把握するための指標で都市計画などに用いられることがあります。この緑地面積は、「緑地」と定義された「個々の土地」の合計面積ですが、厳密に樹木、芝、草花など植物によって覆われた部分の土地の面積をいいます。それに対して、「緑地率」は、樹林地や農地など「緑地」と定義された一団の土地の面積をいいます。
この「緑被率」は、ほとんどの自治体で毎年計測し、ホームページなどで公開をしていますので、自分の住んでいる地域が、どのくらい緑が減っているのかを見ることができます。昨日のブログでも紹介しましたが、東京は、誤解を受けていますが、意外と緑が多い町です。その理由の一つには、東京23区はたくさんの川や海に面しているため、川辺や海辺を利用した公園が数多いからです。特に、江戸川区や江東区、品川区、大田区は東京湾に面しているため、海浜公園、ふ頭公園、 緑道公園が多くあります。また、荒川は河川周辺に公園が多く、流域の葛飾区、足立区、北区、板橋区、墨田区には こうした河川を利用した公園があります。同様、多摩川流域の世田谷区、大田区にもあります。今回の東北大災害では、津波が川をさかのぼり、多くの犠牲者を出したのですが、本来、昔から川は恵みをもたらすと言われてきたように、氾濫は土地を肥やし、草木を育ててきたのです。
 公園の割合が高い自治体は、23区で最大の「葛西海浜公園」を持つ江戸川区、「皇居」がある千代田区、代々木公園のある渋谷区、「夢の島公園」「若洲海浜公園」などの江東区と、大きな公園を持っている自治体が上位にきています。逆に公園の割合が少ない自治体は豊島区、中野区、杉並区、目黒区と西側の区に多いようです。しかし、豊島区には「雑司が谷霊園」「染井霊園」等のまとまった緑地があります。
これらの区について「緑被率」を見ると、中野区、杉並区、目黒区ともに15%以上になっており、決して緑は少ないわけではないのです。特に、練馬区、杉並区、世田谷区、大田区は公園の比率に比べ緑被率が高くなっています。これは、公園以外の街路樹や庭、周辺に自然が多い地域だからでしょう。「緑被率」が20%以上の区は上から順に練馬区、世田谷区、杉並区、渋谷区、港区、千代田区、大田区と西側に多く、10%以下の区は下から順に荒川区、台東区、中央区、墨田区と東側に多いようです。
 また、この「緑被率」について時代的変遷を見てみると、意外なことがわかります。日本中では、時代によって、次第にその率は減ってくるのですが、園のある新宿区を見ると、昭和59年には、「緑被率」が13.3%であったのが、平成17年には17.47%になっていますし、樹木数でも、平成47年には4993本(直径30cm以上)だったのが、平成17年には、新宿御苑と明治神宮外苑の本数を含まない本数でも、15264本(直径30cm以上)にもなっていますし、直径100cm以上の樹木も92本もあります。他にも、街路樹や生垣、屋上緑化や壁面緑化とさまざまな部分の緑化が進んでいます。
 自然は、意識して守る時代になってきています。

屋敷と寺社

 私は、よく富山に行くのですが、車で移動している途中の景色で珍しいものを見ることがあります。それは、田んぼの中に転々としている屋敷のまわりを、きれいな森が囲んでいることです。この森は、「屋敷林」といって、日本各地の風の強い地域に見られます。これと同じような森を、同じくよく行く出雲でも見ることができます。この田んぼの中に点在する緑の森である屋敷林は、風や雪を防ぐため、家の周りに造られた人工の森で、富山県砺波平野や島根県出雲平野などでよく見られます。
出雲平野の屋敷林は、木々が、四角形にきれいに切りそろえられているのが特徴です。日本海に面した出雲平野は冬場、北西にある海から強い季節風が吹き抜ける、風の通り道です。そこで、屋敷林は、北西側に大きな壁のように植えられ、屋敷を風から守っています。使われるのは,黒松の木。築地松といいます。昨年、NHKの「美の壺」という番組で「屋敷林」が取り上げられていました。その中で、住民がこの地の屋敷林が四角く整えられるには出雲の人々の知恵と美意識が隠されているといいます。 「屋敷構え、全体として家屋、築地松一体となった緊張感のある安定感のある美しさを出すためと言われています。」また、高さ10メートル、築地松の上で行われる陰手刈りと呼ばれる作業は、築地松の枝葉を薄くすいて、家に日ざしを取り入れるせんていのことを言います。防風林としての効果が保てるギリギリのところまですいていく熟練の技は、まさにレースのカーテン越しに屋敷が透けて見えるかのようです。快適さと風格を追い求めたどり着いた形。屋敷林には風土に根ざした美があるのです。
このような屋敷林は、日本各地に見られます。2009年には、家屋を風から守り、地域の景観形成でも重要な役割を果たしている「屋敷林」について話し合う初のサミットが、安曇野市で開かれました。ここには、同じように屋敷林が点在する富山県砺波市と東京都武蔵野市の関係者も参加して意見交換しました。また、その翌年には、「2010全国屋敷林フォーラムin砺波平野」が、富山県砺波市で開かれ、「屋敷林の再発見とその保全・創造」をテーマに基調講演やパネルディスカッションが行われ、屋敷林の景観や生活の中で果たす役割の重要性を確認し合いました。
屋敷林が屋敷のまわるに植えられ、屋敷を守ったように、寺社林という森が寺社を守っていました。特に、寺社林は、鎮守の森ともいわれ、「伐らずの森」と言われるほど大切にされました。江戸幕府の厳しい伐採・流通規制、森林再生促進など森林保護政策の結果として、日本列島の森林資源は回復に転じました。同時に、幕府は、急激に人口が増えた江戸の町にも屋敷林や寺社林を勧めました。その屋敷林や寺社林は、ある意味で里山活動だったり、ビオトープ作りだったのです。
空から東京を見てみると、意外と転々と緑が残っています。それは、以前のブログで書いた江戸上屋敷とか、下屋敷があったからですが、実はその屋敷のまわりは中に屋敷林が存在しているのです。また、東京は意外と寺社が多くあります。そこには、必ず寺社林が存在します。
人口100万人の江戸の町には、武家屋敷の周囲を囲む屋敷林、寺社が所有する森が広がり、江戸市域全体の緑被地率は42.9%と世界でもまれに見る緑豊かな都市でした。

禁忌

人は、自然の共生するためにいろいろな禁忌を持っていました。その言い伝えは、国によって長い間に言い伝えられ、それは文化として形成されたり、風習として残ったり、脅しと使われたり、さまざまな形で伝承されています。そして、伝承の中で、それぞれの国として特殊性を持つこともあり、その言い伝えを他国から見て変だと思うことも多いのですが、それはその国にとって意味のあるものだったのでしょう。
先日、何かの記事で呼んだのですが、それぞれの国には長い文化・伝統があり、日本を中心に考えるとおかしなことになる例として、韓国では女性は立て膝で食事をし、食器を手にすることは食べ物を独占する意味があり、嫌われるそうです。また、食器も箸も金属製なのは、古来、毒殺を恐れて銀食器を使用した名残りだといいます。「行儀よく座って食事をしなさい!」「ちゃんと食器を手で持って!」というように子どもを怒るのは、どの国でも共通することではないようです。他にも、「手で食べないで!」とか「三角食べをしなさい!」などの国によっては違います。
 私たちから見ると非常に面白い風習が紹介されていました。わが子にどんな名前を付けるかということで親は悩むものですが、一時、「悪魔」という名前をわが子につけて話題になりましたが、日本では最近、とてもユニークな名前の子が多くなりました。モンゴルでも、子どもの名前にはユニークなものがつけられているそうです。モンゴルは気候の厳しい国で冬は零下30度にもなり、放牧中の山羊や羊が大量に死ぬことも珍しくありません。したがって、神を尊敬し、悪魔を恐れる風習は今なお色濃く残っており、特に子どもと悪魔の関係はユニークで、可愛いい我が児が悪魔にさらわれない(死亡しない)ようにするために、わざと醜い名前をつける習慣があるそうです。たとえば、「バースト(ウンコ)」、「フンビン(人でなし)」、「テルビシ(あっちじゃない)」、「エネビシ(これじゃない)」、「ネルグイ(名無し)」、中には「悪い犬」などという名前があるそうです。日本では、「ウンコ」なんて名前をつけたら、ずっとからかわれるでしょうね。
また、モンゴルでは、子どもの褒め方にしても「まあ!!不細工な子供ね」とか、「汚い子供ね」と褒めなければいけないそうです。なぜなら、「まあ!! 可愛いい!」と言おうものなら、この子は悪魔にさらわれる(死亡する)と、お母さん方は本気で信じているからだそうです。また、小乗仏教の国であるタイ、ミャンマー、スリランカなどでは、子どもの頭には仏さまが宿るといわれ、日本のように子どもの頭を可愛いいと言って撫でることはできません。
このように、その地域にある伝統や文化は、宗教的なことから生まれていることが多いように、日本でも、宗教としていい伝えることがあります。それは、自然に対する警告の場合で、山岳信仰には多く見られます。険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあることから、危険な状況に陥る行為を「山の機嫌を損ねる」行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を図るための知識として語り継いでいると考えられています。そして、地域住民は罰が下ると信じ、山をなだめようと大規模な祭事を行います。自然と共存するために培われた精神性が、言い伝えられているのです。
山の神の性別は地域によって様々ですが、よく怖い妻の事を「うちの山の神が」ということがありますが、どうも山の神は女神のようです。ですから、関東から東北にかけて山の神を安産の神とする地域も多く、出産時に夫が馬を引いて山へ入り山の神を迎える習慣があったようです。その時に、山で馬が急に身震いして立ち止まると山の神が馬に乗ったしるしとされたそうです。
長い間、人間は山や森と深い精神的な結びつきがあり、その山や森が日本人の心のふるさとの一つであり、豊かな文化を形成してきているのです。

原生林

現在、世界は狭くなっています。今回、日本の東北で起きた大災害も、ずいぶんと知られていないところで世界にさまざまな影響を与えているようです。今回の原発からの放射能漏れも、世界で随分と注目されていますが、それ以前に世界各地で行われた核実験の影響は大きなものだったようですが、当時はそれほど大きな反対運動にはなりませんでした。どこか、対岸の火事のようなところがあったのかもしれません。現在は、どこか違う国のほんの小さな部分での出来事も、世界中に影響を及ぼします。それだけ、いろいろな分野で世界がつながり、その時には関係のないように見えることでも、時間がたつと自分の国に影響してくることも多いのです。そこで、さまざまな分野における世界会議が行われるようになってきています。
先日ブログで紹介した、昨年9月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が主催してロシア連邦モスクワ市において開催された世界幼児教育会議にも130カ国以上からの代表団によって話し合われました。その会議に先だって、一昨年10月に、タイ国マヒドン大学の国立子ども家族発達研究所で、幼児教育に関する国際会議が開催されています。世界全体に影響する問題として、経済に次いで教育も重要なようです。それ以上に、世界規模で話し合わなければならない問題が「自然」「環境」でしょう。渡り鳥は国境など関係なく移動しますし、魚も海を国境に関係なく移動します。日本で、夏に八ヶ岳などで身近に見かけるアサギマダラという小さな蝶が、日本列島を縦断、さらに南の沖縄や台湾まで延べ2000キロ?以上を飛んでいることが最近分かっています。
原生林とは、何百年も人の手が入らず一度も伐採されたことのない森林のことですが、この原始林には多様な生物種が生存し、豊かな生態系が保たれているのですが、現在、原生林は、アマゾンの熱帯雨林、アラスカ、ロシア、カナダなど、ごく一部にしか残っていません。2512万haの森林のほぼ半分(約1300万ha)が天然林です。天然林とは自然の力で生まれ育った森林のことで、自然林とも言います。日本の天然林の多くは広葉樹林。日本人の暮らしと共にあった里山や鎮守の森、あまり人が入らない奥山まで、天然林は幅広く分布していますが、原生林は、日本でもごく僅かしか残っていません。
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世界では、ヨーロッパは産業革命の頃に伐採してしまっているので基本的に原生林はほとんどなく、中国も森林の4分の3を失ってしまっています。人間が農耕を始める前には60〜70億haの森林があったといわれますが、今では約40億haに減っています。このような減少は、少しずつ行われてきたのではなく、人間が自然と共生していたころはそれほどではなかったのですが、大きく減少したのは1950年以降です。この主な理由は、農業用地など他用途への転換や、産業用伐採、自然災害などによるものです。温暖化、砂漠化、酸性雨などの森林への脅威も影響しています。
ここで大切なことは、減少の原因に自然災害が大きく占めることです。たとえば、インドネシアは、大規模な洪水や地滑りから森林が減少の原因になっていますし、中国でも、1998年の大洪水が多くの森林を失いました。しかし、それらは、正確に言うと自然災害ではなく、不法伐採が原因といわれています。伐採により多くの森林を失った結果、砂漠化、洪水、土砂崩れ、渇水の頻発を起こすのです。また、「地球温暖化防止の視点からも森林減少が加速しないよう、各国は森林の保全と管理を強化しなければならない」と警告しています。
今後は、国どうしが競うのではなく、協力していく時代になっていくべきでしょう。

疏水

疏水事業は、明治になって政府によって行われたものが多いのですが、江戸時代から明治にかけて、それぞれの地域で行われた疏水事業には、個人的な熱い思いと、身を削る献身と、自然への深い理解が必要になります。そのために、農民たちが二千年にわたって築き上げてきた疏水の総延長は、国内だけで約40万kmという途方もない長さで、実に地球10周分に相当する距離となります。その中で、有名なものの一つに福島県の「安積疏水」があります。先日、それにまつわる史跡を見に行ってきました。それは、今回の東北大災害に見舞われ、現在も放射能による様々な試練に立ち向かっている地域に受けつながれている精神を感じるからです。
福島県の県庁所在地は福島ですが、それ以上に有名な都市が郡山です。福島県で地震があると、「何々通り震度何」というような地域の表し方をします。このような表し方は珍しいですが、東北地方は山脈が縦に連なり、地域を縦に分けています。太平洋側から阿武隈高地までを「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈にはさまれたところを「中通り」、奥羽山脈と越後山脈にはさまれた「会津」の3地域に分けられています。そして、郡山市は、東北新幹線・東北本線の駅として立ての路線の途中ですが、横への交通手段と知って、西の会津若松市や新潟市へは磐越西線、東のいわき市へは磐越東線でつながり、東日本の交通の十字路として東北地方第2の人口を持っています。
郡山は、江戸時代末期には宿場町となり、人口が増え始めます。しかし、周辺は水利が悪いために荒れ果て、特に安積原野は、農家のための秣場や荒れた原野が広がっていただけでした。この水利が悪く不毛の大地だったこの地に、明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと、猪苗代湖からの水を引くことを計画します。まず、当時、日本の技術者として最高位の職にあったオランダ人技術者ファン・ドールンが政府の命を受け、実地調査を行い、その調査の結果、潅漑や舟運のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させようと安積疏水の開さくを政府に決断させました。この安積疏水の開さくは、国直轄の農業水利事業の第一号です。まず、安積疏水の工事は、猪苗代湖の水を調整する十六橋水門から始まりました 。このころの武士たちは、戊辰戦争に敗れ、封建制度の廃止によって職を失っていました。彼らは、この工事にあたって、全国9藩から約2,000余の人々が、当時約5,000人の人口の郡山村の近隣に移住し、本格的な国営安積開拓が始まりました。
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そして、3年の年月を費やし、延べ85万人の労働力を注ぎ込み、総経費40万7千円(現在の貨幣価値に換算すると約400億円)を投じ、明治15年8月、幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、受益面積が約3千ヘクタールという安積疏水が完成しました。
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日本三大疏水の一つであるこの安積疏水により、水利が拓き、安積開拓により、藩政時代に「安積三万石」といわれたこの地方は、猪苗代湖の清らかな水により潤い、肥沃な大地に生まれ変わり、「あさか舞」という愛称で親しまれている美味しいお米がとれる産地の1つにまで変貌を遂げました。また、農業以外にも安積疏水は、電力の供給源として利用されていますが、その中の「沼上水力発電所」は、日本で最も早い時期の長距離水力発電所として有名ですし、熱海町には水力発電所は3ヶ所あり、猪苗代湖の水を通し発電していて、現在、磐梯熱海駅から見える丸守発電所は、当時は大峰発電所と呼ばれ、大正10年に建設されたものです。
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 この安積開拓に懸けた先人たちの夢は、郡山に現在まで脈々と受け継がれている開拓者精神とチャレンジ精神に見られると言われています。ぜひ、これらの精神を持って、今回の災害から立ち直ってほしいと思います。

水路

日本各地の農村部では、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰があります。これは、山には農耕に欠かせない水の源があることと結びつくと思われているからです。人間と森との付き合いは、水を通しても深い関係があります。その水は、田畑を潤しだけでなく、飲料にも利用されます。これは、森には保水作用があるからですが、そのほかにもこの保水作用はいろいろと人間に影響をします。
江戸時代に入ると、急激に人口が増え、江戸の町は建築ブームになり、その材料の木材が必要となり、森林破壊が起きます。1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は消失し、山ははげ山になってしまいました。そうなると、木材供給が足りなくなるだけでなく、河川氾濫や台風被害などの災害に見舞われることとなります。そこで、江戸幕府は代官所に村々での植樹・造林を命じました。また、1661年、幕府と諸藩は林産資源保続のため、下草から枯れ枝まで採集を禁じた直轄林である「御林」を設けました。現在、ミシュランで評価され、人気が高まった「高尾山」は、そのお陰で自然が残ることになるのです。また、園の裏手にある公園は「おとめ(御留)山公園」というのですが、ここは徳川が雁をするために直轄領にしたことから名付けられているのですが、このような「御林」は、「留山制度」ともいい、「木一本、首ひとつ」というほど、厳しい制度だったそうです。
また、江戸では、災害のためだけでなく、急激な人口増加のための飲料水確保が問題になりました。そこで、1590年には、徳川家康は江戸に入る前に、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じています。その時、藤五郎は小石川に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げられたと伝えられています。また、以前のブログで紹介した、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が完成したのも、1629年頃です。また、江戸の南西部は赤坂溜池を水源として利用していました。しかし、もはや既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られます。そこで、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。工事は、1653年に着工し、わずか8か月で羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りによる水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配です。翌年には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
その規模はローマ水道に匹敵するといわれ、近世 ・近代初期の江戸・東京の都市給水を支えただけでなく、分水は武蔵野台地の生活用水・灌漑用水として農民の生活を豊かなものにした。この功績を認められて兄弟は褒章として玉川の姓を賜ります。彼らこそ「玉川兄弟」で、できた上水が「玉川上水」です。現在では、水路の一部は役割を終えていますが、その流れの周辺は、雑木林を含めた豊かな自然環境が広がっています。
このように、田畑や飲料としての水をひいてくる偉業が各地に残されています。そのような水路の事を「疏水」と言いますが、有名なものに「琵琶湖疎水」がありますこの疏水は、明治18年に着工されたもので、琵琶湖の湖水を、京都市へ通ずるために作られたものです。そのほかにも、農林水産省では、用水によりもたらされる“水・土・里”(みどり)を次世代に伝え、維持するために「疏水百選」を選んでいます。