小宇宙

広島駅の近くに、縮景園という庭園があります。この庭園は、広島藩主浅野長晟が、元和6年(1620)から別邸の庭園として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇です。この園の名称は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによるのですが、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられています。園の中央に濯纓池を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路によって回遊できるようになっています。
 また、熊本には、水前寺公園があります。ここは、肥後細川藩初代忠利公が鷹狩の際、渾々と清水が湧くこの地を殊の外気に入って、茶屋として作られたのが始まりです。その後、綱利公の代に大規模な作庭がなされ、桃山式の優美な回遊式庭園が完成し、陶淵明の詩(帰去来辞)にちなんで、成趣園と命名されました。池泉回遊式庭園があり、東海道五十三次の縮景は非常に有名です。大学生の頃、初めて訪れて、水の美しさと共に、見て回ることで、途中に富士山があったり、東海道を歩いているかのような趣を感じる庭園は、何とも不思議な気分でした。
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 日本庭園の手法として、「借景」のほか、「縮景」という作庭方法があります。縮景園の名称にあるように、「幾多の景勝を聚め縮めて表現した」庭のことです。この手法も、囲まれた狭い空間の中に、広い世界、雄大な景色を取り入れるために考えられたのでしょう。昔の人は、なかなか日本中も、ましてや中国など海外の名所旧跡を訪ねることはできませんでしたから、庭の中を散策、回遊することで、そこを訪ねた気分になったのでしょう。
 進士氏は、「古今東西を問わず庭園の主題は“ミクロコスモス(小宇宙)の実現であった。人間は自然があって生きてゆける、いわば自然によって生かされる存在である。しかし、ダイレクトに自然の中で生きることは難しい。そこで、気心が知れた、いわば、人にやさしく、快適な環境構成、“人間の理想”を盛り込んだ“文化化された自然”としての庭園を身近に営んだのである。そしてそれは人間の要求や都合に合わせて加工された“二次自然”や“人為自然”で、人間がコントロールし秩序づけられた小自然ゆえに、心おだやかに見ていることができる。」
自然は、美しさだけでなく、脅威さえ感じる荒々しさも兼ね備えています。自然をみることで、必ずしも心落ち着くとは限らず、不安になることも多くあります。荒れ狂う大波、噴き上げる火山、今回、その自然の恐ろしさをまざまざと知らされた東北大災害でした。しかし、その活動は、小さな存在である人間だからこそ感じる恐怖であり、もっと俯瞰して、地球から見たり、宇宙から見ると、それらは一つの成長でもあり、持続するための変化でもあるのです。そこで、自然に対して、心おだやかに、安心感を得ようとして、庭の中に、草や木、水や土を使って宇宙を表現しようとしたのです。そして、その宇宙、世界を、見ている人間という存在がコントロールできる空間として表現するのです。進士氏は、「小さくて不安な存在である人間が、絶対的な安心感を得たいと思う必然的結果であろう。宇宙や世界の秩序の中に自分の居場所を構えることは、絶対秩序の中に自分を関係づけることである。そうすれば、最高の安定と安心が得られる。」と言っています。
このような意味で、「縮景」は、単なる「縮尺した風景」ではなく、完全なる世界、秩序ある一つのまとまりに世界を表現することであったとする進士氏の考えに納得がいきます。

小宇宙” への5件のコメント

  1. 鹿児島の仙巌園は、庭園の造りはシンプルで質実剛健。薩摩の気風そのものです。借景は豪快に噴煙を上げる桜島。錦江湾の向こうの海は世界につながっちょっで?。(なぜか薩摩弁になる)薩摩の人々が開明な思想を身につけていった理由がよくわかります。方や、熊本の水前寺公園。阿蘇の湧水を取り込んで水の美しさは良しとしますが、正面に見える富士山は通俗的で興ざめでした。枯山水とは真逆の世界観ですね。昔は阿蘇の山並みが借景だったようですが、今は立ち並ぶビル群で台無しに。景観を守るのもなかなか難しいか・・・。GWの九州旅行は、はからずも臥龍塾の予習になったようです。

  2. 広島の縮景園のことは知りませんでした。考えるヒントに気づけずにずいぶんもったいないことをしてきたような思いでいます。自然と自分のあり方について、不安を感じたらそれに対してバランスをとるように安定を求めるのはも自然なことなんでしょう。鳥取環境大学の小林氏が提案しているミニ地球もそれにあたると思いますが、こうした取り組みは決して自然を征服してやろうというものとは違うのはよくわかります。直接的な関わりでもバランスを欠くことなく、そして心での関わりでもバランスを欠くことなく、というのがちょうど良さそうです。とにかく自然と人間は切り離して考えることはできないんだと、あらためて考えさせられました。

  3.  日本庭園を演出する技法「縮景」という新しい言葉が出てきました。「縮景」は文字通り風景を縮めて表現する方法で、ブログにも書かれているように有名な場所を似せて表現するのですね。日本庭園に限らず中華街や長崎のハウステンボス、群馬のドイツ村なども「縮景」に当てはまるのかな?と思いました。ただブログに書いてある進士氏の日本庭園の考え方を読むと、そんな容易な事ではなく、自然の持つ恐ろしさから安心感を得るための方法で、やはり癒しを求める方法だと感じました。また、そうする事で自分の存在というのを確認する為でしょうか・・・。

  4. 縮景にもいろいろありますね。今回ブログで紹介された庭園とは別に私が思い浮かべることができるのは、箱庭です。自分で白砂青松を配したり苫屋を置いて海岸風景を作ったり・・・。「縮景」はそもそも庭園作りの作法ですから「箱庭」には当てはまらないことを百も承知の上で更に続けると、そうそう、鉄道のジオラマ。鉄道博物館のジオラマは大きくて見ごたえがあります。あれも一種の縮景。そして私が更に想起するのは曼荼羅です。曼荼羅も宇宙を表しその意味で縮景表現と言えましょう。チベットの砂曼荼羅は何とも言えないほど見事です。色の付いた一粒一粒の砂を面に配していきます。これは仏道修行です。悟りを得るための修行です。完成させた僧侶は悟りを得られたに違いありません。本来庭造りも修行の一つなのでしょう。崇高な行為です。

  5. 「縮 景」というのを聞き、はじめにふと思ったのが、「盆栽」でした。これは庭園ではないのですが、日本人がそういった「小宇宙」を目指したゆえに生まれたものなのかもしれませんね。それは庭園をもつような裕福な貴族ではなく、庶民としての庭園の「縮景」が「盆栽」なのかもしれないと思いました。自然を制御することはなかなか難しいものです。そのため、人間が自然の驚異から安心感を得るために考え付いたのが「縮景」だったんですね。いろんな手法があり、そのそれぞれに自然との調和のヒントがあるというのはとても興味深いですね。今生きるわれわれもしっかりと自然と向き合い学ぶことは多いですね

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