武士道7

今回の武士道について考えはじめたのは、日本人における道徳心、行動基準が何によって、作られ、伝承されてきたのかを考えてみようと思ったことがあります。もうひとつは、武士道を世界の人に説明しようとした新渡戸稲造が初代の校長であった新渡戸文化学園の新渡戸文化短期大学から、今年、客員教授を拝命したためにもう一度「武士道」を読んでみようと思ったからです。
今回の「礼」については、特に日本人はもう一度確認した方がいいかもしれません。というのは、外国から日本人の評価が高い部分である「礼義」についての「義」と、もうひとつの「礼」だからです。この礼義は、「道徳」として学ぶというよりも「躾」としてとらえます。人としての徳ではなく、身の振る舞いを美しくするものとしてとらえるからでしょう。ですから、とかくそれは形式的なもの、儀礼的なものとして批判を浴びることも多いようです。それは、外国から日本人の高い評価とは裏腹に「このような形式的なしつけは、私たちの思考力を奪ってしまい、その限りにおいて、礼儀作法を厳格に守り通すことが実に馬鹿げて見える」ともいわれています。新渡戸は、それはあるとしても、「西洋で絶えず移り変わる流行に執着すること」が馬鹿馬鹿しいともいえないことと同様に、簡単に批判するだけでよいのかという疑問を投げかけています。
まず、新渡戸はこう考えます。「もし、何かすべきことがあるとすれば、それをなすための最善のやり方がきっと存在するはずである。その最善の方法とは、一番無駄がなく、もっとも奥ゆかしいものである」とし、その適切な方法を長い年月にわたって実験してきたことの結果が礼儀作法ではないかと考えるのです。
礼法の根本の本質を小笠原清務の言葉を引用しています。「あらゆる礼法の目的は精神を陶冶することである。心静かに座っているときは凶悪な暴漢とても手出しするのを控える。というが、そこまで心を鍛錬することである」ということであり、正しい作法に基づいた日々の絶え混ざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中に行きわたるようにすることを意味していると言います。
では、礼法を通じて本当に高い精神的境地に達することができるのかということを、茶の湯を例にして説明しています。もっとも単純なことがどの様にして一つの芸道として大成され、そして精神的修養となるのかは、茶の湯が素晴らしい芸術として存在していることからもわかると言います。そしてそれは詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作であるのです。しかし、その礼義は作法に優雅さを添えるだけでなく、慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事を行うので、いつも優美な感受性として表れるのです。礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、悦びにある人とともに喜ぶことであるのです。相手を思いやる気持ちを表現したものが礼の本質であり、表面的な礼儀作法に捉われることではないのです。

武士道6

古代中国では、訴訟をするときに神の信託をうけます。その時に、原告と被告の両方から、まず神様の前に「羊」を差し出します。それは羊が神への「いけにえ」として最高のものだったからです。羊を真ん中して、原告と被告が言い争ったのです。これを「羊神判」といいました。お互いが主張しあった様子を表した字が、真ん中に「羊」、それを挟んで「言」という字が「譱」です。これは、現在の字にすると、「善」という字です。これは、羊神判で、神の意思にかなうことを表わし、「ただしい」「よい」の意味となったのです。保育所保育指針にある「子どもの最善の利益を考慮し」ということは、「子どもにとって、最も善いことがなんであるかを考えること」であり、ですから、その後の「子どもが現在を最も良く生き」という部分は、本来は「子どもが現在を最も善く生き」と書くべきなのでしょう。
 「いけにえ」としての羊を、毛並み、角のほかに内臓も含め、すべて完全な犠牲であることを証明するために、のこぎりで二つに切りました。のこぎりという漢字は、「鋸」と書きますが、この鋸歯のある戈形の器の象形が「我」という字です。羊をのこぎりで切っていることを表した字が「義」です。ですから、まったく欠陥がない正しい犠牲のことを「義」と言い「ただしい」「よい」の意味になるのです。武士道で説明している「義」の意味なのです。その正しいことのことわり(理)、それは、人の力では、支配できない条理が、「義理」なのです。そして、そんな羊を供えて神につかえる人の礼儀作法にかなったおごそかな姿を「義」に「人」を添えて「儀」というのです。そこから「ようす」「ただしい」の意味となりました。また、羊を神にささげ、神に論じはかり、神の言葉を聞いたのが「議」となり、正しい道理を求めて論じはかることになりました。
 神に「いけにえ」を捧げる時に祭卓という台に乗せました。その大の形が「示」であり、その上に肉を供える字が「祭」です。また、この「示」が「しめす偏」になって、さまざまな意味を表します。神への感謝の気持ちがたくさんあると、お供えが豊かになります。そこで、示す偏に豊と書いて「禮」という字になります。ですから、他者への気持ちを表わすことが禮(礼)ということになります。この「礼」が、新渡戸が武士道の中で「仁」の次に挙げてある言葉です。他人に対する思いやりを表現することが「礼」であると言っているのです。
 新渡戸は、最初に「礼」とは、日本人の礼義正しさと品性のよいことであり、それを損ないたくないという心配をもとに礼が実践されるとしたら、それは貧弱な徳行であると言います。礼とは、「他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである」のです。以前のブログで、私が書いた「おもてなしの心」の実践でもあるのです。そして、それは、「物事の道理を当然のこととして尊重するということであり、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる」と言います。その社会的地位とは、金銭上の地位の差を表しているのではなく、実生活上の利点に対する差を表しているのです。
新渡戸は、礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づき、私たちは敬虔な気持ちを持って、「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思いあがらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」ものであると新渡戸は言っています。

武士道5

 勇気が高みに達すると、それは「仁」に近づくと新渡戸は言います。私は、なんといってもこの「仁」が一番好きです。「仁」とは何かについてはいろいろと言われていますが、一般的には、「愛」「寛容」「他者への同情」「憐憫の情」はいつも至高の徳、すなわち人間の魂が持つあらゆる性質の中の最高のものと認められてきたのです。「仁」は、孔子や孟子によって民を治めるものが持たねばならぬ必要条件の最高の徳であるとしたのです。「仁は人なり」と中庸の中で定義しています。それは、日本においても上杉鷹山の「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には之無候」の言葉に表われています。また、この心得は西欧においても同様であったようです。しかし、新渡戸の武士道に見る「仁」の解釈には面白いところがあります。君主においての「仁」の心とは、民の父であり、ビスマルクの言葉に代表するような「公平さ、正直さ、なさねばならぬことへの献身、精力的活動、および内的謙虚さを要求する」という父性的配慮に近いものだったようです。
 それに対して、「武士の情け」に内在する「仁」は、優しく、母のような徳であると言っています。高潔な義と、厳格な正義を、男性的であるとするならば、慈愛は、女性的な性質である優しさと諭す力を備えているというのです。私は、リーダーシップ論においての心構えとか、人との関係性を構築するうえで、この両方が必要であると思っていますが、このバランスが武士道では存在していると新渡戸は説明しています。「義に過ぐれば固くなる。人に過ぐれば弱くなる」と伊達政宗の警句を引用しています。一方、日本では普遍的な真理として「もっとも剛毅なる者はもっとも柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なる者である」と言われているからで、「武士の情け」という武士の優しさは、私たちのうちにも存在するある種の高潔なものであり、いわゆる多くの人が思う慈愛とは一線を画すものであるとしています。それは、盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味しているからと新渡戸は言っています。
武士に詩歌を詠むことが奨励されたのは、より優しい感情を表面に表わし、その反対に内面にそれを蓄えるためであったといいます。したがって、日本の詩歌には悲哀と優しさが底流に存在しているのです。ですから、日本の詩の形式は、簡潔で、警句的な要素を盛り込みやすく、素朴な感情を即興的に歌いあげることに特に適していると言います。どの様な教育程度の人であっても、和歌俳諧をものにすることができ、かつその愛好者たりうるのであると言います。武士が合戦の場に赴く時、辞世の句を読むときなど、「戦いや死の恐怖の真っただ中で、他者への哀れみの心に貢献したのは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対するたしなみがそれをなした。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情の尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが礼の根源である。」という言葉で、新渡戸は「仁」の章をまとめています。
 論語における「仁」の説明と少し違う、日本の武士の心に持つ「仁」の説明にとても興味を持ちます。また、自分の中で、「仁」の心を見失いそうになるとき、書を書いたり、和歌、俳句を詠むなどして心平静にする必要がありそうです。

武士道4

 道徳的な教えとして儒教を教科書にするとしたら、孟子の四つの徳が挙げられるでしょう。そうすると、まず、人の安宅としての「仁」、人の正路としての「義」が最初に来るのはわかりますが、次は「礼」が大切であると思うかもしれません。しかし、新渡戸は、著書「武士道」の中で、次に大切なものとして「勇」を持ってきています。これは、この本が出版された時代背景があったでしょうし、武士としての心得を表した時の優先順位があったでしょうが、私としては、なんとなくわかる気がします。それは、たとえば、保育についての新しい考え方、実践の重要性、必要性を説くと、多くの人はそれがすぐに行うことができないさまざまな理由を説明します。保護者の理解、職員の理解、環境の問題、設備の問題、行政からの圧力、いろいろなことを理由にします。しかし、私は、正しいと思ったことを実践するための力は、ただ一つ「勇気」だと思っています。孔子のいう「義を見てせざるは勇なきなり」なのです。とすると、「義」の次には、「勇」が必要であることに納得します。
新渡戸は、孔子の言葉を引用して、それを肯定的に言いなおすと「勇気とは正しいことをすることである」となると言っています。勇気とは、危険を冒して、生命を賭して死地に臨む「勇猛」とは違うことを強調しています。それは、「犬死」であると言っています。日本人は「勇猛、忍耐、勇敢、豪胆、勇気」という言葉が好きで、子どもたちを励ますときにそれらの言葉を使うことが多くあります。おとぎ話の中にも「忍耐の精神と勇敢さ」を主題として語られたものがたくさんあります。では、新渡戸の言う「武士道における真の勇」とはどんな概念を持っているのでしょうか。
まず、新渡戸は、「勇気の精神的側面は落ち着きである」と言っています。「勇気は心の穏やかな平静さによって表され、平静さとは、静止の状態における勇気である。」と説明をしています。常に落ち着いていて、けっして驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。地震にもあわてることなく、嵐に向かって笑う。このように迫りくる危難を前にしても平静であり、乱れを見せない心の広さを「余裕」と呼び、その人の大きさの何よりの証拠であると言います。それは、圧しつぶされず、混乱せず、いつもより多くのものを受け入れる余地を保っています。私は、この平静さは、「義」の心の確信からくるものだと思っています。大義としての「義」をきちんと持っていることこそ「勇」が現れるのだと思いますし、その勇は、どんなものにも乱されることのない心であると思うのです。ですから、変える勇気のない人は、変える動機である「義」の確信がまだ持てない人だと思うのです。
そして、この章の最後に「勇気と名誉はともに価値ある人物のみを平時に友とし、戦時においてはそのような人物のみを敵とすべきことを要求しているのである。」としています。つまり、真に勇気のある人は、常に平静を保ち、決して驚き慌てず、何ものによっても心の落ち着きが乱されることがありません。そして、勇気が高みに達するとき、それは「仁」に近づくと締めくくっています。
義と勇は表裏一体であり、切り離しては存在する価値がないものであり、義と勇の関係は、文と武の関係であり、文武両道の本当の意味がここにあるのです。そして、「仁」に近づいていくという考え方は、私が提案するDo、See、Planという順序に、実践家としての共通なものを感じます。

武士道3

新渡戸稲造の「武士道」の中で、最も厳しい教えは、「義」であるとしています。「サムライにとって裏取引や不正な行いほど忌まわしいものはない」と書いています。もし、この「義」が、「武士道の光り輝く最高の支柱」であるとするなら、早くも今の日本人は、この義を忘れてしまっているかもしれません。というよりも、いつの時代でも常に見直さなければいけない精神です。ですから、まずこの「義」の観念を説明しているのかもしれません。新渡戸は、説明に「林子平」の言葉で説明しています。「勇は義の相手にて裁断の事也、道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ也」子平は、「義」は、決断する力と定義しているのです。「義を見てせざるは勇なきなり」(眼前に正しいことを見ながら それが断行できないのは、勇気がないということだ)という論語の言葉を思い出します。「“義”は“勇”と並ぶ武士道の双生児である」という小タイトルがついています。
禁門の変で長州藩士と共に戦った武士(真木和泉守)の言葉を新渡戸は、次に示しています。「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」ここで、真木和泉守の言葉を借りて、節義とは、人が人としてある為にいかなるときも、常に欠かせないものである人の体の骨と同じものだとしています。いくら才能があろうと、学問があろうと、そこに節義がなければ世に出ることはできないのです。また、節義があれば、たとえ、骨がなくても、体の機能が正常ではなくても、武士としては十分であると説いています。
孟子は、人間の本性は善であり、人間には四端とよばれる四つの心が備わっていて,そこから四つの徳(四徳:仁・義・礼・智)が発現するとしました。そして、四徳のうち,とくに孔子のいう「仁」とならんで孟子は「義」を重視しました。すなわち、義とは正しい道理のことで,仁を実現するための具体的な行動基準としたのです。新渡戸は孟子の「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」という言葉を引用しています。「安宅」というのは、安んじる家のことを指すことから、そこにいることで身が安らかになるということで「仁」を指し、「正路」というのは正しい路ということで、人として生きていくうえで正しい路ということで「義」を指します。
そして、続いて、「その路をすてて由らず。哀しいかな。その心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな。人〓犬の放つことあれば、すなわちこれを求むるを知るも、心を放つことあるも求むるを知らず」という孟子「告子章句上」を引用しています。このような大切な「義」を人々は捨てて従わず、その心(仁)をほったらかしにして探し求めようとしない。まことに嘆かわしいことだ。人は鶏や犬がいなくなると、すぐそれを探そうとするのに、道を捨て、心を失っても、それを取り戻そうとはしないと嘆いているのです。そして、孟子の原文には、このあと「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ。」と続きます。 学問の道は、ほったらかしにした心を探し求めることだけで、他にはないと言っています。
次に、「義理」について新渡戸は述べています。「義理」というのは、次第に世論が果たすべき義務と、世論が期待する漠然とした義務感を意味するものになってしまっていますが、本来は、「正義の道理」の「義」と「理」です。純粋かつ単純な義務を指していると言います。そこで、正義の道理こそ無条件に従うべき絶対命令であるべきだと考えています。「義理がすたれば、この世は闇だ」という人生劇場の歌詞が頭に浮かびます。

武士道2

日本人が、何を規範として、人としてあるべき姿を考えたのでしょうか。物事を判断する時に、何を基準にしてきたのでしょうか。それは、誰でも日本における道徳といって思いだすものが、江戸時代の藩校や寺子屋の教科書であった「四書五経」から学んだのではないかということです。その中でも、論語に書かれてある孔子の教えが最も豊かな源泉となったのです。しかし、孔子の教えである五つの倫理的な関係、すなわち「君臣(治める者と治められる者)」「父子」「夫婦」「兄弟」「朋友」の関係は、孔子の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎないと新渡戸は言っています。孔子の政治道徳の教えは、日本人が昔から持っていた倫理観の確認にすぎず、しかし、支配階級であった武士にとってはその言葉はふさわしいものととらえられ、武人統治者に不可欠のものとして適合したと新渡戸は言っています。
もうひとつ、武士道に大きな権威を及ぼしたものに、やはり四書の中の「孟子」だと言います。彼の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある性質を持った人々にはことのほか好まれました。そのため、その理論は既存の社会秩序にとって危険であり、破壊的な作用をもたらすものと考えられ、彼の書物は長い間、禁書とされていたのですが、ここに書かれてある言葉は、武士の心の中に深く浸透していったのだと新渡戸は思っています。
このように孔子と孟子の書物は若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高のよりどころとなったのです。しかし、彼らの言葉を単に知っているだけでは意味を持ちません。知っているという知的専門家は機械同然とみなされていたのです。これは、最近コンピューターができたために、単なる知識の量の持ち主はまったく意味がなくなっていたという私の考え方が、武士道の中にもあったということのようです。当時、知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられて、人間と宇宙はひとしく精神的かつ道徳的なものであるとされていたのです。
知識とは、本来目的ではなく、知恵を得るための手段であると考え、武士道では、知識のための知識を軽蔑しました。そして、この目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を作りだす便利な機械以上のものではないとみなされたのです。武士道では、知識は、人生における実際的な知識適応の行為と同一のものとみなされたのです。そして、そこに「知行合一」を説いた王陽明を最大の解説者として見出したのだと言います。 新渡戸は、「王陽明は、良心無謬説の教義を極端な超越主義にまで発展させました。そして、単に善悪の区別にとどまらず、心理的諸事実と物理的諸現象の性質も、また知覚しうる能力までもが良心にあると考えたのである。」としています。口でばかり言っても、頭の中でいくら考えても実践しなければ何にも意味がないというのです。「知行合一」の知行は一であり、真に知るということは既に行っているということで、知とは良知をいい、行とは実践をいいます。
このようにして、武士道はさまざまなものに影響されます。たとえば、仏教が武士道に与えたものを新渡戸は、「運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感など」であるとし、神道が武士道に与えたものは、「他のいかなる心情によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などによって、サムライの倣岸な正確に忍耐心が付け加えられた」としています。
このように武士道はさまざまなところから吸収し、自己のものとした基本的原理はけっして数多いものではなく、また単純なものであったと言います。
では、具体的に、武士道には、どのような内容を持っていたのでしょうか。

道徳教育

 昨日、私の処にある小学校から公開講座の講師の依頼状が届きました。そのテーマは、「特別支援教育と道徳教育の接点」についてです。私は、実はあまり道徳教育というものは好きではありません。それは、たとえば、多くは自分が育ってくる中で、人にやってもらって心地よかった、うれしかったという経験があり、今度は、自分の好きな周りの人にも喜んでもらおうと思う気持ちを表す行為が、「思いやり」という行動に出るのだと思っています。ということは、まず、育ちの中で自分がうれしいと思うことをしてもらった体験がなければならないこと、そして、それをやってあげたいと思う他人がいることが条件になるので、教育で教えることではないと思っているからです。
 もうひとつは、道徳心は,発達の結果生まれてくるものだと思っています。子どもは、それぞれの年齢において、今をよりよく生きようとします。さまざまなものに興味を持つと、何にでも触りたくなります。キョロキョロと周りを見渡します。また、歩きはじめ、歩く喜びを感じると、あちらこちら歩き回りたくなります。つい走りたくもなります。それを、抑制という脳が育った大人から見ると、「触っちゃだめ!」「集中しなさい!」「じっとしていなさい!」「きちんと座っていなさい!」という注意する対象になり、「まったくしつけができていないのだから!」と嘆くことになります。
 もうひとつ、道徳教育といって最近考えることがあります。それは、多くの外国では、道徳は宗教教育で行われることが多いのですが、日本では、特別な宗教も持っていませんし、学校では宗教教育を行いません。もともとは、「八百万の神」と言われたように、さまざまな自然の中に神は存在し、「そんなことをすると神が見ているよ!」と諭すよりも、「そんなことをすると雷が落ちるよ!」というように自然に対しての畏敬の念が道徳と言われる規範を教えてきたのかもしれません。しかし、善悪の観念を作り出し、その道徳的観念を子孫に伝える日本における教育は、何によって行われてきたのかという疑問から発して、その答えの源を、外国の人にわかりやすく説明するために、ある象徴的に言い表して、「武士道」と考えたのが新渡戸稲造だったのです。ですから、その考えを、原文では英語で書かれています。「武士道」は、武士のあるべき姿ではなく、武士の姿を借りて、日本人における道徳心のあり方を問うたものなのです。
 もちろん、もともと「武士道」とは、「騎士道の規律」であり、武士階級の「高い身分に伴う義務」でした。しかし、この本では、「特異で、かつ地域的な気質や性格を生んだ、限定的で他にくらべることのできない教えを、はっきりとそれとわかる特徴的な外見を持たなければならない。」ために、また、「国民の特質をたいへんうまく言い表している民族の“音色”ともいうべきものを持っている」言葉として、その言葉の意味を真に正しく移し替えることが至難の業であるため、そのまま「ブ・シ・ドウ」と使っているのです。私が、日本の地域的気質や性格を含んだ、国民の特質をたいへんうまく言い表している“音色”として「MIMAMORU」という言葉をそのまま使って表現していることと似ています。
 しかし、言葉は、それぞれの体験の中で、その意味を感じ、自分にとっての意味をつけてきているので、その言葉の理解はさまざまです。そして、自分の考えているその言葉の理解から、その精神を疑ったり、批判したりすることが多く、たぶん、この「武士道」という言葉も、そのような人たちからすると抵抗があるかもしれません。しかし、その言葉云々よりも、その精神から、日本人の道徳心はどのように形成されてきたか、また、その日本人的なものの考え方、とらえ方をどう次世代に伝えていけばよいかということを考えないといけない気がしています。

機内放送

 私は、いわゆる団塊の世代ですので、人口が多く、テレビや商品などの様々な企画は、私の年代をターゲットにするものが最近多く見られます。少し前の映画で、「ALWAYS 三丁目の夕日」では、ちょうど私が小学生のころを描いていて、舞台も私が育ったところでしたのでとても懐かしく見ました。また最近の映画「マイ・バック・ページ」では、学生運動が盛んだった1960年代後半から1970年代前半を舞台にしています。ちょうど私が、中、高校生のころが舞台となっています。
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 そんな私たちの世代にとって、とても懐かしい企画が、今年度、全日空の機内オーディオ放送で流れている「オールナイトニッポンClassics」という番組です。パーソナリティを、当時のニッポン放送アナウンサーである、愛称「あんこーさん」と呼ばれた斉藤安弘さんが勤めていますが、声は年をとらないものだということを感じるほど、古希を迎えたという斉藤さんの声は、まったく当時のまま変わりません。また、その番組のオープニングテーマも、パラッパ パッパラパ パッパラッというトランペットの曲「ビタースウィート・サンバ」で始まります。また、番組中の選曲も60年代から70年代にはやった曲が中心に流れ、どの曲も青春の思い出と重なります。そして、毎回当時のアナウンサーがゲスト出演します。愛称は「ひでちゃん」「ヒゲ武」「ヒデ坊」と呼ばれていた高嶋秀武元ニッポン放送アナウンサーや、パックインミュージックの「ナッチャコパック」で人気を博した声優の白石冬美さんなどが登場しました。
 このオールナイトニッポンという番組は、いまでも続いているようですが、東京の放送局ニッポン放送が、昭和1967年に始めた深夜放送でした。当時、受験生だった私たちの世代は、これらの深夜放送を聞きながら、深夜の勉強の孤独感を紛らわしていました。他にも、午前零時の時報と同時にFM東京では、ジェット機の音が流れ、続いて、テーマミュージックである「ミスターロンリー」が流れ、真夜中にふさわしい声でパーソナリティーの城達也さんが、「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。(中略)これからのひと時。日本航空が、あなたにお送りする音楽の定期便。「ジェットストリーム」。皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、わたくし、城達也です。」というナレーションで始まる「ジェットストリーム」が、1967年7月から1994年12月まで続きました。
 もとに話は戻して、オールナイトニッポンの木曜日の担当は、アナウンサーの「てっチャン」という愛称の今仁哲夫さん、大御所の糸居五郎さん、高岡寮一郎さん、常木健夫さん、プロデューサー兼DJ であった高崎一郎さんが担当していました。
 放送開始2年後の1969年には木曜日に高嶋秀武さんが、土曜日に亀渕昭信さんが参入します。亀渕さんはアナウンサーではなく、製作担当でしたが、奇抜かつ斬新なDJスタイルで人気が出ました。何月かの機内放送でゲストで彼が来て、斉藤安弘さんとともに「カメ&アンコー」としてレコードを出したいきさつ、そのコンビではやった「水虫の唄」が流れていました。
 月が変わって機内放送の番組が変わると、ANAに乗ってすぐに誰がゲストに呼ばれているか、どんな曲が流れるのかをまず機内誌でチェックします。

白と緑

 今、野菜の旬の一つと言えば、アスパラガスがありますが、私は、子どものころにアスパラガスと言えば、缶詰のアスパラガスで、グリーンアスパラガスをそのままゆでて食べた思い出がありません。それは、我が家だけの食生活かわかりませんが、八百屋の店頭にもアスパラガスが並んでいたという記憶はありません。それだけでなく、私の子どもの頃は、大体にして野菜も生でサラダにして食べるということは少なく、とんかつの横のキャベツと、夏にトマトときゅうりを生で食べるくらいで、レタスなどもありませんでした。
 最近は、サラダにするさまざまな新しい野菜が店頭に並んでいます。日本人の健康指向は世界でも群を抜いているようで、その中で、食に関しても健康志向からサラダが好きなようで、サラダブームだと言われているようです。このように野菜をサラダで食べるというのは、若い人たちにとっては物心がついたときからの習慣なので、当たり前のように食べていますが、私の年代ですと、ある日突然、生の野菜が店頭に現われたという印象があります。野菜は、温野菜として煮て食べていました。
サラダはヨーロッパで発達した料理ですが、その素材は世界中から集められています。サラダ菜やレタスは、ローマ帝国時代の自然史家プリニウスやギリシャの哲学者でアリストテレスの高弟テオフラストスも言及しており、その起源ははるか紀元前にまで遡っています。トマトやピーマン、そしてキュウリのように地中海外から伝わった野菜もあります。
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ちなみにアスパラガスは、歴史が古く、約2000年以上前から栽培されていたと言われ、ヨーロッパから西アジアに自生していた昔から利尿剤や鎮静剤として利用され、食用というより薬用として使われていたようです。アスパラガスとは「たくさん分かれる」とか「激しく裂ける」というギリシャ語が語源で、新芽という意味をさすといわれています。日本へは、江戸時代にオランダ人によって長崎、平戸経由で全国に伝わった野菜です。日本では、昭和40年代に北海道でホワイトアスパラが盛んに栽培され、缶詰として売られていました。
グリーンアスパラとホワイトアスパラの種類は同じで、陽に当てないように盛り土をして育てられたのがホワイトアスパラです。地下に細い貯蔵根があり、そこから若い芽が何本も生えてきます。多年草で一つの株で10年以上も収穫できます。雄株と雌株があり、雄株の方が太くておいしいと言われていますが、なかなか見分けられないようです。味や栄養も違うのでお料理によって使い分けられます。栽培方法が違うと栄養価もかなり違ってきます。栄養価は日光をたくさん浴びて育ったグリーンアスパラガスの方が高いのです。主な栄養はカロチン、ビタミンA、B1、B2、C、Eなどが含まれています。穂先には毛細血管を丈夫にする働きのあるルチンが多く含まれていて、動脈硬化や高血圧の予防によいと言われています。ホワイトアスパラガスの栄養は、ビタミンCが少し含まれている程度ですが、クリーミーな歯触りと風味が魅力でいろいろな料理に利用されています。しかし、どちらもその名前の由来の高血圧を予防するアスパラギンを豊富に含んでいますし、たんぱく質の多い健康食品で、食物繊維も豊富です。また、先端にはルチンが豊富です。ビタミンPをルチンと言います。そば、アスパラガス、トマトなどに多い成分です。
旬は、味だけでなく、色のその季節にあっていますし、栄養もその季節に必要なものがそろっていて、自然の不思議さを感じます。

便利

 東京の人は、非常に忙しい毎日を送っていると感じます。それは、本当に時間に余裕がないのか、性格上、なんとなく急いでしまうのか、ゆっくりすることへの恐怖なのかわかりませんが、なにしろ、忙しそうに歩きます。山手線など、次の電車が数分後には来るのに、走って、扉の閉まる寸前に駆け込みます。
 また、東京の人は、なにしろよく歩きます。電車の乗り換えだけでも、かなり歩きます。しかも、最近は節電のためにエスカレーターが動いていない場所も多いので、階段の上り下りも何度もすることがあります。また、ある駅から目的地の駅に行くのに、何通りもの行き方がある場合が多く、それは数分しか違わないのに、少しでも短い時間で行く方法を考えます。しかし、それは、必ずしも乗車している間の時間だけでなく、乗り換えの時の駅間を歩く距離にも関係します。網の目のように張り巡らされた東京都内の鉄道路線は、毎日利用する乗降客にとってさえ、乗り換えが複雑で面倒なものですから、そこに行くときは大変です。
目的地まで行くときに、路線選択だけでなく、少しでも時間短縮するための工夫があります。それは、何両目に乗れば、出口が近いか、階段が近いか、その階段は何線に乗り換える時に近いか、もしエスカレーターに乗りたい時、エレベーターに乗りたい時、途中でトイレに行きたくなった時、公衆電話をかけたい時、それらはどの辺にあるのかを知る方法があるのです。東京では、みんなその方法をとっています。それは、各駅に貼られている「乗り換え便利マップ」の利用です。
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実は、これを考案したのが、当時主婦だった女性なのです。1995年のある夏の日、彼女は、JRのある駅のホームで、荷物を持ち、まだ赤ん坊だった下の子をベビーカーに乗せて、改札口に向かうためにエレベーターかエスカレーターを探していました。しかし、見当たりません。汗をかきかきホームの端から端まで歩いた挙げ句、ようやく見つけたエスカレーターはホームの中央にありました。もし、前もってその位置を知っていれば、車両の真ん中に乗り、無駄足をしないですんだのにとおもったのです。その時、趣味でやっていた発明の講習会で教えられた「不便だと思ったら、そこにビジネスチャンスがあると思え」という言葉を思い出したのです。
そして彼女は、「そうだ。最初からどの車両に乗れば歩かずにすむか、一目でわかるマップを作ったらどうだろう」ということで、自分一人で調べ始めました。それは大変な作業で、何度もやめてしまおうと思ったそうです。また、調査と同様に大変だったのは、売り込みでした。最初、データをまとめてガイドブックにしたいと考えていた彼女は、出版社に片っ端から売り込みましたが、「興味がない」と手応えはほとんどゼロ。その数は50社を超えたそうです。ようやく、アルバイト情報誌の編集長の目に留まり、初めて掲載されました。そして、この編集長から「あなたのやっていることは発明じゃない、情報です。情報というのは1つのネタを膨らませて回転させて形を変えて展開できる」と助言を受けます。そこで、「そうだ、これは情報だから、紙の上にもソフトにもいかようにも形を変えて繰り返し使える。鉄道会社の駅に貼ってあれば大勢の人に見てもらえるし、それに苦心した作品をほかに真似される心配もないのでは」と考えて、コネなし、経験なし、実績なしのいち主婦の彼女が、営団地下鉄という巨大な組織に挑むことになったのです。
最初は、けんもほろろに断られますが、「すっぽん」というあだ名がつくくらいに何度も何度も粘り強くアプローチしました。そして、やっと2年越しで説得を続けていた営団地下鉄でついに採用のゴーサインが出たのです。
 便利なものは不便から始まります。