洪水

 中国の夏王朝以前に三皇五帝時代という神話時代に、その五帝の一人である堯帝という君主がいました。彼の晩年、黄河流域に大洪水発生し、平地は水に沈み、人々は高所に避難しました。生産や生活は困難となりました。堯は誰かに治水をさせようと考えて、各部族の首領に相談したところ、皆が口をそろえて鯀にやらせるべきだと言いました。しかし、堯は鯀を用いるべきでないと言って渋ったのですが、それでも臣下達が鯀より賢い者はいないと言ったので、堯は鯀に治水を任せました。しかし、一向に進まぬ黄河の治水工事、毎年のように起こる洪水、多くの犠牲者。鯀に対する非難の声は日に日に高まっていきました。「九年にして水息まず」と書かれていたように、9年たっても氾濫は収まらなかったので、堯は鯀に代えて舜を登用しました。舜が鯀のした治水の様子を視察していたところ、鯀は羽山で死んでいました。「史記」には「舜、登用されて、天子の政を摂行し、巡狩し、行りて鯀の水を治むるに無状なるを視、すなわち鯀を羽山に亟し以て死なしむ」とあります。人々は、舜が鯀を殺したのではないかと疑ったので、舜は鯀の遺児である禹に鯀の事業を引き継がせました。
禹は多くの人力を組織して、13年ののち治水に成功しました。禹は人々を指導して灌漑の水路を掘り、低い湿地帯に稲を植え、農産物も相当増加しました。舜が正式に部族連合の首領となると、禹はおもな助手になりました。後世の賛歌に、「元首は明かなるかな。股肱は良きかな。庶事は康らけきかな。」(元首はこのように賢明である。助手はこのように優良である。さればすべてのことがこのように人を平安にするのである)とあります。後世、禹の功績を記念して大禹と呼んでいます。舜が年を取ると、禹も禅譲の形式で部族連合の首領となりました。舜の死後、禹はついに天子の位につき、国号を夏后としました。地域が広がり、銅や錫などの金属資源を産しました。これにより、労働用具が改良され、農業生産も向上しました。
 当時、河(ここでは黄河)を制する者が天下を制するといっても過言ではないほど、治水工事は国家の大事業でした。もちろん5千年前の黄河は今よりもっと猛々しさをあらわしていたに違いなく、人々は、河に畏敬と畏怖の念を抱いていました。その黄河に対して、どうして鯀は失敗し、その息子の、禹が成功したのでしょうか。それは、自然に対する考え方と、自然への関わり方の違いにあったようです。
 鯀がとった方法は、単純に土で堰き止めようとしたからだと史書にはあります。それは、「湮(ふさぎとめる)」ことと「障(さえぎる)」というやり方だったのです。つまり、堤防を高くして、力ずくで自然をねじ伏せようとしたのです。そうすればするほど悪くなり、多くの犠牲者を出してしまったのです。
一方、その鯀の息子の禹は、父の名誉を挽回するために治水工事を引き継いだのですが、彼のやり方は「疏(水の流れをよくする・分けて通す)」ことと「導(みちびく)」でした。つまり、水はせきとめられれば逆にあふれだしますが、水に逆らわず、その流れを分けて通すことによってよくし、止めるのではなく、必要な所に導いていくというやり方です。力づくではなく、自然に沿ったやり方によって、中国全土の土地を拓き、堤防を築き、川岸に住居することができるようになったのです。禹が造ったといわれる九鼎は、夏・殷・周3代にわたって伝国の宝として奉ぜられました。また、禹の治水工事の成功によって生産力が大きく発展し、国家が出現する基礎となって行ったのです。
 禹は人徳を持ち、人々に尊敬される人物でした。また、卓越した政治能力を持っていたにもかかわらず、自らを誇ることはなかったといわれています。自らに謙虚なものこそ、自然に対することができるのです。