抑制

出生後の脳の重さは、最初の数年間で急激に変化します。出生時に約400グラムだった脳は、1歳で800グラムになり、4?5歳のころには1200グラムほどになり、すでに大人の約80%前後にまで重くなります。しかし、神経細胞は基本的には細胞分裂して数が増えることはありません。これは、細胞の数の問題ですが、実はこの細胞をつなぎ合わせる道ともいわれる神経細部をつないでいるシナプスの密度も、脳の多くの部位で1?3歳前後にピークを迎え、その後は、数年かけて3分の2程度にまで減少していくのです。これらのことは1970年代に報告されたばかりですが、日々脳は、いろいろなことが解明されてきています。
成長する中で、脳の神経細胞のつながりだけでなく、それ自体の性質も巧みに変化をしていることがわかってきました。そのひとつは、神経伝達物質に対する反応の変化です。最初のころは「興奮」と呼ばれる反応を起こしますが、成長と共に「抑制」と呼ばれる反応を示すようになると言います。正反対の反応になるのです。人は、興奮して、はしゃぎますが、その後でその行動を自ら抑える必要があります。大人では、それは理性とも呼ばれることがありますが、小さな子どもはまだそれを意識することはできません。ですから、当然脳の中で、興奮を抑える機能があるはずです。それが、「抑制」と呼ばれる反応で、これにより、神経細胞に余計な興奮が起きなくなり、必要以上に情報が広がるのを防いでいると言われています。
この反応における研究について、昨年の5月の新聞各紙に、掲載されていました。それは、秋田大の佐々木雄彦教授らのグループが、マウスの実験で突き止めたもので、この「抑制」というメカニズムが、アルツハイマー病やパーキンソン病の治療に応用できるのではないかという内容のようです。しかし、成熟した脳の神経回路の中で、抑制性神経が可塑性に重要な役割を果たしている事が示唆されて来ていますが、まだそのメカニズムはわかっていません。今月の10日のNature Neuroscience(電子版)でも、米国MITとの共同研究成果が発表されています。この研究では、経験依存的可塑性に関する抑制性神経の構造面での変化を報告しているのですが、あまりに専門的なのでわかりにくいところがありますが、脳は、単純に大人になるにつれて減少するだけでなく、加わっていくものもあるということです。
たとえば、1999年10/15日付けの米科学誌サイエンスに発表された内容は、大人の脳は成長が止まり、年齢とともに脳細胞が破壊されると考えられていたのが実は、認識や知覚などの重要な働きをつかさどる大脳皮質には、大人になっても記憶や学習などの高度な機能に関連があるらしい新しい脳細胞が付け加わっていることがわかったという発表です。この新たな細胞は大脳皮質の中でも判断力など特に高度な機能を持つ部分に付け加わるというのです。
また、2010年には、脳の視覚野にある神経細胞は、生後の一定期間を過ぎると発達しないとされてきた通説を覆す現象も見つかっています。それは、抑制性というタイプの脳神経細胞は脳の発達期を過ぎても働きが変化しており、抑制性の神経細胞は大人に相当する成熟期でも新生するとの研究があるからです。
急速に発達する脳は、次第に抑制という一見逆発達かに見える発達を遂げていくようです。人類においても、ただ前に進む心かだけでなく、そろそろ抑制という成熟、発展に変えていく必要があることを今回の東北大災害は教えてくれている気がします。

100

今日、護国寺で行われた、ダライ・ラマ法王による東日本大震災犠牲者四十九日(七七日忌)特別慰霊法要に妻と参加しました。大相撲の横綱白鵬も参加していましたが、本堂には私たちは入ることができないために、外で映像を見ながらの参加です。そして、僧侶や列席者たちで、チベット語や日本語で般若心経などを読経した後、ダライ・ラマからの講和がありました。「困難が起きたことを悲しむだけでなく、先を見つめ、再建復興に努力してほしい。日本は第2次大戦後に立ち上がった実績がある」と励ましの言葉を話されました。
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仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は、2008年のTIME 100のトップでした。タイム 100とは、アメリカの雑誌「タイム」が2004年から毎年発表している「世界で最も影響力のある100人のリスト」のことであり、何名かの有識者による議論により、その年における影響を与えた100人が選ばれているものです。先日、同誌のHPで2011年版タイム100を発表しましたが、その1人として、福島県南相馬市の桜井勝延市長を選びました。多重巨大災害に見舞われた市民の窮状を動画投稿サイト「ユーチューブ」で訴えて、広く世界の関心と共感を集めたのが選抜の理由でした。
各地で復興の動きの動きが活発ですが、福島県における福島原発に関係した被災は大変なようですね。その一環として南相馬市は中心部が福島原発から20−30キロ圏にかかり、政府から屋内退避指示が出されました。屋内退避指示とは、放射線被ばくのおそれがあるために、屋内にいるようにということです。それは、外には出ない、外出しないようにということですが、そうなると、食べ物の調達も難しくなり、逆に、外部からの救援物資も届かなくなります。そうなると、ガソリンが底をつき、食料も不足してきます。その状況を、職員とともに市庁舎に泊まり込んでいた桜井市長が「市民は兵糧攻めに遭っている」とユーチューブを通して世界に訴えたのです。
切々と窮状を訴える桜井市長の姿が、日本国内だけでなく海外でも大きな反響を呼んだのは、その惨状があまりにひどいということだけではなく、市長のインタビュービデオが海外にも伝わるように英語の字幕がついていたことのようです。CNN、ニューヨーク・タイムズ、英タイムズなどの有力メディアが取材し、海外での再生回数が数10万件に達したそうです。その結果、共同通信社にも接触して情報をシェアし、共同は改めて取材した上で日本語だけでなく、英語、ハングルでも海外向けに記事を配信し、共同の英文サービスをウォッチしている海外の有力メディアやブログもこぞって取り上げる結果になったといいます。
また、その企画性だけでなく、もちろん、桜井市長のメモを読まずにカメラから目を離さず、堂々と自分の考えを述べたのも海外で好感を得たといわれています。日本では自己主張せずに自分を抑えてあいまいな言語を使うことが政治家としてのキャリアアップにつながると思われているのが、桜井市長は従来の礼節を捨てて政府や巨大企業に噛み付いた、とタイムでは評しています。
「政府や(原発を操業する)東電からは部分的な情報しか与えられず、我々は孤立している…そして飢えも強いられている」(”With the paltry information given by the government and [plant operator] TEPCO, we are left isolated … and are being forced into starvation,”)と桜井は憤る。「我々を助けてくれるよう、心からお願い申し上げる」(”I beg you from my heart to help us.”)。

生産性と健康

 少し前、妻が自宅で小中学生に英語を教えていたとき、生徒のうち一人が英語に来るときには家には両親がいないので、自分でお茶漬けだけを食べてくる子がいたそうです。その時に、今のお茶漬けの食べ方を初めて知ったのですが、冷たいご飯に、ペットボトルのお茶をかけて食べるのだそうです。英語を習って話せるようになっても、そんな食事をして体を壊してらどうしようもないのにと話したものです。先日の日経新聞の経済教室の最後を担当していたのは、富士通総研経済研究所上級研究員の齊藤有希子氏と同上級研究員である河野敏鑑氏の二人でした。内容は、「生産性向上は、“健康”もカギ」というものでした。「人的資本の強化といえば、教育を想像する人も多いだろうが、教育と並んで人的資本の重要な部分を占めるのが健康である。まずもって健康でなければ、働くことも消費することも大きく制限される。」
 確かに、いくら教育を受けても、いくら知識を得ても、それを使えなければ意味はありません。それを使えるためには、いろいろと条件があり、それらがそろわなければなりません。まず、それまで学習した内容が、実際に役に立つものでなければならないのです。それが、昨日のブログの人材育成です。そして、次にそれを活かす場所がなければなりません。それが就職です。どの会社に就職するかではなく、自分の学んだことを、どの場がいで生かすことができるのかを見つけることです。そして、それを活かす精神、体が健康でなければならないのです。健康というと、その反対は病弱で、すぐに病気になってしまったり、体が丈夫でないことを思い浮かべますが、実は最近多いのは、精神疾患だそうです。特に職場においては精神疾患に伴う休業や退職が大きな問題となっています。文部科学省によると公立学校教育職員のうち病気休職者は約1%、そのうち約3分の2が精神疾患によるものだそうです。こうした教育職員に支給されている給与は年間で少なくとも総額数十億円に上るものと思われ、少なくともこの分だけ公立学校の生産性は低下していることになります。
 また、健康状態が生産性に与える影響は、欠勤・休業によるものだけではありません。たとえば、休業をせずに出勤したとしても、体調が悪ければ集中力が落ちるなど、仕事の効率が悪くなることが予想されるからです。欠勤・休業に伴う生産性の低下を「absenteeism」と呼ぶのに対し、体調不良で職務を行うことによる生産性の低下を「presenteeism」と呼ぶそうです。ハーバード・ビジネス・レビューにおいてポール・ヘンプ氏は、アメリカにおいて「presenteeism」による損失は「absenteeism」や医療費の会社負担などによる損失の合計の2倍以上に上ると推計しているほどです。
 どうもこの傾向は、アメリカだけでなく、日本でも最近問題になっているようです。厚生労働省は昨年9月に自殺・うつによる社会的損失の試算を公表し、09年における社会的損失の合計額が、自殺・休業による所得の低下、うつ病による生活保護支給費・医療費の増加などで約2.7兆円に上ることを明らかにしました。
 では、どのような職場環境が健康に影響を与えているのかということを富士通総研経済研究所では調査しています。まず、平均給与が高い、平均年齢が低い、女性割合が高い組合の方が、それぞれ健康状態が良いことが確認されたそうです。そして、これらの変数の影響を調整しても、企業内格差、企業内の年齢内格差が大きい企業の方が、健康状態が悪いことが明らかになったといいます。また、最近の成果主義による賃金の決定や組織の意思決定の改革は、従業員のインセンティブを引き出すなどの点から必ずしも否定されるべきものではないとしても、意思決定のプロセスや手続き、部下に対する接し方が不公平であると受け止められると、従業員の健康状態に影響を与えることが、近年指摘されています。一見、生産性を高めるように見える企業の意思決定が従業員の健康状態を悪化させて、かえって企業の生産性を損ねる可能性もあるようです。
 仕事能率が悪い、生産性が低いと嘆くのではなく、職場環境を見直すことも必要なようです。

大学生活

学生が社会人として就職することを「就職」と言いますが、それは、どのような職業に就くかということで、夢も将来どのような仕事をしたいかということであり、そのために学生時代には目指すべき仕事の基礎力を高めることに専念し、就職後の仕事に役にたちます。しかし、最近の「就活」は、就職のための活動というよりも、就社するための活動になっていると言われています。どんな職業をしたいかというよりは、どんな会社に入りたいか、会社に入るための活動になっているというのです。ですから、大学に入学した直後から活動を始め、大学時代に学ぶことは直接関係なく、ただ大学卒業という資格を得るための場所になってしまっていることが多く見られます。そんな状況の中で、同じ日経新聞の経済教室の中でオックスフォード大学教授である苅谷剛彦氏は、「大学教育の高度化を 企業も採用での自制必要」と提案しています。
苅谷氏は、「1998年以後、新卒就職者に占める四年制大学卒業者の割合が高卒者を抜き、学校を終え仕事に就く若者の主流が大卒者になった。ところが、大卒者の就職の仕組みは、実質的にはいまだに“大学教育無用論”と呼べる状態が続いている。大卒者の大半を占める文系就職の場合、大学で何を学んだかが就職の際に問われない。どの学部を出たかもどんな成績を取ったかもである。他方で、大企業や有名企業への就職のチャンスは、実態としては今でも大学の偏差値ランクの影響を受ける。」
 こういう状態が続いてきたのには理由に、昨日のブログで樋口氏が語っていることと同じことを指摘します。それは、90年代半ばまでは、長期雇用と長時間労働を前提とした、仕事に就いてからの職業訓練の仕組みが、良くも悪くも機能していたからで、一つの企業にとどまり、仕事や仕事以外の場を通じて訓練を受ける仕組みの下では、経験を職業能力に転換する能力が問われたからだと言います。そこには勤勉さや学習能力といった訓練を受ける際の能力が必要で、大学で何を学んだかでなく、どの大学に入学できたか、つまりは大学受験で示される能力が訓練能力と関係していたとすれば、従来の仕組みが男性正社員を中心とした長期雇用の慣行の下で、ある程度機能していたことは説明がつくと言います。
他の先進国では、ある職業に就くために有利となる学歴が、学部卒から大学院修了へと変化するように、より高い段階の学歴へのシフトを意味するのですが、日本では、大学入学時の偏差値ランクの上昇による選抜基準の上方シフトという、ふるい分けの面での変化であり、教育内容の高度化や教育年数の増加を伴いません。様々な比較調査では、国際的にみても日本の大学生は大学外での学習時間が相当に短く、授業に予習が課されることもほとんどありません。そして、大学在学中は、アルバイトと就職活動に明け暮れます。それに対して外国の大学生は、たくさんの文献を読みこなし、自分の考えを論理的に表現することが求められるリポートを書き、議論の仕方を身につけ、良い成績を収めてさらに大学院で専門教育を受けるという在学時代を送るのです。
苅谷氏は、こう憂慮します。「日本の再興はそれを担う人材に依存する。特に次世代の若者たちの力に希望を託したい。戦後の復興が初中等教育の充実によってもたらされたとすれば、“ポスト3.11”の日本再生には、大学教育が出番となるはずだ。豊かな教養と専門性に裏打ちされた、組織や慣例に縛られない、賢明な判断力と建設的な批判力と果敢な行動力が、危機を乗り越えチャンスに変えるための重要な資質となる。」
今回の東北大地震において必要な人材の見直しは、どう教育を変えていくのでしょうか。

これからの職場

 私の園で、今年台湾女性の採用を、昨日のブログで書いたように、入国借り局では認められないとの返事があり、保育士という仕事を前面に出さなければ認めるようなことを言われ、とりあえず認めてもらいましたが、実は、この高度外国人材に対するニーズの拡大は、入り口の変更だけを求めるものではないのです。就職後の育成、処遇、雇用管理にも大きな変革を求め、同時に大学教育にも影響を及ぼす問題です。慶応義塾大学教授の樋口氏は、これまでの企業の人材育成についてこう書いています。「これまで日本企業は、長期雇用を前提に、社員の公平性を重視し、画一的な雇用管理を軸に能力を開発し処遇してきた。企業は雇用や生活を保障する代わりに長時間労働や頻繁な配置転換を拘束として課した。こうした人事制度が規模の経済性を活用し、日本企業の成長をもたらし、高度成長を支えてきたことは間違いない。これにより社員も経済的に豊かになった。」
このような採用の仕方を背景として、大学生は、入学直後から就職活動を始め、大学側のその斡旋に力を注ぎ、大学職員はその仕事に追われ、学生とともに研究するという大学の本来の目的がずれてきている気がします。そして、就活を学生の代わりに丁寧に援助してくれる大学が評価され、学生も集まるというというのは少子社会では仕方ないかもしれませんが、どの大学で何を学び、どんな教授があるからどの大学を選ぶかというかつてのあり方が薄れてきていると、どうしても外国の留学生の採用が増えてくるのは当然かもしれません。それは、就職後においても、「キャリア形成などに関し、個人の希望がどこまで尊重されてきたか疑問が残る。強い拘束に耐え得る画一的な価値観と経験を持つ人材だけが活用の対象とされてきたことも否定できない。」と樋口氏は指摘します。
 このように、企業、社会が求める人材が変わってきて、ダイバーシティ(多様性)人材の活用を実践に移そうとすれば、「企業にとっても労働者にとっても有益であった長期雇用を前提にした日本的雇用慣行が称賛されていた時代」は、限界にきていると言われています。そのようになかなか変えることをせず、現状に満足している日本人に対して、外国人の多くはプロフェッショナル志向が強く、日本企業の人材活用に必ずしも満足していないといいます。また、この傾向は、女性人材も強いようです。
 また、このように特別な専門性を学んでこない学生を採用する背景には、仕事で求められる実用性の高い専門性は、職場内訓練(OJT)によって初めて培われるという認識が企業では依然として強いからだと言います。しかし最近では、フィールド別採用を実施する企業は様々な業種で増えているようです。
 このような時代的変化の中で、樋口氏は、これからの職場の在り方を提案しています。「職場における社員間のコミュニケーションを重視し、無駄な仕事を削減するため業務内容を見直し、個々人のワークライフバランス(仕事と生活の調和)の実現を目指す職場では、企業と個人の認識のギャップは埋められている。実際、先輩が若手の相談に乗るメンター制を導入してロールモデル(手本)を提示し、個人のキャリアパスが見えるように工夫している企業では、多様な人材の活用に成功しているところが多い。」
 このような職場環境は、私の園で目指していることと同じです。

人材

 最近の経済の失速で就職難のようですが、ブログで書いたように外国人の高度人材の活用はますます進んでいるようです。その理由として、「人文知識・国際業務」を担う非永住外国人在留者は2000年までの5年間で46%増えたそうです。また、「技術」では約2.2倍になったそうです。この理由の「人文知識・国際業務」は、「前提として、学術上の素養を背景とする一定水準以上の専門的知識又は外国の文化に基盤を有する思考若しくは感受性に基づく一定水準以上の専門的能力を必要とする活動」となっています。
 もし企業が高度外国人材を採用とする場合は、三つのルートがあると言われています。まず、国内大学などの留学生からの新卒採用、海外大学などからの新卒採用、キャリア採用です。もし、留学生が日本国内の大学で、「保育士」をとり、日本の保育所に就職しようする外国人は増えていくでしょう。保育士という仕事は、数年前に国家資格になりました。それは、幼稚園では告示化された幼稚園教育要領に沿って幼児教育を行っていたところ、保育所でも、管轄が厚労省にしても同じ子どもを保育しているとして、保育所保育指針という課長通知であった内容を、幼稚園教育要領との整合性を持たせた保育所保育指針を告示化し、国家資格を持った保育士が保育にあたるとしました。そこには、発達過程を理解し、養護と教育の一体から幼児教育を行う専門性が求められるようになったのです。その幼児教育は、よりグローバルになるであろう次世代を担う子どもたちを保育するために、外国の文化に基盤を有する思考や感受性は、ますます必要になってきます。
 ところが、法務省では、「保育所は、日々保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳幼児又は幼児を保育することを目的とする施設とする」という児童福祉法を根拠として、学術上の素養を背景とする一定水準以上の業務ではないということで、外国人が保育の業務に当たることを認めていません。保育士という仕事は、保護者の代わりに乳幼児を一時的に保護し、養育する福祉分野の業務であるということで、人文知識分野の業務には当たらいというのです。
 昨年末開催した財務省財務総合政策研究所の「人材の育成、活用に関する研究会」では、日本の採用慣行など人材の育成と活用に関わる問題を検討しています。その時に企業では、今後、業務の国際化、知識の産業化の進展を考えて外国人採用を拡大していこうとするのは当然の動きだと言われています。国籍、男女、それぞれの違いによる人材の閉鎖性はずいぶんと時代遅れの気がするのですが、どうも保育の世界では、だいぶ遅れているような気がします。人口減時代の人材力強化ということに対して、慶応義塾大学教授の樋口美雄氏が、日経新聞に「多様性生かす雇用体系に」ということで記事を書いています。
 今後の雇用体系のポイントとして次の三つを挙げています。「拘束強い画一的な“就社”の仕組みは限界」「フィールド別採用は学生の就業意識を変える」「国際競争にらんだ教育、人事制度が必要」の三つです。このようなことが進むこれからの社会では、求められる人材が変わっていき、その人材育成にかかわる教育は変わっていかざるを得ません。人材のグローバル競争は日本の持つ長所を生かしつつ、一方で多様な価値観と経験を持つ人材の能力を高め、それを発揮できる改革を大学や企業ではしていかなければならないと樋口氏は指摘します。
 これらを可能にする基礎力を樋口氏は、「教養に培われた問題発見能力」「解決策に関する仮説を立て客観的事実に基づき検証できる能力」「結果に基づき自身で考え主張し、創造力と倫理観、責任感を持って行動できる人間」が必要になってくると言います。求められる力が変わってくれば、人材を広く求めることは自然の流れかもしれません。

格差

 妻が、先日電車内でエロ雑誌?を見ている人を久しぶりに見たと言っていました。一時期はかなりの人が読んでいるのを見ることが多かったのが、最近減ってきたというのです。妻は、どんな雑誌をエロ雑誌と言っているのかわかりませんが、昨年、日本雑誌協会で2010年1?3月の各雑誌の発行部数を発表したのですが、その時に3大少年漫画の部数も公表されたのですが、週刊少年サンデーが約68.4万部と 70万部を割ったことが注目されているという記事がありました。全体の部数で見ると、これは、2009年7?9月の発表を見ると、週刊少年ジャンプだけが前回比から伸びているのですが、他の雑誌はすべて減ってきています。ちなみに、発行部数では、ジャンプに続いて、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、月刊少年マガジン、コロコロコミック、別冊コロコロコミックスペシャル、マガジンSPECIAL、月刊少年ライバルだそうです。私は、少年サンデー、少年マガジンくらいしか知らないのですが、まだ、ずいぶんとあって読まれているのですね。
よく、海外では、電車内で読んでいる雑誌とか、新聞を見ると、その人の職業がはっきりわかると言われています。たとえば、アメリカなどのインテリは、決してスポーツ新聞を読まないとか、漫画は読まないと言われています。これが定かではありませんが、そういう意味では、日本はあまり格差社会ではないのはいいことかもしれません。
私は、よくドイツに行くのですが、ドイツもかなりの格差社会だと言われています。現在、教育関連の仕事と思春期の子育てをドイツで奮闘中の内田 博美さんが、そんな報告をしていました。「ドイツでは、大人でも服装からその人の思想や生活環境が判断できる場合が少なくありません。私が以前に住んだ町ではギムナジウムとレアールシューレ、ハウプトシューレの3つの建物が隣接していましたが、どの生徒がどの学校に通っているかが外見から一目瞭然でした。地味な服装で山のような教科書をカバンに入れて持ち歩くか、上着もズボンもだらしなく、女の子はナイトクラブ風な化粧とカラフルなデザインの服を身に着けるか。朝は「グーテン・モルゲン(おはよう)」「ハロー」とあいさつするのか、「ヘイ、そこのデクノボー! 元気かぁ?」などと罵言を好んで多用するか。学校環境を見ても、ハウプトシューレの廊下にはコーヒーカップやガムの紙が捨ててあり、図書室は小さく、アメリカンコミックスが多くの場所を占めています。一方、ギムナジウムの図書館は広くて英語やフランス語の小説や資料まで並んでいます。」
もちろん学校がすべてではありませんし、また、例外の生徒がいることも多いと彼女は言っていますが、多くの生徒はそうであり、市民はそのような目で学生を見ていることが多いことは確かなようです。こんな格差社会でも彼女はドイツの魅力をこう語ります。「それでもなお、ドイツの教育の現場には何らかの魅力が存在することを感じます。なぜなら“個性的になろう”などと大きな声で言わなくても、どの子も自分らしさを保ち、自分の意見を人前で堂々と表明できる人間に育っていくからです。格差がありながらも、子どもたちはあまり卑屈にならずに、生きることへの主体性や人間としての自己肯定力が身に付いていく。義務教育後の長い人生の中で必要とされる力が養われていると思えるのです。」
格差をなくすことはできません。しかし、外見の格差に左右されず、心の持ち方の格差はなくすことができます。自分の強みを知ること、その強みに自信を持つこと、そして、そんな自分が好きになることは、どのような職業、どのような境遇でも持つことができるはずです。

おもてなし

「名古屋おもてなし武将隊」という何とも奇妙なグループがCDを出したらしいのですが、この歌には、河村たかし名古屋市長もゲストボーカルとして参加しているそうです。この「名古屋おもてなし武将隊」とは、10年の名古屋開府400年で名古屋の魅力を全国に伝えようと09年11月に結成され、国の緊急雇用対策「ふるさと雇用再生事業」を活用し、ハローワークなどで募集し、オーディションで選ばれた21?31歳の男女のグループで、前職は俳優やモデル、すし職人、会社員、フリーターで、約1カ月間かけて武将言葉や歴史の勉強、ダンスなどを特訓し、信長、秀吉のほか、徳川家康、加藤清正、前田利家、前田慶次の6武将と4人の陣笠隊を演じています。
その話題はさておいて、この「おもてなし」という言葉が気になりました。もともとは、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、やはり、「モノを持って成し遂げる」という意味ともいわれています。「お持て成し」を英語にすると「Hospitality」だそうで、それはラテン語のhospesという単語で、「旅人・客・旅行者をもてなす主人」という意味が語源です。また、「表裏なし」ということで、表裏のない気持ちでお客様を迎える事だとも言われるように、別にお客様に応対する扱い、待遇とも言われています。
この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があります。お茶の世界でいうと、お客様をおもてなしする際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見える「もの」と、おもてなしをする人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えない心を「こと」があるのです。また、ずいぶんと前になりますが、服部さんが、小学生に給食にお年寄りを招く時の心得として「おもてなしの心」を話していました。その時のポイントとして、「相手への気配り(食器の置き方)」「雰囲気作り(装飾の工夫)」「におい、音、色に工夫をする(秘密のデザート)」「会話(相手の話をよく聞く)」を挙げていました。
これらは、園で食事を出すときにも気をつけたい心です。かつての学校で出す給食は、その名のとおり「上の者から食事を与える」という意味合いがあり、食器はアルマイトで、味もそっけもなく、勉強していたつけの上で、前に黒板という装飾を見ながら食べ、おしゃべり禁止で黙って食べなさいと注意をし、そこには少しもおもてなしの心が感じられませんでした。
この心は、日本の懐石料理でも見ることができます。この料理では、客の五感を刺激するような工夫をします。たとえば、まず、どんな料理内容にするかを、その季節の趣、旬の食材、食感、臭い、彩り、その大きさと量、出す順序などを考えます。そして、それらの料理内容によって、食前酒のためのグラス、器の形状と色、模様によって選定します。そして、その時の客の状態を素早く察知し、手配り、身配りなどの動作で応える気遣いをします、そして、料理をより楽しんでもらうために会話や日本文化のわびさびの余韻を与えるなどが配慮をします。もてなされた客は、あらゆる五感から、その食事を味わい、おなかがいっぱいになると同時に心に満足と、感動と余韻を与えられるのです。
これらのおもてなしは「茶道」の中にも見ることができます。茶道では、大切な人やお客様をもてなす際、季節感のある生花、もてなす相手の個性や季節に合わせた掛け軸や絵など、まず環境を考えます。そして、五感の中の臭覚を刺激するために、御香をたきます。このように、身体で感じたり、目に見えたりする具体的なものでけでなく、心でもてなすために、言葉、表情、仕草などにも配慮します。
それら「おもてなしの心」は、日本文化の中でそれらは継承され、日本人の「思い遣り」の心や「感謝の心」として表わされてきました。そして、裏表の無い心で触合う相手と心をひとつにし、誠実に奉仕の心で伝えることが「おもてなし」です。

社会責任

 企業社会責任が問われるようになった背景には、もうひとつ企業が利益を追求し、社会的影響を後回しにしてきた結果、環境問題が深刻化してきました。環境破壊が一般の人々の生活を脅かし始めることによって、世界的に厳しい眼が注がれるようになってきたのです。ですから、企業責任の中では、環境を重視する傾向が強いといわれています。「環境経営」という経営のあり方が重視されてきているのです。その問題は、かつての公害問題という一企業と、その周辺地区の問題から、地球温暖化や生態系破壊のようなグローバルな環境問題へと、意識が広がり、それとともに、世界的に「持続可能な発展」という考え方や概念が流布するようになっていきました。
 ドラッカーは、著書の中で「企業は社会のためにある」ということを繰り返し述べています。この社会的意義というのは、企業の社会貢献とか、社会的責任というものなのでしょうか。このことについて、ユニクロの柳井氏にインタビューした記事が掲載されていました。「昨今、企業の力はどんどん強くなっている。特にグローバル時代を迎えたら、国の力よりも、むしろ企業の力のほうが大きくなる可能性がある。だから、よく言われているように、企業は社会の公器だと思わないといけない。企業はそう自覚しなくてはいけないと思う」とまず、話し始めています。どうして、そう思わないといけないか問うことについては、「社会にとって意義がある、社会にとってその企業があった方がいい、そういう企業じゃないと生き残れないというのも事実です。いかにいい商品を売っていても、いかにいい事をやっていても、社会にプラスにならない、むしろマイナスになる企業はいらないんじゃないか」と答えています。たんに、かつての利益が上がる、いい商品をつくるということだけが企業の理念であっては生き残れないというのです。なぜなら、その理念は、一企業にとっての、そして、その従業員とその家族にとっての存在理由であって、社会にとっての存在理由ではないからです。
そんなことで、ユニクロでは、力を入れているのが、自社の商品を回収し、難民キャンプに送るという取り組みで社会貢献をしているようです。この活動は、3年前から始め、現在年に3回、製品を客から回収していて、昨年度に回収された商品はおよそ134万枚あり、その中から状態が悪いものを取り除き、90%が難民の手に届けられたということです。企業による国際貢献といえば、資金提供が多い中で、自社商品を使った取り組みは全国的にも珍しいものだそうです。
 柳井氏は、今年3月に開いた社員総会で、グループ企業を含めたおよそ3000人の幹部社員の前で、このように演説したそうです。「服を変え、常識を変え、世界を変えていく。世界中の人々の生活を豊かにする画期的な商品を開発し、ユニクロを世界のカジュアルウェアのスタンダードにする。世界中で本当によい服を提供できるグローバル企業になり、社会に貢献する。これが我々のビジョンです」
 この宣言の真意は、「僕らは、本業で世界をいい方向へ持って行きたいと思っている。われわれは、多数の、特に年齢の若い人、そしてできるだけ優秀な人と仕事をしたいと思っている。優秀な人であればあるほど、その仕事が本当に社会的意義があるかどうかを問うもの。お金をたくさんもらえるということよりも、その仕事が、社会的意義があるかどうかで、その仕事をするかが決まると思う」
そして「世界を変える、社会に貢献する」については、「貧しい国でも、どんどん服を作っていこうと思っています。そういった国がもっと発展するように我々としても協力していきたい。発展途上国では、お金がないことも問題ですが、一番の問題は仕事がないってことですよね。だから仕事を作ることが僕は一番の貢献だと思います」と答えています。
ドラッカーは、「企業は社会の道具である」と言っています。企業だから営利目的であるという解釈だけでは、自己実現をする従業員は育ちません。企業活動を通じて、自分たちの使命を考え、成長を考え、そしていかに社会に貢献していくのかを考えることがこれからの企業に求められていくことなのです。

貢献と責任

先日、「生臥竜塾」で、企業の社会的貢献について話し合いました。今回の東北大地震の際にも、企業としての貢献、責任はどうあるべきかということを考えたのです。企業という言葉の意味は、主に営利を目的として生産や販売などの経済活動を行う組織体のことです。ですから、当然、企業での社会貢献は、営利活動を通して、社会問題の是正、或いはボランティアへの援助、特定の慈善活動への人材資機材の供出、寄付などをすることになります。そこで、今回、ソフトバンクやユニクロなどの企業は、震災に対して多額な寄付をしたのです。しかし、その寄付金のもとは、営利企業で得た利益なのです。もしくは、社長や社員の個人的な活動としての貢献になります。
また、「企業の社会的責任」ということも数年前から叫ばれるようになっています。この「企業の社会的責任」は、英語では「Corporate Social Responsibility」というので、その頭文字をとって、CSRという略語が使われています。世界で急速に広がっているのですが、明確な定義はありません。しかし、おおよそ、次のような点が、共通の理解のようです。この「企業の社会的責任」論の根底にあるのは、企業の行動や果たすべき機能として、利潤の極大化、顧客の満足、株主価値の拡大、といったものに限らず、社会的存在としての企業の役割を強調する視点である。すなわち、企業が活動の基盤とする社会との関わりにおいて負う責任のことであり、この責任を考える上で、企業は、日常の企業活動の中に、社会的公正性や倫理性、環境への配慮などを取り込んでいくことが必要になってきます。
この考え方が最近求められてくることにより、今迄の企業の目的である利潤を極大化し、株主のために利益を生み出すことこそ企業の責務である、というような考え方は、今日、大きく後退しつつあるのです。また、質の良い製品を消費者に供給することが企業の社会的責任である、という考え方も、それだけでは十分ではなくなり、また、社会的存在としての企業は、株主や消費者だけでなく、企業活動の中で関係を取り結ぶ、あるいは影響を与える様々な社会集団のことを考慮しなくてはならなくなってきます。
最近、保育園や幼稚園において、企業参入が進み、企業的発想する人が増えてきている現状を見ていると、新しい時代における企業の在り方とは少し違うような気がします。企業拡大化のように支店を増やし、フランチャイズ化し、それによって力を強め、発言力を増して、世の中を変えるという発想は、もう古いのです。だからと言って、利益を度外視して、ボランティア的な貢献をすればいいというわけでもありません。近年、CSRの推進は、企業の収益性と両立しうるとの認識が広まりつつあります。それは、企業が社会の一員として、一般市民と同様の立場で、環境や社会との共生調和を追及することが、とりもなおさず、企業自身の持続可能性に寄与するという考え方です。そして、CSRへの積極的な取り組みは、企業経営そのものの見直しにもつながり、企業の競争力の強化に資するものであり、経営の効率化やリスクマネジメントの強化により、投資家の高い評価を受けることにもなるというのです。したがって、CSR経営は、長期的には企業価値を高め、企業にとってプラスとなるという考え方です。
このようなCSRへの関心の高まりの背景には、最近の基本的な倫理の欠如による企業不祥事の多発が影響しています。企業の規模の拡大化とともに、複雑化し、その結果、企業活動の様々なプロセスが社会に与える影響も大きくなり、また、企業活動のグローバル化は、負の側面が懸念されるようになってきました。そして、世界的に規制緩和や規制改革が進み、企業の活動領域は飛躍的に広がり、また、公的企業の民営化の進展で、従来公的部門が提供していたサービスも民間企業によって提供されるようになってきたことも背景にあります。そこで、企業は、自社の理念に基づき、自己責任で主体的に行動することが一層求められるようになってきているのです。