隠密として

 現在、領土問題で日本も揺れ動いています。一つは、北方領土で、もうひとつは竹島問題です。この問題は、なかなか難しく、どちらの領土であるかというかという論議はこの場ではやめようと思います。しかし、その両方に関係しているのが、なんと間宮林蔵であることを最近知りました。間宮林蔵といえば、19世紀のはじめ、北海道から樺太千島列島で20年以上も生活して、その間の樺太探検では、間宮海峡を発見し、その名前が今でも世界地図にあります。子どものころからある意味では、日本人のヒーローとして伝記などを読んだ思い出があります。しかし、その評価、彼の業績は素晴らしいものですが、実は、彼は、幕府の隠密として日本中を歩き回っていたといわれています。
 間宮林蔵は、現在の茨城県に生まれますが、小貝川を堰止める工事がなかなかうまくいかなかったところ、よい方法を提案したところうまくゆき、林蔵の才能が認められ、幕府の役人として仕事をするようになります。江戸に出て、伊能忠敬に師事をして軽量術を学びます。そして、日本各地で行われた治水工事や、新田開発工事で、工事をしながら測量や土木技術を勉強したようです。19歳になった年、はじめて北海道に行き、43歳までの23年もの間、北海道を中心として活躍します。その間に間宮海峡を発見、その後、北海道測量という大事業を行います。29歳の時、蝦夷地御用掛(北海道)として西蝦夷を探検し、35歳の時、当時は樺太は大陸へと続く半島ではないかと思われていたのが誤りで、一つの独立した島だと言うことを証明します。
こんな偉業を成し遂げた彼は、江戸に戻ってから、今度は全国をくまなく歩き、外国の船が日本に来たという報告の調査の仕事をします。これが、隠密としての仕事なのです。そのきっかけとなる有名な事件があります。それは、「シーボルト事件」です。
シーボルトは、長崎郊外に、診療所も兼ねていた私塾「鳴滝塾」を開き、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培していました。彼は、出島から塾まで通い、ここで西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授しました。この私塾の跡地は現在の長崎市鳴滝にあり、国の史跡「シーボルト宅跡」となっています。
narutakijuku.JPG
siboruto.jpg
そのシーボルトらが江戸参府から出島に帰還する間に、1000点以上の日本名や漢字名植物標本を種集します。また、彼は日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手にいれたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ります。しかし、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出します。この手紙の内容が発端となり、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた伊能忠敬実測の『日本図』・間宮林蔵の『蝦夷全図/えぞぜんず』など多数の物件などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けます。そこで、この事件は、間宮林蔵の密告によるものだと言われています。
しかし、奇しくも間宮海峡と命名したのはシーボルトだといわれています。国外永久追放されたシーボルトでしたが、個人的な感情とは別に、蝦夷地・樺太を探索した間宮林蔵の功績を認めており、後年、樺太と大陸の間にある海峡に「間宮海峡」の名前を付けます。
しかし、この事件により、間宮は法的に処分はされなかったため、世間からは「卑劣な密告者」として批判されてしまいます。その結果、彼は、その後は幕府側に付き、隠密として暗躍することになるのです。その隠密としての行動として、薩摩藩の密貿易・石見浜田藩の密輸事件の摘発は記録として残されています。石見浜田藩の事件のことを、先日連れて行ってもらった浜田で知ることができたのです。

隠密として” への7件のコメント

  1. 廻船問屋会津屋八右衛門の竹島事件のご紹介ありがとうございます。
    浜田では未だに人気が高く、天野屋利兵衛並みに人気があります。

  2. あるテレビ番組の企画で、「歴史上の人物の末裔を探せ」というのがあって、先日の放送でシーボルトの末裔が紹介されていました。イネの子孫でシーボルトから6代目に当たる楠本貞夫さんで、昭島市で歯科医を開業しているそうです。楠本家はなんと6代続けて全員が医者で、息子さんも医学部を目指しているとか。ついでに、間宮林蔵の子孫はというと、彼は生涯独身だったので、分家から養子をもらって跡継ぎにしたそうです。その間宮家の8代目が茨城県つくばみらい市に住んでおられます。ご先祖様にこんな偉人を持つといろいろプレッシャーもあるでしょうね。ちなみに我が家は普通の百姓の末裔です(笑)。

  3. 浜田に近いところに住んでいながら、今回のような間宮林蔵からつながっていく話は知りませんでした。知ることのできる機会はあったのかもしれませんが、このようにつながって広がっていくことのおもしろさに対して興味をもてていなかったこともあると思います。部分を切り取ったものをつなげて大きなものとして捉えることが歴史だと思っていたのですが、臥竜塾を読むようになってからそういうものではないということを感じるようになっています。それぞれの人が様々な思いを抱えて行動してきたことを知ることで、一気に奥深いものへと変わっていきます。ある出来事に対し、そこに関わった人がどのような過程を経てそこに至ったのかというところまで想像することは、歴史に限らず今を見る上でも意味があることだと思います。歴史観や起源に対しての意識を高めたら、世界はもっとおもしろいものとして捉えられるんだろうと思うと、理由のよく分からないわくわく感が生まれてきます。

  4. 間宮林蔵については「間宮海峡」発見者くらいの知識がありませんでしたから、今回のブログはまたしても知識の地平を広げる内容でした。「シーボルト事件」の発端となった間宮林蔵。知らなかったことと言え、これには驚かされました。さらなる驚きは隠密・間宮林蔵です。薩摩藩や石見浜田藩の密貿易を摘発。ヘェ?、ヘェ?で、20ヘェ?くらいです(チョー古い)。ところで、シーボルトからの依頼文を「国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出」などはガードの固さを伺わせます。流石、幕府「蝦夷地御用掛」!役人の鏡でしょう。それにしても、シーボルトも偉い!間宮海峡の名づけの親、ということでしょうか。国外追放の原因の間宮を客観的に評価し、後世に名前を残しめる。シーボルトのもう一つの業績を垣間見たような気がします。

  5.  間宮海峡の名付け親がシーボルトだったとは驚きです。地図と人力移動による旅行が大好きなので、伊能忠敬と間宮林蔵は憧れの人物です。特に家業をリタイヤしてから、測量の旅に出た伊能忠敬に魅力を感じます。
     昨年は、千葉県佐原にある伊能忠敬記念館へ家族と見に行きました。一昨年には、東京の江東区の体育館へ、伊能忠敬が作成した日本図を見に行きました。江戸城の大広間にも全部を広げきれなかったという巨大地図は、体育館でも広げきれず、北海道が日本海に浮かぶ配置でした。地図の仕上がりはとにかくすごいの一言です。
     松尾芭蕉の健脚ぶりもすごいですが、伊能忠敬や間宮林蔵もすごいですね。そういえば松尾芭蕉はスパイだったという歴史学者がいましたね。本当のところ、どうだったのでしょうか?
     最後に、石見と書いて「いわみ」と読む読み方に親近感を覚えます。

  6.  間宮林蔵、名前は知っていますが・・・おそらく社会の授業で聞いたと思います。それくらいの知識なので色々と勉強になりました。ブログを読む限りでは「卑劣な密告者」という印象は私も思いましたが、ちゃんとブログを読むと、そんな卑劣でもないですね。間宮海峡を発見したり、北海道の測量など、これだけ大きな偉業を成し遂げているのに、何の理由もなく裏切るような行為はしないですね。少々、感情的なコメントになってしまいました。

  7. 間宮林蔵という人は教科書で見たことがありますが、あくまでなんとなく覚えているという程度でした。しかし、間宮海峡がシーボルトによって命名されたということや間宮林蔵が「隠密」だったというのははじめて知りました。なかなか考えると面白いですね。いつも歴史の話を聞くと思うのですが、歴史とはいえ必ず事が起こるには原因や要因があり、時代の流れやその場面に行くまでのドラマがあります。私の様に人名をあくまで歴史の単語としての勉強をしていたら、あまり印象に残りません。時代のつながりや流れを知るととても歴史は面白いです。藤森先生のブログはそういった意味で新しい授業を受けているように感じます。とても、すっと歴史の知識が入ってくるのがとても面白くますます歴史が好きになりました。学校で行われる授業もこういった授業だともっと歴史が好きになったかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です