よく、神社や仏閣などの建物を見ると、屋根がきれいな緑色をしているのを見ることがあります。また、新しく屋根をふき替えたばかりだと、金色にピカピカに輝いているのを見ることがあります。これは、銅葺きの屋根で、とても高価で、最高素材とされ昔から重宝されてきました。銅は、時間が経つと緑色になってきますが、この緑色は銅が水と炭酸ガスと結びついて塩基性炭酸塩になる一種の錆びです。この錆びは、緑青といって、これが出来ると保護膜になり、非常に耐久性があります。緑青色になるまでにはかなりの年月がかかります。このきれいな緑青の色は、古色として好まれ、最近では数時間で緑青ができる薬剤もあり、人工緑青を生成する技術も開発されています。神田には湯島聖堂、ニコライ堂などの屋根はきれいな緑青がふいています。また、皇居新宮殿は人工緑青が施されたのですが、20年以上経過した今日では天然緑青に転換していると言われています。
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 私は、子どものころから「銅の表面に生成する緑青は有毒であり、食べると身体に害がある。」と教わってきました。その根拠がどこにあったかわかりませんが、社団法人日本銅センターでは、何の根拠もないまま有毒と考えられてきた緑青について、過去二回、東京大学医学部において長期動物実験を行いました。その結果、緑青は無害同様の物質であることが確認され、この研究の成果を細かく厚生省に報告しました。これを受けて、厚生省では昭和56年、国の研究として緑青の動物実験(研究機関/国立衛生試験所・国立公衆衛生院・東京大学医学部)に着手し、3年間にわたる研究実験を行い、この時の研究結果が、昭和59年8月、厚生省から広くマスコミに公表されました。その結果、緑青は過去に考えられていたように有毒ではなく、無害に等しいことがはっきりと解明されたのです。
建物には、外を覆うものとして屋根と壁があります。その材料を何にするのか建物を建てる時に考えます。特に外壁材は種類も多く、占める面積が大きいためその建物の顔になるので、何を選択するか悩まされる部分です。日本では石、土壁、板壁、漆喰などが用いられてきましたが、時代的なはやりもあります。明治、大正時代は、煉瓦壁が多く、第二次世界大戦後は、コンクリート、石膏ボードなどが多く用いられてきました。その中で、私が子どものころから下町で多く見られた外壁材が銅でした。屋根にも多く用いられた素材ですが、外壁にも銅葺きが用いられてきました。
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先日、築地のあたりを歩いていたら、懐かしい銅葺きの外壁を持った建物を見つけました。この建物はいつの時代のものかわかりませんが、私が子どもの頃、神田のあたりで多く見られた建物です。

晴れた日曜日

 今日のニュースは、東京マラソンで、全体で3位、日本人としてトップになった川内さんの話題でもちきりです。というのも、彼は、事業団ランナーではなく、埼玉の高校の事務職として働いている市民ランナーだからです。そんな話題の東京マラソンが行われた今日の東京は、天気がよく、気温も寒くもなく、暑くもなく、さわやか(スタート時の気象条件=晴れ、気温11.0度、湿度37%)で、町のわきにはチューリップがきれいな花を咲かせていて、やっと春が間近になったということが実感できる1日でした。
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 さほどアクティブではない割には、非常に好奇心の強い妻に誘われて、一緒に東京マラソン観戦に出かけてみました。今日行われた東京都心を駆け抜ける東京マラソンは、今年5回目で、市民ランナーを中心に3万5000人を超える人が参加しました。今回優勝したのは、男子はエチオピアのメコネン、女子はロシアのアリャソワで、日本人としては、樋口紀子が2位でした。今回の大会は、8月に韓国で行われる世界選手権の男子代表選考会を兼ねていましたが、3位に入った川内優輝さんが2時間8分37秒で世界選手権代表に内定しました。
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 車いす男子で3位に入った山本さんは、ヘルメットと車いすに「STOP!飲酒運転」と書いたステッカーを張っていたそうです。それは、今月9日に彼の長男の寛大さんが、16歳で、飲酒運転の車にはねられて亡くなったからだそうです。相変わらず、飲酒運転はなくならず、情けなくなります。山本さんは、長男を亡くした後は練習もままならず、出場も迷ったそうですが、「東京の修学旅行を楽しみにしていた息子と一緒に走ろう」と決意し、3位でフィニッシュしたのです。山本は「ここが東京だよと語りかけながら、息子と散歩しているつもりで走った。(完走できたのは)寛大が背中を押してくれたから」と語っている姿を見て、なんとしても飲酒運転はなくすべきだと思いました。
 東京マラソンのコースは、東京都庁から飯田橋、そして皇居前から日比谷、品川で折り返して銀座から日本橋、そして浅草雷門まで行って折り返し、銀座まで戻り築地の方に曲がり、豊洲から、ゴールの東京ビッグサイトまでです。
まず、観戦したのは、皇居前から銀座、築地まで沿って歩きました。都庁前をスタートしたら、JR山手線をくぐり、新宿の繁華街を抜け、市ヶ谷と飯田橋の中間地点あたりが5kmポイントです。その後、ランナーたちは、皇居に沿って走り、10km地点の日比谷交差点へ向かいます。10Kmコースのランナーはここで終わりです。そのあたりからランナーに沿って歩いて行ったのですが、非常に多いために次から次に切れることなく脇を走り抜けていきます。私はその後銀座に向かいましたが、ランナーたちは、日比谷通りから品川折り返し地点へ向かいます。そこまでの道は、芝の増上寺の山門や東京タワーが見えたはずです。
有楽町ガード下を抜けて、有名デパートやブランドショップが建ち並ぶ銀座の真ん中には、中間地点があります。
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銀座で、またランナーと別れます。ランナーたちは、日本橋から茅場町を経由して浅草雷門まで行くと、また折り返しです。
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そして、また銀座に戻り、築地を抜け、佃大橋を渡ります。私たちは、ここでバスに乗り、豊洲に向かいます。豊洲には最近いたるところ高層マンションが立ち並び、大型ショッピングセンターがあります。
そして、ゴールの東京ビッグサイトまで、ゆりかもめに乗ります。ここには観覧席が用意され、大勢の人がゴールしてくるランナーを出迎えます。はじめて箱根駅伝を観戦し、東京マラソンも初めて観戦した1日でした。
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1日券

 各地には、お得な交通切符があります。私は、大学生の頃、九州を一人旅で廻ったことがありますが、その時には九州周遊券という切符で、九州内の急行を含めてすべてのJRに期間内、乗り降り自由という切符です。ですから、桜島に渡るフェリー、桜島を巡る観光バスもJRでしたので、新婚さんの中に囲まれながら一人で廻ったことを思い出します。そのようなお得チケットが都内にもいろいろとあります。私が、少し前に使ったのは、都営地下鉄、都バス、都電荒川線、日暮里・舎人ライナーに1日に限り何回でも乗車できる「都営まるごときっぷ」で、大人700円でした。特典として、利用当日に限り、沿線の施設や店舗で割引やプレゼントなどの特典を受けることができます。そのほかとして、「東京フリーきっぷ」は、東京メトロ、都区内のJR線、都電、都バス、都営地下鉄、日暮里・舎人ライナーが乗り放題で、大人1580円です。また、都営・東京メトロ共通一日券は大人1000円、東京メトロ一日券は、大人710円、都電一日乗車券は、大人400円、つくばエクスプレス線1日乗り放題きっぷは、大人2300円、りんかい線1日乗車券は、大人700円、都区内パス(JR東)大人730円などです。
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「都営まるごときっぷ」を使って、妻と初めて「日暮里・舎人ライナー」に乗ってみました。日暮里・舎人ライナーは一番新しい都営交通ですが、平成20年3月30日に開業した新交通システムです。この路線は、計画構想からおよそ30年という年月をかけて完成しました。途中、13の駅があり、高架を走っています。路線名については、一般公募を行い、決定したものです。「舎人(とねり)」というのは、律令時代、天皇や皇族に仕える下級役人を指した言葉です。その「舎人」が地名になったかというのは、諸説飛び交っています。
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取りあえず、どこに行こうかと妻と相談をして、日暮里から乗って、終点の「見沼代親水公園駅」まで行きました。駅名の見沼代親水公園は、かつて区の農業を支えていた農業用水だった水路を整備したもので、浄化施設できれいにした水が流されています。そして、舎人緑道公園が毛長川沿いの土手に沿った緑道となっています。また、この毛長川のほとりには、境川部屋の看板が見えました。元小結の両国であった境川親方が指導する、相撲界で勢いのある部屋の一つと言われています。次の駅「舎人駅」の伊興遺跡公園は、古墳時代の遺跡が数多く出土しています。そして、「舎人公園駅」には、敷地面積51.2ha(東京ドーム11個分)と区内最大の都立舎人公園があります。その次の駅「谷在家駅」には、玉ノ井親方(元関脇・初代栃東)率いる玉ノ井部屋があります。次の駅「西新井大師西駅」では降りて西新井大師に行ってみました。平安時代の天長3年(826年)、空海(弘法大師)が、災厄で苦しむこの地の人びとの救済のために刻んだ十一面観世音菩薩と大師像を堂に安置したことによります。大師の正面にある山門を望む参道の両側には、和菓子、草だんご、うどん、軽食などを扱うお店が軒を連ね、参詣客で賑わいを見せています。
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 そろそろ遅くなってきたので、「熊野前駅」まで戻ってきました。この駅は、都電荒川線へ乗り換えられます。今度は、荒川線の終点、早稲田まで乗りました。そこで降りて、早稲田大学の大隈講堂と、大隈重信の銅像を見てから、今度は都バスに乗って新宿まで行き、その後、新宿からまた都バスに乗って高田馬場駅の近くまで戻ってきました。その日1日は、700円の「都営まるごときっぷ」だけで過ごしました。
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バス

私は、都電にはとても親しみがありますが、都バスはさほどでもありません。あまりバスを利用しなかったからです。また、八王子で乗るバスは、京王バスか、神奈中バスです。神奈中バスとは、神奈川中央バスの略で、輸送人員は日本一だそうです。それに次いで多いのが、都バスです。東京では、路面電車が主役でしたが、大正12年に関東大震災が起き、町は瓦礫の山となります。そして、路面電車が壊滅的な打撃を受けた為、臨時応急的な輸送手段として、乗合バス「東京市営バス」が誕生しました。その時の車種は、アメリカフォード社製の11人乗り車両を使用し、巣鴨?東京駅、中渋谷?東京駅の2系統の運行でした。その後、昭和17年には、旧市内の事業エリアにおいては、市電と市営バスが路面交通として独占して運行していました。旧市内の事業エリアとは、山手線と荒川放水路に囲まれた地域及び江戸川区の一部です。そして、翌18年の東京都制施行により「都営バス」となりました。
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どの様な交通手段がいいのかということは、その時代を反映します。それは、それぞれに特徴があり、それぞれに一長一短があるからです。関東大震災のときには、町が破壊されると、軌道上を走る交通は、すぐに不通になり、復旧に時間がかかりました。そこでバスが登場したのですが、戦時中でも同様なことが言えます。八王子では、路面電車の軌道に使われていた線路の鉄も戦争のために供出され、廃止になりました。その状況は、戦後壊滅的に破壊された東京の町にも言えます。反面、早期復興をするために、早く交通手段を確保しなければなりませんでした。そのため、軌道や駅施設が不要で機動性に富む乗合自動車事業は大幅に増強が図られ、都民の足を確保しました。また、都内だけでなく、郊外部へ人々が移り住むようになり、急激に郊外の人口が増加しはじめました。そこで、郊外から通勤、通学する人が増え、通勤通学輸送需要に対応するため、事業エリアを超えて民営バス各社との相互乗り入れをする必要が増してきました。そのような中で、乗合バスは、営業規模、乗客数ともに年々増加を続けました。
昭和40年代には、都電・無軌条電車(トロリーバス)がほとんど廃止され、その代替バスとして、都営バスが路面交通の主役に躍り出し、昭和47年には一日約130万人の乗客を輸送するようになりました。しかし、道路渋滞が起き、今度は地下鉄網の整備が始まり、次第に乗客数が減ってきたために、平成14年には、乗合バス事業の需給調整規制が廃止され、新規参入が自由化され、今では、各社のバスが都内を走り回っています。平成22年4月現在でも、都バスは、139系統、783kmあまりの営業キロを持つ、国内有数の路線バス事業者なのです。また、平成20年には、東京駅から上野・浅草・両国といった下町を結ぶ観光路線バスの運行を開始し、都心観光の便利な移動手段としても注目されています。
他に、東京には、地下鉄もが張り巡らされていますが、都営地下鉄は、浅草線、大江戸線、新宿線、三田線だけで、他は東京メトロという会社です。実は、昭和2年に上野?浅草間で開業した東京の地下鉄は、帝都高速度交通営団(営団。現在の東京メトロ)が一括して建設・経営していたのです。それが、戦後首都圏の急激な人口増加によって、周辺地域と都心を結ぶ輸送需要は著しく増大したために、都内の地下鉄を早急に整備しなければならなくなり、都も建設を分担すべき旨を国に要望して、昭和31年8月から都も地下鉄建設を行うこととなりました。こうして都営地下鉄は、昭和35年に浅草線の押上?浅草橋間、43年に三田線、53年には新宿線、平成3年にはリニアモータ駆動など最新技術を導入して都営地下鉄で初めてワンマン運転を採用した大江戸線放射部(練馬?光が丘間)が開業します。現在は、計109.0kmの営業を行うまでになっています。
 東京では、渋滞や駐車場の関係から、車での移動は少なく、さまざまな交通手段を使います。その整備は、時代を反映し、思い出とともに発展してきているのです。

都電22,31

 先日、職員と路面電車荒川線に、とげぬき地蔵の近くの庚申塚から園に近くの面影橋まで乗りました。路面電車の「高田馬場」から「面影橋」間が開通したのは、ちょうど私が生まれた年のことです。その後、私は東京下町で育ちましたので、路面電車と共に成長した感があります。日常的によく使っていた交通機関でしたから。今年の8月1日には、都営交通は創業100周年を迎え、そのポスターが都営地下鉄のホームに貼ってありました。100年というと、私の人生どころではなく、明治から、大正、昭和、平成と4つの年号にまたがっているのです。
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都営交通といっても、現在は、地下鉄、バス、都電、日暮里・舎人ライナー、モノレールなど5つの交通機関を持っています。まさにその歴史は、時代の移り変わりを反映しています。100年前の、創業というと、明治44年に 東京市電気局が開局したことを指します。この年、東京都交通局は、東京鉄道株式会社から路面電車事業と電気供給事業を買収して東京市電気局として創業しました。いろいろな種類の中で、最初は路面電車だったのです。創業当時は、一日51万人ものお客様が路面電車(東京市電)を利用していたようで、まさに都民(当時は市民)の足だったのです。ただ、もともとは、明治36年8月22日に、馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(東電)が、品川 – 新橋間を開業していましたし、明治36年9月15日には東京市街鉄道(街鉄)が数寄屋橋 – 神田橋間を開業し、翌年には、東京電気鉄道(外濠線)が土橋(新橋駅北口) から御茶の水間を開業していて、この東電・街鉄・外濠線の3社が合併した東京鉄道(東鉄)を買収した形で創業したのです。
昭和18年には、一日約193万人のお客が利用する市電最盛期を迎えました。そして、昭和18年の東京都制の施行に合わせて、東京都交通局と名称を改め、「都電」となったのです。昭和30年に一日約175万人の利用があるなど、戦後しばらく、東京における代表的な公共交通機関として活躍していましたが、昭和30年代に入ると自動車交通量が急速に増加し、交通渋滞に路面電車が巻き込まれたりして、軌道事業の経営状態が極度に悪化した為、昭和42年から同47年までの間に、合計35系統の路線が撤去されました。その中で、先日職員と乗った27系統(三ノ輪橋?赤羽間)及び32系統(荒川車庫前?早稲田間)が、路線の大部分が自動車交通の影響を受けない専用の軌道であり、低公害な交通機関である事、沿線住民をはじめ都民からの路線存続の強い要望があったことなどから、荒川線(三ノ輪?早稲田)と改称し、恒久存置することとなったのです。現在の営業キロは12.2kmだそうです。
私は、この都電にいくつかの思い出があります。というのも、私が住んでいたあたりには、三ノ輪と東京駅が31系統、南千住から浅草、銀座、新橋が22系統、の2系統が通っていたので、日曜日に家族で出かけるときには、よく使っていました。また、中学校は神田にあったので、1年生のときには、都電で通学していました。1年生の美術の試験問題の一つに、「通学途中の風景を描け」という課題があり、都電に乗っている絵を描いたものでした。また、通学路線の駅には、江戸の面影を残すものが多く、時代劇にもよく出てくる町名です。21系統は、浅草?隅田公園?駒形?厩橋?蔵前と来たところで、31系統と一緒になります。三ノ輪橋?千束?菊屋橋?三筋?蔵前ときます。私は、蔵前から乗りました。その後しばらく、同じ路線を走ります。浅草橋?馬喰町?小伝馬町?本町?室町ときて31系統と別れます。私は、本町で降りていました。その後21系統は、日本橋?通?京橋?銀座?新橋と行きます。31系統は、新常磐橋?丸ノ内北口?都庁前と行きます。
どの駅名も私にとっては懐かしい名前です。
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海の男

先日、「あけおめ丼」を頂いたのは、遠く日本海を望む高台にある道の駅「ゆうひパーク浜田」にある「会津屋八右衛門」という海鮮レストランです。この会津屋八右衛門の石碑が、浜田港を望むところに突き出ているかのように立っていました。
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この会津屋八右衛門は、犯罪者であり、幕府に対しては反逆者ですが、地元にとっては藩の窮乏を救った海の男として讃えられています。この事件に、間宮林蔵が関わっていたのです。
隠密の仕事というわけではありませんが、江戸時代におけるご法度は、外国と接点を持つことを極力させまいと目を光らせていました。シーボルト事件のように日本の文化を国外に出すだけでも処分されていたわけですから、本人が、国を出るだけでも犯罪者でした。しかし、漁師のような仕事をしている人は、漁の最中に嵐などに出会い、遭難漂流してしまうことがあり、国外に出てしまうことがありました。そんなときには、不可抗力ですから特別に罰せられなかったのですが、海外の文化、産物を目にした時の驚きは想像に難くありません。
島根県浜田港の漁師清助は、1819年、江戸に向けて航海中、紀州沖で嵐に遭って遭難し、オランダ船に助けられました。そのまま南方の国々を回って、3年後、こっそりと日本に戻ってきます。このことを幕府が知っていたか、役人が知っていたかわかりませんが、当然、外国で見聞きしたことを周りの人に話したでしょう。それを近くで聞いて、話の内容に感化され、外国に憧れる他のは、当然清助の息子の八右衛門だったのです。彼は、密航計画を練ります。まず狙いを付けたのは、日本海に浮かぶ竹嶋でした。この竹嶋は今の島ではなく、鬱陵島のことです。ここに渡って李朝朝鮮と密貿易しようとしたのです。その動機としてはよくわかりませんが、どうも異国への好奇心だけでなく、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島へ渡航したのではないかといわれています。やがて朝鮮半島、中国、そして台湾、フィリピン、南洋諸島まで広がり、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めました。輸出品は、国産の刀剣類が主で、様々な珍しい産物を持ち帰り、莫大な富を得たのです。
この富は、個人だけの問題ではなく、財政難の浜田藩にとっても魅力的なものでした。しかし、表立っては魅力のある計画だったものの、幕府の禁を犯すわけにはいかず許可しませんでした。そこで、家老岡田頼母、その家臣橋本三兵衛はこれを黙認します。天保元年(1830)から数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したといわれます。
やがて、浜田藩の密貿易は、噂になり、幕府にも聞こえてきました。そこで、薩摩藩の密貿易を内偵中であった幕府隠密、間宮林蔵は、会津屋の密貿易を調べ上げ、八右衛門は捕らえられて死罪になりました。また浜田藩の重臣も切腹し、藩主は蟄居、息子の代には転封されました。これが、「竹嶋事件」です。
その後、会津屋八右衛門の石碑が、昭和10年(1935)12月23日に浜田市松原自治協会によって建てられました、「会津屋八右衛門氏頌徳碑」という書は、内閣総理大臣海軍大将岡田啓介によるものです。
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隠密として

 現在、領土問題で日本も揺れ動いています。一つは、北方領土で、もうひとつは竹島問題です。この問題は、なかなか難しく、どちらの領土であるかというかという論議はこの場ではやめようと思います。しかし、その両方に関係しているのが、なんと間宮林蔵であることを最近知りました。間宮林蔵といえば、19世紀のはじめ、北海道から樺太千島列島で20年以上も生活して、その間の樺太探検では、間宮海峡を発見し、その名前が今でも世界地図にあります。子どものころからある意味では、日本人のヒーローとして伝記などを読んだ思い出があります。しかし、その評価、彼の業績は素晴らしいものですが、実は、彼は、幕府の隠密として日本中を歩き回っていたといわれています。
 間宮林蔵は、現在の茨城県に生まれますが、小貝川を堰止める工事がなかなかうまくいかなかったところ、よい方法を提案したところうまくゆき、林蔵の才能が認められ、幕府の役人として仕事をするようになります。江戸に出て、伊能忠敬に師事をして軽量術を学びます。そして、日本各地で行われた治水工事や、新田開発工事で、工事をしながら測量や土木技術を勉強したようです。19歳になった年、はじめて北海道に行き、43歳までの23年もの間、北海道を中心として活躍します。その間に間宮海峡を発見、その後、北海道測量という大事業を行います。29歳の時、蝦夷地御用掛(北海道)として西蝦夷を探検し、35歳の時、当時は樺太は大陸へと続く半島ではないかと思われていたのが誤りで、一つの独立した島だと言うことを証明します。
こんな偉業を成し遂げた彼は、江戸に戻ってから、今度は全国をくまなく歩き、外国の船が日本に来たという報告の調査の仕事をします。これが、隠密としての仕事なのです。そのきっかけとなる有名な事件があります。それは、「シーボルト事件」です。
シーボルトは、長崎郊外に、診療所も兼ねていた私塾「鳴滝塾」を開き、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培していました。彼は、出島から塾まで通い、ここで西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授しました。この私塾の跡地は現在の長崎市鳴滝にあり、国の史跡「シーボルト宅跡」となっています。
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そのシーボルトらが江戸参府から出島に帰還する間に、1000点以上の日本名や漢字名植物標本を種集します。また、彼は日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手にいれたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ります。しかし、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出します。この手紙の内容が発端となり、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた伊能忠敬実測の『日本図』・間宮林蔵の『蝦夷全図/えぞぜんず』など多数の物件などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けます。そこで、この事件は、間宮林蔵の密告によるものだと言われています。
しかし、奇しくも間宮海峡と命名したのはシーボルトだといわれています。国外永久追放されたシーボルトでしたが、個人的な感情とは別に、蝦夷地・樺太を探索した間宮林蔵の功績を認めており、後年、樺太と大陸の間にある海峡に「間宮海峡」の名前を付けます。
しかし、この事件により、間宮は法的に処分はされなかったため、世間からは「卑劣な密告者」として批判されてしまいます。その結果、彼は、その後は幕府側に付き、隠密として暗躍することになるのです。その隠密としての行動として、薩摩藩の密貿易・石見浜田藩の密輸事件の摘発は記録として残されています。石見浜田藩の事件のことを、先日連れて行ってもらった浜田で知ることができたのです。

火山と椿

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噴火活動が続いている霧島連峰の新燃岳、このところの降雨で土石流の危険性が高まっており、麓の宮崎県都城市は先日、初めて土石流警戒の避難勧告を出しました。その勧告も、解除になったり、また勧告が出されたりと、まだまだ心配で、その状態がいつまで続くのか現地では不安でしょうね。日本には世界の火山の7%に当たる108山があり、この20年間だけでも19山が噴火しています。この火山という言葉は、「火の山」のことで、定義としては「噴火によってできた丘や山や台地」のことをいいます。もともと、地球の誕生から生命の誕生の歴史には、火山活動が影響しているので、日本が火山の国という世rも、地球が火山の星ということになるのでしょうか。
そこで、日本では、160万年よりもあたらしい時代に噴火した火山に、山の名前や地名などをつけて「何々火山」と呼ぶことにしています。また、いまのところ、活火山とは、気象庁によって「2000年前よりもあたらしい時代に噴火した火山、または、いま、けむりやガスをだしている火山」ときめられています。しかし、世界には数千年?数万年年ごとに噴火をくりかえす火山があることから、気象庁は2003年1月21日から「おおよそ1万年前よりもあたらしい時代に噴火した火山、または、いま、けむりやガスをだしている火山」を活火山にすることしました。このきまりによって、ずいぶんと多くの火山が活火山になりました。
先週末訪れた山口県の萩にある「笠山」という火山も活火山になっています。山口県は、以外にも70以上の火山があり、特に萩のまわりには、そのなかの40があります。そして、萩のまわりの火山を阿武火山群とよんでいます。萩の大地の土台は、アジア大陸の一部であった約1億年前の激しい火山の噴火によって作られました。その後、今から1500年前大陸が分裂移動して、現在の日本列島と日本海のもとができます。約1200 万年前の割れ目噴火は溶岩台地をつくり、その一部は見島になります。そして、約200万年前?1万年前にはたくさんの小さな火山が噴火し、活火山・阿武火山群ができたのです。
萩市にある火山は、日本の火山の中でもひじょうにめずらしい火山のかたちをしています。その数々ある火山の中で一番新しい、日本海に半島のように突き出た「笠山」に車で連れて行ってもらいました。標高 112m の山頂からは、ふもとの木々と、周りを囲む海と、その海に浮かぶ島々を臨むことができますが、その島々の形に、この地域の火山の形を見ることができます。
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この笠山は、活火山で、火山として世界最小(あるいは東洋最小、日本最小)ともいわれています。この山は、1万年前の噴火で、まず、平らな台地が、8800年前の噴火で山頂のまるい丘ができました。そして、山頂には火口があります。普通は、噴火がおわると、すぐにくずれはじめて火口はうまってしまいますが、ここの火口は埋まらずに残っています。
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この笠山の北端の虎が崎にはその数2万5千本という椿の群生林があります。「椿まつり」にはまだ少し早かったのですが、日の当たる椿の木には、まっかな椿の花をつけていました。笠山は、萩城の鬼門の方角に当たるので、藩では笠山の樹木の伐採や鳥獣の捕獲を禁止したため、全山が原生林で覆われていました。ところが、明治になってその禁が解かれ、大木はことごとく用材のために伐採されてしまいます。そのあいだから顔を出した赤い花をつけた椿を観光にと、整備され、平成14年に市指定の天然記念物に指定されたのです。
 早く咲いて、木の根元に落ちた椿の花が、もうすぐ来るであろう春を予感させます。
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子育て

今日の読売新聞に、米エール大学の中国系米国人教授、エイミー・チュア氏の子育て論についての議論が掲載されています。1月8日付のウォール・ストリート・ジャーナルに「なぜ中国人の母親は優れているか」と題されたエッセイを掲載されていましたが、それは、彼女が出版した体験記「タイガー・マザーの闘争賛歌」(Battle Hymn of the Tiger Mother)の内容を紹介したものですが、読売新聞では、このエッセイを読んだアメリカ人の反応や、エイミー氏の著書についての反応について書かれています。
中国は、今や世界屈指の経済大国に上り詰め、あらゆる分野でも中国人の活躍が世界で目立っているからです。ここ数日間で行われているアイススケートでも、中国人活躍が目立ちます。しかし、あまりに熾烈な競争社会の中で勝ち抜くために、年齢詐称疑惑で騒がれたりしているのも、その熱烈ぶりを裏付けることでもあるのでしょう。その中国と地理的にも近い位置にあり、過去から幾度となく競ってきた日本では、その躍進ぶりが気になることでしょうし、いろいろな分野で関係が深くなっている隣国としては、連携の在り方にも課題があります。
この本の内容は、優秀な子どもを育てるには親が子どもにビシバシとやらせなければ駄目だというのです。中国人がピアノやバイオリンの国際コンクールや学力テストで世界トップクラスを独占しているのは、母親のスパルタ教育のおかげだというのです。読売新聞には、「ソフィアさんにはピアノ、次女ルイーザさんにはバイオリンの練習を何時間も強制し」としてしか書かれていませんが、その強制の仕方がジャーナルには書かれてありました。“7歳のころ、ルルはフランスの作曲家イベールの「白い小さなろば」という曲を練習していた。小さなろばが主人に引かれて田舎の道をポクポク歩いている情景が浮かぶような愛らしい曲なのだが、右手と左手でそれぞれまったく違うリズムを奏でなくてはならないので、小さな子どもにとっては難曲だった。一週間その曲ばかり練習したが、右手が左手につられ、左手が右手につられ、どうしてもうまく弾けない。ピアノの先生に見てもらう前日、ルルは母親のエイミーに、もうこの曲は弾けないと宣言し、エイミーを殴ったり蹴ったり、楽譜を引き裂いたりする。だが、エイミーもルルのドールハウスを取り上げて車に入れ、救世軍に寄付しちゃうよと脅す。それでもすっかり嫌気がさしているルルは、大事なドールハウスさえもどうでもよくなって、母親に「ふん、まだいたの?もう救世軍に行ったのかと思ってた」と憎まれ口をきく。そんなルルに、今度はエイミーが、昼食も夕食も抜きだよ、クリスマスのプレゼントも無しだよ、3年も、4年も誕生パーティもやってあげないよといって無理矢理練習を続けさせた。それでもルルはうまくならない。エイミーは、追い打ちを掛けるように、「ほんとうは弾けるようにならないことが恐いんだろう。だからそうやって大声でわめいてばかりいて真面目に練習しないんだろう」と叱りつける。それだけではない。怠惰だとか意気地なしとか甘えているとか情けないとか言葉を尽くして娘を罵倒した。母子の激しい応酬を見かねた夫も、エイミーに娘を侮辱するのは止めろ、娘を脅迫するのは何の助けにもならないと口を出すが、彼女は侮辱などしていない、やる気を出させようとしているだけだと言い返す。彼女は「わたしは嫌われ者でいい。あなたは、あの子たちにパンケーキを作ったりヤンキーズの試合に連れて行ってあげて、いいお父さんでいればいいわ」と言って、さらに厳しいレッスンを続ける。トイレにも行かせないというのだから、まるで拷問だ。家は戦場のように殺伐とし、エイミーは怒鳴りすぎて声が出なくなった。しかし、ルルは、あるとき突然、その曲が弾けるようになった。彼女は大喜びで何度も繰り返しその曲を弾き、今度はピアノを離れようとしなくなったという。その晩、彼女は母親のベッドで寝た。母子の仲も修復されたそうだ。”
子どもの自尊心を重視する西洋式の教育に対し、子どもを「ゴミ」と呼んで叱咤激励する「中国式」のやりとりを読んで、私はかつて家庭内暴力を描いた「積み木くずし」という本を思い出しました。結果は違うのに、なぜ、同じように思えてしまうのでしょうね。

出前

 丼物といえば、私は食堂で食べるというよりも、出前で食べるというイメージがあります。出前は、家に運んでもらうために、おかずとご飯が一つの丼に入ったものは運びやすいということと、出前を頼むことが多い蕎麦屋で取り扱っているメニューだからということがあります。ということで、私が子どもの頃に出前で頼むことが多かったのは、「日本そば」と「中華そば」が多かったかもしれません。たまに、私が子どものころ住んでいた我が家の裏に洋食屋があったために、たまに洋食の「オムライス」や「マカロニグラタン」や「カレー」の出前を頼んでいました。これらの出前には、「岡持ち」という四角な竹カゴや平桶に入れて運びます。この岡持ちは、最初のころは木で作られていましたが、次第にアルミニウム合金製のものが主流になってきます。上部には、持ち運びのための木の棒がついていて、蓋は、全面を上にスライドさせて開けます。この語源は、岡という字の意味はもともと「小処(おか)」ということから来ていて、何かの傍らという意味です。ですから、「傍らに下げて持ち運びする」「横に下げて持つ道具」ということになります。
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 今日、職員と外でコーヒーを飲んでいたときにこの出前が話題になりました。というのは、4?50年前私が子どもの頃、下町の問屋街に住んでいたのですが、その時の出前で多かったのがコーヒーの出前でした。店に銀行の人が来るとか、商談をするとき、必ずコーヒーの出前を頼んでいました。そうすると、ウエイトレスさんが、ステンレスのお盆にコーヒーを入れた真っ白いコーヒーカップを載せて、運んできたものでした。たまに贅沢をして、バタークリームを載せたケーキも頼みました。そして、容器は後でとりに来ました。出前を頼むくらい、下町にはいたるところに純喫茶と呼ばれる喫茶店があったのです。
 出前かどうかわかりませんが、子どもの頃は、さまざまなものを店ではなく、売りに来ました。天秤棒を担いで売りに来たのが、魚や野菜などで、そのほか、豆腐、納豆なども売り歩いていました。それが、出前の起源だとすると、うどんやそばなどの出前は江戸時代から存在しています。二八そば・すし・天ぷらなども天秤棒を担いで移動しながら販売をしていたようですし、魚屋、シジミ売り、八百屋なども天秤棒を担いで売る方法が主流でした。
最近は、天秤棒を担いで売りに来ることはなくなりましたが、出前はまだありますが、いろいろな形の出前があります。その分け方は厳密ではないようです。同じ出前でも、祝い事や法事などに用いる和食の弁当や寿司、パーティ用の食べ物などの配送の場合は、「仕出し」と呼ばれることが多いようです。それは、火急に配達することを求める「出前」と違って、「仕出し」や「配達」は、予約しておく場合が多いようです。
また、店内に飲食スペースを設けない店や無店舗営業の業者が配送「デリバリー」という出前があります。日本では、20年ほど前にピザーラ創業者が映画「E.T」を見て、アメリカのデリバリーを知り日本でも業務をスタートしたことに始まるそうです。また、似たようなサービスにケータリングというのがあります。ケータリングは、注文主が用意する台所、あるいは移動調理車などを使って、現場で調理をするものです。「出前」「仕出し」は、完成した料理を配達しますが、ケータリングは食材を持ちこみます。
 出前の形も少しずつ変わってきていますが、他の見方も、昔は声をかけていたのが、電話になり、今はほとんどメールで頼むようです。