清潔

 インフルエンザは、どうも昔から定期的に世界中に広がったことがあり、毎年周期的に新しい方が現れ、薬の開発とイタチごっこで進んでいるようですが、花粉症についてはどうなのでしょうか。私の子どもの頃は、そんな話は誰からも聞いたことはありませんでしたし、社会の話題にもなっていませんでした。ですから花粉症の歴史はまだ浅いようです。世界では、古くから花粉症に似た症状があったと伝えられているようですが、それが本当に花粉症なのか、また、症状から鼻炎なのか風邪なのかよくわかりません。しかし、文献としてイタリアで、現在・花粉症と呼ばれる症状が1565年に報告されているのが世界初だと言われています。その後、1819年にイギリスの干し草を扱う農夫に見られる夏風邪の一種として詳細に報告され、その症状に対して「枯草熱」という病名がその10年ほどのちに使用されるようになりました。そしてその症状は、どうも花粉ではないかということが1873年に証明され、その症状を「花粉症」“Pollinosis”という病名で呼ぶようになったということです。
日本では、比較的新しく、戦後1961年にアメリカ進駐軍が持ち込んだといわれている帰化植物で、急激に日本で繁殖しているブタクサによる症状です。そののち、1964年にスギの花粉による花粉症が報告され、次々とさまざまな花粉を抗原とする花粉症が報告されています。現在、50種類以上の花粉症の原因植物が確認されているそうですし、最近はニホンザルや犬など人間以外の動物にもその症状が出るようになっています。。ということで、花粉症の症状は、最初ブタクサによるために、典型的な秋の症状でしたが、スギ花粉症が主流になったのちは春の症状となってきました。ですから、昨年の猛暑の影響で、今年はいつもよりスギの花粉が多く飛ぶであろうということで、今から春に対して警報が出されています。
先日の日経新聞の夕刊に、感染免疫学者である藤田紘一郎さんが。「排除の論理招く危険 “個”を重んじる社会に」ということで、行き過ぎた清潔志向が花粉症やアレルギーを生む要因にもなった「日本人の清潔が危ない」「きれいすぎる社会がアレルギー体質をつくった」と警鐘を鳴らしています。もともとはこの指摘をすでに10年以上も前からしているのですが、改めてこのような懸念を抱いています。「当初は、関係する学会でも私の理論はほとんど評価されなかったが、最近は変化の兆しが見られます。私の主張に理解を示してくれる人も増えてきました。幼稚園でも小さな子を泥んこになって遊ばせるところが、人気を集めるという現象も見られます。ただ、それもまだ端緒です。清潔志向が行き過ぎて人間らしからぬ人間が増えてきたような気がするし、寄生虫や細菌についての非常識がまだ常識になっていますから」と話しています。
 最近、自分の汗のにおいを消そうという消臭症の人や、しょっちゅう歯を磨いていないと気がすまない人や、温泉地の旅館やホテルで泊まるのに大浴場に入りたがらないというような行き過ぎた清潔志向の人が増えていることに対して、藤田さんは、「虫を体から追い出した日本人は、次に自分たちの体を守ってくれるはずの『共生菌』までも排除し、次ににおいまでも排除しようとしています。人間、きれいにすることはいいことですが、それも行き過ぎると問題です。例えば、せっけんで手を毎日ごしごし洗い続けると、次第に皮膚から常在菌がなくなり皮膚の抵抗力が弱くなります」と言います。
 この傾向には、ビジネス戦略が関わっていて、そこに翻弄されていることにも原因があると言います。これをもう少し考えてみます。

インフル

 最近、インフルエンザが猛威をふるっているニュースが毎日流れてきます。学級閉鎖になっている学校も多いようです。また、今年は、例年に比べてスギ花粉が多く飛び、花粉症になる人が多いのではないかと心配されています。インフルエンザや花粉症は最近の病気なのでしょうか。実は、長い人間との戦いの歴史があるのです。
昔はインフルエンザとは命名されていませんが、古代エジプトや古代ギリシアの時代にもインフルエンザとみられる流行性疾患の記録があるそうです。このような疾患を「インフルエンザ」と命名したのは、16世紀のイタリアの占星術師たちが、冬季に流行し、春に終息するという周期性があることから、その流行は星の運行や寒気の影響によるものではないかと考え、「影響」を表すラテン語の「influenctiacoeli」から「influenza」と呼んだようになったと言われています。そして、この言葉が18世紀の英国で流行した際に英語に持ち込まれ、その後世界に広まったのです。この語源から見るように、周期的に冬になると現れることが不思議であったのかもしれません。
日本では、平安時代の「増鏡」にインフルエンザが流行したといような記述があります。江戸時代には、「お駒風」や「谷風」などと名前がつけられた悪性のかぜが流行したようで、どの国でもはやった歴史があります。この中で有名なのが、20世紀に4回大流行した時です。まず、1917年から1919年にかけて世界各地で猛威を振るった「スペインかぜ」は、全世界で6億人が感染し、死者は2000万人とも4000万人とも言われ、日本でも人口の約半数が罹患し、約40万人の犠牲者が出たと推定されています。また、1957年4月に香港から流行した「アジアかぜ」は、東南アジア各地、日本、オーストラリア、さらにアメリカ、ヨーロッパへと急速に広がりました。死亡者数はスペインかぜの1/10程度でしたが、日本では300万人が罹患し、5,700人の死者が出ました。そして、1968年から翌69年にかけて流行した「香港かぜ」は、堺時期をずらしてはやりました。6月に香港で爆発的に流行し、8月に台湾、シンガポールなど東南アジアへ、9月に日本、オーストラリア、12月にアメリカでピークを迎えました。この風邪は、香港では6週間で50万人が罹患し、全世界で56,000人以上の死者を出しました。日本では14万人が罹患、2,000人が死亡とあります。そして、「ソ連かぜ」は、スペインかぜと同じ型のウイルスにより、1977年5月に中国北西部から始まり、12月までにシベリア、西部ロシアへ広がり、日本で流行しました。さらに翌年には、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、南米にまで拡大しました。
現在は、昨年大騒ぎになった新型インフルエンザをはじめとして、Aソ連型、A香港型、およびB型の3種類のウイルスによってより複雑に流行しています。世界的大流行は数十年起こっていないものの、まだまだ軽く考えてはいけない病気です。特に、特別養護老人ホームにおける集団感染などから、インフルエンザによる死亡者の約80%以上を高齢者が占めています。また、乳幼児では、インフルエンザに関連していると考えられる急性脳症が年間100?200例報告されています。インフルエンザに対応するような薬やワクチンが開発されていますが、今度はそれが効かない型のものや、より強いインフルが生まれてきています。
最後は、自らそれらウイルスに勝つような体、自己免疫力をつけていかなければなかなか解決しないようです。

 世界の保育カリキュラムの中で話題になっているものに「レッジョ・エミリア・アポロ―チ」というイタリアで行われているものがあります。その保育では鏡を多用することでも有名ですが、以前ブログでなぜ鏡が子どもに必要なのか、鏡を見ることがどの様な効果があるかについて書いたことがありましたが、結論としてはいろいろと調べてもよくわからなかったことを思い出します。しかし、また最近鏡について興味を持ったのが「ミラーニューロン」の存在です。ミラーという鏡がキーワードだからです。その意味を、数日前に紹介した「化粧する脳」(茂木健一郎著)の中で説明をしています。
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 人は皆、人格を持っていますが、その人格は一つのものではなく、多面的なものです。その時に、自分の姿、顔を鏡で見る時、そこにある一つの人格を見ることができます。茂木さんは、「“わたし”のイメージを考える時、まず私たちは、“わたし”の顔を無意識のうちに貼り付けているものだ。鏡が私たちの自己イメージ、自己意識の進化や発達に非常に大きな影響を与えていると考えられる。」と言っています。すべての動物の中で自己意識を持つ人間だけが鏡を常用するからだと言います。自己意識を持つからよく鏡を見るのか、鏡をよく見るから自己意識を持つのかよくわかりませんが、確かに水仙の花の由来のナルシスも自己意識が強かったですね。
 では、他の動物も鏡を見せると自己意識を持つかというと持たないようです。というのは、鏡に映っている姿を自分の姿だと認識すること自体、かなり高度な認知能力なのだそうです。今のところ、鏡に映った自分の姿を自覚できるのは、人間のほか、チンパンジー、オランウータン、イルカ、シャチ、アジアゾウ、といった限られた動物だけだそうです。どうして、それがわかるかというと、「ミラーテスト」という、方法があるそうです。このテストは、人間のセルフ。アヴェアネズ(自己覚知)や意識の研究に新たな方向を持たせることになったそうです。鏡を動物に見せると、その後ろに違う動物がいると思って威嚇したり、裏に回って相手を探そうとします。しかし、もしかしたらその姿は自分かもしれないと思って、いろいろなしぐさをしてみます。この鏡に対する社会的行動から、自分に対する行動に移行する時が一番鏡に向かう時間が長くなるそうで、たぶん、その時間の中で脳の神経細胞のネットワークのつなぎ換えが行われていると考えられています。その結果、鏡の中の姿は自分だと分かった瞬間とたんに興味が失せてしまうそうです。
 もうひとつ、このミラーテストにパスする動物は、道具を用いる高い知能が確認されていますが、同時に「共感能力」が高いという点も共通してみられるようです。たとえば、アジアゾウはミラーテストにパスしていますが、よく映像で見ることができるように、仲間が沼地に足を取られていたら、助けようとする行動がみられるように共感能力が高いようです。ミラーテストをパスする動物は、自己を認識する能力と、他者の心や考えを推量できる共感能力が発達していると考えられます。ということは、自己認識と他者理解は共にミラーニューロンが深くかかわっているのです。
 他者の顔の表情を見て、他者の心を読み取るときに、ミラーニューロンで感覚と運動の統合が行われ、それらが他者と柔軟にコミュニケーションをとる人間の驚くべき能力を支えていると茂木さんは言います。そして、人間は、感情の幅や豊かな経験やさまざまな状況を想定するイマジネーションが備わっているからこそ「他者の心を読み取る」ことができ、その本質が他者とのコミュニケーションをする社会的知性に表われるのです。
 個の確立と集団における他者理解とは深い関係があるのです。少子社会は、人間としての進化に影響を及ぼします。

子育て支援と父親の役割

 「子育て支援」の必要性が長く叫ばれてきました。それは、子育て支援センターのような施設だけでなく、保育園、幼稚園でもそのような機能が求められています。しかし、どのような親に対して、どのような支援をするのかということは、少しずつ変わってきているように思います。それは、親が置かれている社会の変化だけでなく、母親が子育てするのは本能であるという考え方が変わってきていることもあります。また、子どもは母親のもとで育てられるべきだという考え方も変わってきています。私も、今度「子育て支援」についてのシンポジウムに参加するのですが、そのテーマは私にとってはなんだか懐かしい気がします。そこで、チンパンジーの研究から、子育て支援、父親の育児参加を見てみたいと思います。
 「授乳をすることが哺乳類の一番重要な特徴ですが、自然にその種にふさわしいような形で、授乳も含めた育児行動をどの個体もできるようになるかというと、多くの種でそうではありません。」と言われているように、誰でも子育て能力は本能的に備わっているわけではないのです。それは、チンパンジーにおいて、さらにヒトにおいてもさらにそうではないのです。ですから、それを補っていくのが、その種それなりに、上手に育てないお母さんをどんなふうにサポートしていくかという行動の進化だそうです。京都霊長類研究所では、研究する中で、こう思ってきたようです。「チンパンジーのお母さんは、基本的には子どもを自分だけの力で育てます。けれども、ヒトの場合は、それをするには、あまりにもたいへんな子育てがお母さんに課せられてきました。これはヒトとなった時からそうなのです。独力で育てることの困難なお母さんに対して、ヒトという種は、その子育てを支える、援助する行動を種の特性として育んできたと考えられます。」
チンパンジーの子育てから、人間だけに見られる特性を感じるようです。その内の一つが、「物を共有する、食べ物を共有する、そのお母さんの強く熱い姿勢であるということであったし、さらに周囲の人間は、そうやって熱く、そして苦労して子育てしているお母さんを支える。」ということにあるようです。
また、チンパンジーにおける父親の役割ですが、その動機が面白いですね。「チンパンジーは野生の場合は、複雄複雌で数十頭の群れで生活をしています。その群れの中で、いろいろな男性がいろいろな女性と、いろいろな女性がいろいろな男性と交渉を持つことは可能です。というわけで、生まれてきた子は、その群れの男性の誰かの子どもです。ということは、男性側からすると、そこの群れにいる女性から生まれた赤ちゃんたちは、自分が交渉を持った相手から生まれてきた子どもである限りは自分の子どもの可能性があるわけです。しかも、チンパンジーの群れは、女性がよその群れにお嫁入りに行きます。男性は、生まれた群れに残ります。ということなので、結局自分が父親でなくても、自分の兄弟とか従兄など、要するに血縁の者が、生まれた子どもの父親であるので、どちらにしても、生まれた子どもは自分たちにとっては大事な子どもであるのです。ですから、特定の子どもの父親として、特定の子どものケアを引き受けて、がんばって育児するのではなくて、その群れの子ども全体の保護をします。」
では、父親は子どもにとって、どんな役目を引き受けるのでしょうか。ただ、熱心に面倒を看るかどうかは個体差があるそうですが、基本的には、父親としての役割をその群れに生まれた子どもに対してはどの子に対しても果たすようです。では、群れでの父親としての役割は何かというと、「腕白に元気に発達してきた子どもが遊びかけてくるので、このようにいろいろと関わり合いを求めてきた子どもを優しく受けとめてやって相手になることでしょうか。」
お母さんが圧倒的にワーキングマザーで、母子家庭であるチンパンジーの子どもは、不特定の父親と接し、お母さんがいて、赤ちゃんがいて、お兄ちゃんがいて、小さい子どもが離乳したら、また引き続いて次の子どもが生まれ、生涯の中で順々に育てられていくことのようです。

共視という見守り

京都大学霊長類研究所の松沢さんは、長い間のチンパンジーの研究を通して、人の生き方を見つめてきました。そして、今、なにを思い、どんなメッセージを人類に向かって投げかけているのでしょうか。最近の若者に向けてこんなことを言っています。「こういう能力があった方がいいとは少しも思いません。みんなそれぞれ違っているからいい、というのが生物学的な真理なので、そのままでいいんじゃないですか。もしずうっと立ち尽くしている子がいるとしたら、ポンと背中をたたいて「歩いた方がいいんじゃないの」と言いたくなりますね。言ってもどうにもならないと思ったら、チンパンジーと同じ教えない教育を見習うしかなくて、ポンと背中をたたいて自分が歩いてみせます。するとトボトボついてきますよ。」
チンパンジーに限らず、生き物は生き方を次の世代に伝えていきます。それは、教える教育ではなく、示す教育ということなのでしょう。ミラーニューロンに訴えかけるのです。ただ、そのきっかけをつくってあげればいいのです。しかし、その時にも、自分を客観視することが必要だと言います。それを、「目の前のことを一生懸命に、じっくり取り組むのがいいと思います。同時に自分を冷静に見守るようなもう1つの目を持っているとさらに素晴らしいですね」自分が自分を「見守る」ことが必要だと言います。それは、乳幼児期の体験からできるようになるのかもしれません。松沢さんは、こう思っています。「ヒトの赤ちゃんは常に、何かを自分が達成したらそれを見てくれている人がいることに気づきながら育つようです。いろいろなものに興味を持って、いろいろなものに手を出し、遊びます。同じ表情で同じものを見てくれている人がいる。家庭でもそうですし、保育所でもそうです。そういう人と赤ちゃんはやりとりをします。指差しをして、「あー」という。それを見てくれている人がいるのだ、後ろを振り返ってやっぱり見てくれたね…という表情を返します。赤ちゃんは何か面白いものがありそうだな、というところを見ます。そしてこれは何?という感じで振り返ると、必ず応えてくれる人がいます。そして、相手の視線と気持ちを確認したら、また、相手のまなざしを背景に新しいものの探索に行くわけです。常に見守ってくれる人が後ろに控えています。その人は、普通はお母さん。でも、保育士さん、お父さん、それ以外の家族でもよいです。」
後ろから赤ちゃんを見守ってくれている人に対して、赤ちゃんは、自分のことを見てくれているのだという安心感だけでなく、自分と同じものを見ている人がいるという安心感があるような気がします。その行為に対して、私は「共視」という言葉を考えました。後ろからから見てくれている、見つめあう、そして、同じものを見るというそれぞれの見方が、赤ちゃんだけでなく、子どもには必要な気がします。それらをすべて含めて「見守る」だという気がします。
子どもに対して、周りの大人はこう思ってほしいと松沢さんは、チンパンジーのアイちゃんとその子アユム君を見て考えます。「自分の子どもがその人生を全うするのを、見守る、一人の人間として自分の生に満足するように生きていくことを応援してあげようと、後ろから見守るような立場で、子どもの成長につきあっていくことが必要です。しかし、今の時代は競争社会です。自分の子どもをこのように育てたのだ、私が育てあげたのだという親の思いが強くて、それに子どもが潰されてしまいかねないようになっています。最近は、「子どもが授かる」という言葉が無くなり、「子どもを作る」ということ、理想の子どもを作るというような違い、「授かる」と「作る」の違いですが、それが見られるようにも思いますし、本能の部分が少なくなって、逆に文化で様々な多様なものを作っていく能力の発達した人間の一つの側面かもしれませんが、親子関係のあり方に雑音が入ってきて、本来の自然であったらそうであるような関わり方が、雑音、雑念に惑わされて、違う方向に行っていることは残念であると思います。素直な関わり方で、虚心に子どもを育てる、育つのを見守るというような形で親と子がお互いに関われれば良い方向に行くのではないかと思いました。」

負の感情

モンスターペアレントというような厭な呼び方がはやって、だいぶ経ちます。その関係は、一向に改善されるだけでなく、精神を病む教師や、訴えを起こす教師なども最近問題になっています。確かに、園に苦情を言ってくる親もいますし、ある意味で自分勝手に見える保護者もいます。また、相変わらず我が子を虐待してしまう保護者が後を絶ちません。しかし、その立場になると、多くの保護者は、子どものことを一生けん命に考え、自分の思う子どもへの関わりと、実際に我が子の行動、周りの人の関わりとのギャップを感じて、子どもにあたったり、苦情を言ってきたりするわけで、喜んでしていることは少ないように感じます。
我が子のことで悩むだけでなく、人間はいろいろなことに悩みます。京都大学霊長類研究所の松沢氏は、この感情を「負の感情」として、チンパンジーの研究から、将来の課題としてとらえています。確かに、最近の世の中を見ると、この研究は大切かもしれません。松沢氏は、悩みをこう分析しています。「ねたむ、ひがむ、恥じる…。これらはリアルな自分と相手、あるいは自分が勝手に作り上げた願望との落差による悩みなわけでしょう。いまここを生きている自分自身とは別の自分、本来自分はもっとこうできるはずだと思い込んでいるから悩むわけですね。」確かに、悩みのほとんどは、他との関係から生まれることが多いように思えます。集団は、生きる上でとても大切な機能を持つ半面、悩みをも生み出しているようです。それに対して、もし、チンパンジーが病気で極限状態に陥った場合、今日だけを生きているという心境になり、諦めるということはないそうです。それは、こうできるはずだとか、あるべき姿も何も考えず、いま、ここを生きていれば比較対照するものが何もないからだと言います。その比較対象となるものが、他人にも自分の中にもないのです。チンパンジーの世界はそういう生き方をしているのだそうです。その姿は、あたかも、悟りに悟ったお坊様のような暮らし、千日行を3回もして、悟りに悟ってしまったような方と同じ境地だと言います。思い悩まず、他者のことを羨ましがらず、自分を卑下もしていません。
コンプレックスにしても、いろいろな尺度から他人もしくは自分の中で比べるということや、とにかくいまの自分というものをこれが本来の姿ではないという認識が発達していて持つわけです。そもそもコンプレックスはほとんど自尊心の裏返しです。いまのままが全く自分の実像であり、それが生きていく上での何の障害でもないはずです。生命の世界の基本のありようでは物事に上下も良し悪しもない。こうあるべきとか考えると目の前の果物が採りやすくなるのですかね。チンパンジーにとってはそういうことだと思うのです。」
3月に私の園では「成長展」が行われます。作品展のようなものですが、それと大きく違うところがあります。作品展は、多数の子どもの作品を並べるために、我が子の作品を見る保護者は、どうしても他の子と比較してしまいます。すると、どうしても作品を相対的に誰かより上手、誰かより下手というように見てしまい、それが子どもの作品への評価になってしまいます。すると、そこに不満、ねたみなどの悩みやコンプレックスが生まれてきます。チンパンジーではありませんが、その子が一生懸命に自分の気持ちを表して描いた絵そのままを受け入れることに何の問題があるのでしょうか。それよりも、その子がこんなに成長したのだ、こんなことができるようになったのだという成長の喜びを感じ、それが次への意欲につながっていくことが必要なのです。ということで、「成長展」では、子どもの今の姿を他の子と比較して見せるのではなく、少し前の自分の姿と今の自分の姿を比較して見せるというような作品展になっています。

家族

日本霊長類学会理事で、日本動物心理学会理事の松沢哲郎氏は、「アイ・プロジェクト」でチンパンジーの知性を研究していますが、その研究から人間の生き方を考えています。その成果から、日本赤ちゃん学会の副理事長も務めています。彼は、研究の動機を「チンパンジーのことを知りたいというのは研究の1つの動機であって、もう1つは人間を知りたいということです。例えば親子関係、兄弟関係の場合、チンパンジーの出産は約5年間隔なので、人間のような年齢の近い兄弟はいないし、まして年子などありえません。人間にとってはごく当たり前のことが、実は人間独特の特徴だったりします。チンパンジーはシングルワーキングマザーだから、人間のように家族みんなで子どもを育てることしないのです。何が人間の人間らしいところかというのは、1つのユニークな方法としてチンパンジーを勉強するとよく分かります。」確かに、チンパンジーの行動を見つめることで、人間の生き方、何よりも赤ちゃんの行動、人としての遺伝子の特徴などを推測することはできそうで、私たちもずいぶんと参考になることが多そうです。
どうも、家族みんなで子どもを育てることが人間の特徴とすると、もっとも発達がかけ離れた1対1のペアによる母子関係だけで子育てをしているような最近の「家庭」というのは、不自然な形なのです。子どもは、母親からだけでなく、いろいろな人の中で育てられることが必要なのです。今日、明日は、私たちが主宰する会で「保育園、幼稚園の保育士、教諭以外の職種である人のための研修」を行っています。子どもには、いろいろな職種の人と関わりながら生活をし、学んでいくものです。松沢さんは、最近の子どもの虐待という深刻な問題の原因として赤ちゃんとのかかわり方で、何が不足しているかということに対して、「手のかかる子どもたちを育てるのは、お母さんだけじゃなくて、お父さん、おじいさん、おばあさん、兄弟、みんなです。共に育て、共に育つ。それが親子関係の基本だと思っています。では現代の日本が必ずしもそうなっていないならば、どこに原因があるか。はっきりしているのは、いまや3世代同居のような親子関係が消滅しつつあるということです。」と言っています。社会に向けての提言として、「現在の日本社会の親子関係が、かなり人間の本性と違ったものになっているとは思います。そうだとわかれば、人々の暮らしと自然の摂理とのかかわりをあらためて考える大きな切り口になると思います。」
また、よく、先を見ることができるのは人間だけだと言われています。たとえば知恵が進んだチンパンジーでも、1週間先を読むのが限界だそうです。人間こそ、想像する力、イマジネーションがあって、時間的な距離を置いて、空間的な広がりを狭めて生きていると言われています。「おそらく人間は、いまここの世界に生きているだけじゃなくて、昨日も一昨日もずうっと昔からの過去を引きずって現在にいるし、いまだ見ぬ、あるいは一週間先の、一年先のずうっと未来を考えて生きています。あるいは地球の裏側で起こった津波や地震、そういった災害で苦しめられた人々にも思いをはせるでしょう。多分それは極めて人間的な心の働きであって、チンパンジーは、いまここにしか生きていない、いまここだけなんです。食べものに対しても、それは「執着」するでしょうね。いま目の前に食べものがあるかないかというのは、重大で切実なことだから。人類は先々を考えながら現実に対処しているからこそ、1万年前くらいに農業を始められたわけです。田植えをして苗を育て、実らせ、米粒をご飯にするには相当な時間がかかります。」
農耕民族である日本人は、狩猟民族よりも先を見る力に優れているような気がします。田植えは、今の食事のためではなく、数ヵ月後の食事のために行う行為なのです。先の見通し、先を信じる力、この力が、人を人間らしくしているようです。

研究

霊長類研究所は、類人の研究をすることによって、「人間とは何か」、「人間はどこからきたのか」、「どこへ行こうとしているのか」というような本質的な問に対して、生物としての人間観という立場から、指針となるような答えを導き出すように研究をしています。これらの研究に拍車をかけたのが、「アイ」というチンパンジーでした。アイを中心に合いプロジェクトが始まるのですが、次にこの研究の大きな節目が、アイにアユムという子どもが生まれたことです。アユムは人工授精で生まれるのですが、今度は親子関係、家族といった様子を観察することができるようになったのです。子どもたちの成長、子育てや母から子どもへの働きかけの様子を知ることで、研究は新たな段階に入っていきます。
昨日のブログで紹介しましたが、ヒトとチンパンジーの遺伝的な差はDNAの塩基配列で1.23%と分かっています。ウマとシマウマの遺伝的な差は推定で約1.5%ですから、それよりもヒトとチンパンジーのほうが近いと言えます。ですから、チンパンジーの研究によってヒトの「心の進化」を知ることができるかもしれないのです。骨格は化石に残りますが、知性や認識は残りません。チンパンジーがこの世界をどのように見ているのかを知ることで、共通祖先の知性を推測し、ヒトまでの進化の謎を解き明かせるのではないかと考えているのです。
チンパンジーの研究では、最近のITの発達により、コンピュータでの分析などによることもあるようですが、やはり、心の研究ですから、非常にローテクなものによるところも大きいようです。相手の顔を見ながらの対面検査や、身近な品物を使って認知機能を見るやり方などや、参与観察といって、チンパンジーの生活シーンで母親の手を借りて子どもの心の発達を研究する手法もあります。ただ、この時の問題は、同じ部屋に入ってテストすることをできるのは、長い間に絆を深めたある意味限られた人間しかできないということです。人間も、ただ紙上での答案だけでその人を判断するだけでは、社会に出てからの力を見ることはできませんね。この研究でも、コンピュータで数字や漢字の記憶実験はできても、心の問題はわかりません。
研究について、所長の松沢氏が興味深いことを言っています。「人間というものがあって、心があって、それを担う器官は脳であることは自明ですよね。で心の働きを知ろうと思うと脳の研究です。すると脳の部位に目がいくようになって、前頭葉から前頭前野、さらにはその中の神経細胞とか、そして神経伝達物質、DNAとより細かなものに入っていくわけです。それがある種因果を解きほぐす道だと信じているのですね。でもエンドルフィン(脳内モルヒネ)のアミノ酸配列が分かって、それで心が分かるということにはならないわけでしょう。あるいはどうして時計がこんな風に動くんだろうと、どんどん分解して金属片になって、それで時計が分かったことにならないですから。」
これは、乳幼児研究においても、机上の学問だけでは決して解明できないということです。実際に、乳幼児と生活を共にし、そこからの観察がなければわからないということでしょう。もうひとつ、重要なことを言っています。「分析的な手法は物事を理解する一つの方法だけど、それで全部というわけにはいかない。人間だったら、2人いて初めて生まれる心もありますよね。一人の人間だけでは決して起こらない共感や助け合い、あるいは怒りや嫉妬。こういう情動は2人以上の心の働きを調べないと研究できないわけです。でも脳科学や分子生物学はしないわけですね。」
この指摘もとても大切な気がします。子どもたちの発達、生活は、決して一人の個体としてみるのではなく、社会の中の一人の存在としての発達を観察すべきだということです。その社会には、親子関係だけでなく、他の大人、他の子ども、特に異年齢の中の子どもの姿の観察がとても大切です。発達過程というのは、その子の育つ環境、どのくらい子ども集団、社会の中で生活しているかが影響するのです。

人生色

 昨年、北大の川田さんをお呼びして講演を頼んだのですが、その時に会場に皆さんにこんな質問をしました。「チンパンジーと人間のDNAは、何%位同じだと思いますか?」その質問の答えはさまざまでした。ある人が「50%くらいかな?」と答えたら、「それは、人と苔くらいの違いです。」と答え、会場の皆さんはびっくりしていました。そんなには違わないと思いますが、それでも、だいぶ違うだろうと思います。それが、なんと「98.77%」は同じだそうです。ゲノム解析によると、チンパンジーと人間のDNA塩基配列は約1.23%しか違わないことが分かったのです。最近は、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどは生物学の分類でいうとヒト科に属していて、かつて大型類人猿と呼ばれ、その言葉には「猿」がついていましたが、それらの種はサルではないため最近は「類人」と称するそうです。もちろん、最近では子どもでも人間はサルから進化したのではないことは知っていますが、それでも、彼ら類人の研究をすることによって、人間の進化の解明の手掛かりを見つけることができます。特に、ボルボという文字や数の学習をするチンパンジーがいますが、その種のアイを中心に京都大学霊長類研究所では「アイ・プロジェクト」が行われ、人間の進化の解明を続けています。その10年間の研究成果をまとめた「人間とは何か」(岩波書店)が昨年6月に出版されました。
霊長類は、人間に近いだけあって、長い間研究対象になってきました。2007年に霊長類研究所の創立40周年、2008年に日本の霊長類学誕生60周年、そしてアイ・プロジェクトの30周年記念だったそうです。京都大学霊長類研究所40周年の時の式典で、所長である松沢哲郎さんが挨拶の中でこんな興味深いことを話していました。
「中国古来の思想では、季節に色を与えてきました。春は青、夏は朱、秋は白、冬は玄です。したがって人生を春夏秋冬の四季になぞらえ、青春、朱夏、白秋、玄冬と呼ぶそうです。人生80年時代の今日では、生まれてから20歳のころまでが青春。20歳―30歳代が朱夏、そして40歳からが白秋でしょう。しっかりと落ち着いた実りの季節です。」
この意味から、40周年というのは、まさに研究成果を出す時期が来たということを言っているのです。
この人生を色で表す言い方は、以前ブログで何回も取り上げた中国の陰陽五行説に由来しています。五行にはそれぞれ方角、季節、色など様々なものが配されており、人生を四季に例える言葉もここから生まれました。曜日に使われている漢字も世の中はすべて火、水、木、金、土の五つの要素で成り立っているというのが五行からきています。ただ、順番は少し違って、木、火、金、土、水という順で、五行説では、これらお互いに「相生(そうじょう/互いを生みだし伸ばし合う)」と「相剋(そうこく/互いに制し滅し合う)」の相を持っていると言われています。それは、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生み、逆に木は土を、土は水を、水は火を、火は金を、金は木を制するとされます。この関係は、絶対的な関係ではなく、ジャンケンや「ネズミの嫁入り」という話に見られるような循環型優劣なのです。そして、それぞれの五行に「方角」「季節」「色」があてはめられ、そこに「ライフステージ」があてはめられているのです。木=東==春=青ということで「青春」、火=南=夏=ということで「朱夏」、土=中央=土用=黄、金=西=秋=白ということで「白秋」、水=北=冬=玄(黒)ということで「玄冬」ということになります。これらは、昔から日本でもいろいろな所に使われていて、なるほどと思うことがあります。
話はそれましたが、人生は子どもの発達と同じで、その時々に意味があり、今をよりよく生きることが求められています。どの色も美しいですね。

道徳

ミラーニューロンが、「共感」をベースにして次第に活性化されるということは、人間社会の住みやすさを形作っているお互いが合意する道徳は、この「共感」がベースになっているということです。したがって、教科として「道徳」を教え、伝え、伝承していくことは意味のないことで、お互いが共感しあう社会、集団が必要になってくるのです。したがって、少子化という子ども集団を構成しにくくなってきた社会では、子どもたちの道徳感は薄れてくるのは当然で、それは教育の低下でも、若者のひどさだけではなく、大人たちが共感するような社会を構成していないことに責任があるような気がします。
しかし、この共感は、以前、ブログで取り上げた「役割交代」という発達と同じで、どうも「思いやり」という「共感」だけではないし、「道徳」の基盤になっているだけではないようです。ミラーニューロンは、「人間社会に蔓延する暴力や薬物中毒の「基盤」にもなっている負の側面も持っている」ことが指摘されています。こんな例が医学的に示されています。タバコがなかなかやめられない理由に、中毒になっているというだけでなく、タバコを決心してやめた人が、飲み会などで他人がタバコを吸っているのを見ると、ミラーニューロンが自動的に活性化して、知らず知らずに煙草に手をかけてしまうと言われています。以前、飲み会でタバコを何回も取り出し、口に持って行くという運動が、ミラーニューロンが活性化されると、この運動に関係する領域も活性化され、他人がタバコを吸っているのを見ているときのミラーニューロン領域の活動が高いほど、激しく吸いたいという気持ちがわいてきてしまうのです。このような行動は、一時、バトルロワイヤルという暴力映画の影響が問われたことがありましたが、また、同様に暴力的なゲームなどの影響についても言えるそうですが、その中の暴力シーンに誘発された「模倣暴力」にもミラーニューロンが関係しているといわれています。ですから、多くの外国では、成人映画指定は、性的なものよりも暴力的なものに神経を使うようです。
そうはいっても、タバコを吸いたいという行為とか、人に危害を加えるような行為は、自分には自主性があって、自分が見たものをその善悪に関係なくそのまま模倣するようなことはしないと思いがちですが、「私たちの脳内のミラーニューロンは私たちにそうと気づかぬまま自動的に模倣を行わせており、その結果、私たちは強力な社会的影響によって自主性を制限されている」と言われています。イアコボーニはこう言っています。かつて、もともと人間とは「自主性を持っている」と思われ、自己が脳の中で思考した観念に基づいて、身体が運動するという考え方でしたが、実は、ミラーニューロン研究によって、こうした考え方が逆転し、身体や運動が脳の思考や観念を形成しているということであるというのです。簡単に言えば、個は、他人との関係から生まれてくるものであるということのようですが、このような考え方は昔から日本にはあったようです。しかし、西洋では自己は、自らつくっていくものであり、独立した自己が行動を規定すると思っているようです。デカルト的な考え方が主流でした。それが、修正を迫られているのです。
私は、今後、日本における人との関係、社会の形成、その文化が世界的に見直されていることを感じます。それは、少子社会での問題を先進国と言われている国々が感じ始めていること、そして、ミラーニューロンの研究によって人との関係が再考されていることがあるような気がします。そして、このことが、乳児保育に影響するような気がします。