鎮守

 私の住まいのある地域には、「鎮守様」があり、町民は、みな氏子になっていました。「鎮守」というのは、その字のとおり、自然の猛威を鎮め、自分たちを守ってくれる神様だったのでしょう。それは、地域社会ができ、そこを支配する氏が生まれると、その氏族を守る「氏神様」とも呼ばれるようになったのでしょう。そのような神社が各村にありました。私の園がある旧下落合村の鎮守様として、「氷川神社」があります。この神社の由緒は不明だそうですが、第5代天皇である孝昭天皇の時代の創建ともそれ以前とも言われています。そして、江戸時代は氷川明神社といわれていたそうです。この下落合の氷川神社の祭神が奇稲田姫命一座であったので「女体の宮」と称されています。
それに対して、江戸時代の下高田村(現・豊島区高田、目白、雑司が谷および文京区目白台)の鎮守であった氷川神社がありますが、ここは、主神をその夫である素戔嗚尊とすることから「男体の宮」とも言われています。そして、ふたつあわせて「夫婦の宮」とも称されていました。そこを訪ねてみたのですが、なんと、平安時代に、「東下り」の際の在原業平も立ち寄ったようです。
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思いがけないところに神社はあるもので、先日、妻と渋谷から「ゴッホ展」を見に行こうと六本木に向かって歩いていると、「御鎮座920年、金王丸生誕870年、社殿造営400年」と書いたのぼりを見つけました。この神社は、古い由来があります。桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当武基が、源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山に納め八幡宮と崇め奉りました。そして、武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍300騎余を従え、勝利を得ました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護であると思い、基家が拝持する妙見山の月旗をどうしても欲しいと頼み、この場所に八幡宮を勧請しました。
そののち、重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇から渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城としました。渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。
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この重家には子がいなかったため、夫婦で八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。それが、「金王丸生誕870年」です。この金王丸は、17歳の時、源義朝に従って保元の乱で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱では義朝は敗れて、敢えない最期を遂げたため、金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを告げたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。
壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊と名を変えた金王丸に命じました。昌俊は断ることもできず、百騎ばかりを率いて京都に上り、義経の館に討ち入りましたが、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。ずいぶんと波乱に満ちた人生を送ったものです。そして金王丸の名声により、八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。
この境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。また、頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付けました。
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また、この社殿は、家光が幼かった頃、3代将軍はその弟忠長が嗣ぐあろうとの風説が行われていたところ、乳母であった春日局と教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、この神社に祈願を重ねておりました。その神明の加護で、家光が3代将軍になったために、金百両、材木多数を奉納して、御社殿を造営しました。これが、「社殿造営400年」です。
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 どうも、来年のNHK大河ドラマつながりをめぐり始めたような散歩でした。