金の成る木

今日は、大みそかです。明日から新しい年が始まります。昨年の大みそかの日のブログは、日光東照宮を話題にしました。東照宮というと、日光を思い出しますが、実は、江戸時代には全国で500社を超えるほど建てられています。しかし、明治に入って、廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社だけです。その中で、日本3大東照宮と呼ばれるものがありますが、日光東照宮と久能山東照宮の二社は異存がないのですが、もう一社は、仙波東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮などが我こそはと名乗っているようです。
家康は死ぬ時の遺言で、「遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と述べています。家康の死後、その遺言に従って、家康の息子であり、2代将軍秀忠は、日光に廟をつくりました。廟は元和3年(1617年)に完成し、家康公の尊骸は4月に日光に改葬されました。この秀忠こそ、来年のNHK大河ドラマ「江?姫たちの戦国?」の主人公である「お江」の夫になる人です。徳川の将軍というと1代目の家康と3代目の家光はよく知られているのですが、2代目の秀忠はあまりよく知られていませんし、その評価もあまりよくありません。その秀忠にドラマの後半は脚光が当たるのでしょうか?
家康は、晩年を駿河国の駿府城で過ごします。そして、「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託し、その通りに遺骸はただちに久能山に遷され、秀忠は久能山に家康を祀る神社を造営することを命じました。そして、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮です。今年の10月にこんなニュースが流れました。「国の文化審議会が文科相に行った答申で、静岡市駿河区の久能山東照宮が国宝に指定される見通しとなった。」というものです。全国に数多く建てられた東照宮社殿の特徴となっている、権現造りの先駆けとしての価値が認められたからです。日光東照宮は、その社殿が「世界遺産」になっているのですが、その“ルーツ”として、久能山東照宮は脚光を浴びることになりそうです。
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久能山東照宮は、駿河湾をのぞむ小高い山の上にあり、ロープウェイによって日本平と結ばれています。その東照宮に1昨日妻と行ってきました。タクシーを降りて、一ノ鳥居からつづら折りになっている計1159段の石段の階段を登っていくと、途中には、手前に「久能石垣イチゴ」を作る観光農園のビニールハウスがみえます。海岸に沿って約50軒も立ち並んでいるそうです。その向こうには駿河湾が広がっています。
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もともと、駿府へ進出した武田信玄が久能城を築いたこともあって、途中、信玄の軍師であった山本勘介が掘ったという井戸も残っています。
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今回、国宝に指定されたのは久能山東照宮の本殿と拝殿、石の間からなる複合社殿です。昨年まで社殿の塗り替え工事が行われており、極彩色の彫刻などは鮮やかで、特にこれらの装飾は桃山文化の名残をみせつつ、江戸初期の特徴をよく表していると説明されています。私たちが、わびさびを日本の色だと思っていますが、当時はずいぶんとモダンな色遣いです。
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 久能山東照宮の一番奥に家康の墓がありました。それは、ご神木と言われる大きな杉の木のもとです。その木には「金の成る木」と書かれてあります。それは、家康が、諸侯に向かって、「金の成る木とはどういう木か」と聞いたところ、誰も答えられなかったので、家康は筆でこう書いたそうです。「よろずほどのよ木」(すべてほどほどがいい)「志ひふか木」(慈悲深くあれ)「志やうぢ木」(正直)が金の成る木だというのです。

介護からの自立

 かなり以前のことですが、電車が立川駅に止まったとたんに乗客が一斉に乗り込んできました。先頭を切って乗り込んできたのは小学校2,3年生くらいのアメリカの子どもでした。たぶん、立川基地の子でしょう。その子は、急いで空いている席に座りました。その後、悠然と乗り込んできたのがその子の母親です(多分)。そして、先に座っている子どもの前に立ちました。しばらく立っていたのですが、突然、座っている子どもの頬を思い切りたたきました。「子どもは、座るものではない!」というようなことを言いました。
「WEDGE」の今月号に、国際医療福祉大学大学院医療経営管理分野分野責任者で教授の高橋 泰さんが、「敬老精神の介護に潜む落とし穴」という記事を書いていました。このリードには、ここ書かれてあります。「困っているお年寄りには、ついつい何かをやってあげたくなる。介護にあって、それは絶対の真理か。筆者は二つの町村を調査した。手厚い介護は、本人の筋力機能を低下させる恐れがあると判明。豊富な福祉サービスを提供する社会的余裕もやがてなくなる。自立型の老いに向けて舵を切るべきときに来ている。」
高橋さんは、宇宙ステーションに長期滞在をしていた野口さんを例に取っています。野口さんは、地球に帰還した時、重力の存在する生活に備えるために毎日宇宙空間で筋力トレーニングを行っていました。人間の身体は、使わないと急激に機能が低下します。特に筋肉は無重力の影響が大きく、1日全く使わないと、筋力がその体積の1%から数%減少し、数日使わないだけでみるみる細くなります。無重力状態では、筋肉を使わないで立つことができるため、一見楽ですが、地球に帰還した時に、地球の重力により発生する自身の身体の重みを自身の筋力では支えきれなくなってしまうのです。
このような無重力状態の宇宙飛行士と同様、筋肉への負荷が大幅に減少する状況に直面し、急速に筋力が低下している人たちがいると高橋さんは指摘します。それは、過度に生活支援や介護を受けている高齢者であるというのです。日本の介護の基本は、敬老精神だと言います。日本人の心情からすると、ある動作を行うのが大変になったお年寄りを見ると、ついつい何かをやってあげたくなります。たとえば、自分で買い物に行けるのに、「大変そうだから」という理由で誰かが代わりに買い物に行くと、それまで下肢の筋肉にかかっていた負荷がなくなることがあります。すると、筋肉は軽度の負担にかまけて足が急速に細くなり、外出に必要な筋力を失うことになってしまうと言います。そして、このような状況が続くと、間もなくトイレへ行くのも大変になってしまうのです。そうすると、今度はトイレに行くときにも援助を行うと、さらに筋力が落ちるという悪循環に陥ってしまっているというのです。
高齢者は、ただ死に向かうだけでなく、死ぬまで何かに貢献することがある気がします。最後まで、自分の意思で生きていく権利があります。そして、高橋さんは、「自分が弱ってきたら、周囲から十分な支援や介護を受ける」という、ない物ねだりの願望をあきらめ、「自立をできる限り続ける覚悟と、食べられなくなった時に、自然死を受け入れる心の準備をしておくこと」ことが何より大切なことであると言います。
人は生まれてから、いろいろなことを学んでいきます。それは決して受け身ではなく、能動的な行為です。それは、人として死に至るまで続くのです。

イルミネーション

今年のクリスマスは、どこも照明やイルミネーションがきれいでした。それは、「Light Emitting Diode」といわれるLEDという発光ダイオードが普及したお陰です。この光には、赤、緑、オレンジなどの種類はありましたが、青色LED訴訟が話題になったように、青色は実用化が難しいと言われてきました。それが、青色LEDが実用化されたために、光の3原色である赤、緑、青が揃ったことになります。これで、LEDでほとんどのフルカラーを再現できるようになったのです。そこで、LED信号機やフルカラーLEDの表示装置が増えてきているのです。今年のクリスマス前に、ツリーのイルミネーションを買いに行ったところ、さまざまな色のLEDが売られていたのですが、なんと、一番高いのが白色でした。どう見ても、色がついていたほうがきれいなのですが、最後まで実用化が進んでいなかったのが白色LEDだったようです。白色は、三原色の組み合わせで作られる色のために、最後になったのです。しかし、白色LEDの実用化が進んだおかげで、電球や蛍光灯に比べて余分な熱を消費せず寿命も圧倒的に長いため、次世代の照明として期待されています。
このLEDは、長所 としてCO2排出量が少ないことや、寿命が長く取り替えなど維持管理コストが安いなどの理由で、急速に冬のイルミネーションが派手になっていきました。同時に、そのライティングのデザイナーも注目されるようになりました。有名なのが、フィンランドで学び、東京駅、東京タワー、レインボーブリッジ、横浜ベイブリッジ、明石海峡大橋、六本木ヒルズ、白川郷、姫路城、大阪城、浅草寺、函館市や長崎市の景観照明、白川郷合掌集落などのライトアップを手がけた石井幹子さんです。特に、鉄塔の輪郭を電球の光で縁取るだけだった東京タワーの照明を、100機以上の投光器で鉄塔の骨組みを浮かび上がらせるという斬新な手法を採用し、日本らしい季節の変化を意識し、夏と冬で異なるライトアップを実施したことで、1987年には年間200万人台に落ち込んでいた来場者数を、新ライトアップ以降の1989年には380万人に回復させたことは話題を呼びました。
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今年彼女が手掛けたイルミネーションが、「光都東京・LIGHTOPIA2010」です。その種名を妻と見に行きました。「地球・環境・平和」をテーマにした光の祭典として、皇居外苑会場の和田倉噴水公園では、著名人や千代田区の小学生たちが描いた明り絵を展示する「アンビエント・キャンドルパーク」を、江戸城の名残を留める日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠では、一部多様な生き物をかたどりながら、白く美しい光が連続して流れ、交わり、つながっていく「光のアート・インスタレーション 交流」を、丸の内会場では、花の輝きをより美しく鮮やかに魅せる「フラワーファンタジア」をそれぞれ実施し、人と地球に優しい様々な光の世界を創りだしていました。
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他には、今年のテーマ「90歳の表参道」というイルミネーションも違う日に妻と行きました。今年は、明治神宮鎮座九十年ということで、表参道にとっても誕生90年で、100年に向けての10年間の始まりの年です。90周年にちなみ、LEDを昨年の63万球から過去最多の約90万球にスケールアップし、1kmに渡って153本(昨年は138本)のけやきを、温かみのある電球色が灯されます。
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 あと、妻と見に行ったイルミネーションは、けやき坂イルミネーションをはじめ、66プラザや毛利庭園でも「雪の白」をイメージしたイルミネーションと、六本木スターライトガーデンイルミネーション「MIDTOWN CHRISTMAS 2010」です。ここは、約2,000?に及ぶ広大な芝生広場が、約25万個のLEDにより、幻想的な宇宙・夜空と、ミストによって、輝きとともに生まれ落ちた星たちをやさしく包み込む「星雲」を表現し、とても幻想的でした。
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また、職員と見に行ったのが、「冬の汐博2010 Caretta OCEAN Xmas 2010『BLUE OCEAN』」と、新宿タカシマ タイムズスクエア前の『光のペットボトルアート』でした。今年は、なぜか各地のイルミネーション巡りをした冬でした。
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もしドラ番外編

ピーター・ドラッカーは、1993年に出版した著書『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社)の中で、「21世紀は知識が唯一の意義ある経営資源となる」と予想しました。この知識とはどんなものなのでしょうか。ドラッカーは、この言葉をどのような英語単語を使ったのでしょうか。研究室で、いろいろな書物を読み、いろいろな人の考え方を学び、その理論を学ぶことでしょうか。人類がこの世に誕生し、社会を形成するに従って、さまざまな知識を持った人がリーダーとなっていきました。その知識を持って、判断し、将来を見越し、行うべき道を示してきました。そして、皆をひきつれて、その道を進んでいきました。現在で言うと、チームの前面に出て引っ張っていく牽引型リーダーシップのイメージです。しかし、そのようなリーダーは、環境変化がさほど激しくなく、市場分析によって進むべき道筋が見えた時代には通用したのですが、現在では、環境の不確実性が増すにつれ、市場や競合、そして自社をも対象化して分析し、自社が取るべきポジションを決める分析的経営の限界が、欧米でも指摘されるようになってきているようです。
 「日経ビジネス」で、野中郁次郎さんが、「ミドルを軸にイノベーションを起こす」という講座の中で、最近のリーダー像をこう描いています。「チームの前面に出てぐいぐい引っ張っていく牽引力でもなければ、自分が中心となる求心力でもない。いわばチームの「芯」、あるいは「心棒」となって支え、吸引力を持ちながら、全体と個のバランスを絶えずモニタリングし、メンバーの自律性を喚起していく。初めに理論やモデルありきで論理的にブレークダウンし、それに現実を合わせるのではなく、現実のただ中でその時々の文脈に応じて最善の判断を下し、チームで新しい価値を生み出していく。そのような実践的な知恵、すなわち、「実践知」のリーダーが強く求められるようになっている。」
 ここでいう「実践的な知恵」が、ドラッカーの言う21世紀に求められる「知識」なのです。野中さんは、「知識とは単なるデータや情報の集積ではない。思索や実践を通じて自分の中に取り込まれ、血肉化された知であり、その源泉には人間としての信念や思いがある。」と説明しています。今までは、知識は机上で身につけるものと思っていた節がありますが、実は、「人間としての信念や思いから出た思索や実践を通じて自分の中に取り込まれたもの」が知識なのです。そして、組織のメンバーが現場の中で培った知識が、新たな価値へと結実するのだといいます。この知識創造のプロセスを組み込み、イノベーションを不断に起こしていくことのできる組織のみが不確実な時代を生き残るというのです。今の、保育、教育界は、そのような意味で生き残ることができるのでしょうか。ただし、保育、教育の生き残るという意味は、決して継続して経営ができるという意味ではなく、子どもたちにとって必要な施設であり続けることができるかということです。「イノベーションを不断に起こしていく」ことに反して、「今迄のやり方を守る」「変えない」ということに価値を置いていては、生き残ることができないのです。現在の環境の中で生きる子どもたちを守ることはできないのです。
 リーダー像として、「牽引力」から「求心力」、そして、いまは「芯」として支え、「吸引力」を持って、メンバーの自律性を喚起することが求められ、現実に合わせるのではなく、場面に応じて判断を下い、新しい価値を生み出していく柔軟性が求められています。これは、常に実践の中で行われていくものです。

生活スタイル

 一人住まいをしている息子が帰ってきてびっくりしたことが、風呂に朝はいると言うことでした。また、一人住まいをしている職員の部屋には風呂がないと聞いた時もびっくりしました。それは、共同風呂に行くのではなく、部屋にあるのはシャワーだけで、いつもシャワーを浴びているだけだそうです。私にとっては、夜寝る前にゆっくりと湯船につかるのは、何とも気持ちのよいものです。私は少しぬるめの湯につかりながら、音楽を聴くのが好みですが、つい眠くなるのが玉にきずです。風呂で寝るのは危険だと聞いているからです。
 湯船につかるのは、疲労回復や血行促進など体にいいとされる様々な効果効能があるといわれています。R25という雑誌で、入浴のタイミングについてのアンケート結果が掲載されていました。それによると、やはり76%の人が夜に入浴していて、その76%の人たちの入浴時間は、平均して「21.55分」だそうです。ちょうど私は平均のようです。それでも、「おふろに入る時間をもっと充実させたい」と思う人が72%いたということは、やはりふろにゆっくりつかりたいということは願望のようです。
 家で風呂に入るときに、どのような入浴剤を入れるかと言うと、今、私は3種類を使っています。体をゆっくりと温めたいときには、以前ブログふぇ取り上げた「湯の花」を使います。温泉の不溶性成分が析出・沈殿したものを採取したものです。すがすがしい気分になりたいときには、富山県滑川市沖水深333mから取水される深層水を活用した入浴剤を使います。もうひとつは、何となく漢方で体の調子を整えたいときに使う入浴剤で、生薬の湯ということでトウキ、シャクヤク、チンピ、サンシシ、ボウイ等が入っています。あとは、冬至の時のゆず湯とか、子どもの日のショウブ湯とか季節、伝統にのっとった入浴です。
最近は、とてもおもしろい入浴剤が豊富のようです。R25に紹介されています。例えば、洗濯洗剤のようなパッケージのものには酵素が入っていたり、乾燥肌にもやさしい馬油が配合されていたり、なかには本物のラー油と見間違えるようなものもあるそうです。
この雑誌には、毎日の入浴をさらにもうワンステップ有効活用するテクニックを紹介しています。それがなんと、洗濯だというのです。毎日のおふろタイムを上手に使うだけで、洗濯物は片付く、週末の家事は軽減できると、まさに一石二鳥と言うことで、毎日のおふろタイムで効率よく洗濯をするためのコツが紹介されています。ワイシャツの洗い方は、まず、女性のメイク落とし用のクレンジングオイルと食器洗い用の洗剤を1対1で混ぜ、汚れの気になる部分に歯ブラシでこすってから洗うと、汚れがぐんと落ちやすくなるそうです。カーディガンなどのニット類の上手な洗い方のコツは、オシャレ着洗い用の洗剤に、ヘアトリートメントを少し溶かして使うと、風合いがよくなるそうです。これは、ヘアトリートメントに入っているジメチコンという成分が繊維をコートして、ふんわりさせるのだそうです。
また、洗濯と言うと、朝洗って、終わってすぐに干すというのが普通でした。しかし、最近は忙しくなって、夜に選択する人が増えました。そんな事情から、夜使う洗濯機というのも発売されています。夜の洗濯ということで、低騒音のインバーターモーターを搭載しているので、夜でも音を気にせず安心して洗濯できますよ。また、デリケート素材を傷めずに洗える『上質おうちクリーニングコース』も設定しました。また、食事や入浴の時間を使って洗濯を済ませることもできる「急ぎコース」があるのもあります。静かに素早く仕上がるので、多忙なビジネスマンにぴったりという触れ込みです。
 時代によって、その生活スタイルをよく見ないと何が必要かわかりません。ただ、理想論だけを言っても、民意はついてきません。

ピスタ

 年末になると、飲みに行くことが多くなります。しかし、以前、ブログで書きましたが、私はできるだけ「内飲み会」にしています。外で飲むと、ちょっと飲んだつもりでも一人当たり、3?4千円くらいしてしまいますが、私の家での内飲み会ですと、大体会費はワンコイン500円くらいで済みます。そして、何よりも気を使わないで仕事の話ができます。
 また、内飲み会のいいところは、参加者がそれぞれいろいろなものを持ちこんでくるという楽しみがあります。そんなとき、参加者の好みが出ることと、私の好みは何であるかをどう考えているかもわかります。また、集まると大体ビールなどを飲むことも多いので、おつまみと言えば何を思い出すかも人によって違います。多くの人は、枝豆を思い出しますが、そのほかには、ナッツ類のことも多いようです。いつも持ってくるナッツと言うと、ピーナッツが代表ですが、そのほかにアーモンド、カシューナッツ、くるみがありますが、最近必ず持ちこんでくるものに、「ピスタチオ」というナッツがあります。ピスタチオは、食べ始めたら止まらなくなってしまいます。このピスタチオは、紀元前1世紀に、ローマ皇帝が地中海沿岸の原産地からローマへ持ち帰って以来、高値で取り引きされた高級品でした。旧約聖書に登場する「シバの女王」も現在のイラクあたりのピスタチオを独占していたと言われています。
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ピスタチオと言うと、白くて硬い殻に入っていて、その割れ目から二つに割って中の緑色の実を食べますが、実は、それは、「実」というより「仁」と言った方が正しいようです。この「仁」というと、なんだか懐かしいですね。それは、梅干しを食べた後の硬い種を割るとさらに種のようなものが入っています。それを子どものころに必死でとりだしたことがあります。それが仁というもので、果実の核のようなものです。ピスタチオは仁の色の美しさから、「緑色の宝石」との別名もあるくらいです。
その味、姿だけではなく、いま、ピスタチオなどナッツ類の健康効果が世界中で注目されています。アメリカやヨーロッパの国々では栄養豊富なヘルシースナックとして毎日の食事に意識的に取り入れられているほどです。ナッツ類は、「太る」「ニキビになる」「コレステロールがたまる」などと思われていますが、ピスタチオにはビタミンB群や食物繊維、カリウムなどがバランスよく含まれており、主成分は脂質ですが、そのほとんどはオレイン酸という一価不飽和脂肪酸です。これはオリーブオイルと同じ良質な植物性脂肪で、コレステロールはゼロなのです。摂り続けることで肌や髪にもつやが出てきます。また、体内で酸化されにくく、血液中の善玉コレステロールは減らさずに、悪玉コレステロールを減少させるという働きもあります。中性脂肪を減らす効果もあり、高血圧や動脈硬化などの生活習慣病予防、心臓病のリスク軽減などにも効果が認められています。ナッツの主成分であるオレイン酸を主な油脂源とする地中海型食生活の国は、WHO(世界保健機関)健康長寿世界ランキングの上位を占めています。2003年には、アメリカ食品医薬品局(FDA)により、ピスタチオは心臓病予防効果が期待できる食品のひとつに認定されています。
また、アメリカにおける食生活指針ではピスタチオなどのナッツ類は脂質の摂取源として好ましい食品であるとして推奨されています。
また、日本でもピスタチオの効果が言われています。細胞の内外の水分バランスは、カリウムとナトリウムによって保たれています。ところが塩分の摂りすぎでナトリウムが過剰になると、血管や血圧に影響を及ぼしてむくみの一因になります。カリウムには、余分なナトリウムを体から排出してくれる働きがありますから、厚生労働省の「日本人の食事摂取基準」(2005年版)で、「減らすべき栄養素」としてナトリウムが挙げられています。そして、カリウムを多く含む食品を摂るといいと言われています。カリウムが不足すると疲れやだるさなどの症状が起こり、手足のしびれや痙攣が起こることもあります。お酒を飲んでもカリウムは失われるので、カリウムを多く含むピスタチオは格好の供給源で、おつまみで積極的に補給することは理にかなっているようです。

もしドラ12

 いよいよ「もしドラ」の最後です。
組織で働く人たちの大半は、一所懸命に働き、多くのことを知っているにもかかわらず、十二分に効果的である人はまれであるとドラッカーは言います。それは、そもそも組織というものが極めて最近の発明であるために、人間はまだそれらのことに優れるに至っていないからであると言います。一人だけの工房で、一人だけで行う仕事の場合には、仕事が成果を上げる人物を作り上げるのに対して、組織では、成果を上げる人物が、仕事を作り上げるのです。その組織が、効果的だあるために第1歩は、「なすべき正しいこと」を決めることだと彼は言います。有効性とは、物事を正しくなすことであり、そもそも正しいことをしない限り、生じえないものなのです。正しくなることをするためには、優先すべきこと、つまり集中すべきことを決めなければならないのです。何を優先すべきかは、何回も彼が強調するように、自分が強みを持っていることをしなければならないのです。
 この強みをはっきりさせるものは成果ですが、その時、好きなことと、うまくやれることの間には、ある程度の相関関係があります。さらに強い相関関係があるのは、自分の嫌いなことと、うまくやれなこととの間であると言います。しかし、ドラッカーは、一件その相関関係と違うように見える例を出して、大切なことを言っています。それは、とてもおもしろい考え方です。相対性理論を打ち出した天才と言われたアインシュタインは、シンフォニーオーケストラで弾けるほどバイオリンの才能が得られるのであれば、なんと引き換えてもよいというほど弦楽器が好きで、日に4時間も弾いて楽しんでいました。それに引き換え、数学をやるのは嫌いだといつも言っていました。しかし、彼が天才だったのは、数学においてだけであったのです。どうしてでしょう。それは、自分が持っている強みとは、技術ではなく、受け入れる能力であるとドラッカーは言うのです。したがって問題は、読めるかどうかではなく、読む人である、聴く人であるかということであると言います。
 これは、どういうことを言っているのでしょうか。組織で働く人は、人との関係において、どのような力が必要かということです。最近、引きこもりと言われる人が多くいることが問題になりました。それは、人といることのストレスが耐えられない人のことを言う音が多いようです。それは、どんな力が足りないのでしょうか。ドラッカーは、人との関係に素晴らしい力を持っているということは、十分に聴くことができることであると言うのです。これは、会議などで実感することです。いかにも人前で話すことが上手だとか、難しい本を読むことができるとかいう人は、それだけでは人を説得したり、感動させることはできないのです。
 人は、自分の生涯をどう割り振るかは、自分の責任です。他の誰も自分のためにそれをやってくれることはないのです。そして、その人生のパターンは、二つあると言います。一つは、人間そのものの開発と、技術や能力や貢献する能力などの開発で、この二つのことは互いに全く別の問題であると言います。自己開発は、指導することによってはじまるのではなく、奉仕することによってはじまり、また、自分の外の存在としての理念に向けて努力することによってはじまります。それは、そもそもリーダーは、生まれつきのものではなく、またつくられるものでもなく、自分で作り上げるものです。自己開発は自分自身の責任であるのです。そして、自己開発を効果的にするためには、まず、改善が必要であり、変革が必要です。変革の時を知らせるシグナルに耳を傾け、困難に陥った時ではなく、成功しているときにこそ変革を行わなければならないのです。
 ドラッカーは、「非営利組織の経営」という書の中で最後に「自己開発は、哲学でもなければ、よき意図でもない。そして、自己組成は、心地よい満足ではない。いずれも行動である。」そして、「あなたは、より大きな人間になる。しかし、何にもまして、あなたは、より効果的で、より献身的な人間になるのである。」そして、「明日、あなたは何をするか、そして、あなたは何をやめるか。」と自らに問いかけることを訴えて本書を閉じています。

もしドラ11

いよいよドラッカーの「非営利組織の経営」についての解説と、私の私見は最後に近くなりました。最後は、「自己開発」です。自分自身を開発するには、自分にふさわしい組織で自分にふさわしい仕事につかなければならないと彼は言います。基本的な問いは、「一人の人間として、自分は何に向いているか」です。彼は、このような問いに答えを出すには、自分がベストを尽くせるには、どのような環境が必要であるかを理解しなければならないと言います。子どもの発達を促すためには、やはりどのような環境が必要であるかを理解しなければならないのです。よく、その環境の一部が保育者であるという人がいますが、私は、保育者とは環境の一部であるのではなく、全体の環境を用意する人だと思っています。同じように、リーダーは、職員の環境の一部ではなく、職場のあらゆる環境をコーディネーターする人の様な気がします。
 そんなときに、自分の気質や個性をよく見なくてはならないのです。気質や個性は訓練して容易に変えられるものではないだけに重視し、明確に理解しておくことが大切だと彼は言います。しかし、もし、向いていないという結論に達した時にはどうすればいいのでしょうか。その時には、「それはなぜか」ということを問題にするべきだと言います。その組織が有する価値観になじめないのか、その組織が堕落しているからか、もしそのような場合には、人は確実にダメになると言います。そんなときには、やめることが正しい決断であると言います。
 自分自身に刺激を与えるためには、大きなものであれ、小さなものであれ、時々は変化を与えることが必要であると言います。この必要性の重要度は、人がますます長生きをするようになり、ますます長く活動できるにつれて高くなっています。しかし、変化と言っても、まったくかけ離れたものに代わる必要はないと言います。安楽な日常に埋没しそうになったら、何か違ったことをやるよう自分を駆り立てる時が来たということです。「燃え尽きた」というのは、たいていの場合、「飽きてしまった」ことを白状しているのであると言います。朝、やりたくもない仕事にいやいや出かけることほど、疲労を覚えるものはないと言います。たいていの仕事は、同じことの繰り返しです。喜びは、仕事自体にあるのではなく、結果にあります。したがって、仕事に飽きるというのは、成果を求めて働くことをやめるということです。
 成果がなかなか得られないうちは、仕事の中に学びを見つけていくことです。仕事の中に学ぶことを組み込み、かつそれを維持していくには、結果と期待のフィードバックの仕組みをつくらないといけないと言います。そのために、自分にとって重要な意味を持つ活動に取り組むとき、自分が何を期待するかを書きとめておくことが大切です。数ヵ月後に、その記録した期待と、現実の結果と比べてみて、自分はどのようなことをうまくやれるか、どのような技術や知識を必要としているか、そして、どのような悪い癖を持っているかを知ることができるのです。
それは、自分自身にだけ向けられるのではなく、組織に対してもそのような振り返りが大切です。同じことの揺り返しに見える毎日の中で、ただ日々に追われていると、疲労感だけが残ります。そこには、期待を持ち、それへの達成度を見直すことで、次の期待への修正をすることができるのです。比較するものがなければ、弱みも見つかりません。私は、その期待を「志」だと思っています。それに向かうための環境は、どのようなものなのか、どんな環境が今足りないのかを見直していくことで、少しずつ志に近づいていくのだと思います。

電池

 私が現在使っている携帯電話は、使い始めてから1年になります。次から次に新しい機種が出てきたり、いろいろなメニューが増えてくると新しい機種が欲しくなります。それが作戦でしょうね。しかし、別にまだ使えるからと我慢はしてみますが、新しい機種に変更する時の動機として大きいのが、バッテリの持ちが短くなることです。書いてまだあらしいうちは、充電しなくても2?3日は持ちますが、次第に毎日充電をしなくてはならなくなります。今の世の中、1日の途中で充電が切れると非常に困ります。誰でも、そんな思いをしたことがあるでしょう。そんな時のために携帯電話のフロント画面には、電池残量をいます表示があるのですが、この印も三つでフル充電ですので、二つになると少し減ったという感じですが、そこからが早く、あっという間に充電切れになってしまいます。
実は、電池残量表示が二つになった時には、すでにバッテリ残量は30?40%と半分以下の場合が多いそうです。ですから、三つのうちの二つになった時は、2/3は残っているということで、70%くらいは残っている感じがするので、そのギャップがおおきいのでしょう。
同じように、ノートパソコンにも充電の残量が表示されます。それは、全体のどのくらい残っているかという図とは別に、あと何時間何分くらい使えるかという表示をしてくれます。携帯電話で使われている電池は「リチウムイオン電池」ですが、これはノートパソコンを初めとする多くのデジタル・グッズでも使用されているものです。同じように充電時間が過大なものに、ビデオカメラとかデジタルカメラがあります。これらが発売佐田当時は、充電が持つ時間があまりに少なく、出先で写真を撮ったり、子どものが学芸会とか、合唱祭などを長い時間撮るときには、いくつもバッテリを持っていました。今では、ずいぶんと長く持つようになりました。その進化は目覚ましいものがあります。それに対して、携帯電話のバッテリはあまり進化していないように見えます。使っていると、次第に電池が劣化してきます。一般的にリチウムイオン電池は500回充放電すると寿命だといわれており、携帯電話だと2年前後が目安だそうです。電池の持ちをよくして、携帯電話の使い勝手をよくするには、寿命が来たリチウムイオン電池を交換するのが一番です。私の持っている携帯電話では、購入して何年かたったために、数日前に新しいバッテリを無料で送ってくれました。
電池を長く持たせるためには、もうひとつ、省電力にすることです。しかし、基地局と携帯電話間で電波通信するときに使うエネルギーは決まっているので、極端な省電力化はできないそうです。また、取り組んでいるのは、省電力化よりも通信速度を上げる方向だそうです。確かに、3G携帯の通信速度は7.2Mbps。10年前の9.6kbpsとは比べものにならないほど速くなっています。また、ある携帯電話では、電池残量表示が3段階から5段階へと細分化されてきています。
電池そのものは進化していないように見えますが、電池の種類はずいぶんと変わりました。普通、電池といえば、赤くて円柱形のマンガン電池を思い浮かべます。しかも、大きな単1と言われるものです。しかし、最近はマンガン電池はほとんど見ることはありません。「2008年 電池の総生産(経産省機械統計)」によると、全電池に占めるマンガン電池の売り上げ数量は4%以下、売り上げ金額は1%以下だそうです。それどころか、使い切りの電池自体の売り上げも年々下がってきています。1999年の売り上げ2020億円に対して、2008年では1332億円まで減ってきている半面、充電をして繰り返し使える二次電池は、1995年時点では6080億円だった売り上げで、2008年には7410億円にもなりました。特に、1991年に登場して以来、携帯電話やノートパソコンの伸びとともに右肩上がりで販売個数を伸ばし、2008年には12億6000万個を販売し、現在では、電池の総売り上げの46%を占めるのがリチウムイオン電池です。
しかし、それぞれの電池には、それぞれの場所に適した電池があり、必ずしも高性能だけがいいとは限らないようです。

言葉のニュアンス

 どの国も言葉にも、その国の言語における心地よいリズムがあると思います。今年の園からの子どもたちへのクリスマスプレゼントは、職員で考えた、園を読み込んだ「かるた」です。職員で読み札を考えたのですが、その文章がしっくりと読むことができるものと、なんとなくぎくしゃくするものがあります。どんな言葉がなんとなく気持ちよく聞こえるかというと、どうも5音と7音が安定するような気がします。これは、日本人は誰でも感じるようで、古代歌謡では音数がなお不定のものもあったようですが、万葉集以降は、およそ五音と七音が基本単位となったようです。それに対して、たとえば中国語などでは、「押韻」という同一または類似の韻をもった語を一定の箇所に用いることでリズムを作り、響きの心地よさや美しさを作り出します。また、他の国ではアクセントによってその言葉の心地よさを与えることもあります。
このアクセントや押韻などによるリズムよりも日本では、音数に基づく「律」である「韻律」という言葉のリズムが心地よさを与えるために著しく発達します。そして、規則正しく反復する音において、音律は認識されます。それを音数律と呼びますが、その音の数は、同じ数の言葉が続くよりも、異なった言葉が繰り返される方が心地よさを感じます。ですから、5音、5音というよりも、5音、7音と続いた方が心地よいリズムを感じるようです。それが、五七調という五音に七音が続く二句がまとまりをなすときの調べや、七五調という七音に五音が結合するときの調べが生まれてくるのです。
言葉というのはとても微妙なもので、五七調か七五調かで感じ方が違ってくるようです。五七調と七五調を比べると、七五調のほうがずっとリズミカルに感じるようです。それは、五七調では、2拍の繰り返しが2回しかなく、十分リズムに乗りきらないうちに、間延びのする七に移るため重たい感じになるようです。これに対して、初めに2拍を3回繰り返す七五調では、十分に助走がついた上で、下を5拍でコンパクトにまとめることができるからのようです。ただ、七五調の難点は、調子がよすぎて、ともすれば軽薄な感じがしてしまうことであり、逆に、重く沈んだ気持ちを表現するには五七調のほうが向いていると言われています。
また、日本語には、言葉のもつ微妙な感じとか、言葉から受ける主観的な印象に「語感」ということがあります。 今月16日の朝日新聞の天声人語にこんな文が掲載されていました。「谷川俊太郎さんに『おならうた』という愉快な詩がある。〈いもくって ぶ/くりくって ぼ/すかして へ/ごめんよ ば/おふろで ぽ/こっそり す/あわてて ぷ/ふたりで ぴょ〉。豊かな「音色」は、詩人が母語の常識から解き放たれ、心の耳で遊んだ産物だ。擬音語に限らず、何かを伝える前には言葉を選ぶ作業がある。とりわけプロポーズや面接のような勝負時、私たちは知る限りの言い回しから、思いと常識が折り合う言葉を絞り込む。適切な表現にたどりつくには、意味と語感の二つの道があるという。意味には字引という案内人がいるが、語感には道しるべもなかった。近刊『日本語 語感の辞典』(岩波書店)の著者中村明さんが、先頃の読書面で出版を思い立った理由をそのように語っていた。『言葉を選ぶ時に多くの表現が思い浮かぶのは、ものの見方が細やかということです。ものの見方を磨かないと、表現は増えません』。中村さんの指摘は、言葉を生業とする者すべてに重い」
意味は一様であっても、その言葉の語感による違いがあります。中村さんは、「日本語 語感の辞典」の中でこんな例をあげています。「発想・着想・思いつき」「心得・素養・たしなみ」「感激・感動・感銘」などです。今、幼保一体化の議論の中で、「教育」という言葉の定義が問題になっています。この言葉からは、どうも何かを無理やりにたたき込んでいるというイメージを強く持ち、持っているものを引き出していくというエデュケーションというイメージはわいてきません。