あご

「ツッピン ツッピン とびうお ツッピンピン ぎんのつばさ ツッピンピン あおいうみを ツッピンピン むねにあさひを うつして くもまで とどくか ツッピン ツッピン とびうお ツッピンピン とびうお ツッピンピン」という歌がなんとなく頭に浮かんできました。この歌は、中村千栄子作詞、桜井順作曲で、NHK「うたのえほん」などで発表され、1982年に日本童謡協会が選定した「日本童謡200選」に入っています。このような低年齢児向けの歌などは、最近聴きませんね。最近の歌は、リズムや、音程の上がり下がりがやたらと複雑です。
トビウオと言えば、もうひとつ思い出すものに「トビウオのぼうやはびょうきです」という「いぬい とみこ」さんの絵本があります。この内容は、作者が、アメリカが、1954年3月1日未明にビキニ環礁で、世界で初めての水素爆弾の実験を行ったさい、被爆した第5福竜丸と海の生き物たちの運命を重ねてこの絵本を書いたといいます。
「The Journal of Experimental Biology」という雑誌の9月号に「水平飛行するトビウオは、鳥にも匹敵する滑空能力を持つことが明らかになった」という記事が掲載されています。歌の歌詞に、「ぎんのつばさ」とあるように、トビウオは胸びれと腹びれを翼のように使い、時間で30秒以上、距離で400メートル以上、空中を飛ぶことができます。しかし、トビウオが空気の力をどのように受けて飛行しているのか、詳しくは調べられていなかったそうです。ソウル大学のチェ教授らは、トビウオの飛行姿勢と空気の力の関係を詳しく調べた結果、鳥に匹敵する滑空能力を持ち、水面に平行な姿勢の時に最も遠くまで飛べることが分かったそうです。このトビウオの飛行法を利用すれば、水面近くを飛ぶ燃費の良い飛行機を作れるのではないかと博士らは考えているそうです。
私の家では、主にだしは通販で購入したものを使っていますが、このだしは「あごだし」といって、トビウオのだしです。このトビウオは、あごが落ちるほど旨いから、「あご」と呼ばれてきたという説があるほど、その味わいが珍重されています。購入するだしの説明書きには、「使用するあごは、平戸沖で年に一度、秋のお彼岸前後の約一ヶ月間に獲れるものにこだわっています。あごは小ぶりで尾がきゅっと締まったものを厳選。大きいあごは脂分が多く、味がぶれるので使いません。水揚げされたばかりの鮮度の良いあごを、一尾ずつ素早く串にさし炭火で丁寧に焼きあげます。あえて、手間のかかる炭火焼きにこだわるのは(バーナーで焼き色をつけているものが多いです)背と腹両方から火をあてることでさらに質のよいものだけを選別し、焼あご独特の旨みと香ばしさを凝縮させています。仕上げに、 塩分を適度に含んだ浜風のなか、じっくり天日干し。手作業により丁寧に造り上げていきます。」とあります。このように、長崎では、トビウオは、秋の約一ヶ月間、波が高く、海が荒れた時でないと獲れないという、希少価値の高い魚です。
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平戸の友達から、毎年、だしにするためのあごと、焼いて食べるためのあごを頂きますが、焼きあごは縁起が良いとされ、そのだしは旨みとコクが深く、博多のお正月には欠かせないものだそうです。あごだしの味噌汁とか、おでんのツユは本当においしいです。

創造力

 「ヒトは、創造する生き物である」とよく言われます。そして、「創造」は時として「模倣」の対極にあるものとして語られることがあります。他人のまねをすることは、創造性がないと思われることがあります。また、きちんと自分ができていないうちに真似てしまうと、自分を見失ったり、自分がなくなってしまうと考える人もいます。また、その人をまねると、その人の配下になった気分になる人もいます。それは、「独自性」を掲げる人たちの多くに見られるような気がします。
 かつては、ヒトは、新しいアイディアを創造できる動物であるが、この創造性というものはたんにランダムな思考を行っているだけであり、研究対象にはならないと考えられていました。しかし、最近は、比喩や類推の基盤になる脳の中の配線が高い創造性をもっていることが分かってきています。その創造性についてラマチャンドラン博士がニュートンという科学雑誌で語っています。
 「祖先のヒト科の人類は、どのようにしてものに名前をつけたのでしょうか?火の回りに座って「これは何?」と聞くと、誰かが「バナナ」と答えたので、皆が「バナナ」というようになったのでしょうか?現在の幼稚園などではものの名前をこのようにして覚えるのでしょうか?」と彼は提起します。そうではなく、特定の形状が、自動的に特定の音声を生む傾向があるのだと言います。たとえば、「小さい」という言葉を各国語で発音してみると、どれも口を小さくすぼめる動きをします。それを模倣していきます。その模倣の要素はすべて音に含まれていて、そこから単語が生まれたと考えられているのです。単語は、まさに、舌や口蓋から生まれ、原始的な言葉はこのようにして発達したと言います。少し前のブログで、赤ちゃんが、胎児のころおなかの中でお母さんの口の動きを模倣しているということを書きましたが、まず、口の動きをまねるようです。そうやって生まれた基本的な単語は、それを土台にして本格的に言語が発達していきます。
 偶然ともいえる脳の発展は、それ限りで終わってしまっては、生まれては消えてしまい、なかなか定着していきませんし、それが文化とか文明にまでなっていきません。そこには、また、ヒトならではの能力があります。洗練された模倣システム「心の理論」は、いったん身につけると、「彼は興味深い重要なことをしている。私も同じことができるかもしれない。」と考えるようになり、そのために、相手を注意深く観察して、道具の使い方や金属の仕様といった発明を模倣するようになったとラマチャンドラン博士は言います。このような行動は、とかく恥ずべきことと思われたり、自分を低める行為と思う人がたまにいますが、実は、このような模倣が文明を作っていくのです。こんな例も挙げています。「ある人が突然、燃えている木片を取り上げて、他の木片に火を移し、火を絶やさないことを学びます。それを1?2人が学習すると、それは野火の様に広まります。このようなことがネズミ算式に膨れ上がって、最終的には月にも行けるようになったというわけです。」
 しかし、日常の活動、学習済みの行動を繰り返すだけでなく、ほんの2%位の人間には、誰も考えもしなかった可能性を、異なる方法で考察することができると言います。この意欲には、前頭葉が関わっている可能性を話しています。最後に、こんなメッセージを投げかけています。
「たくさんの本を読み、自分のフィールドにとどまらず、自分は何者であるかを、自分で決めつけないことです。そして常に、何かに熱中する人、情熱的な人のそばにいることです。私はずっとそうしてきました。退屈な人の近くにいてはだめですよ。伝染しますから。」

模倣

 今月の科学雑誌「ニュートン」の特集で、ヒトの脳に着いて書かれてありますが、ヴィラヤヌルS.ラマチャンドラン博士がインタビューに答えています。その中で、「“模倣”こそ文化の基盤。そのカギを握る“ミラーニューロン”」とは?」について話をしています。ヒトは、「ただの毛のないサル」ではなく、一部の局面において、より優れた能力を獲得した、極めて進化した類人猿です。それは、15万から10万年前に、突如、脳にあることが起き、爆発的な進化が起きたのです。そのあることとは何でしょうか。そして、それがどの様な作用をもたらしていったのでしょうか。人間の成長は、人類の進化の過程でもあると言われています。それは、必ずしも全く同じというわけではありませんが、ヒトの発達、赤ちゃんの成長を知る上でも何を大切にするべきかなど、とても参考になります。
 何十万年も昔、ヒトの脳では一部が専門化していきます。その中の2?3の事柄が偶然同時におきます。それらが連携しあい、相乗的な相互作用が突然生まれます。それによって爆発的な進化が起こったのです。子どもの発達でも、同じようなことが生まれているような気が私はしています。他の子どもと関わる中で、その関係性の相互作用により、いろいろなことが発達し、さまざまなことを覚えていく気がします。
脳は、相互作用によって生まれたものの一つが、洗練された「ミラーニューロン」と呼ばれる前頭葉の神経細胞なのです。昨日のブログでも書きましたが、この細胞によって、ある行動の予測をするという仮想現実のシュミュレーションを行うことができ、極めて社会的な生活を送れるようになったのです。ということは、人間が社会を構成することができる生き物であるということは、他人の心を推し量れる能力があるということであり、逆にそのような力が備わっていないと社会は構成しにくくなるということのようです。最近、どのも自分本位にものを考えたり、自分主体で他に要求したりする行動は、もしかしたら、脳のこの部分の細胞が少し衰えてきたということかもしれません。
この能力は「心の理論」と呼ばれ、ヒトしか洗練されていないようです。もうひとつ、このミラーニューロンが関与していると思われる重要な活動は、高度な「模倣」です。模倣は一部のチンパンジーにも見られますが、ヒトの場合、複雑な行動をわずか1回か2回見ただけで、模倣することができます。ヒトは、素早く観察し、学習します。このような模倣により、子どもは、他人の視点で考えたり、他人の視点で周囲を観察したり、何らかの意図をもった存在として他人を認識したりすることができると博士は言っています。
今日の朝のNHK教育テレビの「日曜美術館」はゴッホが取り上げられていました。ゴッホは、さまざま何との絵画を模写します。それは、真似をするということでなく、その人が書いた絵を、構図、タッチ、色使いなどをその人の気持ちになって描くことで、他人の視点でものを見る目を養っているのです。このように赤ちゃんは模倣することによって発達していくことは誰もが論じますが、模倣する対象物としてどんなものを環境として用意するべきかはあまり論じられない気がします。なぜかというと、私は、赤ちゃんが模倣する対象としては、他の子どもが重要な気がします。他の赤ちゃんがものを食べたり、触ったり、手足を動かす姿を見ることは大切なことです。この時期に、特定の大人とだけと毎日接したり、無表情な、装飾もなく、動きのない狭い部屋の中だけで過ごしたり、何も言わない壁を向いて食べたりする赤ちゃんが落ち着いているというのは、人間の発達上、将来ねじれを起こす気がします。

ヒトだけ

 毎月、科学雑誌「ニュートン」には、興味のわく内容の記事が多く掲載されています。今月号の特集は、「ホモ・サピエンス」ということで、「圧倒的なヒトの頭脳。そのしくみは?」という特集です。その中で、編集からアメリカのカリフォルニア大学サンディエゴ校脳認知科学センター長であるヴィラヤヌルS.ラマチャンドラン博士にインタビューしたものが掲載されています。それは、まとめとして、ヒトの脳は、他の動物にくらべて、何が特別なのかを話しています。それは、脳神経科学者として世界の第1戦で活躍している博士だけあって、現在わかっている最先端の研究です。それによると、かつて思われていたようなことの中で、ずいぶんと違っていたことがありそうです。
 人独特の行動をみると、それは人しかできないということであり、それこそがこれからも人間にとって必要な力であると同時に、その芽生えを私は人間の赤ちゃんに見ることができます。
 類人猿に「バナナをジョーにあげなさい」というと、類人猿はその通りに行動します。しかし、「木から取ったバナナを、ジョーにあげなさい」というと反応できません。つまり類人猿の言語には、「ある文を別の文に埋め込む」という入れ子構造がないそうです。
 また、チンパンジーは、枝を折って葉を落とし、シロアリを釣る道具をつくることができますが、後で使用することを想定して事前に道具をつくることはできません。また、二つ以上の部品からなる道具をつくることもできません。これらはヒトにしかない、非常に進化した能力のようです。また、読み書きについても、ヒトは特別な能力をもっているようです。たとえば、数の概念については、カラスなどの鳥やチンパンジーなどでも持っていますが、せいぜい、3,4,5,6くらいまで数えることができる程度で、脳の中で算数を行うことはできません。
 本とは何か?花瓶とは?豚とは?といった記憶を「意味記憶」と呼びます。類人猿にはこの意味記憶があります。バナナ、豚、ヒト、別の類人猿、群れのボスなどの意味を知っています。そうでなければ、類人猿はうまく生きていくことができないはずです。しかし、ストーリーを語れるのはヒトだけです。ヒトは、記憶をもっているだけでなく、特定の「エピソード」を思い出すことができます。これを読んだときに、私は、幼児に英語を教え、英語を話せるようになったと親が喜ぶのは、単に「意味記憶」に過ぎず、ヒトとしての特徴であるストーリーを語ることはできないため、英語ができるようになったとはいえないのではないかと思います。
 ほかにもヒトしかできないことはたくさんあって、すべてを説明できないくらいだそうです。そのような能力を人は驚くほど爆発的に進化してきたと言われています。まず、その結果生まれたのが、「ミラーニューロン」と言われる神経細胞だそうです。この部分により、誰かの行動を予測することができるようになるのです。他人の心、思考、意図などを洗練された方法で想像し、これにより極めて社会的な生活を送れるようになったのです。
 もうひとつ、このミラーニューロンが関与していると考えられる重要な活動は、高度な「模倣」だそうです。それが、「学び」の原点になったことはよく書きますが、なぜこの模倣が人として重要なのか、他の動物も模倣するかということを、先日、テレビでたけしの教育白書という番組で放送していました。それが、雑誌「ニュートン」にも書かれてあります。

もしドラ6

 日本では、福祉をサービスと言って久しくなります。これは、たぶんアメリカ的な発想から来ているのかもしれません。アメリカでは学校における教育もサービスと言います。しかし、このサービスという言葉は、日本人が受けるイメージと、アメリカで使われる意味は少し違うかもしれません。ドラッカーは、「非営利組織の経営」の中で、こう説明しています。「非営利機関は、たんにサービスを提供するだけではない。その最終利用者が、たんなる利用者ではなく、行為者となることを期待する。非営利機関は、人間に変革をもたらすためにサービスを使う。その意味において、たとえば学校は、プロテクター・アンド・ギャンブルのような企業とは、まったく異質である。学校は、習慣、ビジョン、献身、知識を与える。学校は、たんにサービスの提供者ではなく、その受益者の一部になろうとする。そのようにならない限り、非営利機関は、決して成果を生み出したことにはならない。たんに、よき意図をもっていたというだけにとどまる。」
 非営利機関では、計画が必要であることをドラッカーは言います。計画するためには、マーケティングが必要です。それが、計画を成果に転化するための戦略であると言います。このマーケティングという言葉も、ビジネスの世界でよくつかわれる言葉であり、販売促進のために有効な手段です。しかし、同じ用語を使い、同じ手段を使いますが、目に見えないものを売るという点で、ビジネスとは全く違います。たとえば、保育園という施設が「保育に欠ける」子どもを保育する施設であるといっても、保育に欠ける状況を作り出すことが経営であるはずはありません。欠ける状況に対して、どのような手助けができるかを売り込むことであり、それをドラッカーは、「一つのコンセプト(つまり抽象概念)であり、コンセプトを売るということは、モノを売ることとは異なる。」
 非営利機関が、マーケティングを行うに当たって大切なことを言っています。その第1は、「自分たちが特に優れた能力を有する分野だけに、集中することである。」です。それは、得意な地域ということもあるような気がします。ある地で成功したからと言って、ただ、事業を拡大しようと事情のわからない地で展開したり、他の分野にも広げることは、かなりリスクを伴う気がします。ドラッカーは、こんな例を引いています。「大学において、教養課程を教える大学の最大の問題は、自分たちは何でも教えることができると思い込んでいるところにある。成果の得られそうもない分野に、手持ちの限られた資源を投入すべきではない。これは、効果的なマーケティングを行うに当たってまず守るべき原則である。」
 原則の第2は、「顧客を知れ」ということだと言います。しかし、この顧客とはだれかということを間違ってはいけない気がします。たとえば、保育園の顧客は、保護者ではなく、第1は子どもです。そして、その子の親、地域の人々、ボランティアの人などと広がっていきます。
 犯しやすい過ちを挙げています。外部に目を向けようとせず、「誰でもわかっていること」ですまそうとします。しかし、「誰でもわかっていること」は、たいてい20年遅れのものだと言います。そして、どうしても独善的になってしまいがちです。また、誇りを持ちすぎ、現実に適応させることをしたがりません。もうひとつ、犯しやすい過ちは、新しいものを手掛けようとせず、古いものを取り繕うだけですまそうとすることだと言います。ここにも、伝統、過去からの積み重ね、独自性という言葉で変えようとしない姿が見えてきます。これでは、経営とはいえませんね。

もしドラ5

 ドラッカーは、リーダーの第1の責務は、「組織内の皆が、その使命を目にし、耳にし、そして、それとともに生きていくようにすることである。使命を見失えばつまずきが始まり、しかも、そのつまずきはきわめて急速に表に現れてくる。そして、この使命なるものは、十分に考え抜かれるものであり、変化していくべきものである。」ここで、使命は変化していくものであるということに対して、最初は、「?」という思いを強くします。その後に、こう書かれてあります。「子どもたちは、男の子も女の子も、その成長の過程で、彼らの人格の形成を助け、模範を示し、進むべき方向を知らせ、何かを学べるよう、知的にかかわりをもってくれる援助と、そこにおける経験を必要としている。」例えば、それを成し遂げるためには、絶えず使命を見直し、考え抜かなければならないのです。それは、「人口構造が変化している場合もある。何の成果も生まないままに資源を食いつぶしているようなものを、捨てなければならない場合もある。また、目標を達成してしまった場合もあるからである。」
 よく、変えようとするときに、「いままでのやり方を否定するのか」「築いてきた伝統を壊すのか」それは、過去のやり方をひているのはなく、その時にはそのやり方が必要だったように、今には今のやり方が必要なのです。それは、少子高齢化になった社会の人口構造の変化でもあり、救済措置としての役目を終えた保育園の役割の見直しでもあるのです。ドラッカーは、教育の危機に対してこんな例をあげています。
「いま私たちが考えるべきことは、学校に対して、真に何を期待するかということである。10人のうち9人までの児童がきちんとして学校教育を受けられなかったころの教師が、長年にわたって悪戦苦闘したものとは、いろいろな点でまったく異なったものがいまや期待されているのであろう。」時代によっての使命を考えなければならないのです。その存在意味が、時代によって違ってくるのです。では、どうやって、次の使命を見つけていけばよいのでしょうか。それは、「外からの発想が不可欠である。なかから発想し、その持てる資源を費やす場所を見出そうとする組織は、資源を浪費する結果にしかならない。結局、それは過去に焦点を合わせることにしかならない。機会とニーズは、外に求めるべきである。」
ドラッカーは、リーダーのやるべきことを示しています。使命について見直し、焦点を合わせ直し、作り上げ、組織するために、「棄て去ることである。」と言います。棄て去るのは、新しいことを行えるようにするようにするための手段であり、古いものを排泄しなければ、身体は新しいものを取り入れることはできないという医学上の諺と同じであると言います。そして、次に行うべきことは、「優先順位をつけること」です。何を捨て、何を求めるかは優先順位が付けられなけれできないのです。そして、組織の模範でなければなりません。リーダーは、本人が望む、望まないにかかわらず、目立ち、組織を体現するのです。リーダーは、人々の期待に応えるよう行動しなければならないのです。その時に、「自分自身のリーダーとしてみたい種類の人間なのか」と自分に問いかけるべきだとドラッカーは言います。
最後に、「使命やリーダーシップは、たんに読んだり、聞いたりするものではない。何かを成すためのものである。その何かとは、よき意図や知識を、成果のある行動に転化させることである。それは可能であり、義務である。しかも、来年にではなく、明日の朝にでもできることである。」とまとめたように、組織のリーダーは、行動することによって使命が果たせるのです。

佐世保

 先週末、九州の福岡県古賀市で講演の後、長崎県の佐世保に移動しました。長崎には何度も訪れているのですが、めったに列車では行きません。数年前に、妻と平戸に行ったときに、佐賀をめぐり、その後佐世保まで行ったことはありましたが、直通で行ったのは初めてでした。その列車は、とても奇麗に彩られた車体をもつ特急「みどり」です。
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この路線が開通されたころは、佐世保にある弓張岳にちなんで、急行「弓張」と命名されていました。それが、1980年と1982年の国鉄ダイヤ改正の2段階に分けて「弓張」は全て「みどり」に格上げされ、博多駅 – 佐世保駅間を運行する昼行優等列車は「みどり」に統一されました。この名前の由来は、「爽やかな感じのする色」の「緑」と、九州が「太陽と緑の国」と呼ばれているからだそうです。しかし、どうも佐世保をイメージしにくいということで、列車名を「九十九島」に改称しようという市民運動が10年ほど前に起こり、市内を中心に署名をしたりしましたが、まだ実現されていないようです。
 佐世保の駅を降りて、改札口に向かう途中、木に書いた立て札が目に着きました。
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そこには、「日本最西端佐世保駅JR」と書かれてありました。九州の位置関係がよくわからないので、一瞬、「あれ?」と思いました。もちろん、日本は島国ですから、日本での最西端、最東端、最南端、最北端は、離島です。ただ、どこまでが日本の領土であるかが今、いろいろともめているので、はっきりはしないのですが。そこで、離島を含まない日本の本土、すなわち北海道、本州、四国、九州の東西南北端は、どこかという話になります。それで言うと、日本の最西端は、長崎県佐世保市の神崎鼻だそうです。では、最西端の駅はというと、長崎県の西の端、平戸島へ渡る手前にある「たびら平戸口駅」です。ですから、駅前には日本最西端の駅の碑が立ち、併設してちょっとした鉄道博物館があります。しかし、残念ながら、2003年に、沖縄都市モノレールが開業したため、今は沖縄県の赤嶺駅が日本最西端の駅です。では、佐世保はというと、どちらの駅も第3セクターでの鉄道駅ですので、JRでの最西端の駅は佐世保駅になります。
佐世保というと、最近は佐世保バーガーが有名です。それは、1950年ごろ、長崎県佐世保市の米軍基地に駐在していたアメリカ人から佐世保の人がハンバーガーの作り方を教えてもらったことということで、佐世保がハンバーガー日本伝来の地となり、日本初となるハンバーガーもこのとき誕生したと言われているのです。今では、日本各地にいろいろなハンバーガーショップがありますが、当時、米軍基地の周りには、外国人バー街を中心に100店舗以上ものハンバーガーショップが立ち並んでいたようです。現在は、「佐世保バーガー」というと、「バンズが大きく、高さも高い」「ベーコンと卵とチーズが入っている」「野菜がたっぷり」「パティが国産牛100%」というイメージですが、なにしろ大きく、食べるのに一苦労です。食べたバーガーは、食べるのに必死で写真に撮るのを忘れたので、佐世保駅に大きいのが置いてありましたので、それを写真に撮りました。
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あと、意外だったのが、佐世保の駅から続く四ヶ町商店街は、全長516m、幅11mで、アーケードが連続して繋がっている三ヶ町商店街の長さを含めると960mとなり、直線に繋がったアーケード街としては日本一の長さだということです。これも各地にはアーケードがいろいろあり、もっと長いのがありそうですが、直線としては佐世保が日本一なのですね。
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 最近、いろいろなB級グルメコンクールが盛んですが、地域おこしとしては、この地が「何々で日本一」というのが売りになるでしょう。よく探せば、どの地にも何らかの日本一は見つかるかもしれません。子どもも、よく見れば、何らかの日本一をそれぞれの子どもが持っているかもしれません。

共食と乳幼児期の発達

人の食事は、人の発達にずいぶんと影響を与えます。他者に食べさせるという人間の特徴である行為から、役割交代をし始め、次第に自己を知り、他者を知るようになると、次第に自己主張をするようになります。食について、北海道大の川田准教授が示した事例は、誰でも思い当たるでしょう。
「1歳を過ぎたころの子どもにスパゲッティと野菜を食べさせようと、「これは?」とトマトを差し出すと、子どもは顔をしかめてのけぞります。そこで、今度は、「じゃ、これは?」と青菜を差し出してみますが、より一層顔をしかめてみせ、不快そうに手を振って「あ゙?」と非難の声を上げてソッポを向いてしまいます。そこで、「どうしたのー?」とやや非難気味で、再度「赤いのは?」とトマトを差し出しますが、またもや顔をしかめ手で顔を隠してしまいます。そこで「じゃ、自分で食べる?」とプレートを差し出すと、子どもの表情が一変し、トマトに手を出し始めました。今度は、スパゲッティを食べる段になり、同じように子どもが自分でプパゲッティを食べようとしますが、うまくすくえないのを見かねて、箸でつまんで子どもの口元にもっていくと、子どもは拒否をします。その後、大人の差し出しを受け容れたかに見えた時でも、これ見よがしに吐き出し、自分で食べようとします。「なんでー、おんなじのよ?」といっても、更に、子どもは差し出しを拒否した後、今度は自分の方から大人に差し出して、役割逆転が起ってしまう」という事例です。
ここで、大人は「おんなじのよ?」と思っていますが、子どもにとっては同じではないのです。どこが違うかというと、おそらく、大人の意図、あるいは大人の意図の下で進められるという“手続き”に対する拒否感情が生じているのではないだろうかと分析しています。社会心理学には、心理的リアクタンスという概念だそうで、「態度や行動の自由が脅かされた時に喚起される、自由の回復をめざす動機づけ状態」(「心理学辞典」有斐閣)というそうです。このリアクタンスは、もともと説得理論のひとつとして、セールスなどでの押しつけがましい説得が逆効果をもたらすことの根拠とされてきたのですが、リアクタンスが生じるためには、自分自身の行動や態度の自由を認知している必要があり、自由を認知しているにもかかわらず強制されると禁止された行動が遂行されるのです。
食事場面における自由とは、一般に、好きなものを、好きな方法や手続きで食べることができるということです。これらは全て揃っていることに意味があり、仮に好きなものでも、ペースを無視して他者に食べさせられたら、手続き的には強制されていることになるので不快を生じます。介護場面でも常に考慮されるべき事柄なようです。
最近、小学校で、昔の給食と違っておいしいものになってきていますが、給食を嫌がる子どもが増えてきたという報告を受けました。食物がどのように扱われるか、食物を介したコミュニケーションがどのような手続きで行われるかは、参加者の心理状態に影響を与えるのです。心理的対象となった食物は、食の中のコミュニケーションを複雑にする機能を持っていると考えられているからです。
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昨年の学術集会で発表した川田さんは、こうまとめています。「現代の日本社会では、共食の中で子どもが自然に食行動や食文化、対人関係や自他理解を発達させる環境に乏しいといえる。共感的な反応、役割の交替、自由の認識と自己主張性という、乳児期の発達における重要なアスペクトが、食事場面には凝縮されています。そして、いずれも生後9 ヶ月から12 ヶ月頃に質的な転換があるかもしれないと思われ、その転換は、“やりとり困難期”とも言われるように、子どもの行動が複雑になって、意図が分からないと養育者を困惑させるものでもあるだろう。今後、食事場面をより充実させることができれば、乳児の社会的発達を保障する土台を作ることができるのだとも言える。食と社会的発達の関連を探る研究が期待されていると言えよう。」
もしかしたら、少子化での現代での乳児の家庭の食事が、引きこもりの一因という可能性があるかもしれません。

人の食事

人間は、他の動物と違って、料理をします。それが、「食べさせる」という行動をとるようになった理由だと考えられています。母親が子どもに食べ物を食べさせる時には、口をあけて待っている子どもに食べ物をはこびます。しかし、チンパンジーは決してこのような行動はとらないようです。人間独特の「食べさせる」という親の行動は、子どもの立場から言うと、「食べさせられる」ということになります。能動的な行動が、逆から見れば受動的な行動になります。そこに、人同士の関係が成り立っていると言われます。
ここで、不思議なことが起きます。離乳食の開始から数ヶ月間、基本的に大人から食べさせられていた乳児は、生後2年目に入ると、あるとき、役割を交替して大人に食べさせるような行動をとります。つまり受動的役割から能動的役割への交替を果たしているのです。これは、大人のやることを真似していると思われますが、単純な同型的模倣ではなく役割交替模倣である点が重要だと言われています。このような行為は、類人猿以上にしか見られないことから、「人間化へのひとつのステップ」と考える研究者もいます。
また、ある研究では、生後7 ヶ月の終わりのころの乳児が、飲んでいた哺乳瓶を母親に求められると、乳首を母親の口に入れるという行動をし、食べさせる行動が発生したという報告もあります。そして、生後8 ヶ月20 日頃になると自発的に他者に食べさせるようになり、自分の口と他者の口に交互に哺乳瓶を突っ込むという行動も行うようになったそうです。そして、生後1歳までには、「“食べさせる”ふりと“食べる”ふりとの相補的でしかも類似した関係の認識や、“食べさせられる”ことと“食べさせる”こととの役割交替を通じて、自己の“口”と他者の“口”との同型性をほぼ認識していた」と結論しています。
子どもが他者とのやりとり場面において、能動と受動の役割交替をくり返すことによって、相反する2つの情動を交互に体験するとした。その結果、体験主体としての自己と他者の分化が促進され、後の自己主張的段階へとつながると指摘しています。私は、この行動から違ったものを感じます。
子どもたちは、満2歳児のころになると、大人からやってもらったことを人にやってあげるようになります。たとえば、食事の前に満1歳児に対してエプロンをかけてあげたり、手を拭いてあげたりします。また、食事をしているとき、隣に座っていた満1歳児の子が食べ物にむせて咳をし始めたら、それを見ていた満2歳児の子がその子の背中をさすってあげました。その時、どんな心境でやってあげるのかずっと不思議でした。満2歳児が、いわゆる「他者支援力」という、困っている人に対して助けようという意思があるようには見えず、また、思いやりの気持ちをもってやってあげようとしているわけでもなく、また、自分がやってもらってうれしかったことを人にもやろうという気持ちでやっているわけでもなく、どうしてだろうとずっと思っていました。これは、もしかしたら、能動と受動の役割交代をしているのではないかと思います。ですから、人にやってあげるのは、やってもらって必ずしも心地よいことだけでなく、無理やりに食べさせられているとき、それを拒否すると同時にそのものを食べさせている大人に食べさせようとします。これは何も仕返ししようとしているということではなく、役割交代をしているのでしょう。
生き物の行為の中で食事はどんな生き物でも見られるもので、そのものを特徴づける行動です。そして、人間の特徴であるこの役割交代から、次第に自己を知り、他者を知っていくようです。人にやってもらったことを人にやってあげることが実現できる場が必要であり、それが次第に社会を形成していく基礎を培っているような気がします。人の食事の特徴から、どのように食べることが意味あることかを考える必要があるそうです。

料理

北海道大学大学院 教育学研究院附属子ども発達臨床研究センターの川田さんの講演は、非常に興味深いものがありました。生き物において、「食べさせる行動」という話も面白いものでした。多くの動物で子どもに餌を運び、与える姿を見ることがあります。たとえば、鳥が巣の中で待っているひな鳥に餌を口移しする姿を見ることができますし、サバンナでシマウマの肉を数頭でむさぼり食うライオンの姿を見ることがあります。しかし、どうも、人間に近い霊長類では、もっと複雑な行動がみられるようです。チンパンジーや最も知能が高いと言われるボノボになると、社会的関係づくりと密接に絡んだものとなると言います。
よく、戦時中などのドラマを見ていると、食料が少ないなか、母親は自分が食べるのを我慢して、子どもに与える姿を見ますし、家族で食事をするときに、子どもに優先的においしい部分をあげたりします。しかし、チンパンジーでは、母親は子どもの要求に対しては拒否する傾向があることが多いそうです。もし、子どもがどうしてもとせがんだときには、母親は、自分が食べるものと同じ部位をあげ、もし、せがまれなくても母親の方から子どもにあげる時には、母親は自分がおいしいものを食べ、子どもには、母親が食べない部位をあげるようです。そのことについて、川田さんは、こう説明しました。チンパンジーは、普通離乳するまでに4、5 年ほどかかるため、その間、子どもは基本的な栄養を母乳から採ります。ですから、チンパンジーの母親はできるだけ自分自身が栄養を摂取し、子には母乳を通して栄養を与えるという戦略をとっているというのです。
それに対して、人間は霊長類の中では際だって離乳が早いのですが、その理由にいくつかあるようです。その一つは、チンパンジーなどは一生子どもを産むことができますが、人間は子どもを産むことができる期間が短いということです。その短い間に、多くの子どもを産まなければなりません。多く生むのは、子どもは、複数の子の中で育てられることが必要なためで、早く離乳して、次の子を産む準備をしなければならないと考えられています。子どもは、小さいうちから子ども同士の関係の中で育つことが大切なようで、少子社会で、兄弟の少ない中で子どもが育つことは、育ちに問題が起きるかもしれません。
もうひとつの理由として、「人間は料理をする動物である」ということがあるようです。それは、料理によって、離乳食という中間形態をつくることを発明したからだと考えられているのです。その結果、ヒトにおいては積極的に「食べさせる」という特殊な行動が進化したのはないかと考えられています。
この、「料理をする」という人間独特の行為には、いろいろな意味があるようです。まず、料理をするには、道具を使い、火を使います。特に刃物を使います。ですから、先住民族と言われている人たちの間では、赤ちゃんのうちから刃物を使い、火を使うそうです。それは、小さいうちに使わせるほど、自分でコントロールできる範囲しか行わず、自ら危険な行為は決してしないからだと思われます。最近、危ないからと言って、刃物や火を子どもたちが使わなくなりました。また、家庭で調理せず、出来たものを買ってくる家庭が増えました。そのような時代では、保育園などで、園内で職員が調理をし、それを子どもが見て、それをみんなで食べるという行為は、人間を特徴付けるものなのです。食事は、単に体内に栄養素を流し込む行為ではないのです。