権理

「権利」を英語で表すと、「right」ですが、その意味の第1は、「 (道徳的に)正しいこと、正当とか、 正義、正道、公正とか、正しい行ない」を意味します。そして、第2に「(法的・政治的な)権利」があるのですが、その意味として「正当な要求」とあります。決して、多くの人がイメージするような「権利」ではないのです。他の言語でも多くの意味は「正義」として使われることが多く、その「正義」から「権利」を言う言葉が生まれたようです。
また、多くの英語を日本語に訳したと言われる福沢諭吉は「学問のすゝめ」のなかでは、rightを「権理通義」という日本語を使っています。そしてそれを縮めて「権理」「権義」とも使っていますが、決して「利益」の「利」を使ってはいないのです。そして、その言葉を使っている個所は、「人の生るるは天の然らしむるところにて人力に非ず。この人々互いに相敬愛して各々その職分を尽し互いに相妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にして共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。」人は生まれながらにいろいろな素質を持っています。お互いの素質を尊重し、それぞれを生かしあうことが大切であることを謳っています。そういう意味では、人間はみな平等であるべきなのです。
しかし、「平等」という言葉も、なかなか真意は理解されにくいところがあります。やはり、この言葉を「平らに等しい」という漢字をあてたことに原因があるようです。私は、以前このブログで、平等とは「等しく与える」ことではなく、「等しく受け取る」ことであることを書きましたが、福沢諭吉はこのように言っています。「故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。」みんな同じなのは、決して素質が同じではなく、それぞれが持っている権利が同じであると言っています。
このようにrightは、「権理」という「正しい」理(ことわり)に沿うべく自分の行為を権(はか)ることとする諭吉の当てた字のほうが正しいのかもしれません。そして、権理は、健全な社会の全域に通用する正義であるべきなのです。子どもの権利条約第6条には、「締約国は、すべての児童が生命に対する固有の権利を有することを認める。」という生存権と、「締約国は、児童の生存及び発達を可能な最大限の範囲において確保する。」という成長発達権が書かれてあります。それは、「子どもが自分らしく生き、思いやりのある大人へ大きくなる権利です。そのためには、親や身近な大人に自分の思いや願いをそのままで抱えてもらい、愛されながら大きくなる権利」です。
私は、子どもの権利条約をふまえた「乳幼児教育法10カ条」を作っていますが、この6条を受けての部分にはこう書いています。
「3、すべての乳幼児は、その発達において、今を大切にされ、自分らしく生きる権利がある。
4、乳幼児は、人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達が保障される権利がある。」
早く、世界の中でも誇れる子どもを中心にした社会を作りたいものです。

権理” への6件のコメント

  1. 福沢諭吉はrightを「権理」と訳したというのは初耳です。人権とか生存権を人間が生来持っているのは疑いのない天の道理で、「権理」という訳はその本質を突いています。子どもの権利という言葉には、大人が子どもに権利を”与える“ような語感があったのですが、「権理」ならすっきりします。法律上の権利と分けて使うようにしたらどうでしょうか。藤森先生の「乳幼児教育法10カ条」、機会があれば全文公開して下さいませんか。よろしくお願いします。

  2. 素質が同じではなく、それぞれが持っている権利が同じであることが平等で、しかも権利ではなく権理であると書かれて、とてもすっきりとした気持ちになりました。ああ、そういうことなんだと、わかっていたつもりになっていたのことに気づくことができました。それにしても、「学問のすゝめ」の中には大切なことがたくさん込められているんですね。学問とは学校の勉強という狭いものではなく、いかに生きるべきかを学ぶことと捉えなければいけないと感じています。

  3.  「権利」とい言葉を聞くと、『権利がある』と主張する人や、権利という力を振りかざして、物事を自己中心的に考えている人が多くいるせいか、権利という言葉を聞くと、あまり良い印象がありません。以前、藤森先生の講演の中で「権利」は英語で「rigth」で「そのままで良い」という言われていました。決して権利は利益を得る為のものでないのですね。そういう意味で「子どもの権利条約」は子どもは、そのままで良いという風に捉えると、子どもが行う行動や考え、発言はそのまま大人が受け取ってあげる必要があり、それくらいの十分な器が必要だと思いました。

  4. 「権利」を(道徳的に)正しいこと、正当とか、 正義、正道、公正とか、正しい行ない」と見ると本当にそうあってほしいと思います。また、ブログを読み進んでいくと「権理」という言葉が出てきましたが、「利益」の「利」が入った「権利」と「ことわり」という字の入った「権理」とは大きくイメージが違ってきますね。どうも今の日本は「利」が先にですぎるようなイメージを受けます。
     この「権理」とはお互いの素質を尊重し、それぞれを生かし合うということが書かれているのは藤森先生の昴理論とまったく同じことですね。今の社会いかに相手を蹴落としてのし上がっていくかという競争が多いように感じます。だからこそ、もう一度どういった社会が必要かを考え、それぞれを素直に尊重し、それぞれを生かす「協力」する社会を作るような子どもたちを育てていくことが今、保育者に一番求められていくことのように思います。

  5. 私たちが「権利」という概念を習う時、それは往々にして「義務」と共に教えられます。私たちは「義務」にはある種の恐れをもって反応します。「?ねばならない」「?すべき」だからです。そして、そうした義務を果たすから、当然のこととして「権利」というものを与えられる、と勘違いします。そしてその「権利」はさらに「自由」と結びつき、これが私たちの社会で現実化すると、「権利」「自由」を盾にした諸々の「要求」に化けます。まぁ「要求」することがいけないことではないのですが、現実社会では、「権利」や「自由」は相当誤解されて使われています。せめて子どもの教育に携わる人々はまずこれら「権利」「自由」ということをまずもってしっかりと学び身につけ、そして子どもたちの教育に臨むべきでしょう。特に乳幼児期において「権利」「自由」ということをその時期に相応しい方法を用いて子どもたちが体験する必要があります。この時期からこれらのことを意識した教育環境を創造し子どもたちに提供しなければ子どもたちに内在する「権利」や「自由」を体現する遺伝子が目覚めないような気がしてなりません。中学や高校になってからでは遅い、と思います。

  6. 日本語は繊細なはずなのに、微細な部分を表すに今一歩足りない部分があるのか、はたまた歳月をかけて、含まれていた微細な部分が抜け落ちてしまったのか、「right」という言葉の意味もこの度のブログを読んで初めて理解することができました。また、平等を「等しく受け取る」とする先生の解釈もとても新鮮に目に映ってしまいました。勉強不足を痛感するところですが、言葉を掘り下げて考えるということを意識的に行わないとこのような学びには中々辿り着けないものです。臥竜塾ブログから学べるものの大きさを改めて感じました。

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