坂本龍馬が、勝海舟とともに長崎へ行く途中、熊本で「横井小楠」と会うのですが、龍馬はこのときに初めて会っているのではありません。実は4回目です。初めて会ったのは、文久2年(1862)8月に松平春獄の紹介で江戸でした。1858年4月には松平春嶽が当時31歳であったころ、横井のいた肥後藩に交渉して、50歳の横井を政治顧問に 迎えていたのです。彼を福井に招聘するように進言したのは、福井藩医の子として、当代一と言われた蘭学塾である緒方洪庵が作った「適塾」に学んだ橋本左内でした。彼は、開国交易に注目し、藩政改革の目玉として横井小楠を招聘することを進言し、がちがちの攘夷派だった藩主「松平春嶽」を開明的な君主に変貌させたのです。そして、横井小楠と組み、藩主松平春嶽を徳川幕藩政治の中枢に押し出したのです。そのために、横井小楠を家老の上である藩主のすぐ下に置き、藩全体の政治顧問として扱い、藩政改革を推進していきます。そのために、福井藩は、わずかな年数で、貧乏藩から一躍雄藩に変貌します。そんな福井藩に、神戸海軍操練所をつくる時、幕府からは自前で金を集めるよういわれ、出してもらえなかったとき、海舟の使いとして龍馬が福井藩へ出向き、春嶽に交渉して資金を借りた話が、「龍馬伝」で放映されました。
その横井は、安政2年(1855)から明治元年(1868)に維新政府に招かれて上京するまで、福井藩にいた間を除く前後8年を、熊本市の東はずれ、秋津町沼山津に居宅を構えます。そこを、四季の眺めを楽しめるというところから「四時軒」と名づけ、自らも沼山と号しました。そして、そこで学問と思想を若い藩士に教えていました。

今は、横井小楠記念館として業績の紹介と遺品などを展示しています。ここに、龍馬は3度やって来ています、ここに初めて来たのは、龍馬が横井と会うのは4度目でしたが、勝海舟のお供として訪れた時です。私も先週末、ここに初めて訪れたのです。その建物から眺める外の景色は、遠くに山並みが見え、まだまだ暑い夏の景色でしたが、さぞかし、その名の通り四季の風景が美しいことでしょう。また、龍馬と横井が対談した11畳の客間が、昔のままの姿で残っています。横井は、その時に龍馬の話を聞き、「海軍問答集」を執筆することになるのです。

また、このときに横井と会った勝海舟は、後に「氷川清話」のなかで、「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べています。しかし、坂本龍馬が、6回目に会った慶応元年(1865)5月、二人は意見の対立をみて、けんか別れをしてしまいます。龍馬は、元治元年8月、西郷と意気投合、長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていました。坂本は、この「薩長同盟」の推進に、横井にも力を貸してほしいと思います。しかし、当時の小楠は、沼山津蟄居中で、その構想が理解できず、幕府の第2次長州征伐への熊本藩の対応をめぐり二人が激論になります。二人の論争は一昼夜におよび、しまいに龍馬が先生の説は凡人以下になってしまったとして、「先生といえども、こんな僻地にいると天下の事情に通じておられない。今、天下に勤王をもって称せられるものは、薩摩と長州をおいてどこがありましょうか。この二藩にかけるべきでしょう」と悪態をついてしまいます。そこで横井は怒って「坂本君、もう二度と来るな、帰れ!」と怒鳴りました。「帰りますとも。わしは西郷や大久保と大芝居をやりますきに、先生は二階にすわって酌でもさしながら見物していてつかされ」と言って喧嘩別れしたエピソードも残っています。横井は、禁門の変など長州の暴発は「私」であるとして、日本の「公」のため叩き潰すべきである、と思ったのです。しかし、のちに横井は長州への誤解を解いて、龍馬の考えを追認することになり、また龍馬は、生涯、小楠を尊敬し、明治維新政府の参議に推薦しています。
坂本龍馬は、日本せましと動き回りますが、それは、地理的だけでなく、人的にもいいと思った人にはすぐに接触した積極性があったようです。熊本城の近くに横井小楠をめぐる群像が置かれてありました。(前に横井小楠、後ろに左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久)

坂本竜馬が人生の師とした人物は勝海舟ですが、一番思想的影響を受けたのは横井小楠です。竜馬の功績の一つが、「船中八策」や「新政府綱領八策」で新時代の日本のグランドデザインをしたことですが、この考え方は横井の著した「国是三論」「国是七条」「国是十二条」の思想が下敷きになっています。つまり、竜馬は行動の目標の理論的裏付けを横井から学んだわけですが、当時誰も考え付かなかった「薩長同盟」という世紀の「大芝居」を成功させたことで横井を超えたといえます。人の価値は、何を言ったかではなく、何を成したかで評価すべきです。
横井小楠と坂本龍馬の関係は本物と本物のぶつかり合いといった感じがいいですね。自分たちの意見を持って議論し、意見が食い違っても後で間違っていたと気づけばそれを訂正し、意見が違っていたとしても人物を否定しないところなどは、見習わなければいけない点です。そんな関係性が事をなすためには大事だということなんでしょう。チームというか関係性というか、そこでの失敗を繰り返している自分としては、わが身を振り返ることができた貴重な話です。
横井小楠という人物は始めて知りましたが、まだまだ能力がある有名な人物はスポットが当たらないだけで、たくさんいるのですね。「薩長同盟」を結ぶために横井小楠にも力を貸して欲しいと推進したり、明治維新政府の参議に推薦されるなど、かなりの能力を持っていたのですね。坂本龍馬によって横井小楠が今の時代に知られるようになりましたが、坂本龍馬自身、人的に関わりたいと思った人物には、すぐに接触する性格が、横井小楠の能力を世間に広めたのかもしれません。
お互いの意見を交換するというのは表面的であれば諍いは起きないのでしょうが、それが真剣になるとやはり考えが激突してしまうことがありますね。それだけ、その時代のことを考えていたからなのでしょうが、いきなり先のことが見えるわけではないため、このときの横井小楠も必死だったというのが伺えます。しかし、坂本龍馬も横井小楠に影響をうけたり、学ぶところも多かったというのはそれだけ言いじ争いがあったとしても相手のことを認め、謙虚に学ぶ姿勢があったからなのでしょう。自分も見習わなければいけないところが多くあるように思いました。
掲載写真中、真ん中の写真にある「大義」が目に飛び込みました。横井小楠にとっての「大義」とは何であったか。私は横井小楠についてはほとんど知らないのでこれはまったくの憶測話ですが、徳川幕府の処遇と今後の日本について坂本竜馬と激論した時、つまり熊本藩がどちらにつくか議論した時、横井小楠は福井藩の松平春嶽や殿様細川護久、あるいは徳川幕府の勝海舟との関係を「大義」とし、この国の行く末を考え、結局坂本竜馬とは「喧嘩別れした」のでしょう。歴史は坂本竜馬に軍配を挙げました。しかし横井もあり得る選択肢の中から「龍馬の考え」を採用し「追認」したのでしょう。大変勇気の要ることであったと思います。明治新政府にも参与として関わり始めながら時を経ずして非業の最期を遂げたことはとても残念なことでした。
「おまんはデモクラシーという言葉を知っとるか?」龍馬伝で横井小楠が坂本龍馬に聞いた言葉です。横井小楠は坂本龍馬達よりもふたまわり以上も年が離れた方なのに、とても革新的な考えを持っていた人のようですね。それにしても江戸時代には国を動かすだけの力を持った人が次々に現れてきます。また、その人たちの志の高いところはすごい時代だと思います。