NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見て感心するのは、当時活躍している人の行動範囲の広いことです。テレビでは簡単に江戸から京都、そして長崎と画面が変わりますが、その移動には飛行機ならわかるのですが、新幹線を使ってもかなり時間がかかります。それを、当時おもに歩いての移動ですから、大変だったと同時に時間がかかったでしょう。坂本龍馬に限らず、いろいろと活躍した人の足跡を見ると、その移動距離はすごいものがあります。ただ、テレビで見るほど、何回も行ったり来たりはしていないかもしれませんが。

最近の龍馬伝の舞台は京都です。先日も今日の薩摩屋敷が放映されていました。薩摩屋敷は、現在の同志社大学の構内の中にありました。敷地は、5800坪(19000㎡)9棟の建物もあるほどの広さだったようです。一方、長州屋敷は、木屋町通、御池通の北に京都藩邸がありました。現在は京都ホテルオークラが建ち、桂小五郎像と長州屋敷跡の碑が建っています。もう一つの舞台は、寺田屋がある伏見です。ここを行ったり来たりしています。
また、少し前までの主な舞台は長崎でした。坂本龍馬が亀山社中を立ち上げた長崎です。その前は、江戸でした。そして、江戸から神戸へと移ります。勝海舟の海軍塾の塾頭だった坂本龍馬は、英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟とともに外国勢との調停役としての幕命を帯びて、当時海軍塾のあった神戸から長崎へと旅立ちます。その時の道中のことが、勝海舟 による「海舟日記」に書かれています。
往路では、10日間かかり、復路は9日間かかっての旅のようです。まず、往路についてこう書かれてあります。
「元冶元年 (1864年)2月14日神戸を出港」とあります。まず、瀬戸内海の海路を進みます。当時の乗り物の第1は、船利用です。日本は、海で囲まれ、国土の中を川が走っています。水路利用は、さまざまな商品を運ぶ上でも重要であり、その為に、栄えた町は港とか、川に沿ってありました。その船は、「15日佐賀関に入港。徳応寺に止宿」とあるように、大分県に着きます。現在でも、国道九四フェリーが九州大分県佐賀関と四国愛媛県三崎(佐田岬半島の先端)を最短航路(31km)をわずか70分で結んでいます。また、この間の豊予海峡で捕れる関アジや関サバは有名です。徳応寺 にある第10世住職によって書かれた「日本人物誌」には、勝海舟 が 佐賀関 に上陸したことを絵入りで紹介し、宿泊 したことが記載されているようです。
その後は、九州横断の陸路を取ります。「16日豊後鶴崎の本陣に宿泊。17日野津原に宿泊。18日久住に宿泊。19日内の牧に宿泊。20日大津宿を経て熊本城下新町の本陣に宿泊」とあるように、肥後街道を歩いていったようです。龍馬は、各宿泊地では偽名で泊まったようです。熊本に着いた龍馬は、海舟の使いで横井小楠を訪ねています。その後何度かここを訪ねるのですが、先週末、講演の合間に横井小楠記念館に連れて行ってもらいました。彼については、明日書いてみようと思います。
そして、「21日夜大津宿より乗船。島原へ渡る。21日払暁、島原へ着船。城下本陣へ休息。直ちに出立。」とあります。先週末、私も龍馬同様、熊本から船で島原に上陸しました。私が上陸した港の近くに、坂本龍馬が上陸した碑が建っていました。その前の日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、「薩長同盟」を結んだ日のことをやっていましたので、感慨深いものがありました。

「此地より長崎迄は、土地磽かく、田畑の間大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の嶽噴火せしによるか、西洋に云うラアの之年を経しものあらむ。22日会津(愛津)に宿す。23日長崎着、日見峠甚だ難所、直ちに奉行之御役宅へ行き面会、洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる。」こうして、長崎に着いたのです。私も今日まで長崎で研修です。
長崎での研修、本当にありがとうございました。こうしてみると長崎は本当に日本の西の端っこなんですね。現代では飛行機での移動ができる様になったとはいえ、藤森先生にはたびたび長崎に来ていただき本当にありがとうございます。
龍馬伝は毎週見ています。幕末の志士の志の高きところ、見習いたいと思っています。
江戸時代は今と違って便利な交通手段もなく、移動の自由さえも制限されていたので、一般庶民はお伊勢参りでもしない限り、他国の地を踏むことはほとんどなかったと思われます。竜馬も土佐で平凡な生活をすることもできたはずですが、生来の旺盛な好奇心と国を変えたいという志と行動力が脱藩の道を選ばせたわけです。日本中を東奔西走する毎日は、彼の短い人生の中で最も充実したものだったでしょう。それにしても、神戸から長崎までの旅は長いですね。一日40km歩くとして、往復19日のうち2日が海路なら、17日×40kmで680kmを歩いた計算になります。なかなかの健脚ぶりです。でも、道中、師の勝海舟との楽しい語らいで彼は道中の疲れを感じることはなかったでしょうね。
これを読んでいて、当時の人達の行動範囲が広いのか、それとも今の人の行動範囲が狭いのか、考えてしまいました。私だったら、飛行機などの手段がないとしたら、何日もかけて移動するような情熱を持てただろうか。もしそんな情熱を持てるんだとしたら、今はいろんな手段があるのでもっと行動していなければいけないんじゃないだろうか。これは移動に限らずです。思いや熱意の質の問題かもしれないと感じています。
新幹線や飛行機があるおかげで、遠くの場所でも短い時間で移動することができますが、それらが無かった時代は、移動だけにたくさんの時間と労力を使います。それでも坂本龍馬をはじめ多くの偉人達の理由はそれぞれかもしれませんが、自分の大義のために日本中を走り回っていたのですね。なんだか藤森先生が講演で日本全国を回っていますが、それと同じように感じます。有名な医者の日野原先生も、あんなに高齢なのに3年先までの講演が決まっていると聞きましたが、最後の最後まで自分の役割、大義の為に活動する人物が日本を変えたり、人々に感動を与えるのだと思いました。
ついドラマを見ていると移動のことなど忘れがちになりますが、実際その時代の人たちは徒歩で移動していたんですね。よほどの胆力と大儀がないと動き回るのは辛いように思います。それだけその時代にいた人々の国を変えるという情熱と大儀があったのだと思います。今は飛行機や車など多くの移動手段があり、旅行でも遠くのところへいけるようになりましたが、この時代のように多くの地域に飛び回っている藤森先生を始め、多くの人たちはやはり、仕事やその他のことに情熱を持って精力的に動いている人が多いように思います。今でも、昔でも必要とされる人は移動距離が多いのかもしれませんね。もし、幕末にもっと移動距離がたくさんあればどうなったのか、純粋に考えてしまします。(笑)
今回のブログには、勝海舟の神戸長崎往路の記録が紹介されています。瀬戸内海から豊後水道そして肥後街道を使って九州横断、さらに熊本から海路島原、そして陸路長崎へ。現在私たちが知っている神戸長崎間のルートからはおよそ想像できないルートですね。この道行きは当時としては通常ルートあるいは非常ルート?この辺とても興味が湧いてきます。時間があったら調べてみたいところです。ところで、徒歩が基本的な移動手段であった当時、藩境を越えて他藩に赴いたり、あるいは江戸大阪京都に行くということは凄い大変なことだったのでしょう。そしてそれよりも大変なことは欧米を訪れることであった。その洋行組が時代を牽引した。それは当時の基本移動手段が徒歩だったからでしょう。徒歩によってもともと鍛えられていた思考力は洋行という移動に際してさらに大きく花開いたと思われてなりません。坂本竜馬が世界中を旅したら一体その後の日本にどんな影響力を持ったことでしょう。歩きながらものを考える人の強さは古今東西変わらない、と思えてきます。